平成17年(ネ)第486号 番組公衆送信差止等請求控訴事件
控 訴 人 黒澤久雄 外1名
被 控 訴 人 日本放送協会 外1名



控 訴 理 由 書


平成17年2月16日

東京高等裁判所知的財産第2部 御中


控訴人ら訴訟代理人 弁護士 乗 杉  純
   同     弁護士 木内 千登勢


 控訴人らは、後記のとおり、控訴の理由を述べる。



目  次

第1 はじめに ............................................... 1

第2 本件の特異性 ........................................... 1
 1 著名な作品の模倣 ....................................... 1
 2 象徴的な場面の模倣 ..................................... 3
 3 嵌め込みによる模倣 ..................................... 3
 4 フリーライド目的の模倣 ................................. 3

第3 類似・非類似の判断基準 ................................. 5
 1 これまでの判例 ......................................... 5
 2 著名な原著作物の場合 ................................... 6
 3 故意 ................................................... 7
 4 フェア・ユース ......................................... 8
 5 不正競争防止法 ......................................... 9
 6 まとめ ................................................ 10

第4 原審の判断について ..................................... 11
 1 原判決第3、1(1)(P37)について ........................ 11
 2 原判決第3、1(2)ア(P38)について ..................... 13
 3 原判決第3、1(2)イ(ア)(P42)について ............... 17
 4 原判決第3、1(2)イ(イ)(P43)について ............... 19
 5 原判決第3、1(2)イ(ウ)(P45)について ............... 21
 6 原判決第3、1(2)ウ(P47)について ..................... 24
 7 原判決第3、1(2)エ(P49)について ..................... 27
 8 原判決第3、1(2)オ(P49)について ..................... 28
 9 原判決第3、1(3)ア(P53)について ..................... 29
10 原判決第3、1(3)イ(P54)について ..................... 33

第5 コンテンツ・ビジネスへの影響 ........................... 35
 1 翻案ビジネスの現況 ..................................... 35
 2 翻案の実務 ............................................. 35

第6 本件の著作権法における重要性 ........................... 37
 1 フリーライド型模倣 ..................................... 37
 2 パロディ ............................................... 39
 3 裁判所への要望 ......................................... 40

第7 結論 ................................................... 41

第1.はじめに

1.原判決は、控訴人脚本・控訴人映画と被控訴人脚本・被控訴人番組(以下原判決の「原告脚本」「原告映画」「被告脚本」及び「被告番組」をこのように言い換える。)との間に存在すると控訴人らが指摘した全ての類似点、及びその組合せにつき「表現上の本質的な特徴を感得することはできない」と判断した。この結論は、多くの人々には予想外と受けとめられ、外国の法律家からは、日本の著作権法の類似の判断は不可解である、というコメントが寄せられている。裁判所が、世論や外国人の意見に左右される必要がないことはもちろんであるが、素人の感覚と大きなずれを生じた場合には、基本的な考え方において誤りがないかを再度検討する必要がある。

2.原判決は、従来の判例の基準に従い、作品の主題、筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、登場人物の個性、描写の方法、取り上げるエピソードの内容等につき判断し、「いくつかの場面において一定の共通点が認められるが、共通する部分はアイデアの段階にとどまるものであり、登場人物の人物設定についても類似するものとは認められない。また、原告脚本と被告脚本との間には、ストーリー全体の展開やテーマにおいて相違があり、結局、原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできない」という結論に至っている(P51)。このような認定方法は、従来の判例に従ったものであり、異例なものではない。また、類似・非類似の判断については、日本の裁判制度が裁判官の感性のみに頼っている以上、一般の感覚とはかけ離れた結果が出ることもあるのであろう。本件の事案が、従来の判例のそれと大差ないものである場合には、感性の問題として片付けられてしまうことになるのかもしれない。しかし、本件において模倣された作品は極めて著名な作品であり、被控訴人らは、「象徴的な場面の模倣」「嵌め込みによる模倣」によって、その著名性にフリーライド(ただ乗り)しようと企てたものである。よって、原審において、類似・非類似の判断に際しては本件作品の特異性を十分に視野に入れ、著作権法の本質に鑑みた、きめ細やかで実質に踏み込んだ判断がなされるべきであった。にもかかわらず、原判決は、控訴人らが原審において主張・立証した本件の特異な性格について全く考慮しようとせず、その結果誤った結論に到達したものである。

第2.本件の特異性

1.著名な作品の模倣

(1) これまで翻案が問題となった判例を見ると、翻案の対象となった原著作物が本件のような著名な著作物であった例はほとんどない。下記は代表的な翻案の判例とそれぞれの原著作物である。

  (イ)「ぼくのスカート」事件(東京地判 平成6年3月23日)
                      ― ラジオドラマ化された作品の脚本
  (ロ)「春の波濤」事件(名古屋地判 平成6年7月29日)
                      ― 書籍「女優貞奴」
  (ハ)「目覚め」事件(東京高判 平成8年4月16日)
                      ― ルポルタージュ風読み物「目覚め」
  (ニ)「江差追分」事件(東京地判 平成8年9月30日・東京高判 平成11年3月30日・
       最判 平成13年6月28日)
                      ― 小説「ブダペスト悲歌」
  (ホ)「先生、僕ですよ」事件(東京地判 平成10年6月29日)
                      ― 短編漫画「先生、僕ですよ」
  (ヘ)「ノンフィクション書籍」事件(東京地判 平成12年12月26日)
                      ― ソニー株式会社の沿革等に関する連載記事
  (ト)「大地の子」事件(東京地判 平成13年3月26日)
                      ― ノンフィクション作品「不条理のかなた」等
  (チ)「捨て犬シェパードの涙」事件(横浜地・小田原支判 平成14年8月27日)
                      ― 子供向け読み物「すて犬シェパードの涙」
  (リ)「ホテル・ジャンキーズ」事件(東京高判 平成14年10月29日)
                      ― ホームページ上の掲示板の書き込み

(2) 被控訴人番組が放映された直後に週刊誌がそれを控訴人映画の盗作として報じ、その後もテレビ等によって同旨の報道が続いたことは、控訴人映画が多くの人々に知られており、改めて見比べることなしに両作品の類似点が容易に認識されたことを示している。これは、控訴人映画の表現上の本質的な特徴が被控訴人番組から感得されたということを意味している。原著作物と翻案との対比は「専門家による対比を要せず、原著作物を知る一般人の対比で足る」。(齋藤博著「著作権法第2版」P101)

このように、著名な作品の場合には、その翻案との類比の判断は容易であり、全体的な対比を行わなくても、一つ二つの特徴的な場面を抜き出しただけでも一般人は両者を類似であると判断することができる。もっとも、控訴人らは、このような一般人の判断を絶対的なものと主張するものではなく、下記のような法律的な考察を加えた上で、著名な作品については特別な配慮がなされるべきであると考える。

2.象徴的な場面の模倣

原著作物と翻案との類似を比較する場合に、類似点の分量を考慮するのがこれまでの判例の手法である。これは、一般的な評価の確立していない無名作品間の比較においては有効であるが、原著作物が著名な作品である場合には、必ずしも妥当でない。

著名な作品には(特にそれが娯楽作品である場合には)、象徴的な場面が必ずいくつかあり、一つの場面が有名ブランドのロゴのように作品全体を表象することがある。名作の個々の場面は、作品の力と宣伝・口コミ等があいまって、その作品を見たことがない者にも印象付けられ、後に述べる不正競争防止法の「他人の著名な商品等表示」と似た力を持つようになる。本件は、被控訴人脚本・番組が控訴人脚本・映画の象徴的な場面を盗用したという意味において特異である。

3.嵌め込みによる模倣

これまでの判例で問題となった原著作物及び翻案は、それぞれのストーリーの全体が類比の判断の対象となった。本件は、被控訴人脚本・番組は大河ドラマの第1回放映分であり、更に、控訴人らが類似と主張する部分は放映時間約55分の第1回分の更に30分弱の部分である。被控訴人らの大河ドラマは吉川英治の原作に基づく独自のストーリーを持っており、控訴人らはそれが控訴人脚本・映画と類似であると主張するものではない。また、控訴人映画は上映時間約3時間27分の長編劇映画であり、その全体が上記30分弱の被控訴人番組及びそれに対応する脚本の中に模倣されていると主張するものでもない。

被控訴人らは、自らの作品(「宮本武蔵」という著名な作品の翻案)の一部に控訴人脚本・映画のストーリー及び象徴的な場面を一種の劇中劇のような形で取り込み嵌め込んだものであって、それによって被控訴人らの大河ドラマが全体として影響され変容したものではない。このような「嵌め込み型」の模倣はこれまでの判例の扱った事案にはないものであって、従来の手法による対比は有効ではない。

4.フリーライド目的の模倣

(1) 被控訴人らは、控訴人脚本・映画の名声にフリーライドして、被控訴人番組の視聴率を上げようと企てたものである。被控訴人らがなぜこのように考えるに至ったかは、原判決の下記記述から理解できる。(P13)

被告原作小説の映像化は,既にドラマ,映画など十数回に及んでおり,被告NHKにとっても昭和59年の水曜時代劇「宮本武蔵」(全45回)以来2度目の映像化であった。この点,映画・ドラマの分野においては,たとえどのように優れた原作であっても,新たな映像化に当たって,新しい視点,展開に欠け,過去の映像化作品をなぞっただけのようなものを製作した場合には,視聴者の批判を避けられないというのが実情である。したがって,今回のドラマ化に当たっても,骨格となる基本的なストーリーを維持しつつ,それまでの映像化ではなかった新しい視点や展開を取り入れることが必要とされた。

したがって、今回のドラマ化に当たっても、骨格となる基本的なストーリーを維持しつつ、それまでの映像化ではなかった新しい視点や展開を取り入れることが必要とされた。

被控訴人らは、「それまでの映像化ではなかった新しい視点や展開」と述べているが、被控訴人番組の中でこれに該当する部分はまさに今回控訴人らが盗作であると主張する部分である。

(2) 大河ドラマの第1回放映分の視聴率は、1年間続くドラマ全体の視聴率に大きな影響を与える。ちなみに被控訴人も次のように述べている。(原判決P18)

被告脚本及び被告番組は全49回,約1年にわたって放映される連続ドラマの第1回である。その後,多くの視聴者に番組を視聴してもらうためには,第1回が非常に興味深く,その後の展開が期待されるものであることが必要である。

第1回を見ようとしなかった視聴者を2回目以降に取り戻すのは至難の業である。被控訴人NHKは、新鮮味のない「宮本武蔵」に活力を与えるキャッチフレーズを探し、「七人の侍」に辿り着いたものと思われる。第1回放映分を「『七人の侍』風」と銘打つことができれば、「宮本武蔵」には格別な興味を持たなくても、「『七人の侍』風」に惹かれてくる視聴者を獲得することができる。映画「七人の侍」は、それを見たことがない者もタイトルだけは知っているという名作であり且つポピュラーな作品であり、「七人・・・」という題名が映画やテレビドラマによく見られることからしても、その吸引力は絶大である。映画「七人の侍」を見たことのある視聴者にとっては、被控訴人番組がかの名作をどのように取り扱うかに興味があるであろうし、それを見たことのない若い視聴者には、3時間27分の長尺の映画を見ることなくその名場面を見られるのではないかという期待を抱かせる。かくして、被控訴人らは、被控訴人番組を「『七人の侍』風」として打ち出すことを決意し、控訴人脚本・映画の利用可能なストーリー・場面を被控訴人脚本・番組の中に取り込んでいったものである。その努力は実を結び、新聞は、映画「七人の侍」に言及しながら被控訴人番組の紹介をした。毎日新聞2003年(平成15年)1月1日(水曜日)の朝刊(甲16)においては、「大河ドラマガイド」として、「武蔵 MUSASHI」の特集を組んでいるが、その中に1回目の放送について言及している部分があり、「武蔵らと野武士との映画『七人の侍』を思わせるような死闘が迫力十分だ」と記載されている。また、朝日新聞2003年(平成15年)1月5日(日曜日)の朝刊(甲17)においては、テレビ番組欄中央の一番目立つ部分に本件番組についての紹介記事があり「試写室」とのタイトルの横に、本件番組を集約する印象を与える見出しとして大きく「『七人の侍』風アクション」とあり、「試写室」の本文中にも「初回から映画『七人の侍』のクライマックスを思い起こさせるようなアクション」との記載がある。

