平成17年(ネオ)第10004号 番組公衆送信差止等請求上告申立事件

上告人  黒澤久雄 外1名

被上告人  日本放送協会 外1名

 

上 告 理 由 書

 

平成17年8月19日

最高裁判所 御中

上告受理申立人ら訴訟代理人
弁護士  乗 杉   純
弁護士  木内 千登勢

 

 

理 由 要 旨

第1 事案の概要

本件は、黒澤明監督作品「七人の侍」の脚本の著作権及び著作者人格権をNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」が侵害したとして、同監督の相続人が損害賠償金の支払等を請求した事案である。

第2 原判決の要旨

原判決は、「武蔵 MUSASHI」の表現から「七人の侍」の表現上の本質的な特徴を直接感得することができない、として控訴を棄却した。

第3 本件の問題点

1.原判決の不当性

本件は、故意による著作権侵害であり、且つその目的は、「七人の侍」の著名性にフリーライドするというものであったことは明らかであるが、原判決はこの事実を無視している。

2.著作権法の問題

日本の著作権法には、米国著作権法にあるfair use(公正利用)の法理のようなものが存在しないため、法的安定性に優れている反面、具体的妥当性に欠けるところがある。

3.最高裁判例

最高裁判例が使っている「感得」という言葉は、辞書にはない言葉で、「似ている」、「似ていない」というような人間の感覚を基準としているものではなく、翻案を認めるか認めないかという観点から設定されたフィクティシャスな概念である。

第4.理由不備(民事訴訟法312条2項6号)

1.著名作品の場合の類比判断

原判決は、「感得」の要件について、「対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできない」と述べているが、これは経験則に反し、理由不備の違法がある。

2.不正競争防止法

原判決は、本件には不正競争防止法は適用されない、と判断したが、著作権法を解釈する際に、不正競争を助長するのではなく防止するように解釈すべきであり、本件はそのような解釈が十分可能であった。そのような努力をせず、不正競争防止法の趣旨が本件に及ぼされるものではない、とした原判決には理由不備の違法がある。

3.アイデアと表現

原判決には、アイデアと表現がそれぞれ何であるかについての説明がなく、更に、「表現上の創作性がない部分」という第一審判決中にもなかった言葉を使っており、これは理由不備の違法がある。

第5 憲法違反

1.憲法第29条(財産権)違反

原判決は、翻案権を不当に狭く解釈することにより、上告人らの財産権(著作権)を侵害した。

2.憲法第22条(職業選択の自由)違反

原判決は、上告人らの有する翻案権を不当に狭く解釈した結果、上告人らの翻案権を使用許諾する権利(リメイク権等)を侵害した。

3.憲法第32条(裁判を受ける権利)違反

原審が、訴状も答弁書も読まずに結審したことは明らかであり、具体的な事実を検討することなく当初から予断と偏見をもって控訴を棄却する決定をしていたことは明白であり、これは憲法第32条違反である。

 

第1 事案の概要

本件は、昭和29年に東宝株式会社が黒澤明監督の下で製作した劇映画「七人の侍」に関し、同監督の相続人である上告人両名が、同映画とその脚本に対して有していた著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)に基づき、被控訴人日本放送協会が平成15年1月5日から放送を開始したNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の第1回(1月5日)放映分が前記著作権等を侵害したと主張して、同ドラマの製作者である被控訴人日本放送協会及び同ドラマの脚本を執筆した被控訴人○○に対し、番組の複製・上映等の差止め等及び損害賠償金1億5400万円の支払等を請求した事案である。

第2 原判決の要旨

原判決は、「『七人の侍』と『武蔵 MUSASHI』を対比すると、いくつかの類似点ないし共通点が認められるが、これらはいずれもアイデア等、表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって、後者の表現から前者の表現上の本質的な特徴を直接感得することができない」と述べ、更に「被控訴人○○の脚本及び被控訴人日本放送協会の番組は、控訴人ら脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)並びに控訴人ら映画の著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)を侵害するものと認めることはできない」とし、控訴を棄却した。

