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1988年1月28日、黒澤プロダクションのS氏から電話があり、黒澤作品の海外ビデオ配給の件などについて東宝と話しあっているが埒があかないので相談したいとのことであった。私は2月1日午後2時、事務所でS氏と会い話を聞いた。もちろんこのとき私は、これが4年後に起こる日本およびアメリカでの訴訟合戦の発端であるとは知る由もなかった。 S氏の話によれば、黒澤プロダクションと東宝との間には『七人の侍』が製作された昭和30年代にさかのぼるさまざまな紛争があり、その解決の糸口がつかめないでいるとのことであった。私が相談を受けたときまでに、すでに黒澤プロダクションと東宝との間では何通かの書面のやり取りがあり、1987年10月12日には東宝の役員と黒澤プロダクションのI・S両氏との会議も持たれていた。これらの話し合いはまったくの平行線で、なんら歩み寄りはみられていなかった。黒澤プロダクションとしては東宝と直に話し合うのでは解決は望めないと考え、弁護士を通して強硬に申入れをしようというのであった。 私はさっそく黒澤プロダクションと東宝との間のやり取り、およびその基礎となる契約書を検討した。契約書は昭和30年代のものから20種類以上もあり、その関係は錯綜していた。これらの契約書は弁護士を介さないで作成されたようで、黒澤プロダクションを当事者とするものと、黒澤明個人を当事者とするものが入り乱れており、その関係を把握することは複雑なジグソーパズル以上に困難だった。しかし契約書があるというだけでもたいへんありがたいことで、そもそも芸能界においては契約書を作ること自体例外的なのである。東宝・黒澤間の契約書はおおむね東宝が作成したものと思われ、東宝の権利保護に気が配られていた。これを見るかぎり東宝が黒澤に対してある種の警戒感を抱いており、契約書によって黒澤からのそれ以上の要求を断ち切ろうとする意図がうかがわれた。このように東宝の側からすれば注意をして作ったはずの契約書であったのだろうが、人間の作ったものである限り必ずそこには隙があるもので、その隙をついて議論を組み立てるのが弁護士の役割である。 私は古い契約書の束を謎解きするように読み、黒澤側にとって有利な材料を掻き集めていった。これまでの交渉からみて東宝側が簡単に折れてくることは考えられず、常識的な議論をしたのでは東宝から考慮に値する回答を引き出すことは不可能だと思えた。そこで私は東宝への要求の中に、東宝がびっくりするようなものを入れてやろうと思い、策を練った。黒澤プロダクションが従来から主張していた、東宝・黒澤プロダクション提携5作品(『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十朗』『天国と地獄』および『赤ひげ』)についての配分金、海外におけるビデオの無断配給の損害金等については当然請求するものとし、それに加えて『影武者』の配給権の問題および提携5作品の著作権の問題を取り上げることとした。『影武者』については、この映画の著作権を黒澤プロダクションと株式会社東宝映画(東宝株式会社の関連会社)が共有しており、東宝はこの映画の配給権しか有していないことに注目した。配給契約によれば東宝は『影武者』の配給の対価として、あるパーセンテージを国内封切りから10年間にわたり黒澤プロダクションおよび東宝映画に対して支払うことになっていた。東宝はこの期間は配給権の対価の支払い期間であると考えており、それ以降も当然配給権は東宝が有するものと考えていたようである。しかし契約を読むかぎり東宝の配給権が永遠に続くという約束はなく、そうであれば東宝の配給権は映画の著作権者が民法に従い相当の期間を定めた通知をすることにより終了させることができることになる。もちろん配給権を終了させるための通知をするには東宝映画の同意が必要になるが、これも著作権法に従って手続きをとれば可能であるとの結論に達した。このように私は東宝に対して『影武者』の配給権を10年目以降終了させるという可能性を示唆することにし、それをてこに交渉を進めようと考えた。 提携5作品の著作権については、東宝はそれが東宝に属することについて何ら疑問を抱いていなかったようである。それはこれらの作品の製作に関する契約が「映画の一切の権利は」東宝が保有するとしていたからである。これに対して私は映画製作の実態が東宝を出資者とし、黒澤プロダクションを映画製作者とするというものであることから、また『影武者』の製作契約との比較から、黒澤プロダクションに提携5作品の著作権があると主張した。この主張はいささか苦しいもので、最終的には譲歩しようと思っていたが、東宝を真剣にならせるためにはこのような刺激的な主張が必要なものであると考えた。私はこれらの内容をもりこんだ書簡を1988年5月19日付けで東宝の松岡功社長に送付した。この書簡に対して同年8月29日付けで東宝の代理人であるM弁護士からの回答がきた。このときから同弁護士との間に多くの書簡が交換され、何回かの会議を経たのちに、議論が煮つめられ30年来の紛争が和解で解決できそうな情勢になってきた。その当時黒澤プロダクションの意向は東宝に相当な和解金を払うつもりがあるのならば紛争を解決してもいいという方向に固まりつつあった。黒澤プロダクションの請求は、ひとつは提携5作品の配分金やビデオの無断販売のように金銭的に解決できるものと、『影武者』の配給権や提携5作品の著作権のように権利関係の確定に関するものの2種類に分類できた。黒澤プロダクションはそれらを合わせて、東宝から満足のいく金額の掲示があれば、すべての請求を放棄するという意向であった。ただその金額については東宝と黒澤プロダクションとの間に大きな隔たりがあり、合意にはほど遠かった。 |
1989年10月11日、私はM弁護士の事務所で彼と会議をした。M弁護士は初老の紳士で文化人としても著名であった。彼の部屋は学者の執務室の趣があり、事務所が入っている由緒あるビルと同様、落ち着いた雰囲気をかもしだしていた。ひと通りの話が済んだところで、M弁護士はおもむろに切りだした。 「東宝としては、今度話がつくとすれば、黒澤さんとの間のすべての問題を一挙に解決したいと思っています。今まで話には出なかったのですが、東宝は一つ、長い間気になっている問題があるのです。乗杉先生は『七人の侍』についての東京地裁判決をご存じでしょう」 「だいだい知ってますが、子細に検討したことはありません」 「これが判決書きの写しなんですが……」といってM弁護士はファイルの中から書類を取りだした。「ご存じの通り、この判決は『七人の侍』の映画化権を誰が持っているかということが問題となったケースですが、そのきっかけとなったのが東宝のアルシオナに対する再映画化権の譲渡という問題でした」 M弁護士はここでさらに東宝とアルシオナ・プロダクションズとの間の契約書の写しを取りだし説明してくれた。彼の話によれば、東宝は1960年9月にアルシオナ・プロダクションズというアメリカの会社と契約し、『七人の侍』の再映画化権の譲渡をした。これに対して黒澤明、橋本忍、小国英雄の3人の脚本家は、映画『七人の侍』の再映画化権は東宝ではなく脚本の著作者である3人が有していると主張した。3人は共同して『七人の侍』の脚本を執筆したのであるが、東宝はこの脚本に基づき1954年に映画『七人の侍』を製作した。問題は、このとき3人の著作者から東宝に対して、脚本に基づき1本の映画を作る権利のみが与えられたのか、または製作本数に限りのない映画化権が与えられたのか、というものであった。東宝は、いわゆる物権的映画化権というものが東宝に与えられ、それに基づいて東宝は何本でも映画を製作できるのだと主張したが、黒澤明ら脚本家は当時の日本映画界の慣行などに言及して、1本の映画を製作する権利のみを彼らは東宝に許諾したのだと主張した。この訴訟の判決は1978年に言い渡され、東京地方裁判所は3人の脚本家が『七人の侍』の映画化権を有していると判断した。 この1978年の東京地裁判決により、東宝のアルシオナ・プロダクションズに対する再映画化権の譲渡は無断譲渡となった。すなわち、東宝は自らの有していない権利を第三者に許諾したということになったのである。これは、いわば他人の物を勝手に譲渡したと同じことになり、その本来の持ち主の同意を得なければ契約の相手方である譲り受け人から責任を追及されることになる。かくして東宝はアルシオナ・プロダクションズから契約違反の責任を問われる立場に追い込まれたのである。 「東宝は東京地裁判決が出たところで黒澤さんたちと交渉してアルシオナ契約の追認を求めるべきだったのです。しかし、なぜかそれをしなかったために、東宝は今日にもアルシオナから契約違反の責任を問われる可能性のある不安定な立場に置かれているのです」とM弁護士は言った。 M弁護士によれば、この問題は東宝の長年の懸案事項であり、放置してよい問題ではなかった。東宝としては今回の交渉において、黒澤プロダクションが要求している金額は不当なものだと思っているが、もしアルシオナ・プロダクションズとの契約を黒澤明ら脚本の著作権者が追認してくれるならば、その金額をあえて呑む覚悟であるとのことだった。 |