このような宣伝文句に惹かれて被控訴人番組を見た者は多かったはずで、その一人は、「最初はそれほど見る気はなかった」のに「初回から映画『七人の侍』のクライマックスを思い起こさせるようなアクション」とあるのをみて、見たところ失望し、「大河ドラマ、2度と見る気が失せること請け合い!」という感想を述べている(甲18)。なお、原判決は、「原告映画をして映画史に残る金字塔たらしめた、上記のような原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については、被告脚本からはうかがえない」と述べているが、これは当然のことである。そもそも、被控訴人らは、控訴人脚本・映画の芸術的な部分を真似しようとしたものではなく、宣伝文句として「『七人の侍』風」といえればよかったのであって、そのためにはストーリーの一部と象徴的な場面を表面的に借用できればそれで十分であった。原判決は「高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素」が被控訴人脚本になかったことをもって、両作品が類似でないと判断する一つの理由としているように読めるが、被控訴人らの模倣の動機をみればそれが失当なことは明らかである。被控訴人らの行為は、粗悪品に有名ブランドのロゴを付して販売したものに等しく、その製品がブランド品と比べて劣悪な品質であったことをもって免責されるべきでないことは明らかである。

第3.類似・非類似の判断基準

1.これまでの判例

上記第2、1 (1)に述べたように、これまで翻案が著作権侵害に問われた事件における原著作物は著名とはいえないものであった。これらの場合には、裁判所は原著作物と翻案を対等に見て比較することになる。

翻案による著作権侵害を認めるための要件としては、「依拠」と「表現上の本質的な特徴を感得できるか否か」(以下「感得」という)がある。「依拠」の条件は、原著作物にアクセスすることができればそれが満たされてしまうため、「感得」の条件が厳しくみられることになる。原著作物が無名作品の場合には、明確な意識なく類似の作品ができてしまうことは考えられ、必要とされる類似の程度を低くすると、新たな創作をしようとする者を萎縮させ、創造を阻害し、表現の自由を不当に制約する結果にもなる。特に、翻案は複製とは異なり、原著作物を変更するものであるため、とらえ方によっては、その範域は際限なく広がっていく恐れがある。このような理由で、これまでの判例は、原著作物及び翻案の間に相当に高い度合いの類似を要求している。

2.著名な原著作物の場合

(1) 模倣の対象が著名な著作物である場合には、模倣者が、無意識に翻案を作ることは考えにくい。特に、有名な基本的ストーリーや象徴的な場面がその対象となる場合には、無意識の模倣はほとんど考えられない。

仮に翻案における芸術的な必要から、原著作物の基本的なストーリーや場面に似たものが必要となる場合でも、翻案者は盗作といわれないために、他の方法で同様な効果を達成するように工夫をするはずである。翻案者にとっては、対象となる原著作物が著名である場合には、何をどの程度避ければ盗作といわれないかについて明白な予想ができ、原著作物の存在によって自らの創作意欲をそがれることはない。

上記のような事情は、著作物の類比の判断について考慮されるべきである。即ち、原著作物が著名な作品である場合には、それが無名の著作物である場合と比べて、翻案との類似度が低くても、「感得」の要件が満たされると判断すべきである。映画「七人の侍」のように極めて著名な作品の場合には、類似は容易に認められ、現に多くの一般人が作品の厳密な比較をするまでもなく、「七人の侍」と「武蔵 MUSASHI」が類似していると感じている。

(2) このような方法は、「感得」の判断につき著名な作品とそうでない作品との間に異なった基準を設けるようにみえるかもしれないが、そもそも著名な作品と無名の作品を一般人が同等に見るはずがないのであって、著名度を無視して作品を比較すること自体が不当である。後述のように、平成5年改正不正競争防止法は、他人の著名な商品等表示につき特別な保護を与えている(同法第2条1項2号)。これは、改正前の不正競争防止法が、著名な商品等表示についても、「混同」の要件を必要としていたところ、表示が著名である場合には、実際には混同が生じているか疑わしい事例においても判例が混同を認定することで規制をはかっていたことが背景となっている。著作権法においても、類比の判断に著名性を考慮することにより妥当な結果が得られることになる。盗作と認定するための作品間類似の度合いは、原著作物の著名度と反比例すると考えられる。

3.故意

(1) 著作権法は、著作権侵害につき故意を要件とはしていないが、侵害者の故意が明白に認定できるのに著作権の侵害が認められないのは不思議である。本件は、後記(2)に述べるとおり、被控訴人らが、原著作物が連想されることを意図して、フリーライドの目的で、原著作物の基本的ストーリー及び象徴的場面を利用し、その思惑通りに世間が反応し、大きな騒ぎとなったケースであり、これが著作権侵害でないとする判断は一般人の理解を超えるものである。被控訴人らが、被控訴人番組を控訴人映画に敢えて似せて作り、それが世間で評判になることを意図したのは明らかであり、その期待した結果がまさに現出したものであり、両作品が似ていることのこれ以上の証拠はないのではないか。

(2) 被控訴人NHKの放送局長は、(「七人の侍」から)「ヒントを得たりアイデアを借りたりということはあるだろうと思います」と述べ(甲25)、被控訴人○○は「15年ほど前(時期は定かでない)、書籍として出版されている原告脚本に目を通したことがある」とのことであり(被控訴人ら(原審被告ら)平成16年2月11日付準備書面(1) P2)、一部のシーンについて「もともと『七人の侍』を意図してやった」と認めている(甲11)。被控訴人らが認めるか否かにかかわらず、基本的ストーリー及び11もの場面が偶然に似るわけはなく、被控訴人らが意図的に控訴人脚本・映画を模倣したことは、経験則に照らして明らかである。被控訴人らは、個々のエピソードにつき江戸時代の文献等に言及し、それが原典であるかのごとく説明しているが、それらの文献を渉猟する間に選び出したエピソードが全て「七人の侍」の中のものであるということは偶然にはありえない。更に決定的なことは、上記11の類似場面のうち「朱実が腰につけていた鈴を半兵衛が投げるシーン」(原判決別紙対比目録2の被告番組の内容6)及び「武蔵が地面に突き立ててあった刀を抜くシーン」(原判決別紙対比目録2の被告番組の内容11)がいずれも被控訴人○○の執筆した被控訴人脚本にはない場面であり、被控訴人NHKによれば「ベテラン殺陣師である林邦史朗氏と演出担当者が討議を重ねた上で、殺陣の演出として追加した」(原判決 P22)とのことである。即ち、被控訴人NHKは、既に基本的ストーリー及び9つの類似場面により十分に「七人の侍」的であった脚本に更に「七人の侍」を象徴する2つの場面(特に刀を抜くシーンは「七人の侍」の中の最も有名なシーンといってもいいものであって、映画通でなくてもこの場面だけで「七人の侍」と言い当てられるほどのものである)を追加したのである。これら2つのシーンが偶然に、または演出の都合から、付け加えられたはずもなく、「七人の侍」風に被控訴人番組を見せかけるための駄目押しであるとしか考えられない。なお、この「七人の侍」に似せようという故意は、被控訴人番組が大河ドラマの第1回放映分という重要な作品であるため、脚本家と演出家のみによって決定されたとは考えにくく、被控訴人NHKの上層部における意思が関与しているものと思われる。この点については、控訴審において明らかにしていきたいと思う。

4.フェア・ユース

(1) 本件は、故意による模倣であり、その目的がフリーライドであるため、著作権侵害は明らかであるが、故意であっても著作権侵害を構成しないことのあるパロディとの識別が必要となる。俗に「原典がばれないと困るのがパロディで、ばれると困るのが盗作だ」と言われているが、フリーライドの場合も同様なので、その区別が必要となる。

(2) 米国著作権法は、パロディがフェア・ユースの法理により著作権侵害にならない場合があることを認めている。米国著作権法(1976年法)第107条は、次の4つの要素を考慮して著作物の使用がフェア・ユースになるか否かを判断するとしている。

(1) 使用の目的および性質(使用が商業性を有するかまたは非営利的教育目的かを含む)。
(2) 著作権のある著作物の性質。
(3) 著作権のある著作物全体との関連における使用された部分の量および実質性。
(4) 著作権のある著作物の潜在的市場または価値に対する使用の影響。
 
(1) the purpose and character of the use, including whether such use is of a commercial nature or is for nonprofit educational purposes;
(2) the nature of the copyrighted work;
(3) the amount and substantiality of the portion used in relation to the copyrighted work as a whole; and
(4) the effect of the use upon the potential market for or value of the copyrighted work.

米国の判例は、この関連で、翻案が「生産的」(productive)であるときにフェア・ユースを肯定的に認めるとしている。フェア・ユースは、翻案者が、原著作物をトランスフォーマティブ(transformative−新しい表現、意味付け又はメッセージで原著作物を改変して新たな目的又は異なる性質の新規物を付け加えること)に使用し、その目的が「解説」(comment)または「批評」(criticism)であるときに、認められやすい(エリック・J・シュワルツ著「英和対訳アメリカ著作権法とその実務」P292-P301)。ある判例は、パロディにつき「侵害を問われているものが単に注意を引く(to get attention)ため、または新たなものを作り出す際の苦労を避けるために原著作物を利用しているのであれば、他人の作品から借用する際の正当性の主張は(消滅しないまでも)それに応じて減少し、商業性の程度のような他の要素が拡大する」としている(Campbell v. Acuff - Rose Music, Inc. 510 U.S. 569, 579 (1994))。

これらの基準にあてはめたとき、被控訴人らの行為は、控訴人脚本・映画に対して批評や解説をしているわけではなく、生産的ではなく、トランスフォーマティブでもなく、新たなものを作り出す際の苦労を避けて、単に視聴者の注意を引くためにそのストーリーや場面を借用したものであって、その目的は視聴率という経済的な利益を得ることであり、その結果、控訴人らは大きな損害を受けており、いかなる意味でもフェア・ユースとは言えない。

5.不正競争防止法

(1) 本件は、被控訴人らが、「七人の侍」のブランドにフリーライドし、不当に経済的利益を得たという不正競争の事件であり、著作権侵害がその手段となったものである。本件は、不正競争防止法が直接適用される事案ではないが、不正競争防止法的考察は本件を理解するために不可欠である。

   

「現代の情報化社会において、様々なメディアを通じ商品表示や営業表示が広められ、そのブランド・イメージが極めてよく知られるものとなると、それが持つ独自のブランド・イメージが顧客吸引力を有し、個別の商品や営業を超えた独自の財産的価値を持つに至る場合がある。このような著名表示を冒用する行為によって、たとえ混同が生じない場合であっても、冒用者は自らが本来行うべき営業上の努力を払うことなく著名表示の有している顧客吸引力に「ただのり(フリーライド)」することができる一方で、永年の営業上の努力により高い信用・名声・評価を有するに至った著名表示とそれを本来使用してきた者との結びつきが薄められる(希釈化、ダイリューション)ことになる。」
(逐条解説不正競争防止法(平成15年改正版)経済産業省知的財産政策室 編著P45)


これは、不正競争防止法第2条第1項第2号の趣旨を解説したものであるが、本件における、「七人の侍」の著名なストーリー及び象徴的場面を盗用した被控訴人らの行為は、「七人の侍」が有している顧客吸引力にフリーライドし、控訴人らの名声を害する不正競争の行為である。ちなみに、商品等表示が具体的にどの程度知られていれば「著名」と言えるかについては、「通常の経済活動において、相当の注意を払うことによりその表示の使用を避けることができる程度にその表示が知られていることが必要であり、具体的には全国的に知られているようなものを想定している」(同P47)。この基準によれば、「七人の侍」のストーリー及び象徴的場面は「著名」と言えることになり、被控訴人らは相当な注意を払うことにより、その使用を避けることができたはずである。

(2) 不正競争防止法においては、「他人の商品または営業と混同を生じさせる行為」が問題となるが、本件において誤認・混同が生じるのは、商品または商品主体ではなく、著作物の芸術的価値である。著名な作品(そのストーリー、象徴的場面及びそれらの組み合わせ)には前述の有名ブランドと同様に、顧客吸引力がある。それは、リメイク権、ゲーム化権等の翻案権のライセンス・販売という形で利用され経済的価値を有する。リメイクについてみると、著名作品がその対象となる理由は、作品を構成する各要素が優れた芸術作品を作り出すために有用であることが実証されているというところにある。更に、著名作品を既に鑑賞して満足した観客は、リメイクによってその満足感が再現されることを期待するので、新作を新たに宣伝し浸透させるための努力と費用を省くことができる。原作品が高い評価を得ている場合には、原作品を未見の者に対しても、その評判は顧客吸引力としてプラスに作用する。これは、有名ブランドが、未使用者に対してもその品質や価値についての安心感を与えるのと同様である。

(3) 以上要するに、被控訴人らは、控訴人脚本・映画のストーリー、象徴的場面及びそれらの組み合わせを模倣し、被控訴人脚本・番組がかの名作の感動を再現させるかのように宣伝し、控訴人脚本・映画の有する経済的価値を利用し、不当に利益を得たものである。このような不正競争の意図は、本件の著作権侵害の存否を判断する際に考慮されるべきである。

6.まとめ

以上のように、本件は、著名作品を対象とするフリーライド目的の盗作であるため、従来の判例が用いた「依拠」及び「感得」のテストのみではその本質が捉えられない。本件においては、米国法のフェア・ユースの法理にあるような実質的な判断が不可欠である。著作権法は、どのような場合に翻案が著作権侵害になるかについて明確な規定を置いていない。また、最高裁判例も、「依拠」及び「感得」のみが判断基準であると述べているものでもない。本件のような事例においては、少なくとも次の要素が考慮されるべきである。