第3 本件の問題点

1.原判決の不当性

本件は、控訴理由書(P7)に詳細に述べたように、故意による著作権侵害であり、且つその目的は、映画「七人の侍」の著名性にフリーライドするというものであった。しかしながら、原判決は、被上告人らの故意またはフリーライドの目的に一切触れることなく、被上告人らの侵害行為を是認した。この結論は、被上告人NHKが日本のメディアを代表する立場にあることから、世界に対して日本における著作権保護の嘆かわしい実態を宣伝することになった。原審裁判所及び第一審裁判所が自らの下したこの判断に対して、必ずしも満足していないことは、これらの裁判所が本件で問題となっている作品の芸術性に言及していることから察することができる。第一審裁判所は、「原告映画をして映画史に残る金字塔たらしめた、上記のような原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については、被告脚本からはうかがえない」と述べ(第一審判決P50)、原審裁判所は「前記映画は、原判決も指摘するように、前記番組に比し遥かに高い芸術性を有する作品であることは明らかである」(P16)と述べ、これらの言葉は新聞の見出しとなった。判決が作品の芸術性に触れることは極めて希なことであり、更に、本件においては、いずれの作品がより高い芸術性を有しているかということは争点ではなかった。メディアの中には被上告人らの番組が低い芸術性しか有していなかったために著作権侵害が認められなかったと誤解する者もあり、これらの表現は結果的に問題の本質を不明確にすることになってしまった。各裁判所の異例な発言は、裁判所の屈折した心境の表れである。

2.著作権法の問題

日本の著作権法は、私的複製(30条)等著作権を制限する詳細な規定を置いている。その反面、米国著作権法のように、一般的に著作権の制限を認めるfair use(公正利用)の法理のようなものは存在しない。その結果、次のような問題が生じている。

「個別具体的な制限規定は、予測可能性を高め法的安定性に優れている反面、解釈で柔軟に運用していくという方策を採るには不向きである。しかも、日本の著作権法の現在の制限規定により、人の行動の自由が万全に確保されたとはいいがたいものがある。一般条項の導入を含めて、制限規定のあり方を検討する必要があることは否めない。」

(田村善之 「著作権法概説」(第二版)P198)

この弊害は「翻案」についても見られる。

3.最高裁判例

原判決は、「翻案」について次のように述べる(P15-16)。

「当裁判所も、著作権法27条にいう「翻案」とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいい、したがって、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのを相当とする(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。」

原判決言渡しの直後、朝日新聞社から電話があり、「判決の中に『感得』という言葉が使われているが、広辞苑をみたがよく意味がわからないので教えてほしい」と言われた。ちなみに、広辞苑には「@感じて会得(えとく)すること。幽玄な道理などを悟り知ること。「真理を−する」A信心が神仏に通じて、願がかなうこと。」とある。最高裁判例にいう「感得」はこのいずれでもないようであるが、新聞記者には「感じ取ると考えて下さい」と言った。しかしながら、察するに、最高裁が敢えてこのような不思議な言葉を使ったのは、「感じ取る」とは違うことを意味しようとしたからである。例えば、本件においては、週刊誌などで騒ぎになったように、「武蔵 MUSASHI」を見れば「七人の侍」を容易に連想できた。しかしながら、最高裁の言う「感得」は、「連想」や「思い浮かぶ」よりも強い結びつきを示唆している。それは、米国法のfair useのように柔軟な判断ができない日本の著作権法の下で、安易に「翻案」を認めてしまうと新たな創作を抑圧する結果になるという配慮があったと思われる。従って「感得」という言葉は人間の感覚の作用を表現しているものではなく、目的的な概念であると思う。即ち、Aを模倣しているとされるBという作品がある場合には、Bを保護したい場合には「感得できない」といい、Aを保護したい場合には「感得できる」というのである。裁判所は、これまで新規の作品の保護に重点をおき、一般人が「似ている」と感じるレベルより相当高い類似度を「感得」という言葉で表現してきた。このようなフィクティシャスな基準は、模倣された作品が無名な作品である場合には特に問題は生じなかった。一般人が両作品に初めて接した場合にするように、作品の主題、筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、登場人物の個性、描写の方法、取り上げるエピソードの内容等につき比べ、どれだけ(主として分量)似ているかについて判断すればよかった。しかしながら、この手法は、著名作品が模倣された場合には妥当ではなく、本件は著名作品が模倣された初めての事例であった。