後日訴訟になってから私は知ることになったのだが、この当時黒澤プロダクションは米国のユニバーサル・ステュディオ・インクから『七人の侍』を劇場用映画としてリメイク(再映画化)したいという申し出を受けていた。黒澤プロダクションはこれ以前に第三者から、『七人の侍』のリメイクを製作したいという申し出を受け、その権利についてのオプション・アグリーメント(一定期間内にオプションを行使することによりリメイクを許諾する正式な契約を締結できる権利を与える契約)を締結したことはあったが、オプションが行使されて正式契約にいたるまでにはならなかった。したがって黒澤プロダクションとしては、このユニバーサルからの申し出は魅力的なものであり、東宝からの提案とこれを計りにかけて判断することとなった。 東宝はアルシオナ契約の追認を求めており、黒澤プロダクションがこれに応じるとすれば、ユニバーサルへのリメイク権の許諾はできないことになる。アルシオナ契約によれば、東宝はアルシオナに対して本数に制限のない再映画化権を独占的に与えていたのである。したがって、アルシオナの権利を認めれば、『七人の侍』の再映画化はアルシオナしかできなくなるのだ。しかし、黒澤プロダクションは第三者にリメイク権を許諾する権利を留保して、なおかつ東宝の希望にそうような案を考えるよう私に指示した。東宝はあくまでも追認に拘っていたので、その要求を追認以外の方法で満足させることは至難の業と思えた。しかしこの点をクリアしないと和解自体が不可能になり、それまでに費やした時間と労力がまったく無駄になってしまう。 そこで私が考えたのは、東宝がなぜ追認を求めているのかを分析し、アルシオナ契約が無断譲渡であることから東宝が感じている不安をいかにして取り除いたらいいか、ということであった。まず最初に東宝が恐れるであろうことは、黒澤明ら共同脚本家によって訴えられるということである。すなわち、1978年の東京地裁判決によれば、共同脚本家は『七人の侍』の映画化権を有しているのであり、その権利者の同意を得ないリメイク権を第三者(すなわちアルシオナ)に与えた東宝の行為は、共同脚本家からの損害賠償請求の対象となるものである。つぎに東宝が危惧すべきは、東宝から許諾された権利に基づいてリメイクを製作した製作者を共同脚本家が訴えるということである。米国映画『荒野の七人』は『七人の侍』のリメイクであることをクレジットで明示的にうたっており(いわゆるスクリーンクレジットで「この映画は東宝株式会社製作の日本映画「七人の侍」に基づいている」と表示していた。)、この権利がアルシオナに与えられた権利に由来することは明かであった。したがって共同脚本家は『荒野の七人』の製作会社を著作権侵害で訴えることが可能であったし、今後さらに同じ権利に基づいてリメイクが製作されることになった場合には、その製作を差し止めることも可能であった。もし共同脚本家がこのような行為に出た場合には、リメイク作品の製作者たちは、そもそもアルシオナに与えられた権利に欠陥があったことに気づき、東宝にその責任をとるよう要求するのは明かだった。 私は、まず共同著作者が東宝を訴えないという約束をし、さらに共同著作者がアルシオナやアルシオナから権利を譲り受けた者を訴えないということを約束すれば、東宝の不安はかなりの部分で解消されると考えた。私はこの旨をM弁護士に伝え、これで和解に応じてくれるよう要請した。これに対してM弁護士はあくまでも追認を要求し、黒澤側の提案ではアルシオナやその承継人から東宝が訴えられる可能性が残されていることを強調した。私は黒澤プロダクションが『七人の侍』のリメイクを考えており、したがってそれを不可能にするような追認はできないと書面で述べたが、このままでは和解はほとんど不可能であると考えていた。 黒澤プロダクションのそれまでの提案をさらに追認に近づけるためには、東宝がアルシオナまたはその承継人から訴えられた場合に、黒澤プロダクションが補償し東宝に損害が及ばないようにするしか方法はなかった。しかし補償をするとなれば、東宝に対して請求される損害額が巨額になることが予想されていたので、黒澤プロダクションのリスクも大きくならざるをえない。私は補償についてはあまり乗り気ではなく、むしろやるのであるのならば明確な形での追認のほうが好ましいと思っていた。しかし10月30日にI氏から電話があり、黒澤プロダクションのアメリカの弁護士が違う考えをもっているので、電話をかけさせるから聞いてほしいとのことであった。11月1日午前中ロサンゼルスの弁護士であるアラン・リバートから電話があり、アルシオナの権利はもう存在していないかもしれないので、追認するのは問題であるといわれた。まず第一に、彼の調査したところによればアルシオナはすでに解散しており、その権利を誰が承継したかは不明であるという。そしてまた、アルシオナが仮に東宝に対して損害賠償請求権を有していたとしても、それはカリフォルニア州法上時効にかかっていて、すでに行使できなくなっている可能性がある、とのことであった。私は、最初の点については、会社が解散したからといって権利がなくなるわけではなく、安心材料にはならないと思った。次の時効の問題については、カリフォルニア州法の問題で専門的知識はなかったが、そう簡単に時効が成立しているとは信じられなかった。 このように『七人の侍』に関わる問題が大詰めをむかえていた頃、黒澤プロダクションは『天国と地獄』についても問題を抱えていた。『天国と地獄』は1963年公開の黒澤明監督、東宝製作の映画であるが、この映画は黒澤明他3名が書いた脚本をベースにした作品であった。黒澤プロダクションはこの映画をリメイクしたいという申し出をユニバーサル・ステュディオから受けており、4名の脚本家を代理して交渉を進めていた。先に述べた1978年の東京地裁判決の結論が『七人の侍』以外の映画とその脚本の関係にも当てはまるとすれば、映画化権を持っているのは脚本家であり、脚本家のみがリメイクを許諾できることになる。しかし『天国と地獄』の場合には、その脚本は米国の作家エヴァン・ハンター(筆名エド・マクベイン)の『キングの身代金』という小説に基づいていたため、リメイクを許諾するにはこの原作者の許諾をも取得する必要があった。 映画という芸術は法律的に考えるとおもしろいもので、絵描きが絵を描き、音楽家が作曲し、小説家が小説を書くように一人の人間が造りあげられるものではない。おおまかに言うと映画を作るためにはまずプロデューサーが必要で、プロデューサーが映画製作に必要な金と人と権利と資材を集める。人について見ると、まず監督を決める必要があり、監督が決まると多くの場合その監督の下にいる一群の人々が決まってくる。その集団を、日本の映画界では黒澤組とか大島組とか呼んでおり、他の映画の仕事をしていたり、テレビの仕事をしていたりしてもひとたび号令がかかれば、やりくりをつけて集まってくるようである。権利の面について見ると、その映画を作るについて、他の人が著作権を持っている作品を使うことにならないか検討する必要がある。他人の文学作品に基づいて映画を作る場合には、まずその作品の著作権者の許諾を得る必要がある。その許諾が得られたところで初めて脚本作りが始まる。このように、映画というのは多くの人間が参加し、さまざまな権利が入り乱れる法律的に非常に複雑な産物なのだ。 