(イ)
著名な作品(その有名なストーリー・場面等の構成要素)が対象となっている場合には、それらの模倣を避けることはできなかったか、またその努力をしたか。
 
(ロ)
模倣の目的が何であったか(経済的利益か、解説・批評か)。

原判決は、上記の視点が全く抜け落ちているために、被控訴人らが、故意に、原著作物に似せようとして作り、その意図どおりに世間が反応し、被控訴人らは所期の目的を達しているにもかかわらず、被控訴人らの行為が著作権侵害ではないという一般常識と乖離した誤った結論を導き出したのである。

以下第4において、第2、第3に述べた視点から、結論に至るまでの原判決の誤りを個別に検討する。

第4.原審の判断について

1.原判決第3、1(1)(P37)について

(1) 原判決は、最高裁判例に沿って「翻案」の定義を示し、更に次のように述べている。(P37)

したがって,被告脚本が原告脚本を翻案したものと評価されるためには,被告○○が,原告脚本に依拠して被告脚本を作成し,かつ,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を直接感得することができることが前提となるが,その際,具体的表現を離れた単なる思想,感情若しくはアイデア等において被告脚本が原告脚本と同一性を有するにすぎない場合には,翻案に該当しないというべきである。

ここで示された判断基準は、これまでの判例に従ったもので、一般論としては誤りではない。しかしながら、原判決は、控訴人らが原審で再三主張した本件の特異性にここで全く触れることなく、原判決のその他のいかなる部分でもそれに言及していない。即ち、原判決は本件の特異性には一切触れることなく、次の要領で検討を進める。(P37)

 本件において,原告らは,次の@ないしCの各類似点において原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から直接感得することができると主張している。また,原告らは,@ないしCの各類似点の主張に加えて,@ないしCの類似点が組み合わされることによって,原告脚本全体が想起されるようになり,被告脚本が原告脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。
  @ 村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー
  A 別紙対比目録1記載の9箇所(6及び11を除いたもの)の類似
  B 西田敏行の演じた内山半兵衛と志村喬の演じた島田勘兵衛,
     寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似
  C 戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現
 そこで,原告らの上記主張に即して,まず,上記@ないしCの各類似点において,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から直接感得することができるか否かについて,検討することとする。

しかし、本件の特異性を認識することなく正しい結論が得られることはないので、ここで上記第2に述べた特異性を復習する。

(2) まず、本件は、極めて著名な作品が翻案の対象となっているという点においてこれまでの翻案に関する判例の扱った事件と全く異なっている。また、本件の控訴人脚本・映画「七人の侍」は、世間に広く知られた象徴的な場面を有しており、その一つを模倣するだけでも、控訴人脚本・映画全体が想起される。本件では、このような象徴的場面を模倣するという形での翻案(以下「象徴場面型模倣」という)が行われた。次に、本件では、被控訴人らは、被控訴人脚本・番組の原作である「宮本武蔵」のストーリーの中に「七人の侍」のストーリー及び象徴的場面を嵌め込むという方法(以下「嵌め込み型模倣」という)を用いて翻案を行った。更に、被控訴人らは、このような手法により被控訴人脚本・番組が視聴者から「七人の侍」風と受取られるように製作し、控訴人脚本・映画の名声にフリーライドして(以下「フリーライド型模倣」という)視聴率を獲得した。

(3) 被控訴人らは、本件翻案を次の制約の下に行ったと考えられる。

(イ) 被控訴人脚本・番組の放映時間30分弱の中に、可能な限り「七人の侍」のストーリー、象徴的場面及びその他の要素を取り込むこと
 
(ロ) 上記により、被控訴人脚本・番組が視聴者から「七人の侍」風と評価されるように製作すること
 
(ハ) 上記(イ)及び(ロ)にかかわらず、原作である「宮本武蔵」の基本的なストーリーを逸脱しないこと
 

上記(イ)の時間的制約は、「嵌め込み型模倣」から来る制約であり、これが守られないと、上記(ハ)に述べる目的が達成できないことになる。上記(ロ)も同様に(ハ)の制約の中で行われる必要があり、被控訴人脚本・番組は「七人の侍」風になれば十分であって、「七人の侍」自体になってしまってはその目的は達成されない。このように、被控訴人らの意図する模倣は、原判決の言う「原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素」を再現しようとするものではなく、一般の視聴者から「七人の侍」風と受け取られればそれで十分であった。この結果、被控訴人脚本・番組によってかすめ取られた「七人の侍」の要素は一部の外形的なものにとどまり、作品の持つ本質的な芸術性、価値は置き去りにされている。原判決は、このような相違を両作品が非類似であると判断する理由としているが、これは失当であり、このような相違は本件翻案が「象徴場面型模倣」であり、「嵌め込み型模倣」であり、「フリーライド型模倣」であることから生ずる当然の結果である。もし、本件に見られるような両作品の相違をもって非類似と判断するのであれば、「象徴場面型模倣」、「嵌め込み型模倣」及び「フリーライド型模倣」は野放しの状態になってしまう。

2.原判決第3、1(2) ア(P38)について

(1) 原判決は、控訴人脚本と被控訴人脚本の基本的なストーリーを説明した後、次のように述べる。(P40)

 そこで,検討するに,原告脚本は,野武士の襲来に悩まされる村人が腕の立つ侍を雇ってこれを撃退するというストーリーであって,村人や侍たちの視点を軸に物語が展開されている。一方,被告脚本は,連続時代劇の第1話として,被告原作小説の関ヶ原から辻風一党との闘争に至る部分を脚本化したもので,主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面を織り交ぜつつ,辻風一党に狙われた母娘に雇われた主人公の武蔵を中心としてストーリーを展開し,ドラマ全体のテーマである「生き抜く」というメッセージを発するとともに,武蔵が己の強さを自覚するというものである。
 このように,原告脚本と被告脚本は,野盗に狙われた弱者に侍が雇われて,これを撃退するという大筋において,一致が認められる。しかし,ストーリーの展開を検討すると,原告脚本においては,ストーリーの中心となる主人公が特定の人物に限られておらず,農民たち,勘兵衛,菊千代など様々な登場人物の視点がからみあってストーリーが展開されるとともに,人物の性格や場面について細かな設定がされていること,武芸にまつわる江戸期の伝承を取り込んでストーリーの細部が構築されている点に特徴がある。一方,被告脚本は,関ヶ原の合戦で活躍できなかった武蔵が,戦の後に知り合った母娘の敵として登場する野盗の頭領の辻風典馬を倒すという基本的なストーリーであり,その点は被告原作小説と一致している。
 そして,被告脚本のうち,主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面(この部分が,原告脚本と何ら関係がなく,著作権侵害・著作者人格権侵害の問題を生じないことは明らかである。)を除いた部分を原告脚本と対比すると,被告原作小説の物語を基本として主人公の武蔵を軸にその視点からストーリーが展開されている点,野盗の急襲によって守備側の中心である半兵衛と追松があえなく討ち死にしてしまい,武蔵がほとんど独力で野盗の頭領である辻風典馬を倒す点で,原告脚本が農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し,侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー展開をしているのと大きく相違する。
 さらに,そのテーマを検討すると,原告脚本においては,侍を雇った農民たちが落ち武者狩りによって得た武具を隠し持っていたこと,野武士を撃退した農民たちが田植えに励むのを見た勘兵衛が「勝ったのは,あの百姓たちだ。」とつぶやく場面などに表れているように,一見非力な農民のしたたかさ,力強さがうたい上げられている。一方,被告脚本は,青年武蔵が己の強さを自覚し,生き抜く誓いをたてるという1人の人間の成長の物語というべきものである。
 上記によれば,原告脚本と被告脚本は,ストーリー展開やそのテーマにおいて,相違するということができる。したがって,原告脚本と被告脚本との間に,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリー上の共通点が存在するにしても,そのことを理由として,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。

(2) まず、ストーリーについては、原判決は「(被告脚本は)被告原作小説の物語を基本として主人公の武蔵を軸にその視点からストーリーが展開されている点、野盗の急襲によって守備側の中心である半兵衛と追松があえなく討ち死にしてしまい、武蔵がほとんど独力で野盗の頭領である辻風典馬を倒す点で、原告脚本が農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し、侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー展開をしているのと大きく相違する」と述べる。これは、「嵌め込み型模倣」の当然の帰結である。前述のように、被控訴人番組の使用可能な30分弱の枠の中で「農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し,侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー」を展開することは不可能である。また、被控訴人らにとっては、「野武士の襲来に悩まされる村人が腕の立つ侍を雇ってこれを撃退するというストーリー」さえ利用できれば、それに「七人の侍」の中のいくつかの象徴的シーンを絡ませることにより(「象徴場面型模倣」)「七人の侍」風という評価を得る(「フリーライド型模倣」)ことは十分可能だったのである。

(3) 被控訴人らは、ストーリーについて無理な「嵌め込み型模倣」をしたために、被控訴人脚本・番組には多くの破綻が生じている。

控訴人らは、原審で次のように述べた。(原判決P9)

 被告らは,たまたま原告脚本及び原告映画を借用したのではなく,確信犯的に(ストーリーの流れからは無理があることを承知で),原告脚本及び原告映画を被告番組の中に取り込んでいったとしか思えない。
 すなわち,
  (ア) 被告番組のストーリーは,原告脚本及び原告映画との関係をおくとしても,不自然なものである。被告番組では,農民が侍を雇って収穫物を狙う野武士から村を守るという原告脚本及び原告映画の設定が改変され,侍を雇う一家は,村から孤立し戦場の死骸から刀や兜を盗んで生計を立てている(なお,被告原作小説では,お甲は,野武士の頭であった亭主が辻風典馬に殺されたという設定であった。)。被告番組には,原告脚本及び原告映画にある強きをくじき弱きを助けるという義侠心が全く見受けられない。そもそも何故侍たちが集まってくるのかも分からない。さらに,原告脚本及び原告映画では,農民は1日がかりで街まで旅をして侍を集めようとするのに対し,被告番組では,村から至近距離の道を侍が何人も通り過ぎるという不自然な設定となっている。 
  (イ) 野武士が襲ってくる時期について,原告脚本及び原告映画の冒頭部分では,野武士たちが舞台となる村を見下ろしながら,麦の収穫時期に襲うことを話している場面があり,このことが侍を雇って村を守るという話につながっていく。これに対し,被告番組では,狙われるのは刀や兜を盗んでくる,いわば盗人であり,野武士たちが毎年(又は年に何度も)襲ってくるということが述べられているが,どのような兆候をとらえて襲ってくるのかについては説明がない。被告番組のストーリーでは,野武士がいつやってくるかは予想できず,あらかじめ襲撃に備えて侍を雇うこともできないはずである(なお,被告原作小説では,盗品の売却先から情報を得て,辻風典馬の一味が,朱実に予告した上で,やって来ることになっている。)。
 上記のとおり,被告原作小説からは,集められた侍が野武士と戦うという被告脚本及び被告番組の展開にはなりようがなく,被告脚本はそれ自体が破綻しているとしか思えない。

控訴人らが上記のように主張した被控訴人脚本・番組の破綻について、被控訴人らは原審において反論しているが、それについて検討したい。

 

(イ)なぜ侍が集まってくるのか。

被控訴人らは、「侍たちが集まったのは、単純に金銭に釣られて、あるいはお甲、朱実という女たちに魅かれてという設定である。浪人たちは常に金に貧しており、金額が折り合えば傭兵になることは、この時代の最も自然な設定である。いちいち詳しく描く必要もないと考えた。雇い主が金持ちで、金額もそれなりのものであったことは、後に雇われた中の4人の裏切りのシーンからも容易に想像できる形になっている。」と述べている(乙8、P14)。

なるほど、後に雇われた4人、及び武蔵と又八(彼らはこの時点ではまだ雑兵でしかなかった)についてはこの説明があてはまるのかもしれない。しかし、武蔵に「生き抜く」という哲学を授けた内山半兵衛がこのような理由で雇われたとすれば、彼の人間像が一挙に崩れ去ってしまうことになる。この点については、後に内山半兵衛について詳しく述べる(第4、6 (2))。

(ロ)街中でもないのになぜ侍が頻繁に通るのか。

被控訴人らは、侍が頻繁に通っている道は「京へ向かう街道」であって「侍を含め頻繁な往来があって全く不思議はない」と述べている(乙8、P12)。しかしながら、被控訴人脚本によれば、この街道のすぐ傍にお甲が待ち受ける小屋があり(武蔵が朱実を追いかけたが追いつかない程度の距離)、その小屋は「村の外れ」にあると表記されている(乙7、P23、シーン32)。そうであれば、主要街道から至近距離にある村に野武士が集団で喚声をあげて襲ってくるという設定になるわけで、これもおかしいのではないか。