第4 理由不備(民事訴訟法312条2項6号)

1.著名作品の場合の類比判断

原判決は、上告人らが、模倣の対象となる作品が著名である場合には、それが無名の作品である場合と比べて、翻案との類似度が低くても、「感得」の要件が満たされると主張したことに対して、次のように述べた(P17)。

「しかしながら、著作権法の保護を受ける著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法2条1項1号)であり、それが著名であるか否かによって、その保護に差異があるということはできない。そして、「翻案」(著作権法27条)とは、前述のように、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいうところ、著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得するものであるか否かも、対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできないから、控訴人らの上記主張も採用することができない。」

まず、上告人らは、著作物が著名であるか否かによって保護に差異がある、などとは言っていない。次に、原判決は、「感得」の要件について、「対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできない」と述べているが、その理由は何ら述べられていない。この結論は明らかに経験則に反する。

例えば、物真似について考えてみよう。コロッケ(物真似芸人)の美川憲一(歌手)やちあきなおみ(歌手)の物真似は有名である。一般人が、物真似を似ていると判断する基準は、似ている部分の分量とかではない。コロッケは、美川憲一やちあきなおみと顔の形や目鼻立ちが特に似ているというわけではない。では、何が似ていると感じさせるかというと、それは対象の特徴を的確に捉えているからである。対象の特徴的な動きを目や口の動きで的確に表現したときに、全体としてはまったく違う顔なのに、視聴者はそこにまぎれもない美川憲一やちあきなおみを見るのである。

上記は、コロッケが有名人の物真似をした場合である。では、次に、コロッケが彼の隣の家に住む一般人のおじさんの真似をしたと考えてみよう。この物真似はそのおじさんを身近に知る人以外にはまったくうけないであろう。仮に、同時にそのおじさんのビデオを流したとしても、似ている特徴を識別できる人は希であろう。何がいいたいかというと、我々は有名人の特徴を既に知っているのである。その前提がないと物真似は成り立たない。

上記を本件にあてはめてみると、「七人の侍」はその作品の力と50年の歳月によって一般人(通常の教育を受け、普通に映画やテレビなどを見る成人の日本人)にとって無名の作品とは違うものとして認識されているのである。無名の作品の一部分を取って真似をしたとしても、それだけで当該無名作品を連想する人は少ないだろう。それは、その一部分が作者が特に力を入れて描いたところであったとしても然りである。それは、特徴的な部分は作者自身が作り上げるものではなく、年月をかけて読者や視聴者の評価によって出来上がっていくものだからである。本件は、このようにして50年の年月と多くの人々の評価によって確立された象徴的場面を被上告人ら番組「武蔵 MUSASHI」が模倣したという事案である。その場面の選択は、さすが時代劇のプロといえ、「七人の侍」といえば思い出すような著名な場面を可能な限り取り込んでいるのである。それは、「七人の侍」の目、鼻、口に当たる特徴的な部分であり、真似の成否が分量でないということは被上告人ら番組を見て誰もが「七人の侍」を連想したことから明らかである。

蛇足ではあるが、モナリザの模写をする場合について考えてみよう。ダ・ヴィンチの描いたモナリザの顔の部分は絵全体の多分10分の1以下である。更にその中の目、鼻、口の部分は、更に顔の面積の10分の1以下と思われる。この絵を模写する人が、背景や衣服から描き始めた場合には、模写が9割方完成しても、それがモナリザであるとわかる人は少ないのではないか。これに反し、模写する人が目、鼻、口の部分から模写を開始したとすれば、その3つの部分を描き終わる前に多くの人がモナリザの模写であることを理解するであろう。そこで本件についてみると、被上告人らが模倣したのは、まさに「七人の侍」の目、鼻、口に当たる部分なのである。これらが似ていれば、背景や衣装が異なっていても、モナリザの特徴は捉えられ、誰もがモナリザを連想するのである。このような模倣を上告人らは控訴理由書において「象徴場面型模倣」と呼び(P3)、被上告人らによってこの手法がどのように用いられたか詳細に説明した。ちなみに、「象徴場面型模倣」は、模倣される作品が著名な作品でなければ成り立たない手法であり、その意味でも作品の著名性は「感得」が容易であるか否かに大きく影響するのである。