東宝は『天国と地獄』を製作する際に、原作者エヴァン・ハンターと契約を交わしており、この契約によれば東宝が原作である『キングの身代金』の映画化権(複数の映画を作る権利)を有することになっていた。黒澤明他3人の脚本家は、東宝がエヴァン・ハンターから許諾された映画化権に基づき『天国と地獄』の脚本を作成したが、映画化権自体は東宝に残っていた。したがってユニバーサルにリメイクを許諾するためには、黒澤プロダクションは東宝から原作の映画化権を譲り受ける必要があった。 東宝は『キングの身代金』の映画化権の譲渡についてはとくに異議がない様子であり、その対価についてもおおむねの合意が得られる状態になっていた。しかし、東宝はこの件についても他の和解案件とともに一挙に解決することを主張し、分離して解決することには応じようとしなかった。この間黒澤プロダクションとユニバーサルとの『七人の侍』のリメイクに関する交渉はどんどん進んでおり、原作権の問題さえ解決すればほとんど契約できるまでになっていた。黒澤プロダクションはユニバーサルサイドから連日のように原作権がどうなっているかとの問い合わせを受けており、これ以上待てない状況になっていた。そこで、他の和解案件のなかで唯一大きな障害となっている『七人の侍』の問題を早急に解決する必要に迫られた。 |
いわば背に腹は変えられぬという感じで、黒澤プロダクションは東宝に対して東宝が訴えられた場合の補償を約束することにした。私が案文を出し、その後いくつかの表現上のやり取りはあったが、最終的に合意された『七人の侍』の再映画化権に関する契約は以下のとおりであった。
この契約はどこを読んでも東宝のアルシオナに対する無断譲渡を追認するとは言っていない。しかしその第2条を見ると、追認したら生じるであろう効果を具体的に書いたようにも読める。事実、この第2条が追認と異なるのは、黒澤プロダクションが『七人の侍』を自ら(又は第三者を通じて)再映画化できるかどうかという点であろう。この点についての認識の違いが後日訴訟にまでなったのである。 M弁護士は私の提示した案文を見て、そこに求めていた追認という言葉がないにもかかわらず「おおむねこれでいいでしょう」と言った。その後の話し合いの中で、私はM弁護士がこの第2条が追認そのものだと考えているらしいことに気がついた。私はもともと追認はあくまでも拒否するが、それに最も近い効果をあげる規定を作ろうと思っていたのだから、それが追認と解釈しうるとは思ってもみなかった。ただこの規定は東宝に対しては最大限の保護を与えるよう意図されていたので、東宝にとっては追認に等しい効果があるとは思っていた。だから、私はあえてM弁護士の誤解を正そうとはしなかった。弁護士倫理の問題からすれば、相手が法律の専門家でなければ、相手がある規定の意味について取り違えている場合には教えるべきであろう。しかし本件の場合、私が相手にしていたのは私よりもずっと経験豊富な大弁護士であり、そのような人に契約の解釈を教えるというのは失礼千万なことである。このように書くと、いかにも私が計算ずくで交渉していたように思えるが、実は私自身も正確な状況の把握をしていなかったようである。私は、黒澤プロダクションが東宝に対して補償することを決めた時点で、黒澤プロダクションが自ら『七人の侍』を再映画化するか、または第三者にそのような権利を許諾することは諦めたものと思っていた。どうしてそう考えたかと言うと、仮に黒澤プロダクションがそのようなリメイクを作ったとしたならば、アルシオナまたはアルシオナから権利を譲り受けた第三者は、自分が『七人の侍』のリメイクについての独占的な権利を持っているはずなのに、黒澤プロダクションが自分の権利を侵害するようなことをするとは何事だ、と東宝に対して抗議するであろう。それに対して東宝は敢えて抗弁しないであろう。黒澤プロダクションが補償してくれると約束しているのだから、東宝はその相手に対して損害賠償金を払い、その金額をまるまる黒澤プロダクションに求償してくることになるだろう。このような結果は黒澤プロダクションとしては望まないであろうから、黒澤プロダクションはみずからリメイクを作ることは諦めるだろうというのが私の考えであった。 『七人の侍』の問題が解決し、それにともなって『天国と地獄』の原作権の問題も合意されたので、11月後半から和解契約書の案文作りに入った。その最中に東宝から黒澤作品の二次利用の問題についても一緒に解決したいとの申し出があった。黒澤明は東宝で『姿三四郎』から『影武者』まで21本の作品を撮っているが、これらの作品の二次利用についての合意がないため、東宝はこれらの作品をビデオ化することすらできないでいた。二次利用というのは本来劇場用に作られた映画をテレビやビデオのような別な媒体を用いて利用することであり、そのためには脚本家や監督の同意が必要であった。東宝の言い分は、そのような同意を黒澤プロダクションに求めにいっても、黒澤プロダクションは通常東宝が監督・脚本家に支払う以上の使用料を要求するので許諾を得にくい、ということであった。しかし、東宝が通常支払っている使用料は最低限のものでしかなく、監督・脚本家等映像クリエイターの地位の向上を求めている黒澤明としては容易に妥協できないものであった。この使用料の金額については何回かやり取りがあったが、結局東宝は譲歩せず、シナリオ作家の協会と映画監督の協会がそれぞれ映画の製作会社と結んでいる協定の最低料金で合意することになった。この合意からも後日紛争が生じ、訴訟になった。 黒澤プロダクションと東宝との間の和解契約は1990年2月1日付けで調印され、その後、東宝は黒澤明が東宝で製作した21作品のビデオ化を発表し、映画ファンを喜ばせた。黒澤と東宝との間にはやっと平和が戻ったかのように思われた。 |
黒澤プロダクションとユニバーサルとの間では『天国と地獄』のリメイクの話が進んでおり、私は日本サイドでそれを手伝っていた。この交渉を担当していた黒澤プロダクション側の米国人弁護士は、ジェフリー・グローバートという男で、別件ですでに顔見知りであった。私が和解契約の交渉の際に電話で話をしたアラン・リバートという弁護士は、和解契約の締結の前後に急死し、I氏の知り合いであったグローバートがその後を継いだのであった。奇縁というか、私がグローバートを知ったのはI氏を交えた契約交渉の席であった。それはちょうど私が黒澤プロダクションの代理人として、サージ・シルバーマン相手に『乱』の共同製作契約の交渉に全力投球していた頃であったが、私は並行して別の映画製作の交渉をアメリカの会社と行っていた。私は日本のビデオ製作会社の代理人としてこの交渉に臨んでいたが、アメリカの会社の代理人として現れたのがジェフリー・グローバートだった。そして、商社の社長をしていたI氏は日米の2つの会社の間を取り持つという形で交渉に参加していた。このときグローバートとI氏と私は、黒澤明とは何の関係もない仕事で顔を合わせたのであるが、それが数年後に同じサイドでチームを組むことになろうとは想像もしなかった。 1991年の初めまで、私は『天国と地獄』の原作権の関係でグローバートと2、3回ファックスを交換し、東宝から必要な書類を入手するという類いの仕事をしていた。1991年になってから私は、グローバートが『天国と地獄』のリメイクのみだけではなく『七人の侍』のリメイクの話をもユニバーサルとしていると知り、驚いた。しかし、私は『七人の侍』の件についてはとくに依頼されていなかったため敢えて口を挟まなかった。1991年ユニバーサルは『七人の侍』のリメイクを製作するにつき、コンプリーション・ボンドをかけようとしていたが、問題はコンプリーション・ボンドを提供する保険会社の疑問から発生した。コンプリーション・ボンドは完成保険と訳されいるが、欧米の映画製作会社がよく用いている保険である。映画はリスクの大きなプロジェクトであり、資金不足、監督・役者やその他のスタッフの病気や怪我、天候不順、その他さまざま理由で製作が困難になることがある。これらの危険に対して保険を付す場合に2つの方法があり、一つは個々の危険に対して保険をかけるというものである。すなわち、例えば監督が病気になり製作が中断した場合には、それに対して決められた金額が支払われるという仕組みである。映画『乱』のときにはこの方法が用いられた。