(ハ)野武士が襲ってくる時期

被控訴人らは、「『襲来が予想できないはず』ということだが、NHKは、この時節的な設定を関ヶ原の合戦からまだ間もない時期としており、野武士側が『この大いくさの後だからあの屋敷はまたため込んだに違いない』と考え、雇主側も強い警戒の必要を感じて傭兵を集めた、と設定している」と述べている(乙8、P14)。しかしながら、お甲の夫である嘉平次は、「毎年、何度も盗賊共に襲われていますんじゃ。これ以上、やつらの好き放題にさせとくわけにはいきません。何とぞ、一度痛い目に遭わせてほしいのです」と言っている(乙7、P26、シーン42)。これは、被控訴人らの説明によれば、野武士たちが、合戦の後の収穫物(鎧兜等)を狙って関ヶ原の合戦の前毎年何度も襲撃したということになる。ところが、この時期についてみると、「関ヶ原前後、また、大阪夏冬の陣の前後には、どこの大名も、いつ合戦が起きるか、いつ陣務を急とするか知れなかった中に、表面は幾年かの小康的平和にあった時勢だった」という記述があり(乙9、P244)、関ヶ原の前に度々合戦があったという様子はうかがわれない。ここも、被控訴人らが「七人の侍」の米の収穫の後の野武士の襲来に合戦と野武士の襲来を対応させようとした結果矛盾が生じたものである。「嵌め込み型模倣」の失敗である。

(4) 以上のように、被控訴人らは、「七人の侍」の中の取り込み可能な要素を全て被控訴人番組の30分弱の枠の中に取り込もうとした結果、破綻が生じたものである。ここで注目すべきは、被控訴人らは、自らの作品に破綻が生じることを認識しながらあえてそれを容認して模倣したと思われることである。被控訴人らにとっては、自らの作品の整合性や完全性よりも、「七人の侍」風に見える方がより重要だったのであろう(「フリーライド型模倣」)。従って、控訴人脚本・映画と被控訴人脚本・番組の相違点は、被控訴人らが模倣を避けようとして生じた相違点ではなく、模倣しようとしても「嵌め込み型模倣」の制約から模倣しきれなかった部分であることが明らかである。この理は、被控訴人らが主張する「今回の大河ドラマのテーマである『生き抜く』ということを強烈に印象づけ」る(原判決P16)ことを目的として(ただし「七人の侍」との類似を避けながら)被控訴人脚本・番組を書きなおしてみればよく理解できる。即ち、「七人の侍」に似せないストーリー展開の方が、より強く「生き抜く」という哲学を印象づけられ、矛盾も生じないのである。これについては後記第4、6で詳細に述べたい。

(5) 最後に、原判決は、控訴人脚本と被控訴人脚本のテーマが違っているといっているが、これは「嵌め込み型模倣」なので当然のことであり、被控訴人らはテーマまでも似せる意図はなかったし、上述の制約のもとではテーマを似せることは不可能であった。

3.原判決第3、1(2) イ(ア)(P42)について

(1) 原判決は「怪しい男が実は女であったという場面」(原判決別紙対比目録1記載の類似点1)について次のように述べる。(P42)

 原告脚本には,村の男たちは全員戦闘訓練に参加しているはずであるのに,これに参加していない男を見つけた勝四郎が,その者を追いかけて取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。一方,被告脚本には,関ヶ原の合戦後,戦場付近で遭遇した怪しい者を武蔵が追いかけて取り押さえたところ,その者の胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。
 しかし,原告脚本と被告脚本では,当該場面における具体的な描写が異なっている上,原告脚本においては,雇われた侍による狼藉をおそれた父親により男装させられている志乃に勝四郎が出会い,その後,2人が人目を忍んで逢瀬を重ねることとなるきっかけとして当該場面が描かれており,ストーリー全体を通じても重要な場面であるのに対して,被告脚本においては,単に武蔵がお甲母娘に出会う伏線として描かれているにすぎず,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけが大きく異なる。
 上記のとおり,原告脚本と被告脚本とを対比すると,怪しい者を取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという点で共通するが,両者の間の共通点としてとらえられる上記の点はアイデアにとどまるものであり,また,男性の身なりに扮装していた女性の胸に手を触れることによって,女性であることに気づくという場面は,他の作品にも見られるものであり,このような設定自体をもって原告脚本独自のものということも困難である。

(2) 原判決は「男性の身なりに扮装していた女性の胸に手を触れることによって、女性であることに気づくという場面は、他の作品にも見られるものであり」と述べており、これは被控訴人らが言及する「ナバロンの要塞」(1959年)、「エル・ドラド」(1966年)及び「ランボー怒りの脱出」(1985年)(原判決P21)のことであると考える。そこで、これらの作品の該当場面を検証すると、次のようなシーンであることが判明した。

「ナバロンの要塞」
黒っぽいトレンチコートの短髪の人影を追いつめ、背後から銃で殴り倒し、ひきずって隠れ家に連れて行き、うつぶせに倒れているその人物をひっくり返して顔を見たところ、女であることが判明した。

「エル・ドラド」
納屋の中でカウボーイハットをかぶった人影を後ろからとらえ、押し倒し、組み伏せたところで(胸には触っていない)、帽子がとれて女だと判明した。

「ランボー怒りの脱出」
北ベトナムに潜入したランボーは、円錐形のすげ笠をかぶった人影を見、後ろからとらえ、ナイフを突き付けたときに笠が落ちて、長髪の女であることが判明した。

(3) 以上のように、いずれの作品も原審の述べるように、「女性の胸に手を触れることによって、女性であることに気づく」という場面ではない。そこで、本件で問題となっている場面を分解してみると、「男性の身なりに扮装した怪しい人影をみつけ」「走って追いかけ」「つかまえて格闘となり」「その際胸に手が触れて」「女であることが判明し」「狼狽する」という6つの要素に分かれることがわかる。上記3つの参照作品との類似点は、唯一「女であることが判明する」というところだけである。なお、上記各作品はいずれも怪しい人影が「男性の身なりに扮装していた」という設定ではない。このように考えると、本件で、控訴人脚本・映画と被控訴人脚本・番組との対応場面が6つの要素全てにおいて類似しているということは、ありふれた場面が似ているというパターンでは片づけられないことがわかる。被控訴人NHKの膨大なデータベースから問題となっている場面に類似する場面を持つ作品として上記3作品しか探し出せなかったとすれば、問題となっている場面はむしろ極めてユニークなものであると言わざるを得ない。更に、上記6つの要素の組み合わせは、単なるアイデアにとどまるものとはいえず、ユニークな表現であると言うべきである。

(4) 「七人の侍」で勝四郎と志乃が初めて出遭うこの場面は、男性的な闘いの場面が多い「七人の侍」の中で異色のロマンチックな場面であり、極めて有名なものである。原判決の言うように、「ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけが大きく異なる」ことは明らかであるが、これは「嵌め込み型模倣」であることから説明がつく。被控訴人らは、被控訴人原作小説のストーリーとは関係なくこの有名な場面を被控訴人脚本・番組の中に取り込んだものだが、他の取り込まれた場面と比べれば比較的成功したケースだと思う。被控訴人らはこのような設定にした理由を次のように述べている。(原判決P21)

 被告原作小説において,吉川英治は,朱実が女だったと分かった理由について,女の服装をしていることに気づいたとしているが,リアリティという点からいっても,歴史考証という点でいっても,戦闘終了後間もない戦場において死体から武具などを拾い集める際に,女が一見して女と分かる服装でいるなどということは極めて危険であり,通常あり得ないことと思われた。そこで,被告らは,朱実に男としか見えない服装をさせることとした。
 そうすると,今度は服装以外の理由で武蔵が朱実が女であることに気づく必要があるが,その端的な表現方法として,直接武蔵が朱実の体に触れることによって気づくという演出を用いることとした。

(5) 問題となっている場面が「七人の侍」の象徴的な場面でなければ、被控訴人らのこのような説明も理解できないことはないが、被控訴人○○をはじめ時代劇を作る何人もの人が集まって、このような設定が以前あったことに気づかないはずもなく、「象徴場面型模倣」であることは明らかである。そこで、このような類似を避けられなかったかについて考えると、仮に朱実に男としか見えない服装をさせることが必要であったとしても、それが実は女であったと判明するために上記の6つの要素が全て必要なわけではない。上記3つの参考作品から明らかなように、朱実がかぶっていた笠を落とすだけでも十分だし、振り返って顔を見せるだけでも女であることは容易に判明するであろう。要するに、被控訴人らは、「七人の侍」の有名場面との類似を簡単に避けられたにもかかわらず、あえてその6つの要素全てについて克明に模倣したものである。

4.原判決第3、1(2) イ(イ)(P43)について

(1) 原判決は、侍の腕試し場面(原判決別紙対比目録1記載の類似点2ないし5)について、控訴人脚本と被控訴人脚本を比較検討した後、次のように述べる。(P44)

 しかしながら,乙3,4によれば,くぐり戸や木戸口を通る必要がある場合の武士の心得として,「刀かつぎの法」(夜間など物騒な気配が察知される場合の戸入りの形),「刀かざしの法」(昼間でも,くぐり戸など狭い戸口から入るときに,侍が必ず行う作法)などの防御の技法が存していたことが認められる。また,乙2の7,5,19及び弁論の全趣旨によれば,様々な武芸者の伝説伝承を集めた「本朝武芸小伝」(1716年)の中の塚原卜伝に関するエピソード中には,「卜伝が息子3人の中から後継者を選ぶため,部屋に入る際に頭上から木の枕が落ちる仕掛けをしたところ,長男は事前に木枕に気づき,これを除く。二男は落ちる枕を避けた後,部屋に入る。三男は落ちる枕を空中で斬る。その結果,心機に優れた長男が後継者となる。」というものがあること,明治末期から大正時代にかけて少年に広く読まれた「立川文庫」においても前記エピソードが取り上げられていること,被告原作小説においても,「四賢一燈」の章「一」ないし「五」(文庫版第7巻)に,幕府の軍学者・北条安房守の屋敷に招かれた武蔵が,廊下を進む際に,武蔵の腕前がどの程度かを見届ける目的で刀の鯉口を切った状態(抜刀直前の態勢)で物陰に潜んでいる柳生宗矩の気配を心機で察し,庭に下りて回避するというエピソードがあることが認められる。
 このように,戸陰から打ちかかることによって侍の技量を確かめようとしたところ,武芸に秀でた侍は攻撃の気配をあらかじめ察し,相手に攻撃の機会を与えないという場面設定自体は,江戸期の武芸者の逸話に少なからず見られるものであり,時代劇において達人の技量をはかる手段としてしばしば用いられる手法ということができる。そこで,上記のような場面設定において,試される侍が具体的にいかなる対応をしたのかという点を見るに,原告脚本においては,腕を試された1人目の侍(氏名不詳)は鉄扇で袋竹刀を払いのけ,2人目の侍(五郎兵衛)は気配を察して「誰方じゃ,冗談が過ぎますぞ」と言って攻撃を事前に制するのに対し,被告脚本においては,1人目の侍(武蔵)は何とか攻撃を通り抜け,2人目の侍(又八)は戸陰に人が隠れていることを知らされていたので攻撃を防御することができ,3人目の侍(追松)は気配に気づいて逆に攻撃をしかけ,4人目の侍(半兵衛)は気配に気づいてその真意を尋ねるという内容になっている。このように,原告脚本と被告脚本とでは,技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している。

(2) 原判決は、「原告脚本と被告脚本とでは、技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している」と述べるが、これは「嵌め込み型模倣」であることから当然に生じる相違である。原判決別紙対比目録1記載の類似点2ないし5を全体としてみれば、それがアイデアの域を脱していて表現であることは明らかであり、類似でないという判断は全く不当である。ちなみに、「七人の侍」の正式なリメイク作品である「荒野の七人」(1960年)(この作品については第5、2 (2)項で詳しく論じる)では、この場面は、拳銃の早撃ちの技量のテストに置き換わっており、広げた両手をたたく間に拳銃をホルスターから抜いて構えられるかが競われる。このように、翻案においては、その背景となる舞台によって表現は形を変えるが、その本質は容易に感得されるものである。「荒野の七人」のこの場面を見た者は、容易に「七人の侍」の対応する場面を連想する。刀が拳銃に変われば、全ての場面の具体的な表現は変わってくるのが当然であり、その相違をとらえて翻案でないというならば、日本映画の外国映画への翻案はありえず、現在盛んになっているリメイク権の許諾は全て根拠がないことになる。