以上要するに、原判決の「原著作物が著名であるか否かによって(直接感得できるか否かに)差異があるということはできない」という判断には理由不備(民事訴訟法312条2項6号)の違法がある。

2.不正競争防止法

原判決は、上告人らが控訴理由書において、本件が「フリーライド型模倣」であると主張し、「不正競争の意図は、本件の著作権侵害の存否を判断する際に考慮されるべきである」(P10)と述べたことに対して、著作権法と不正競争防止法は「その立法趣旨、保護対象等を全く異にするから、不正競争防止法2条1項2号の趣旨が著作権法に関する紛争である本件に及ぼされるものということはできない」(P18)と判断した。上告人らは、不正競争防止法が本件に直接適用されるべきである、と主張したものではなく、原判決の判断は的外れである。そもそも、すべての法律が正義の実現を目的とする以上、不正競争を防止しようとする不正競争防止法の趣旨が、他の法律が適用される案件に全く無関係であるとはいえないはずである。著作権法を字義どおり適用した結果が、不正競争を助長するようなことになるのであれば、その適用には誤りがあり、解釈によって修正を加え妥当な結果を得るのが裁判所の責任ではないのか。本件はまさにそのような解釈が可能な事案であり、裁判所は自らの責任を放棄したとしかいいようがない。

では、どのようにすれば正しい結果が得られたかというと、「感得」の判断をする際に不正競争の目的を考慮すればよかっただけなのである。即ち、上述のように、最高裁判所が作り出した「感得」という概念は、似ている、似ていない等という人間の感覚を基礎とした概念ではない。それは便法であり、盗作であると判断したければ「感得」できるといい、そうでなければできないといえばいいだけの話なのである。この理解を前提に考えると、これまでに裁判所のとってきた外形的な事実の比較(ストーリー、登場人物、エピソード等の分量的な比較)は絶対的なものではなく、米国著作権法のfair useの判断につき考慮される、模倣作品の目的が何であるのか、それが生産的なものなのか、新しい表現、意味付け、またはメッセージで原著作物を改変しているか(transformative)、原著作物の商業的な価値に傷をつけているか等の様々な要素を考慮に入れてもいいはずである。また、このような要素を考慮しないと、本件のような「フリーライド型模倣」を阻止することはできない。上記は、著作権法の案件に不正競争防止法を適用するわけではなく、著作権法の解釈に不正競争防止法的な考え方を採り入れるということである。この方法は、(著作物等の)「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする」(著作権法1条)という著作権法の目的にも沿うものである。

以上要するに、原判決の、不正競争防止法の趣旨が本件に及ぼされるものではない、という判断には理由不備(民事訴訟法312条2項6号)の違法がある。

3.アイデアと表現

原判決は、「『七人の侍』と『武蔵 MUSASHI』を対比すると、いくつかの類似点ないし共通点が認められるが、これらはいずれもアイデア等、表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって、後者の表現から前者の表現上の本質的な特徴を直接感得することができない」(P19)と述べている。上告人らは、控訴理由書において、「怪しい男が実は女であったという場面」について、その場面を6つの要素に分解し、これが単なるアイデアではなくユニークな表現であることを詳細に述べたが、原判決は、何がアイデアであり何が表現であるかについて何ら説明なく、「アイデア等、表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分」と断定している。これは理由不備(民事訴訟法312条2項6号)といわざるをえない。更に、原判決は、上記のように「表現上の創作性がない部分」という表現を使っているが、これが何を意味するかは原判決中に何ら説明がなく、第一審判決中にもこのような表現は一切使われていない。これも、理由不備(民事訴訟法312条2項6号)といわざるをえない。

第5 憲法違反

1.憲法第29条(財産権)違反

著作権は、憲法第29条にいう財産権に含まれるが、原判決は、著作権に含まれる翻案権を上述のように不当に狭く解釈することにより、被上告人らの著作権侵害を是認したものである。このような原判決の判断は憲法第29条違反である。