これに対して完成保険というのは、映画製作がどのような理由であれ困難に直面した際には、保険会社が自ら製作会社に代わって映画製作を行い、資金を注ぎ込んで、場合によっては監督さえも代えて、映画を完成させるというものである。これは保険会社にとっても大きなリスクを伴うものであり、映画の製作予算の10パーセント程度が保険料として支払われるのが通常であるが、保険会社としてもリスクの評価を厳格に行う必要がある。 保険会社はまず映画を製作するにつき必要な権利がすべて確保されているかどうかを検討する。『七人の侍』のリメイクの場合、権利の関係で、最初に問題とすべきは誰がリメイクを許諾する権利を有しているかということである。ユニバーサルはこの問題について1978年の東京地裁判決を示して、3人の脚本家がリメイクを許諾する権利を有していると述べたものと思われる。保険会社はこの東京地裁判決の英訳文を入手し、それを検討した。保険会社はその中に不可解な部分を発見し、ユニバーサルに釈明を求め、それがグローバートを通してわれわれに伝わってきた。 保険会社が問題としたのは、東京地裁判決の理由のなかに、原告である黒澤明ら脚本家3名が、東宝がアルシオナに対して行った映画化権の譲渡を承認したと読める箇所がある、というものであった。もしこれが事実だとすれば『七人の侍』の映画化権はすでにアルシオナに移っており、黒澤明ら脚本家は何の権利も持っていないことになる。判決書きの該当部分は次のとおりである。なお、以下「原告ら」というのは黒澤明ら脚本家3名のことで、「被告」というのは東宝のことである。 「原告らが被告に対して、本件脚本につき、一回限り映画化することを許諾したに過ぎないことは、次の事実からも明らかである。すなわち、被告は、アルシオナに対して、昭和33年9月に、本件脚本について被告が映画化権を有するとして、これを譲渡する契約を締結した。しかし、被告は、この事実を秘匿したまま、昭和35年11月ころ、原告らに対して、本件脚本の映画化権をアルシオナに譲渡することを承諾してほしい旨申入れてきたことがあり、原告らはこれを承諾した。そして、原告らは、被告から金5000ドルと金2000ドルとを各別に受領した。もしも、被告が、原告らとの間の契約により、本件脚本の物件的映画化権を取得していたのであれば、被告は、原告らの承諾を得ることなく、勝手に自己の取得したとする物件的映画化権をアルシオナに譲渡することができたはずである。しかるに、被告が原告らに対して右申入れをしたり、アルシオナから受領した金員を配分したりしたということは、被告が原告らから物件的映画化権を取得していなかったことを自ら認めたものにほかならない。」(第5「抗弁に対する認否」の4) しかしこれが事実だとすれば、判決主文とあきらかに矛盾している。判決主文は「映画『七人の侍』の脚本につき、原告らが映画化権を有することを確認する」とはっきりと述べているのであり、東宝からアルシオナへの映画化権の譲渡を裁判所が認めたとすれば、このような判決になるわけはない。しかも、右の引用した部分は原告である脚本家たちが主張しているものであって、なぜ自らにとり不利なことを主張しているのか理解できない。さらに奇妙なのは、被告である東宝がこれに対して次のように反論しているという点である。 「原告らは、さらに、被告が本件脚本につき物件的映画化権を取得したものであるならば、 被告がアルシオナ・プロダクション・インコーポレーテッド(以下単に『アルシオナ』という。)に対し本件脚本の映画化権を譲渡する契約を締結したことにつき、原告らの承諾を求めるはずがないと主張する。しかしながら、被告が原告らの承諾を求めたのは、原告らが本件脚本について著作者人格権(とくに同一性保持権)を有するところから、背景、登場人物の名前、性格付けなどにおいて、本件脚本の内容に変更を加えることにつき許諾を求めたものである。また、被告がアルシオナから受領した金員(金7500ドル)を全額原告らに交付したのは、右許諾に対する対価として支払ったものである。」(第4「抗弁」の6) ここで東宝が何を言っているのかというと、確かに脚本家たちに対して承諾を求めたことはあったが、それは映画化権の譲渡に対する承諾ではなくて、「背景、登場人物の名前、性格付けなどにおいて、本件脚本の内容に変更を加えることにつき」承諾を求めたにすぎないというのである。これは訴訟の勝ち負けという点から考えると、東宝にとって自らを不利な立場におく主張であり、原告である脚本家たちの言ってることをそのまま認めれば映画化権の譲渡に対する承諾があったことになり、東宝はこの訴訟に勝ったのではないかと思えた。 判決書きを何度読んでもこの疑問点は解消されなかったので、私は東京地裁で訴訟記録全体を見ようと思った。しかし東京地裁に確認したところ、訴訟記録は判決書きを残してすべて廃棄されているとのことであった。とにかく20年以上も昔の事件であり、黒澤プロダクションにはその当時の記録は一切なく、はたと困ってしまった。次に考えたのは、その当時黒澤明らを代理していた弁護士に聞くということであった。弁護士名簿で電話番号を調べ電話したところ、家族の方が出て、代理人であった勝本弁護士は90歳以上の高齢で、すでに正常な会話を交わすことさえ困難な状態であるとの返事であった。さらに、その当時の記録が残っているかどうかをたずねたところ、勝本弁護士の著作権関係の仕事を引き継ぐ弁護士がいなかったため、その当時の記録がどこにあるかは不明であるとのことであった。東宝との間はすでに雲行きが怪しくなっていたので、東宝またはその弁護士に聞くこともできず、私の調査はここで行き詰まった。 このような状況のもとで、とにかくユニバーサルに対しては何らかの回答をしなければならなかった。そこで「判決理由中に何が書かれていようとも、判決主文は明らかに黒澤明ら3人の脚本家に映画化権があるということを明言しているのであり、この判決が確定している以上、権利の所在につき問題はない」と答えた。 |
このようなやり取りを私がグロバート弁護士としていたちょうどその頃、東宝のロサンゼルス在住の弁護士バートラム・フィールズの事務所にMGMの執行副社長からの手紙が届いていた。その内容は、MGMが黒澤プロダクションとの間に『七人の侍』のテレビシリーズの製作に関する契約を締結しようとしており、それを締結した際にはMGMがアルシオナから得た権利が無効なものになるので、黒澤プロダクションに支払うことになる対価をすべて東宝に対して損害賠償として請求する、という内容のものであった。東宝はこの件につき早速M弁護士と相談したようで、M弁護士から私に電話があった。M弁護士は手紙の詳細については伝えなかったが、MGMの誤解を解くために黒澤との和解契約をMGMに示したいと言った。M弁護士はこのときも和解契約が追認に当たると考えていたようで、それを示せばMGMからの責任追及を逃れられると考えていたようである。私はこの件につき黒澤プロダクションと相談したが、和解契約をMGMに示されるのは困るという結論に達した。 前に引用したように、東宝と黒澤プロダクションの間の『七人の侍』に関する契約は、アルシオナまたはその承継人もしくはその譲り受け人が『七人の侍』のリメイクを製作したとしても黒澤サイドはそれに対して文句を言わないと約束している。MGMがこの契約をみれば、改めて黒澤プロダクションから許諾を得ないで映画を製作したとしても、黒澤プロダクションはそれに対して異議を申し立てることはできないと考え、交渉中の契約を締結することなく映画製作に踏み切る可能性があった。さらにこの契約は玉虫色の表現を使っており、解釈次第で追認といえないこともない。それが英語に翻訳された場合には、なおさらその意味するところが曖昧になる。そこで私は、M弁護士に、『七人の侍』に関する契約が開示されてもむしろ誤解を拡大する結果になると述べ、それを待ってほしいと言った。これに対してM弁護士は契約書をMGMに示さなければ、いつ東宝に対しての訴訟が提起されないとも限らないので一刻も待てない状況にあると説明した。私は契約書自体についての守秘義務が合意されていない以上、東宝がそれをMGMに示すことを止める法律的な手段はないと考え、仮に契約書がMGMの手に渡るとしても、それに契約書の内容を明確にするような説明文を付してから渡してほしいと述べた。 私は、アルシオナ契約による再映画化権の譲渡が無断譲渡であるということ、さらにアルシオナ契約が締結された後にそれが追認されたこともないということを改めて東宝に確認してもらいたかったので、MGMに対する説明文の案文をM弁護士に送った。下記はその和訳文である。