(3) 原判決は、「戸陰から打ちかかることによって侍の技量を確かめようとしたところ、武芸に秀でた侍は攻撃の気配をあらかじめ察し、相手に攻撃の機会を与えないという場面設定自体は、江戸期の武芸者の逸話に少なからず見られるものであり、時代劇において達人の技量をはかる手段としてしばしば用いられる手法ということができる」と述べているが、例としてあがっている塚原卜伝のエピソードも、宮本武蔵のエピソードも、いずれも「戸陰から打ちかかる」という表現ではない。本件の問題となっている場面は、傭兵を雇うためのテストとして薪やこん棒で実際に打ちかかるというものであり、「江戸期の武芸者の逸話」とはその目的も方法も異なっている。このように、控訴人らの設定はユニークなものであり、被控訴人らが江戸時代の武芸者のエピソードから同じ設定を独自に思いついたものでないことは明らかである。再度言うが、被控訴人○○や被控訴人NHKで時代劇製作に携わるプロが塚原卜伝のエピソードには思い至ったが、「七人の侍」には思い至らなかったということはありえない。

(4) 更に、原審でも指摘したが、「七人の侍」の場合には侍に打ちかかる役は勝四郎で、剣の達人である勘兵衛が控えていたので安心であったが、朱実が侍を導き入れて、お甲が打ちかかるというのは、いかにも無茶な設定である。これは、「嵌め込み型模倣」であることから生じる破綻である。「七人の侍」を無理して真似ようとしなければ、侍をテストする方法は他にもいくらでもある。例えば、塚原卜伝のエピソードをそのまま使って、侍が入ってくる際に頭上から木の枕が落ちる仕掛けをすれば十分である。このようにすれば、殴りかかったお甲が反対に斬られるというような危険もなく、侍の技量を確かめるについても不足はないであろう。「七人の侍」で勝四郎が打ちかかる役になったのは、勘兵衛が若い勝四郎に修行をさせようという配慮もあった。いずれにしても、被控訴人脚本・番組は、打ちこみ役としての適任者がいないにもかかわらず、無理に「七人の侍」を真似しようとしたためにありえない設定になっている。

5.原判決第3、1(2)イ(ウ)(P45)について

(1) 原判決は、野盗との戦闘場面(原判決別紙対比目録1記載の類似点7ないし10)について説明した後、次のように述べる。(P46)

 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,最後の戦いが雨中の乱戦であるという点で共通する。
 前記aないしdの各点は,いずれも,野武士との抗争場面に関するものであるところ,「雇われた侍によって一度は野武士が撃退され,野武士と侍との間の最後の決戦は雨の中で行われる。」という点で共通する。
 しかしながら,前記共通点であるところの,攻撃側が騎馬で攻め込んでくること,攻撃を受けていた側に加勢が入ることによって,攻撃側が退却を余儀なくされることや雨中において戦いが行われること自体は,場面設定としてアイデアにとどまるものといわざるを得ない。
 他方,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけ及び当該場面の具体的な描写についていえば,原告脚本においては,雇われた侍と村人たちが一致協力して野武士の集団と死闘を繰り広げる様子を描写することで侍と村人との一体感,自衛に立ち上がった農民の力強さを見る者に印象づけるという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,村を取り囲む地形や各侍の個性・技量をも具体的に考慮して野武士に対する備えを準備し,野武士を分断して多数でせん滅する作戦を基本とした戦いが描かれている。これに対して,被告脚本においては,戦闘場面の描写を通じて,半兵衛の存在を強調してその討ち死にを見る者に印象づけるとともに,武蔵が「生き抜く」ことの大切さを知り,同時に自らの強さを自覚するという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,武蔵らは柵などの備えを全く設けず,野盗の一団を分断させるような策も講じないまま野盗と戦っており,野盗側としてもいったん撃退された後に改めて奇襲を行い,武芸者の半兵衛と追松を討ち取るなど一定の成果を上げている。
 上記によれば,別紙対比目録1記載の類似点7ないし10の点において,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。

(2) 原判決の指摘する相違点は、いずれも、「嵌め込み型模倣」であることから当然生ずるものである。被控訴人脚本・番組における戦闘場面は、控訴人脚本・映画の戦闘場面の矮小化されたものであり、ミニチュア版である。被控訴人脚本・番組の限定された枠の中で、原判決の言うような侍の個性や技量を考慮した作戦や、村人たちとの協力関係を含む戦闘を描きうるわけもなく、被控訴人らとしてもそのような意思はなく、単に豪雨の中の合戦が「七人の侍」風に見えればよかったのである。この戦闘場面にも「嵌め込み型模倣」であるため、次のような破綻が生じている。

(3) まず、控訴人らは、原審で、被控訴人脚本・番組の中で野武士に狙われていた家には高い塀があったので、その上柵を作ることは不必要であった、と述べた。これに対して、被控訴人らは、「騎馬兵力と対峙する際、馬防柵や空堀を幾重にも作って対抗するのは、戦国時代において最も基本的、常識的な策である」、また「武蔵は別に馬鹿げたことを言っているわけではなく、半兵衛が裏をかく奇策をとったのであって、もし武蔵の提案が実施されていた場合、柵から屋敷の塀まで徒歩となる敵に対しての弓による攻撃は、それなりの効果をあげたことだろう」と反論した(乙8、P15)。柵なり堀なりを作るのには人手も時間もかかってあまりこの場合には有効とは思えないが、このような無意味なセリフを限られた放送時間中に入れるということ自体がありえないことである。この柵の話は、その後の戦闘場面の中でも一切出ることはなく、それが何らかの布石になって後の物語につながるというものでもない。ドラマの筋からすれば全く無駄なセリフである。この柵に関するやりとりは典型的な「象徴場面型模倣」である。村人が侍を雇って野武士と対決するという物語の中で、いくつもの「七人の侍」を思わせるシーンが続いた後で、「柵」という言葉が出てくれば、「七人の侍」を見たことがある視聴者は、周囲を柵で囲われて要塞化した村を思い浮かべる。「七人の侍」と無関係な物語の中でこのようなやりとりがあったとしても、視聴者は前記のような連想はしないだろう。このような連想が可能になるのは、「柵」という言葉が他の類似要素(基本的ストーリーやその他の象徴的場面)と合わさって「七人の侍」という作品を指し示すからである。これはあたかも、ジグソーパズルにおいて、それ自体としては特徴のない一つのピースが、既に他のピースが嵌め込まれて部分的にできあがっている絵と反応してある意味を有するがごときである。

(4) 次に、控訴人らは、原審において、野武士の集団が刀を振り回しながら喚声をあげて押し寄せてくる場面について、次のように述べた。(訴状添付別紙1注10)

「この前のシーンで家の主人は『毎年、何度も盗賊どもに襲われていますんじゃ』と言っている。そのような関係であれば、野武士たちが集団で抜き身を振り回しながら威嚇するように押し寄せてくるのは奇異だ。それに野武士たちは侍がいることをまだ知らず、家には男1人女2人しかいないと思っているのだ。『七人の侍』で野武士たちが威嚇しながら突進してくるのは、それまでに村の他の場所で撃退されているからで、自然な反応である。ここでも「武蔵」は無理な盗用をしている。」

これに対して被控訴人らは次のように述べている(乙8、P17)。

「1.作劇の基本的な技法に<省略>がある。つまらない展開や弛緩した描写は、敢えて省略した方が、綿密に吟味すれば多少、辻褄が合わない個所が出る場合でさえ、ドラマ全体の質は高まる。もちろんその<省略>のやり方によって、でたらめな展開あるいはスピーディーな展開と視聴者から様々に評価される。

 2.この場面に関し、「野武士たちは屋敷側に不穏な動きがあるのは察知していたが、だからこそ力攻めで叩き潰そうとした」という説明シーンを作ることは、既に武蔵たち浪人が、野武士襲来を待ち受けていることの描写を終えているこの段階では、もはや必要不可欠ではないと判断して、<省略>しただけのことである。」

「野武士たちは屋敷側に不穏な動きがあるのは察知していた」とのことであるが、そうであるならば、尚更のこと、奇襲を試みるのではないか。被控訴人脚本・番組のように、喚声をあげて押し寄せれば、相手に体勢を整える機会を与え、弓で射られて損害を被るのが落ちであろう。

6.原判決第3、1(2) ウ(P47)について

(1) 原判決は、まず、島田勘兵衛(控訴人脚本)と内山半兵衛(被控訴人脚本)が類似するか否かについて次のように述べる。(P47)

 両者は,侍たちのリーダー格であること,技量が優れていながら,不遇な境遇を送ってきたという点において共通する。しかしながら,内山半兵衛(被告脚本)は,主人公の武蔵に「生き抜く」という大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」全体に通じる主題を伝えた後にあえなく討ち死にしており,仲間を失いつつも最後まで生き残る島田勘兵衛(原告脚本)とは相違している。なお,被告らは,内山半兵衛(被告脚本)は,大坂夏の陣で豊臣方に参加して討ち死にした後藤又兵衛を参考にしていると主張するところ,乙15及び16によれば,後藤又兵衛には,戦いに敗れ,一同が髪を剃って蟄居した際に,「負けるも勝つもいくさのならいである。」としてこれに従わなかったという逸話があることが認められる。そして,この逸話は,内山半兵衛が浪人となったいきさつを武蔵に語る場面において「いくさに負けたら,一同髪を切って出家しようという。いやだと言ったら,それなら腹を切れという。いくさは,そのときどきものだ。勝つときもあれば,負けるときもある。‥‥‥本気で戦わない者ほど,後になって形だけのことを言う。お前らに言われて,腹を切るなぞまっぴらごめんだ。そう言ってやめてきたのよ」と述べていること(被告脚本におけるカット44)の参考になったと考えられ,内山半兵衛(被告脚本)と後藤又兵衛との関連性を指摘することができる。
 上記によれば,各脚本における人物設定の点において,内山半兵衛(被告脚本)が島田勘兵衛(原告脚本)に類似しているとは認められない。

確かに、「七人の侍」と無関係な時代劇の中で志村喬(控訴人映画)と西田敏行(被控訴人番組)が上記のような役柄で登場した場合、両者は必ずしも類似しているとはいえないだろう。しかしながら、村人が侍を雇って野武士と対決するというストーリーの中で、両者が現れた場合には、それぞれの物語の中で雇われた侍の誰が誰に対応するかは自ずとわかってくる。被控訴人らは、内山半兵衛を島田勘兵衛に似せたつもりはなく、歴史上の人物である後藤又兵衛を参考にしたと主張している。確かに、被控訴人脚本・番組の中で内山半兵衛はそれに沿うようなセリフを述べている。これは、被控訴人脚本・番組が侍の数を7人ではなくて8人にしたと同様に、盗作と言われた場合の抗弁ととれないこともない。それはともかくとして、後藤又兵衛という立派な人物をモデルにした内山半兵衛が被控訴人脚本・番組の中で果たす役割については大きな疑問が生じる。

(2) 被控訴人らは、大河ドラマ「武蔵 MUSHASHI」のテーマと内山半兵衛を登場させた理由について次のとおり述べている。(原判決P16)

 被告原作小説の主人公宮本武蔵は,その生きていく過程で多くの人を斬っていくことになるが,このことは,ややもすると殺人者というイメージを与えかねない。現代の世相において,ましてや被告NHKの大河ドラマとして,殺人者を主人公として描いたのでは,世間に受け入れられることは不可能である。
 したがって,主人公武蔵が生きていく過程で,人を斬らねばならぬことについての意味づけを行い,視聴者の共感を得られる人物にすることが,大河ドラマとしての武蔵を
製作する上で不可欠であった。そこで大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」においては,武蔵に「生き抜く」ということを大きなテーマとして与えることにしたのである。
 後述するように,「武蔵 MUSASHI」の第1回である被告脚本及び被告番組において,原作には登場しない内山半兵衛という人物を登場させたのは,物語の最初の段階で武蔵に対して今回の大河ドラマのテーマである「生き抜く」ということを強烈に印象づけ,その後の武蔵の成長に影響を与える人物を登場させる必要があったからにほかならないのである。実際,武蔵は物語の中でたびたび半兵衛の姿を回想し,「生き抜く」ということを何度も再確認するのである。