2.憲法第22条(職業選択の自由)違反

営業の自由については、憲法第22条を根拠とする説及び憲法第22条と第29条の両方が根拠となる説の2つがあるが、いずれにしても憲法上の権利である。上述のように、原判決は、上告人らの有する翻案権を不当に狭く解釈した結果、上告人らが有する「七人の侍」の脚本の著作権に基づき第三者に同作品の翻案権を使用許諾する権利(映画のリメイク、ゲーム化、漫画化等を含む)を侵害した。これは、憲法第22条(または22条及び29条)の違反である。

3.憲法第32条(裁判を受ける権利)違反

原審は、2005年4月26日に第2回の口頭弁論終結後結審し、判決期日を6月14日と指定した。同時に、和解期日を2005年5月10日とし、和解が成立しなければ予定通りに判決を言渡すと述べた。その後、○○裁判官が両当事者の代理人に声をかけて、和解について少し話を聞きたいとのことであった。東京高裁の17階の会議室で双方の代理人同席のもと話し合いがもたれたが、冒頭、裁判官はこれまでに和解の話があったのか、と質問した。被控訴人(被上告人)らの代理人が、裁判が始まってからはそのような話はなかった、と答えた。控訴人(上告人)らの代理人は、これに対して、訴訟になる前に、黒澤久雄氏とNHKが話し合ったことはある、と述べた。裁判官が、その話し合いの内容がどのようなものであったかと尋ねたので、「武蔵 MUSASHI」が放送された後、週刊誌等で盗作であるとの報道があり騒ぎになったので、NHK側が黒澤久雄氏を訪ね謝罪したが、損害賠償には応じないという姿勢であった、と説明した。裁判官が、何を謝罪したのですか、と聞くので、著作権侵害はないという立場なので、世間を騒がせたことを詫びたのではないか、と答えた。被控訴人(被上告人)らの代理人は、そうではなくて、事情説明のために訪問したと聞いている、と述べた。

何が問題かというと、このようなやりとりは既に訴状と答弁書に述べられているのである。

「本件番組が平成15年1月5日に放映された直後から「七人の侍」と酷似しているとの抗議が多数被告NHKによせられ、週刊誌、新聞等もそれを報道したため、被告NHKの番組制作局長等が黒澤プロダクション社長原告黒沢久雄を何度も訪ね謝罪した。しかし、被告らは謝罪をするも損害賠償には応じないとの姿勢を維持したため、原告らは本件訴訟に及んだものである。」(訴状P4)

「被告NHKは、原告らに著作権侵害に関して謝罪したことはない。また、被告NHKの番組制作局長は黒澤プロダクションを訪問したことはない。原告らは、被告NHKが、儀礼上事前に説明程度はしておいても良かったといった趣旨の説明を行ったことを指して、著作権等の侵害についての「謝罪」と述べているのであり、事実の誤認ないしは曲解である。」(答弁書P4)

ここで明らかなことは、○○裁判官が訴状も答弁書も読んでいなかったということで、和解を担当する裁判官が読んでいない以上、知的財産高等裁判所第2部の他の二人の裁判官が読んでいたとは思えない。この他、この話し合いの席で、○○裁判官は、著名な作品が著作権侵害の対象となった例はたくさんある、と述べたが、著名作品が盗作の対象となった例はないので、全く事案を理解していなかったことがうかがわれる。更に、5月10日の和解の席で、黒澤明監督作品(映画)の著作権を黒澤プロダクションが有していないことを、被控訴人(被上告人)代理人から聞き驚いていたが、「七人の侍」の映画の著作権を東宝が有していることについては当然の前提としての訴訟であり(そうでなければ映画の著作権侵害で訴えていた)、他の作品についても著作権法第29条の趣旨から映画製作会社が有しているであろうことは容易に推測できたはずである。

上記から考えるに、原審は当初から予断と偏見を持って控訴を棄却する決定をしていたとしか考えられない。これは、裁判が形だけで実質を伴わないということであり、憲法第32条違反であるといわざるをえない。

第6 結論 

以上のように、原判決には、憲法違反及び民事訴訟法312条2項6号所定の上告理由が存在するから、本件上告に及んだ次第である。

以上