これを読んだM弁護士は、東宝としては米国の弁護士の意見を求め、この文書によって東宝の立場が損なわれないか慎重に検討する必要があると述べた。東宝に提出してもらう文書の内容についての合意が容易でないことは明らかだった。東宝の米国の弁護士はどのような内容の文書を出すにしても、それはMGMの訴訟を誘発する危険があるという立場をとっていたからだ。 |
そのような状況でM弁護士から電話があった。説明したいことがあるので会って話をしたいとのことだった。1991年7月23日、M弁護士は私の事務所を訪れた。事前に話の内容について聞いていなかったのだが、この段階でわざわざ尋ねてこられるというのはただごとではないなと私は思った。まずM弁護士はMGMから得た情報として、MGMがアルシオナの承継人であることを示すことができると言っていると述べ、どのような経路でMGMが『七人の侍』の再映画化権を承継するにいたったかを示す図を私に見せた。私は、そのような話であればファックスでも送ってもらえば充分だったのに、とあまり驚かなかった。その話が終わったあとM弁護士はおもむろに1枚のB4版の書面を取りだし、私に見せた。それは契約書のコピーであった。それを読んだとき私は驚きを隠しえなかった。その内容は次のとおりだった。
これはまさにアルシオナ契約を追認する文書であった。これは前に述べた1978年の東京地裁判決中の黒澤側の代理人が言及していた承諾を裏付ける文書ではないか。M弁護士は「東宝が見つけてきたものですが、アルシオナ契約を添付してるわけでもないですし、これだけでは追認があったというには足りないようにも思いますが」と、あっさり言ってそれ以上論評を加えなかった。私はM弁護士がどのような意図でこれを今ごろになって持ってきたかを考える余裕さえなく、呆然としていた。このようなものをMGMに示されれば、東宝が無断譲渡の責任を問われる可能性は少なくなるだろうが、その反対に黒澤プロダクションが自ら再映画化権を有していると称してMGMと交渉していること自体が詐欺に近い行為になり、どのような非難をされ、また責任追及をされるか分からない。 私はさっそくこの書面について黒澤プロダクションに問い合わせたが、黒澤プロダクションにはそのような記録は一切ないとの返事が帰ってきた。さらに黒澤明本人に聞いてもらったが、このような文書には心当たりがないとのことであった。I氏と話しているときに、橋本忍氏が当時この件の取りまとめ役になっていたらしいということを聞き、橋本忍氏に電話をした。橋本氏も当時の記憶は定かでないと言っていたが、アルシオナ契約を追認するということではなく『荒野の七人』の件は認めましょうということは言ったかもしれないとのことであった。状況が分からないままに、私はアメリカのグローバート弁護士と連絡をとりながら、なんとか交渉で問題を解決しようと考えていた。 とにかく和解契約書がMGMに示されれば、MGMが勢いづくことが考えられ、解決が困難になる。そこで東宝との間では、和解契約書を示す際に添付する文書についてさらにやり取りをした。東宝サイドは、アメリカの弁護士が頑強に抵抗し、こちらの考えているような案文には一切応じられないという態度を貫いていた。 アメリカにおいてはグローバート弁護士がMGMと交渉していた。MGMが『七人の侍』 のリメイク件をどうしても入手したいという差し迫った状況にあるということが伝わってきていたので、我々は強気に交渉することにした。とにかく、MGMが東宝に対して訴訟を起こさなければ問題はないわけなので、それをMGMに約束させようと考えた。こちらがMGMに提案したのは、黒澤がリメイク権を許諾する条件として、MGMが東宝を訴えないという約束を取り付けるというものであった。しかしこの提案は結局拒絶され、事態は進展しなくなった。 |
1991年12月になって黒澤サイドは東宝との案文の合意は不可能と考えるにいたり、 これ以上長引かせると本当に訴訟になると考えたので、東宝とは関係なく、黒澤プロダクションからMGMに対して詳細な説明文をつけて和解契約書を示そうということになった。グローバート弁護士の説明の手紙とともに、和解契約書の英訳文が1991年12月2日にMGMに対して発送された。その手紙は12月4日にMGMに届いたが、まさにその日にMGMはロサンゼルス上級裁判所に東宝、黒澤プロダクションおよび黒澤明ら3名の脚本家に対する訴訟を提起した。 この訴訟に関するニュースは1991年12月6日版のバラエティー、ザ・ハリウッド・リポーター等の芸能関係の新聞に載った。この新聞記事で訴訟提起の事実を初めて知ったグローバート弁護士は、さっそくI氏に電話をしてきた。私は12月7日土曜日の午後、新潟に行くために新幹線のホームに立っていた。当日私の事務所は年1回のパートナー合宿が行われることになっており、10人のパートナーが新幹線で落ち合うことになっていた。私は早めに事務所を出て東京駅に着いていたが、あとからきたパートナーが、事務所に黒澤プロダクションのI氏から電話が入り至急話したいことがあると言っていたと伝えてくれた。I氏に電話をすると、興奮した様子で、黒澤プロダクションがロサンゼルスで訴えられたとグローバート弁護士から連絡があったが、これからどう対応すればいいのか教えてくれと言った。私は、東宝が訴えられるのはともかく、なぜ黒澤プロダクションまで訴えられなければならないのか分からなかったので、月曜日にグローバート弁護士に電話して詳細を聞くと言って電話を切った。 グローバート弁護士の話によると、訴訟は、東宝、黒澤プロダクション、および黒澤明ら3人の脚本家を被告として提起され、MGMが『七人の侍』のリメイク権を有していることの確認と、黒澤プロダクションおよび3人の脚本家に対する損害賠償請求を内容としているとのことであった。損害賠償請求の理由としては、黒澤プロダクションらが東宝との間の和解契約書を東宝がMGMに示すことを不当に妨げたということであった。グローバート弁護士はこの訴訟に対しては、まず管轄を争うと言った。管轄というのは裁判管轄のことであって、一般的に被告となるものの立場を保護するという趣旨から考えられている。すなわち、原告が自分の都合のいい裁判所に訴訟を起こせるということになれば、特に遠隔地にいる被告に対して不当な不利益を負わせることになるという配慮である。MGMの訴訟の場合、日本にある会社や日本に住む個人に対してロサンゼルスの裁判所に訴訟を起こすというのは、訴えられた者からすれば訴訟の防御に非常な困難を強いられるということになる。グローバート弁護士の主張は、カリフォルニアの民事訴訟法上、ロサンゼルスの裁判所はこの訴訟の被告である日本の法人や個人に対して管轄権を有しておらず、MGMの訴訟は却下されるべきであるということであった。 裁判管轄のほかにグローバート弁護士が却下申し立ての理由としたのは、送達方法の違法であった。訴訟が提起されると訴状が被告に送達される。日本においては訴状の送達は裁判所の書記官が行う。米国においては多くの場合原告の代理人である弁護士が、裁判所からの委託を請けて訴状を送付する。今回の訴状はMGMの弁護士から郵便で送られてきた。米国内に被告がいる場合にはこれで充分なのだが、今回は日本に被告がいたため、米国の民事訴訟法にのっとった訴状の送達方法が有効かどうかが問題となるのである。 これらのグローバート弁護士の主張はカリフォルニア上級裁判所ですべて理由がないとされ、さらにグローバート弁護士はこの決定に対してカリフォルニア最高裁判所に上訴したが、これもまったく理由を付することなく却下された。黒澤サイドはこれらの主張が通る可能性があると考えていたため、たいへん失望した。この第一段階での挫折はかならずしも訴訟が最終的にこちらに不利な結果になることを意味してはいなかったが、裁判所の対応が被告に対して冷淡なように感じられたこともあって、このまま本案に入っても偏見をもった判断が下されるのではないかと黒澤サイドは恐れた。 