このように、内山半兵衛は、武蔵に対して大河ドラマのテーマである「生き抜く」ということを強烈に印象づけ、その後の武蔵の成長に影響を与える人物ということである。そこで、前述の侍が村人に雇われる理由について考えてみたい。被控訴人らによると、その理由は「単純に金銭に釣られて、あるいはお甲、朱実という女たちに魅かれて」ということだが、内山半兵衛も同様であったのか。控訴人脚本・映画の島田勘兵衛は、野武士に毎年襲われ収穫物を奪われている百姓たちの窮状に同情して、米の飯が食べられるというだけの条件で引受けた。他の6人の侍たちも、その仕事の意義に共鳴し、また勘兵衛の人柄に感服して参加した。被控訴人脚本・番組の雇主である村人は、百姓で生計を立てているわけではなく、戦場で死体から刀などの武具を拾い集めてそれを売って生活している、いわばハイエナのような男である。単に拾い集めるだけではなく、落武者狩りのようなこともしていたのではないか。「七人の侍」の中では、菊千代(三船敏郎)が、村の中に隠してあった鎧兜、槍、弓矢を他の侍たちが話をしているところに大量に持ちこむ場面がある。それに対して侍たちは嫌悪の情を示し、久蔵(宮口精二)は、「俺は、この村の奴らが斬りたくなった!」と言う。被控訴人脚本・番組の中でも、追松(寺田進)が「(刀を取り上げて)いくさ場からとってきたものか」と嘉平次を睨みつける場面がある(乙7、P27、シーン42)。(久蔵=追松と考えると、この場面も似ている。)このように、内山半兵衛たちの雇主である村人は、野武士たちよりも忌み嫌われるような存在であった。後藤又兵衛をモデルとする内山半兵衛は、金のためにこのような者に仕え、あげくの果てにそこで命を落としてしまう。これはあまりにも無惨で、無益な死ではないか。半兵衛は武蔵に対して、「生きようと思え。最後の最後まで生きようと思え。どんなに追い詰められても、生きていようと思え。そうすれば、いつか必ず、命よりも大事なものがみつかる」と言う(乙7、P35、シーン61)。この言葉と、犬のように無駄に死んでいく半兵衛とはどのようにつながるのであろうか。

(3) 被控訴人らは、武蔵に「生き抜く」ということを教える半兵衛を登場させる必要があった、と述べるが、そのような人物を「七人の侍」風のストーリーの中で登場させることは所詮無理であった。被控訴人らが、「生きる」ということを教える役として半兵衛を必要としたというのは多分真面目に考えた上でのことだと信じるが、それをフリーライド目的で嵌め込んだ「七人の侍」風のストーリーの中に持ってきたのは明らかに失敗である。被控訴人らは、「嵌め込み型模倣」によって自らのテーマをも汚す結果になっている。

(4) 被控訴人らの目的のためには、人格者である内山半兵衛が、矛盾なく、武蔵に「生き抜く」という教えを授ける設定が必要となる。そのためには、村人が侍を雇うなどという設定は必要はなく、たまたま村人の家に宿を借りた半兵衛が野武士の襲来に遭遇し、一宿一飯の義理で、武蔵たちと一緒に戦うということで十分であった。侍が村人の家に宿を借りることはよくあることだったろうし、その際襲撃を受ければ、侍には村人を守る義務が生じる。これは、金のために雇われるというのとは違って、仁義の問題である。仁義のために死ぬのは武士の本望であり、「七人の侍」のような壮大な人間ドラマにはならないが、内山半兵衛を高潔な人格として描くことはできる。

(5) 追松についても、半兵衛と同様のことがいえ、村人に雇われるというような形でなくても登場させることは十分可能であった。野武士と戦う人数にしても、被控訴人脚本・番組で実際に戦ったのも4人だったので、無理に侍を雇うという形にしなくても、説得力のあるストーリーが出来たはずである。要するに、「七人の侍」風のストーリーは避けられたし、避けた方がより矛盾のない作品が出来たのである。

控訴人脚本の久蔵と被控訴人脚本の追松については、原判決は次のように述べる。(P48)

 両者は,剣術に優れ,己の技を磨き上げることに生涯を捧げるかのような生き方をしている点において共通する。しかしながら,被告脚本において,追松は,戦いの中に身を投じている内に心がすさみきった者であると説明され,主人公武蔵に対する反面教師というべき役割を担っているのに対し,原告脚本における久蔵は,単身で敵陣に乗り込んで鉄砲を奪い取って若侍の勝四郎の憧憬の対象となったり,勝四郎と村娘・志乃の間の密会を見て見ぬふりをするなど,人間味のある性格の人物として描かれており,追松(被告脚本)と相違する。
 上記によれば,各脚本における人物設定の点において,追松(被告脚本)が久蔵(原告脚本)に類似しているとは認められない。

確かに、久蔵は控訴人脚本全体を通してみると、人間味のある性格の人物として描かれている。但し、控訴人脚本の前半に限ってみると、勘兵衛が評するように「自分を叩き上げる、それだけに凝り固まった奴」で近づき難い存在である。被控訴人脚本・番組の限られた枠の中では、ニヒルな外見の中にある人間味が表れるだけの物語を盛りこむことができず、必然的に追松のような人格として描くことになる。これは、「嵌め込み型模倣」による当然の制約である。

7.原判決第3、1(2) エ(P49)について

原判決は、戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現について、次のように述べる。(P49)

 原告脚本の最後の戦いの場面は,雨中での戦いとして,極めて著名な場面である。そして,被告脚本においても,最後の戦いは雨中で行われるほか,冒頭の関ヶ原合戦後の場面において,霧ないし雨が使用されている。しかし,被告脚本において霧ないし雨の場面を設定したことから,直ちに原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得させるものということはできない。ちなみに,関ヶ原合戦後の場面において霧がたちこめているのは,関ヶ原の合戦の史実とも符合し,原告映画と同時期に製作された稲垣浩監督「宮本武蔵」(乙32)においても関ヶ原の合戦における霧の場面がある。

原判決が指摘するように、最後の戦いの場面は、雨中での戦いとして極めて著名な場面である。黒澤明は、西部劇に負けない活劇シーンを撮ろうと思い、雨の合戦シーンであれば、
西部劇には真似ができないだろう、と考えた(甲27、P101)。豪雨の中の合戦は「七人の侍」の専売特許ではないが、被控訴人脚本・番組の騎乗の野武士と徒の侍が泥まみれになりながら戦うシーンは「七人の侍」のクライマックスを連想させる。前述のように(第2、4 (2))新聞の番組紹介はこの場面に言及し、「野武士の首領を倒した武蔵は豪雨の中で『俺は強い』と叫ぶ(甲16)」と豪雨に言及している。本件は典型的な「象徴場面型模倣」であって、「柵」について述べたように(第4,5 (3))、「豪雨」という自然現象も他の「七人の侍」を象徴するいくつかの要素と組み合わされれば、「七人の侍」という作品のみを指し示すキーワード(ジグソーパズルのピース)になるのである。

8.原判決第3、1(2) オ(P49)について

原判決は、類似する要素の有機的結合について、それが表現上の本質的な特徴を感得させるものになる場合には、翻案と認められることもあると説明した後、次のように述べる。(P50)

 そこで本件についてみるに,たしかに原告脚本と被告脚本は,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリーに共通点が見られ,また,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面において,アイデアにとどまるものではあるが,共通点が見られ,登場人物の設定の点でも,内山半兵衛(被告脚本)と島田勘兵衛(原告脚本)の間,追松(被告脚本)と久蔵(原告脚本)の間に一定の共通点が見られる。しかしながら,既に前記イ,ウにおいて検討したとおり,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面については,原告脚本と被告脚本との間でストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上,具体的な描写も異なるものであり,また,人物設定の点もストーリーのなかでの当該人物の役割やその性格づけに着目すれば類似するものとは認められない。そして,原告脚本においては,原告らの挙げる上記の各場面のほかに多くのエピソードが描かれており,島田勘兵衛及び久蔵のほかに多くの個性的な人物が登場するものであり,そこでは,7人の侍について各人の個性が見事なまでに描き切られており,作品全体を通じて,侍たちの義侠心と村人に対する暖かい視線,野武士との闘いを通じて形成される侍たち相互そして侍たちと村人との間の心の触れあいと連帯感,一見非力な農民のしたたかさ・力強さ等のテーマが,人間に対する深い洞察力に裏打ちされた豊かな表現力をもって,見る者に強烈に訴えかけられているものである。これに対して,被告脚本においては,主人公武蔵が歴戦の武芸者から薫陶を受けるとともに自己の強さを自覚する契機として野盗との戦闘場面が設定されているにすぎない。原告脚本と被告脚本の間に上記のようなアイデア・設定の共通点が存在するとはいっても,原告映画をして映画史に残る金字塔たらしめた,上記のような原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については,被告脚本からはうかがえない。
 上記によれば,原告らが原告脚本と被告脚本との類似点として挙げる各点を総合的に考慮して,原告脚本と被告脚本を全体的に比較しても,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできないから,被告脚本をもって原告脚本の翻案ということはできない。

これまでに述べてきたことから明らかなように、原判決が非類似と判断する部分は、いずれも本件が「嵌め込み型模倣」であることから生ずる相違である。被控訴人脚本・番組の中の嵌め込み可能な枠には、「多くの個性的な人物」を登場させる余裕はなく、「侍たちと村人との間の心の触れあいと連帯感」を描くこともできず、「村人が侍を雇って野武士と戦う」という基本的なストーリーといくつかの象徴的場面を取り込む(「象徴場面型模倣」)以上のことはできなかったのである。もっとも、被控訴人らとしては、被控訴人脚本・番組が「七人の侍」風に見えればそれで目的は達したので(「フリーライド型模倣」)、被控訴人脚本・番組に「高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素」がなくともかまわなかったのである。このように、控訴人脚本・映画と被控訴人脚本・番組の相違点は、被控訴人らの都合で生じたものであり、「七人の侍」風と世間が評価する作品が出来上がった以上、「表現上の本質的な特徴を感得できない」とする理由にはならない。

9.原判決第3、1(3) ア(P53)について

(1) 原判決は、注意を引きつけるために物を投げる場面(原判決添付別紙対比目録1及び2記載の6)について、次のように述べる。(P53)

 原告脚本には,侍が子どもを人質にとって屋内に立てこもる盗人の注意をひくために握り飯を投げつけ,握り飯に気を取られた盗人の隙をついて斬りつける場面がある。一方,被告番組には,侍の腕試し場面において,半兵衛と並んで立っている朱実が腰につけている鈴をひきちぎって,追松に投げつけ,追松が鈴を刀で払う隙をついて,半兵衛が追松をねじふせるという場面がある。
 原告脚本と被告番組を対比すると,相手方の注意をそらすために物を投げるという点で共通する。しかし,このような場面設定自体は,「本朝武芸小伝」における伝承にもあらわれているもので,時代劇においてしばしば用いられるものである。そして,原告脚本では拘束者の目を人質から他にそらさせる方法として用いられているのに対し,被告番組では,腕試しで対峙し,攻撃を誘うかのような追松に対し,半兵衛が用いた策であって,これに対する追松の対応も重要な要素である。したがって,物を投げられた相手の対応と一体のものとして,被告番組における表現を考察すべきであるところ,鈴を投げられた追松の対応を含めて原告脚本と被告番組とでは具体的な描写が異なるものであって,この点を考慮すれば,注意をひきつけるために物を投げる点が共通しているからといって,被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。

この部分は、「嵌め込み型模倣」の手法を二重に使った手の込んだものである。即ち、被控訴人らは、その基本的なストーリーの中に、「侍の腕試し場面」(第4、4)を嵌め込んだ上に、その中に、控訴人脚本・映画の島田勘兵衛が、子供を人質にとって屋内に立てこもる盗人の注意を引くために握り飯を投げつけ、握り飯に気をとられた盗人の隙をついて斬りつける場面を連想させる設定を嵌め込んだのである。原判決は、控訴人脚本と被控訴人番組とでは「具体的な描写が異なる」というが、この相違は「嵌め込み型模倣」であることから必然的に生じるものである。被控訴人らは、前後の脈絡に関係なく、「七人の侍」の象徴的場面を無理矢理取り込んでいるため、その元の意味が失われたり、理解できない描写になっていることが多い。本件もその一例である。

(2) 控訴人らは、原審において、この場面につき、「握り飯を投げれば受けとめるために隙ができるが、何故刀で鈴を切らなければならないのか。剣の達人とは到底思えない」(訴状添付別紙1注8)と述べた。これに対して、被控訴人らは、次のように反論した。(乙8、P13)

「1.
確かに『鈴を投げる』ことは本件番組の脚本には無く、ドラマ収録の段階で殺陣の演出として加えられたものである。
2.
この演出の狙いは、脚本の意図(優れた腕前を持つ追松をさらに上回る技量を持つ半兵衛)をより鮮やかに明確に表現すること、また同時に、原作からの朱実のトレードマークでもある鈴を視聴者に強く印象づけることにあった。
大河ドラマで長年、殺陣を担当し『大道具、小道具を巧みにとり入れる』(永田哲朗『殺陣・チャンバラ』社会思想社刊)と評価される林邦史朗氏と演出担当者が討議を重ね、実行した。
3.
ところで鈴にせよ握り飯にせよ、あるいは石、木枝、衣服、あるいは手裏剣でも何でも、『優れた武芸者が囮などで相手の隙を誘い、その刹那に相手を倒す』ことは、時代劇ではそれこそ<お約束>のシーンである。
4.
原告らが比較する両シーンでは、台詞はもちろん状況、心理、行動、そしてその行動がもたらす結果、全てが異なる。
5.
(注7)の指摘に対しては、『打ちかかろうとする追松には、自分の腕への過信から、たとえ最初の一太刀をはずしても次の太刀で相手を倒せるという驕りがあり、半兵衛はそこまで察していたからこそ、その隙をつくことができた』ということである。」