カリフォルニアでの訴訟は、このように第一段階が原告であるMGMの勝利に終わって、原告の請求に理由があるかを問う、いわゆる本案審理に入った。もっとも米国の裁判手続きは日本とは違って、裁判所で原告と被告が主張を戦わせるいわゆる口頭弁論にすぐ入るわけではなく、原告と被告がお互いに相手側がもっている自分に有利な資料を取り合うという証拠開示手続がまず行われる。これは米国の訴訟を経験した者はだれでも感じるのだが、非常に負担の大きなものであって、英語を母国語としない当事者にとっては堪え難いものである。たとえば、何十項目にもおよぶ尋問事項書が送られてきて、それに全部英語で答えなければいけない。また文書提出請求というのもあって、事件に関係のありそうな契約書、手紙、メモ等すべて提出しなければならない。これらの要求に対しては必ずしもすべて言われた通りに応じなければならないわけではないが、拒否するにはそれなりの理由が必要である。正当な理由なくこれらの要求に応じない場合、または虚偽の理由をのべて要求を回避しようとした場合には、裁判所侮辱罪に問われることもある。 1992年4月頃からこれらの文書が続々と送られてきた。黒澤プロダクションや黒澤明が名宛人となっているものに対しては、それなりに迅速な対応ができたが、橋本忍や小国英雄が名宛人となっているものについては御両人に対する説明が必要であり、さらにこちらが作った回答書に署名をもらう必要があった。橋本氏は都内に住んでいたからまだよかったが、小国氏は京都の山奥に住んでおり、署名をもらうためにS氏がいちいち足を運ぶということになった。黒澤サイドはこのような原告の攻撃が延々と続くということに焦燥感を感じだした。やられているばかりではなく何かやり返す方法はないかという問いが私に発せられた。 |
黒澤と東宝との間は既にこの頃別件で紛争状態にあった。前に述べたように、和解契約のなかには黒澤明が監督し東宝が製作した21本の作品の二次利用についての約束が含まれていた。二次利用のひとつの形態はテレビによる放映で、東宝はテレビ局に放映を許諾する際には、シナリオ作家の協会と監督の協会がそれぞれ映画の製作会社の連盟と結んでいる協定の最低料金を黒澤明に支払うことに合意していた。東宝は1991年7月頃、黒澤明監督21作品のテレビ放映権を約10億円の対価により日本衛星放送株式会社(JSB)に許諾した。和解契約によれば、この場合東宝はテレビ会社に対する販売価格の4パーセントをそれぞれ脚本家および監督としての黒澤明に支払うことになっていた。しかし、東宝はJSBによる放送は衛星放送によるものであるため、地上波テレビ放送を念頭においていた和解契約の条項は適用が無いと主張し、とりあえず白黒作品については12万円、カラー作品については20万円を支払うと言ってきた。これに対して黒澤側は、テレビ放送には衛星放送をも含むので和解契約に規定されている4パーセントの金額が支払われるべきであると主張し、双方譲らないままに、紛争は膠着状態になっていた。黒澤側はJSBによる放映が既に開始されていたこともあり、話し合いでは埒があかないと考え、1992年3月18日に東京地方裁判所に著作権使用料等請求の訴訟を提起した。この訴訟に対するマスコミの反応は黒澤側に好意的なものが多く、当時映画の二次利用に関する監督、脚本家等の権利の保護が問題となっていたこともあり、特集を組んだ新聞もあった。 日本の社会においては、訴訟を起こすというのは、それなりに勇気がいる。右の東宝に対する訴訟についてもいろいろと検討した結果、訴訟以外に問題解決の方法は無いという結論が得られて初めて訴訟提起をしたのである。しかし2度目ともなると、黒澤側の訴訟をタブー視する感覚は薄れ、MGMに訴訟で対抗できないかと考えるようになった。MGMの場合、黒澤側は既にアメリカで訴訟を起こされていたので、本来であればアメリカ現地で防御すればいいということになる。これが日本国内の話であれば、訴訟を起こされた同じ案件について別の訴訟を対抗して起こすということはできない。しかし、国際的な紛争については、このようなルールは無く、アメリカで起こされた訴訟に対抗する訴訟を日本の裁判所に提起することは可能である。アメリカで日本の会社が訴えられることが多くなるにつれ、このような反対訴訟が日本の裁判所に起こされることも希ではなくなった。アメリカの訴訟で日本の会社が敗訴した場合には、アメリカの判決は一定の手続きを経れば日本で強制執行することができる。この場合、もし日本の会社がアメリカの訴訟に対抗して日本で訴訟を提起していてその訴訟で勝ち、その判決が確定すれば、仮にアメリカの訴訟で負けたとしてもアメリカの勝訴判決が日本で強制執行されることはない。物事は必ずしもこのように調子よくいくわけではないが、日本で訴訟を起こすことはアメリカの当事者に対してプレッシャーをかけることになり、日本側がある決意を持って闘うという姿勢を示すことはアメリカの訴訟にも影響を与えることがあるのだ。 このようにMGMに対する反対訴訟は、MGMがアメリカの裁判で主張している事実を否定するという形で日本の裁判所に訴えることになる。MGMがアメリカの裁判で求めていたのは、『七人の侍』の再映画化権をMGMが有しているという事実の確認と黒澤側がMGMに対してある不法行為をなしたという主張にもとづく損害賠償請求であった。これに対抗するためには、黒澤側はMGMはそのような再映画化権を有していないということと黒澤側がMGMに対して損害賠償の義務を負っていないということについて確認を求めればいいのである。問題は、このような反対訴訟で黒澤側が勝ったとしても、それですべて問題が解決するわけではないということであった。つまり、MGMが『七人の侍』の再映画化権を有していないという結論になった場合には、MGMは東宝からアルシオナ経由で有効な権利の譲渡を受けていなかったということになり、今度は、MGMは東宝に対して損害賠償請求をすることができることになる。東宝はこれに対して抗弁のしようがないので、敗訴することになり、東宝が敗訴した場合には、和解契約にもとづいて東宝はその金額を全部黒澤側に請求することができることになる。これをストップするためには、東宝が敗訴した場合にも東宝がMGMに支払う金額をそのまま黒澤側に回してくることを阻止しなければならない。 そこで私は『七人の侍』に関する東宝との和解契約を無効にする方法をさがすことになった。もともと無効な契約をつくる気は無かったのであるから、状況が変わったからといってそれを簡単に無効にはできない。契約というのはお互いに相手を拘束するためにつくるものであるから、その拘束から抜け出すのは奇術の縄抜けように難しいものである。しかし、奇術に種も仕掛けもあるように、私はこの場合にもある仕掛けができることに気が付いた。
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その仕掛けの材料はMGMの訴状の中にあった。アメリカの訴訟の訴状はあまり整理されていないものが多いが、MGMの訴状もおよそ考えられるすべての請求を並び立て、それらについて証拠に基づいた主張をしていた。その一つの項目に「黒澤側対東宝訴訟についての日本の裁判所の判決に関する原告、東宝および黒澤側間のコミュニケーション」というものがあった。この中に述べられていた原告、すなわちMGM、と東宝との間の往復書簡が非常に興味のあるものであった。 第6章「MGMの追求」で、MGMから東宝のロサンゼルス在住の弁護士に対して手紙が来たということを述べたが、このような手紙はこれが初めてではなかったのだ。MGMの訴状にはこれらの手紙の写しが添付されており、それによると1987年7月29日から1988年5月5日の間に計7通の手紙がMGMと東宝、またはそれぞれの弁護士間、で交わされていた。これらの手紙の中でMGMは自らの立場をアルシオナの承継人であるとし、東京地裁判決の結果『七人の侍』についての再映画化権は黒澤明ら脚本家が有することになり、東宝がアルシオナに与えた権利が疑わしいものになっていると述べていた。これに対し東宝は、東京地裁判決がアメリカの裁判所をも拘束するかは疑問であるとしながら、この問題を解決するために黒澤明らと接触していると述べていた。東宝と黒澤の間の和解交渉は1987年の終わりから開始され、1990年2月1日に契約が締結されたものであるから、MGMと東宝の間の手紙のやり取りはほぼ和解交渉の期間の前半と重なることになる。そして、M弁護士が『七人の侍』の問題を初めて私に打ち明けたのは、1989年10月11日のことで、今から思えば、その時M弁護士が言っていた「東宝は今日にもアルシオナから契約違反の責任を問われる可能性のある不安定な立場に置かれているのです」という言葉は、アルシオナをMGMに置き換えてみればまさに現実の問題だったのである。このことを当時私も黒澤プロダクションも一切知らず、アルシオナという、存在自体が疑わしい会社のことばかり心配していたのである。 和解契約を締結する際に、東宝はある事実を知っており、黒澤プロダクションはそれを知らなかった。この事実というのは、東宝がMGMから無断譲渡の責任を追求されていて、黒澤明らからの追認がなければ債務不履行で訴えられる可能性があるということであった。後日訴訟になってから、東宝は、契約交渉の際に当事者の有している知識の量に多寡があるのは通常のことであって、MGMからの要請について黒澤プロダクションに伝えなかったことは何ら信義に反することではない、と主張した。私も、そのような考え方があり得ることについては予測しており、慎重に検討した。 ここでまた例の『七人の侍』に関する契約の第2条の解釈が決定的な役割を演ずるのだ。つまりあの条項が追認であったとすれば、黒澤側と東宝との間にはなんの誤解もなく、誰も騙したり騙されたりしてはいなかったことになる。つまり、追認をすればアルシオナおよびその承継人は完全な再映画化権を得ることになり、黒澤明等脚本家はその権利を完全に失うことになる。東宝が追認を欲しがっていた理由がなんであれ、黒澤サイドは追認の対価を受けとっているわけだから、後で本当の理由が分かったとしても文句は言えない。この理屈は次のようなたとえ話をすれば分かりやすいかもしれない。あなたは砂漠の中である人に会いその人にコップ一杯の水を200円で売ったとしよう。後であなたはその人が5日間も水を飲まないで砂漠をさまよっていたということを聞き、もっと高い値段でコップ一杯の水を売ればよかったと思った。しかし、それはあなたの繰り言にしか過ぎず、砂漠をさまよっていた人がそのような事実をあなたに告げる義務もなかった。追認はこのように物の売買に似ていて、その物の値段は需要供給の関係で決まってくる。需要供給というのも完全に客観的なものではあり得ず、喉から手が出るほど欲しいのにどうでもいいような顔をするという演技力も効果的であり、このような演技は取引のテクニックとして許されるのである。 しかし、例の第2条は追認を規定したものではなかった。第2条は、東宝からアルシオナへの権利の譲渡を認めるというものではなく、再映画化権の譲渡が無効だったことから生ずる様々な問題を黒澤プロダクションがカバーし、東宝に迷惑がかからないようにするという内容であった。この関係は物の譲渡を比喩としては使えない。この場合には次のようなたとえ話が適切かもしれない。あなたはある人から家の留守番を頼まれ、一晩その家に泊まることにしたとしよう。ところが、その家の持ち主は、その夜山賊が襲ってくることを知っており、貴重品を持って避難しようとしていたのだ。その人はあなたにそのような危険が迫っていることを知らせずに、あわよくば家も守られるかもしれないと期待し、外出してしまった。あなたはそのようなこととは露知らず、夜中に山賊に襲われ、さんざんな目に合うことになった。もしあなたが山賊の襲撃から生き延びたとしたら、家の持ち主に対して猛烈に怒ることであろう。 このように、コップ一杯の水を売る場合と、留守番を頼む場合とでは相手方が何故それ(水または留守番)を必要としているかという理由の重みが違ってくることが分かる。それは、あるお金と引き替えにあなたが提供することになるものが違ってくるからである。コップ一杯の水の場合には、相手方がどのような理由でそれを欲しているにせよ、あなたが失うのはコップ一杯の水それだけである。それに反して、留守番の場合にはあなたが失うものは一夜の行動の自由から命まで幅があることになる。通常の場合、あなたは留守番をすることによって命を失うことになるとは考えない。命を失うことになる可能性のある留守番であれば、あなたは当然高い代償を要求したであろう。山賊が襲ってくるという危険性について告げられずに、安い対価で留守番をさせられたとしたら、あなたは当然騙されたと思うであろう。黒澤プロダクションの立場はこれと同じなのである。つまり、無断譲渡を受けたアルシオナないしはその承継人が東宝に対して損害賠償請求をしてくるということは当然可能性として考えられる。しかし、そのような危険の程度は、具体的な状況によって大きく異なってくる。もし、アルシオナから権利が動いておらず、アルシオナが消滅してしまっているとすれば、その権利が法律上の手続によって第三者に承継されているとしても、具体的なリスクとしては低くなる。これに反し、現にアルシオナの承継人と称するものがいてその権利を行使しようとしているとすれば、リスクは非常に大きなものだといわざるを得ない。リスクの程度によって対価が決まってくるものだから、後者の場合には前者に比べてより大きな金額の対価が要求されてしかるべきである。さらに言えば東宝はMGMからのクレームの原因を作った張本人だったのだ。アルシオナへの無断譲渡がなければ、MGMがクレームを起こすということもあり得ない。これは山賊の例で言えば、留守番を頼んだ人が、アリババの兄のように、山賊の財宝を盗んだことから、山賊が襲撃をしてくるという関係になるかもしれない。 東宝の名誉のために付言すると、東宝は詐欺をするなどという意図は全くなかったに違いない。東宝は終始無断譲渡の追認を求めていたのであり、どのような切迫した事情があるかについて説明する必要はなかった。無断譲渡というのは人の財産を勝手に処分したということだから、譲受人から責任を問われる現実の可能性があるか否かにかかわらず、追認を求めるのはごく当たり前のことである。ところが、一貫して追認を求めていた東宝が実際に手に入れたのは追認ではなかった。それは巧妙に追認に似て作られた仕掛けではあったが、法律的に言えば追認とは似て非なるものであった。東宝及びM弁護士は、和解交渉中もまた和解契約が締結された後も得られたものが追認であると信じて疑わなかったようである。しかし、実際に問題が起こってみると、この仕掛けが追認の一番重要な要素を欠いていることが明らかになった。即ち、再映画化権は相変わらず黒澤明ら脚本家が持っていたのである。 後日東宝は、和解契約は当事者双方が弁護士をたてて交渉をし締結したものであって、そこに詐欺などが介在する余地はない、と述べた。確かに弁護士を通した契約交渉で詐欺が行われることは少ないだろう。まして、東宝のような信用のある大会社が詐欺を行うことは殆ど考えられない。しかし、その希有な例外がここにあったのである。東宝はひとつの契約条項の意味を取り違えることによって、不名誉な訴訟を起こされることになってしまった。しかし、この解釈の誤りも、一見明白なものではなく、ストライクかボールか審判を悩ます一球のごときものであった。私は、この訴訟のチームを組むために何人かの若い弁護士に声をかけたが、その一人に問題の条項を示し、それが追認といえるかと聞いてみた。その弁護士は、これは実質的に追認といえる、と言い、私を狼狽させた。よく読んでもらえば、やはり追認とは違うという結論にはなったが、優秀な弁護士でも騙されてしまうような代物なのである。 |
MGMと東宝に対する訴訟は1992年8月7日に東京地裁に提起された。前に述べたJSBの件で訴訟を起こした時に、多数の新聞社から電話があり、夜中まで説明をさせられた事があったので、今度はプレスリリースを用意して待っていた。しかし、思った程電話の問合せが無く、拍子抜けした。翌日の毎日新聞の朝刊には次のような記事が載った。