(3) 被控訴人らは、投げる物につき、「鈴にせよ握り飯にせよ、あるいは石、木枝、衣服、あるいは手裏剣でも何でも」と言っているが、投げる物またはその方向により、意味合いは大きく違ってくる。まず、手裏剣や爆弾などは、直接相手に危害を加えることを目的とした武器であるため、本件とはその性質が全く違う。このような武器を除いて考えても、2つの類型がある。原判決は、「注意を引きつけるために物を投げる」と「注意をそらすために物を投げる」を区別せずに使っているが、この2つは大きく異なる。控訴人脚本・映画で用いられた設定は、「注意を引きつけるために物を投げる」ものであり、その仕組みは控訴人脚本・映画が依拠した上泉伊勢守の下記のエピソードを読むと理解しやすい。(乙22、P480、481)

「無頼者は左手に子供を抱きしめ、右手に脇差をつかみ、足で戸の心張棒を外し、戸を開けた。
 さすがに、空腹にたえかねたものと見える。
『さ、握り飯を抛れ』
『そうか、よし。では、抛るぞ』
 無頼者は、子供を仰向けに寝かせ、これに右手の刃を突きつけつつ、左手をひろげ、
『さ、抛れ』
『それ、一つ抛るぞ』
 伊勢守は左手の数珠をふところへ仕まい、盆を持ち、右手で握り飯を一つ取って、
『ほれ・・・』
 無頼者へ抛ってよこした。
 無頼者は左手で、これを受けた。
 その転瞬、伊勢守は『それ、いま一つ』と、すかさず残った一つの握り飯を抛った。
 上泉伊勢守が、二つ目の握り飯を投げた呼吸は、実に、間髪を入れぬものであった。
 乱心した無頼者の狡智をよぶ間をあたえなかった。
 一つ目の握り飯を左手に受けた瞬間に、伊勢守の声がかかり、ついで二つ目が抛ってよこされた。
 おもわず無頼者は、右手の脇差を土間へ投げ捨て、その手で二つ目の握り飯を受けとめてしまったのである。
 それを見た伊勢守が、弦からはなたれた矢のごとく、納屋の中へ躍り込んでいた。
『あっ・・・』
 叫んだが、すでに遅い。
 辛うじて、無頼者は握り飯をはなした右手に、脇差を拾いあげようとする姿勢を見せた。
 しかし、その次の瞬間には、伊勢守の手刀が無頼者のくびすじを強打し、無頼者は、
『う・・・』
 わずかにうめき、のめり込むように土間へ伏せり倒れ、気をうしなった。
 こうして、幼児は無事に両親の腕の中へもどされた。」

このような策略は、握り飯のように地面に落ちて転がったら食べられなくなるような物を投げる場合にしか考えられない。投げられた物がフランスパンであれば、相手は刃物を投げ捨てて受けとめるようなことはしないだろう。直接相手に向けて投げて、注意を引きつけ、これだけの効果をあげるものは握り飯以外にはあまり考えられない。その意味で、この設定は極めてユニークなものと思われる。

(4) もう1つの「注意をそらすために物を投げる」の典型的な例は、隠れている者が発見されそうになり、石などを遠方に投げてそちらの方に追跡者の注意を向けさせる、というものである。これは前出の、「エル・ドラド」と「ナバロンの要塞」でも使われた設定で、ありふれたアイデアであるといえる。本件は、「注意を引きつけるために物を投げる」設定であり、武器以外の物を相手に投げつけて注意を引きつけ、効果をあげる場合はそれほど多くないと思われる。無害なものであれば、相手は単にやりすごすか、除ければいいだけであって、あまり意味はない。普通は、素手の者が凶器を持った追っ手から逃げる時間を稼ぐために使われる手法である。

(5) そこで、被控訴人番組の設定を見ると、投げられる物は鈴であって、鈴は鳴るものである。現に、被控訴人番組でも、半兵衛が朱実の腰から鈴をひきちぎったときに鳴り、更に、追松に向かって飛んでいく際にも鈴は鳴っていた。追松は、戸陰にいたのでこの状況は目で見ることはできなかったかもしれないが、音から判断して、何が起こっているかは手に取るようにわかったであろう。しかし、追松は、何の害も無い鈴を刀で払い、体勢を崩して半兵衛に取り押えられた。被控訴人らは、この行動を、「自分の腕への過信から、たとえ最初の一太刀をはずしても次の太刀で相手を倒せるという驕りがあり」と説明しているが、これは追松が愚かであることを証明するに過ぎない。追松がこれほど愚かでなければ、半兵衛が鈴を投げるという全く無駄な行為をして隙を作ったのを見て、一太刀あびせたことであろう。被控訴人らは、「優れた腕前を持つ追松をさらに上回る技量を持つ半兵衛」を表現したかったようだが、被控訴人らの設定は、「愚かな半兵衛をさらに上回る愚かさを持った追松」を描いたに過ぎない。

(6) 以上のような被控訴人番組の破綻は、無理な「嵌め込み型模倣」から生ずるものである。被控訴人らは、できることならば、半兵衛に握り飯を投げさせたかったのだろう。しかし、追松は飢えた盗賊ではなく、刀を捨てて握り飯を受け取るというような設定は無理だった。仕方がなく、被控訴人らは、手近にある鈴(最悪の選択である)を投げる形にしたのだと思われる。被控訴人らは、課せられた制約の中で、最大限の模倣をしたが、似せきれなかった部分が相違点として残ったということである。

(7) では、被控訴人らの言うように、「優れた腕前を持つ追松をさらに上回る技量を持つ半兵衛」を鮮やかに明確に表現するためにはどのようにすればよかったのか。そのような設定は、時代劇にはいくらもあり、例えば真剣白刃取りをすれば映像的にも面白かったであろう。勿論、脚本どおりに「刀を鞘ごと抜いた半兵衛が鍔で追松の刃を受けとめる」ことでもよかった。要するに、「七人の侍」に似た表現は容易に避けられたのである。

10.原判決第3、1(3) イ(P54)について

(1) 原判決は、武蔵が地面に突き立ててあった刀で戦う場面(原判決添付別紙対比目録1及び2記載の11)について次のように述べる。(P54)

 原告脚本には,村人が落ち武者狩りによって手に入れた刀を菊千代が鞘から抜いて自分の後に突き立て,野武士との戦いで刀が刃こぼれすると,地面に突き立てられた抜き身の刀を使って戦うという場面がある。一方,被告番組には,野盗と斬り合ううちに刀が折れた武蔵が,あらかじめ地面に突き立てておいた槍や刀を抜いて戦うという場面がある。
 原告脚本と被告番組とを対比すると,刀が使えなくなるとあらかじめ地面に突き立てておいた武器に取り替えて戦いを続けるという点が共通する。しかし,乙21ないし25によれば,剣豪将軍として名高かった将軍足利義輝が松永久秀の軍勢に襲撃された際に,自らの周囲にあまたの名刀を突き立て,刀を取り替えつつ奮戦したが,衆寡敵せず,殺害されたという故事があり,多くの時代小説等において取り上げられていることが認められる。
 上記のとおり,戦闘においてあらかじめ地面に突き立てておいた刀等を用いて戦うという設定自体は,時代小説等においてしばしば見られるものであり,加えて,原告脚本と被告番組では,上記の場面における具体的な戦闘状況の描写は異なるものであるから,上記の共通性をもって被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。

(2) 原判決は、「戦闘においてあらかじめ地面に突き立てておいた刀等を用いて戦うという設定自体は、時代小説等においてしばしば見られるものであり」と言っているが、被控訴人らが原審で提出した証拠はいずれも将軍足利義輝にかかわるものであり、控訴人脚本・映画のように侍が野武士と戦うという場面で使われる設定ではない。更に、被告NHKの膨大なデータベースからこれだけの資料しか出てこないとすれば(映画で使われたことは本件以外にはなかったと推測される)、この設定はありふれたものとはいえない。更に、この設定が野武士と村人に雇われた侍たちの豪雨の中での合戦で使われれば、それは足利義輝の故事ではなく「七人の侍」の中の最も有名な場面を連想させる。

(3) 前述したように、この設定は、被控訴人○○の作成した脚本の中にはなかったものであり、被控訴人らによれば、「ベテラン殺陣師である林邦史朗氏と演出担当者が討議を重ねた上で、殺陣の演出として追加した」とのことである。即ち、この設定は既に「七人の侍」のクライマックスシーンに似せて作られた合戦場面に、更に「七人の侍」に似せるためにだめ押し的に追加されたものである。被控訴人○○がこの設定を敢えて入れなかったのは、シナリオライターとしての矜持が僅かでも残っていたからであろう。

(4) さて、このようにして追加された著名な場面は、「嵌め込み型模倣」の難を免れず、不自然さを否めない。まず、この場面は急に現れ、突然木の下の地面に突き刺してある刀や槍が映り、武蔵がその一つをつかむ。しかし、被控訴人番組は誰が、なぜ、その場所にこのような刀や槍を刺しておいたのかについて何も説明しておらず唐突である。控訴人脚本・映画においては、この場面は次のようになっている。(甲9、P90)

「258
村の辻
両側の家の軒先に待機している菊千代の組と七郎次の組。
菊千代、例の落武者狩りの獲物をかついで来る。
それをみんなの前に黙って投げ出すと、自分は刀だけ選り出して、みんな鞘から抜いて自分の後に突き立てる。
七郎次
(変な顔をして)『菊千代……どうするんだ?……それを』
菊千代
(怒った様に)『一本の刀じゃ五人と斬れねえ』
  『来たぞーッ!来たぞーッ!』
  切迫した叫び声。」

このような説明がなければ、被控訴人番組を見ている人々は何が起こったか理解できないだろう。

(5) 更におかしいのは、被控訴人番組において、なぜあの場所にあらかじめ刀や槍が突き立ててあったかである。野武士は2回目の襲撃では、奇襲をかけ、戸板を打ち破って家の中に進入してきたのであって、あらかじめ屋外での戦闘が予想されていたわけではなかった。いつどこで戦闘があるかもわからないのに、雨の降っている屋外に抜き身の刀を突き立てておくということは常識では考えられない。

控訴人脚本・映画においては、このとき菊千代たちは最後の合戦に備えていた。最後の合戦は、勘兵衛の作戦で、残った野武士13騎を全て村の中に入れ、村の辻で挟み打ちにして壊滅させるということであった。侍たちはそれぞれ持ち場があり、菊千代は、七郎次と一緒に村の辻で野武士たちを待ちかまえることになっていた。したがって、菊千代が自分の持ち場の後方に刀を突き立てておくことは合理的である。

(6) またしても、被控訴人らの安易な真似は、説得力のない、真実味に欠けた場面を作り出したのである。もちろん、このような「七人の侍」を真似た設定は避けられたものであり、被控訴人○○の脚本のままで何ら支障はなかったはずである。

第5.判決のコンテンツ・ビジネスへの影響

1.翻案ビジネスの現況

日本は、映画、音楽、出版などのコンテンツ分野で世界市場の10%(13兆円規模)のシェアを持っており、米国に次ぐコンテンツ大国である。コンテンツ・ビジネスは、現在米国でそうであるように、日本の基幹産業になっていくことが予想される。

コンテンツ・ビジネスの一つの問題は、新たな創作が困難になりつつあるということである。シェークスピアについて、その37作のうち、他作家の作品からの引用がない純粋なオリジナルは3作だけだという説があるが、それから400年たった今日、純粋な創作は益々困難になっている。そのような状況で、脚光を浴びているのが翻案であり、定評のある作品は何回も、いろいろな形で、翻案される。翻案は、小説が漫画になり、漫画が映画になり、映画がゲームになるように、媒体を異にして、数多くの新しい作品を生み出すことができる。一つの媒体(例えば映画)についても、翻案は何回でも可能であり、時代や背景を変えて無限に新しい作品を生み出すことが可能である。日本は、いろいろな分野で優れた創作作品を有し、その国際的な翻案が有望な産業となりつつある。映画に限ってみても、「リング」(1998年)→「ザ・リング」(2002年)、「Shall we ダンス?」(1996年)→「Shall we dance?」(2004年)、「仄暗い水の底から」(2002年)→「ダーク・ウォーター」(2004年)、「呪怨」(2002年)→「THE JUON/呪怨」(2004年)というように、日本映画の米国におけるリメイクが続いている。特に、「ザ・リング」は興行収入1億3000万ドルの大ヒットとなり、「THE JUON/呪怨」は初登場で1位となり、3日間で4000万ドルの興行収入をあげている。

上記各作品については、リメイク作品の製作会社からそれぞれ100万ドル以上のライセンス料が払われているはずである。

2.翻案の実務

(1) 世界の映画界では(少なくとも主要国では)、重要なプロットを借りる場合には(それが表現とはいえないようなものであっても)権利者から許諾を得るのは常識である。黒澤明監督作品「天国と地獄」はアメリカの作家エド・マクベインの小説「キングの身代金」からアイデアを借りているが、対価を払って正式な許諾を得ている。「天国と地獄」が借用した部分は、狙われた人物が製靴会社の重役であったということと、誘拐されたのがその重役の運転手の子供であった(人違いによる誘拐)という2点のみであった。前者は借りるまでもないマイナーな部分であったし、後者は重要ではあるが原判決の基準からすればアイデアでしかなかったであろう。

(2) 原判決の基準をあてはめると、ほとんどの翻案は、「表現上の本質的な特徴を感得できない」ことになり、許諾を得なくてよいことになってしまう。映画「荒野の七人」(1960年)は「七人の侍」の許諾を得た(当初東宝のみの許諾であったが、後に紆余曲折はあったが脚本家の許諾も得ている)典型的なリメイクとして知られているが、これも原判決の基準からすると翻案とはいえなくなってしまう。本件で問題となった要素につき、「七人の侍」と「荒野の七人」を比べてみると、次のようになる。

(イ) 「荒野の七人」の基本的なストーリーは、メキシコの村の農民が腕の立つガンマンを雇って野盗を撃退するというもので、原判決の立場では、これはアイデアにすぎないことになる。
(ロ) 「怪しい男が実は女であった」という場面は、「荒野の七人」ではチコ(ホルスト・ブッフホルツ)が、走って逃げる怪しい人影(帽子をかぶっている)を追いかけ、先回りして待ち伏せて捕らえたところ、帽子が落ちて女だとわかる、という設定である。これは、本件以上に描写が異なっているので、ありふれたアイデアということになるのだろう。
(ハ) 「侍の腕試し場面」は、前述したように、広げた両手を叩く間に拳銃をホルスターから抜いて構えられるかが競われる。これは原判決の基準ではアイデアさえも似ていないということになるのだろう。
(ニ) 「野盗との戦闘場面」については、「柵」は岩を積み上げた防塁と大きな岩の間に張ったネットに変わっており、武器は拳銃とライフルになっている。また、「荒野の七人」では、ガンマンたちは村人の裏切りにあって、野盗に村を占拠され丸腰で追放されるという話が加わっている。原判決の基準からすれば、ほとんど似ていない、ということになるのだろう。
(ホ) 「注意を引きつけるために物を投げる場面」は、対応するものがない。全く違うエピソードでクリス(ユル・ブリンナー)とビン(スチーブ・マックィーン)が紹介される。
(ヘ) 「地面に突き立ててあった刀で戦う場面」はもちろんない。

(3) この他、映画ファンからすれば、いくつもの似た場面、対応する場面が「荒野の七人」にはあるが、原判決の基準によればいずれも「アイデアにすぎない」か「表現上の本質的な特徴を感得できない」となってしまう。そもそも翻案は、最高裁判例にもいうとおり、「表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想または感情を創作的に表現すること」なので、原判決の「技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している」(P45)のように細部を捉えて非類似と判断するのであれば、翻案という概念を否定することに等しい。「七人の侍」と「荒野の七人」とのように、国や時代が異なれば場面間の対応があったとしても、台詞や反応などは当然違ってくるものであるが、それでも「表現上の本質的な特徴の同一性」は維持されるのである。前述の「荒野の七人」の製作に関する脚本家からの許諾の問題については、東宝、MGM及びユニバーサルを巻きこんだ国際紛争になり、カリフォルニア及び東京で同時並行して訴訟が係属した。この件は和解で決着したが、MGMやユニバーサル側でこの件にかかわった多くの弁護士の中で「荒野の七人」が翻案権を有している脚本家の許諾なくして製作できると考えた者は一人としていなかった(控訴人ら代理人乗杉は、このとき脚本家を代理していた)。

(4) 以上要するに、原判決の示した基準は、映画業界の基準とはかけはなれたものであって、それを適用した場合には、現在行われている国際的な映画のリメイクはほとんど全てが許諾なくして行えることになってしまう。原判決の基準は、脚本から映画という関係だけでなく、原作(小説、漫画等)から脚本、小説から漫画(またはその反対)、漫画、小説、映画等からゲーム(またはその反対)等様々な媒体間に適用になる。万が一、御庁において、原判決を支持されるような事態に至れば、将来日本のコンテンツビジネスの花形と目される翻案権のライセンスはその根拠を失い、壊滅的な打撃を受けるであろう。

第6.本件の著作権法における重要性

1.フリーライド型模倣

(1) 本件は、従来の判例の基準によっても、被控訴人脚本・番組は控訴人脚本・映画に依拠し(「依拠の要件」)、被控訴人脚本・番組からは控訴人脚本・映画の表現上の本質的な特徴を感得することができる(「感得の要件」)と考える。

(2) 仮にそうでないとしても、本件は、極めて著名な作品である「七人の侍」が模倣の対象となったものであり、以下の理由により、被控訴人脚本・番組は控訴人脚本・映画の翻案である。

(イ) 控訴人脚本・映画は極めて著名であるため、「依拠の要件」を満たし、無名作品と比較して、類似度が低くても「感得の要件」が満たされる。
 
(ロ) 控訴人脚本・映画は、有名なストーリー及び象徴的場面を有し、それらは単独に、または他の要素との結合により、控訴人脚本・映画を連想させるため、「感得の要件」を満たす。(「象徴場面型模倣」)
 
(ハ) 被控訴人らは、控訴人脚本・映画を被控訴人らの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」に嵌め込んで利用したため、控訴人脚本・映画のストーリー及び場面が改変されている。しかしながら、これらの改変による相違点は、「嵌め込み型模倣」に必然的に伴うものであり、「感得の要件」を判断する際にマイナスの要素とはならない。
 
(ニ) 被控訴人らは、控訴人脚本・映画の名声を利用して大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の視聴率をあげる目的で、控訴人脚本・映画を利用した。(「フリーライド型模倣」)
 
(ホ) 被控訴人らが控訴人脚本・映画を利用した目的は、同作品を解説しまたは批評することではなく、被控訴人らの本件翻案は、原著作物に対して創造的付加をするものではなく、新たな芸術を生み出すものでもない。
 
(ヘ) 被控訴人らの主張する大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」のテーマを表現するにつき、控訴人脚本・映画の基本的ストーリーや象徴的場面を利用しなければならない理由はなく、その全ては回避することが可能であった。
 
(ト) 被控訴人脚本・番組は、控訴人脚本・映画を無理に取り込んだため、不自然で矛盾のあるものになっているが、そのような理由で生じた控訴人脚本・映画と被控訴人脚本・番組との相違点は「感得の要件」を判断するにつき、マイナスの要素とはならない。
 

以上のように、本件は、極めて著名な作品が模倣の対象となったため、従来の判例の基準とは異なった基準を用いて判断されるべきである。

2.パロディ

(1)前記第3、4に述べたように、著名な作品を対象とした模倣としてパロディがあり、パロディについては、米国著作権法が一定の条件の下にフェア・ユースとして認めている。日本においては、いわゆるパロディ事件判決(最判昭和55年3月28日)があるが、これは著作権法第32条1項の引用について判断したものであって、本件のような脚本やテレビ番組への翻案には直接適用できない。そして、最高裁判例を含むこれまでの翻案に関する日本の判例は、パロディについては(本件のような「フリーライド型模倣」についても同様だが)先例とはならないであろう。これまでの判例は、翻案者の意図や目的を考慮せず、原著作物と翻案を客観的に(物として)見比べていたが、「フリーライド型模倣」とパロディを区別するためには、翻案者の意図・目的や作品の内容に立ち入る必要がある。例えば、「バグズ・ライフ」(1998年)というアニメがあり、次のようなストーリーである。

「ホッパー率いるバッタ軍団におさめる食べ物を集めるため、重労働を強いられるアント・アイランドのアリたち。その収穫期の最中、発明家の働きアリ、フリックのミスからバッタ用の食料が川に流される事件が勃発。責任を感じたフリックは、バッタに対抗する助っ人を探しに、ひとり都会へ旅立った。そこで彼がスカウトしたのは、サーカスをクビになった芸人の集団。彼らを英雄と勘違いしたフリックと、新しい余興の仕事にありついたと勘違いしたサーカス虫たちは、意気揚々とアント・アイランドに引き上げてくるのだが……。」(Yahoo!ムービーから)

この作品は、一部では「七人の侍」のパロディと噂されているものだが、確かにその基本的なストーリーは似ている。本件のように他の象徴的な場面を似せているわけではないので、この映画が盗作であるという話はないが、パロディを考えるには適当な作品だと思える。この作品は、強い助っ人を探しに行って、連れ帰ってきたのが実は弱いサーカスの団員の虫だったというところが独創的な点である。これは、「七人の侍」の強い助っ人がもし全く頼りにならないと判明したときにどうなるか、という新しい視点を持ち込んでいる。また、このような助っ人を連れてきてしまったフリックの苦悩や、アント・アイランドのアリたちの反応が豊かな表現で描かれている。これは、米国著作権法がいうトランスフォーマティブ(新しい表現、意味付けまたはメッセージで原著作物を改変して新たな目的または異なる性質の新規物を付け加えること)な使用に該当し、フェア・ユースが認められやすくなる。トランスフォーマティブ・ユース(transformative use)が何であるかは、何ら新しいものを付け加えることなく、創造性のない被控訴人脚本・番組と「バグズ・ライフ」を比べてみれば一目瞭然である。

(2) ちなみに、米国のフェア・ユースに関する判例法理は概ね次のとおりである。

「(a) 著作物使用の目的および性格については、著作物の使用方法がトランスフォーマティブ(transformative)な使用であれば、フェア・ユースの推定を与え、(d)著作物市場への影響の立証責任を原告に課す。著作物の使用方法がトランスフォーマティブな使用でない場合、非営利的使用にはフェア・ユースの推定を与え(d)著作物市場への影響の立証責任を原告に課すが、商業的使用にはフェア・ユースではないとの推定を与え(d)著作物市場への影響の立証責任を被告に課す。
 (b) 著作物の性質については、著作物が芸術的著作物か、事実的著作物か、機能的著作物かを区別する。芸術的著作物は創作性のある要素が大きく、保護の範囲が広くなるのであるが、事実的著作物や機能的著作物では、その中の事実やアイデアの要素は保護を受けないので保護を受ける範囲は狭くなり、フェア・ユースの成立する余地は大きくなる。
 (c) 著作物使用の量と実質性については、著作物を使用する量が少なく、かつ、使用が著作物の核心的部分に及ばない場合には、フェア・ユースの成立する余地が大きくなる。
 (d) 著作物市場への影響の立証責任については、被告による使用が原告の著作物の既存市場または潜在的市場を奪うものである場合には、フェア・ユースが成立しない。ここでいう著作物の潜在的市場は、未だ作成されていない二次的著作物の市場が含まれる。
 以上を端的に言えば、トランスフォーマティブ・ユースまたは非営利的使用と認定されれば、原告が損害の立証に成功しない限りまたは使用の範囲が必要な限度を明かに超えない限り、フェア・ユースの成立が認められる。他方、トランスフォーマティブでない商業的使用と認められれば、被告が損害の不存在を立証しない限り、フェア・ユースの成立が認められることはない。」(山本隆司「アメリカ著作権法の基礎知識」P138-139)

3.裁判所への要望

米国においては、フェア・ユースに関する多くの判例の積み重ねにより、何が許されない盗作であり、何が許されるパロディであるかの境界線が明確になりつつある。それに比べて、日本においては、指針となるべき条文も判例もないのが現状である。では、盗作やパロディがないかといえば、そんなことはなく、枚挙に暇がないほどあるといえる。ただ、裁判所の目に触れることがないというだけの話である。この件については、翻案権のライセンスをしている者と、パロディを作成している者では利害が対立することになるが、いずれの側も明確なルールが示されることを望んでいるはずである。

原判決は、翻案権をライセンスする者にとっては、その事業の基本となる権利を否定される結果となっており、全く受け入れがたいものである。その立場からは、原判決がいかなる理由によるにせよ覆るならば結論としては満足であろう。しかしながら、その判断が従来の基準を踏襲して、原著作物と翻案を平面的に見比べるだけのものであれば、その結果はパロディを作成する者にとって大きな脅威となる。即ち、本件程度の類似があれば、トランスフォーマティブな意図をもって新たな創作物・芸術作品を創り出そうとする企ては、著作権侵害として否定されることになるからである。この問題は、一朝一夕に解決できるものではなく、米国のように、多くの判例の積み重ねがあって初めてルールが見えてくるものと考えられる。その判例の積み重ねは、一つの判例から始まるものであり、その意味で本件は多くの論点(issue)を含んだ興味深いものであり、裁判所が新しい見解を打ち出すには絶好の機会ではないかと思う。

裁判所が問題と正面から取り組み、画期的な判断をされることを願うものである。

第7 結論

以上のとおりであるので、原判決の判断は誤りであって取り消されるべきである。