黒沢監督の名画「七人の侍」(1954年公開)の再映画化をめぐり、黒沢監督と黒沢プロなどが「再映画化の権利は黒沢監督側にある」として、米国の大手映画配給会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)を相手に権利不存在の確認を求めて7日、東京地裁に提訴した。MGMが再映画化権は自社にあると主張、米裁判所に訴えたのに対抗した措置。 訴状などによると、「七人の侍」を配給した日本の東宝は58年、米映画会社アルシオナ・プロダクションに原作シナリオの再映画化権を譲渡、米国版「七人の侍」の「荒野の七人」が製作された(60年公開)。黒沢監督らはこのアルシオナへの権利譲渡が著作者の許可なく行われたと、73年に東宝を相手に東京地裁へ提訴。78年の地裁判決は「脚本の著作権者が映画化権を持つ」と黒沢監督側に軍配を上げ、再映画化権譲渡は「無断譲渡」の形になった。 ところが昨年12月、MGMがアルシオナから再映画化権を承継したとして東宝、黒沢監督らを相手に権利確認などを求めてカリフォルニア州地裁に訴えた。 黒沢監督側の乗杉純弁護士は「MGMは『七人の侍』をテレビ映画化する意向のようだ。米国での訴訟では遠隔地ということもあって十分な防御ができないため提訴した」と話している。 訴訟を起こすことに決めてから実際に提起するまでに4ヶ月近い時間がかかってしまったが、このような訴訟は初めてであったので、いろいろな問題を解決しなければならなかった。日本の裁判所は日本語しか受付けないので、証拠書類を含めて45頁もあるMGMの訴状を和訳するのに随分と時間がかかった。法律問題としては、MGMに対する訴訟について、日本の裁判所が管轄を認めてくれるのか、また認めさせるにはどのような議論をすべきかについて判例・学説を検討した。ひとつ残った問題は訴状の送達で、東京地裁が国際条約に定めた手続に従ってMGMに訴状を送達するのに3ヶ月以上の期間を必要とした。この期間を短縮する方法は無かったので、仕方なく、東京地裁に対して速やかに送達してくれるようにとの上申書を提出した。同時に、MGMに対する訴訟と東宝に対する訴訟を併合審理(同じ法廷で裁くこと)してほしいとの希望を述べたが、これは受け入れられず、MGMに対する訴訟は第37部が、東宝に対する訴訟は第35部が裁くことになった。 黒澤明ら3人の脚本家がMGMに対して訴訟を起こしたことは、グローバート弁護士を通じてMGMに伝えられていたが、訴訟提起から1ヶ月程してMGMの日本における代理人と称する弁護士から電話があった。その弁護士は、私のミシガン大学ロースクールの先輩で、ミシガン大学の日本における同窓会の理事として時々顔を合わせていた山川洋一郎氏であった。山川氏は、MGMが訴状の送達に拘わらず、日本における訴訟につき応訴すると述べた。これで大きな問題のひとつは解決し、実質的な戦いが始まった。 2つの訴訟は1ヶ月強の間隔で期日が入り進行していった。MGMに対する訴訟においては、MGM側は予想通り管轄を争ってきた。東宝に対する訴訟においては、詐欺が成立するか否かが争点となった。後者は、これまでの裁判例を見ても先例として参考になるようなものは無く、裁判所も困惑しているようであった。黒澤側が詐欺を立証するために使える材料はMGMの訴状に添付されていた手紙の写しと1990年の和解契約書のみであった。これらの手紙が存在することを隠しながら和解契約を締結した東宝の行為が詐欺と言える程度に悪質であることを裁判所に印象づける必要があった。しかし、材料がこれだけに限られていると、様々な表現を使うように工夫をしてみても、同じ主張の繰り返しになってしまう。 米国の訴訟においては、証拠開示手続が続いており、ダンボール箱が一杯になるほどの書類が送られて来ていた。米国訴訟においては、MGMが東宝と黒澤側を訴え、東宝が更に黒澤プロダクションを訴えていた。東宝の黒澤プロダクションに対する訴訟は、東宝がMGMとの訴訟に負けた場合に、MGMから請求される損害賠償額を事前に黒澤プロダクションに求償するという内容の訴訟であった。証拠開示手続もこのような関係で行われていたので、米国から送られてきた資料の中には東宝が提出したものもあった。証拠開示手続の中で相手方に書類の提出を要求するためには、書類を具体的に特定する必要はない。例えば、「1978年の七人の侍事件東京地裁判決に関する全ての書類」としてもいい。このような要求に応じて東宝が提出してきたと思われる書類のコピーが1992年12月にアメリカから送られてきた束の中にあった。そこに謎を解く鍵があった。 その書類とは、1978年の東京地裁判決の訴状、再度申入書及び調停申立書であったが、訴状の中の「訴えの原因」第3項及び第4項が30年前の出来事を簡潔に述べているのでそれを次に引用する。
この訴状は、その当時黒澤明ら脚本家3名を代理していた勝本弁護士が作成したもので、再度申入書及び調停申立書から見るとこの訴訟の3年ほど前から勝本弁護士が脚本家3名を代理して東宝と交渉していたようである。これらの書面の内容から、概ね次のような事実が推測出来る。 1958年9月、東宝はアルシオナに対して「七人の侍」の再映画化権を与える契約を締結したが、東宝はそれが脚本家の許諾を得ていないため無断譲渡になることにはまだ気付いていなかったものと思われる。「七人の侍」のリメイクである「荒野の七人」は1960年に製作され、同じ1960年の11月に東宝は黒澤明ら脚本家3名から前述の承諾書を取付けている。この時脚本家達が、「荒野の七人」が製作されたこと、またそれが「七人の侍」のリメイクであることを知っていたか否かは明らかではないが、東宝がアルシオナとの契約を既に締結していることについては知らされていなかった。既にその契約が締結されていることを前提に話しが進められていたとすれば、アルシオナとの契約を日付をもって特定し、脚本家達が何に対して同意したかが明白にできた筈である。その後脚本家達は東宝から5千ドルと2千ドルを受領したが、アルシオナとの契約の内容については知らされなかった。 1966年に、アルシオナから権利を譲り受けたミリッシュ・プロダクションズが「荒野の七人」の続編である「リターン・オブ・ザ・セブン」という劇場用映画を製作した。これを知った脚本家達は、承諾書によるリメイクの許諾は1本に限定したものであると考えていたので、東宝に抗議し、契約内容を開示するよう要求したが東宝はそれに応じなかった。1968年頃脚本家達は独自の調査で東宝とアルシオナの間の契約の内容を知り、東宝に協議を申し入れた。「再度申入書」によれば、この最初の申し入れは1968年2月10日付の書面をもってなされたが、それに対し東宝は2月17日付の書面により、「本問題の所管提案者である川喜多、藤本両重役が現在渡米中なるをもってお申越の2月20日までに回答できない、従って両重役の帰国後緊急に回答する」と述べた。しかし、その後東宝が話合いに応じようとしないので、脚本家達は1970年10月1日付で解決案を提案した。これに対しても東宝から色よい返事が無かったため、1971年6月23日に再度申入書として新たなる解決提案をした。 結局話合いによる解決は出来ず、1971年8月19日に脚本家達は東京簡易裁判所に調停の申立てをした。この調停によっても解決は出来ず、1973年5月に脚本家達は東京地方裁判所に訴えを提起した。 以上のストーリーは、脚本家達の代理人である勝本弁護士の作成した書面に基づくものであって、一方的な主張であると言われるかもしれない。しかし、このストーリーは1978年の東京地裁判決の内容と照らし合わせてみると、概ね正しいのではないかと思われる。私は、第5章「保険会社の疑問」で、東京地裁判決の理由中に承諾書の性格に言及した部分があると述べた。脚本家達は、上述のように承諾書は脚本の映画化権をアルシオナに譲渡することに関するものである、と述べている。これに反し東宝は、背景、登場人物の名前、性格付け等において、脚本の内容に変更を加えることにつき承諾を求めた、と述べている。承諾書の文言は、第7章「承諾書出現」で引用した通り、東宝の述べるような著作者人格権に関するものではなく、脚本の映画化権の譲渡を承諾するものであることを明記している。「承諾」が1回のみ存在したことについては、脚本家も東宝も争っていないため、今回の訴訟で東宝が証拠として提出してきた承諾書が1978年の東京地裁判決で問題とされている承諾書であることには間違いがない。1978年の判決で原被告が対立する主張をし、裁判所がそれに対して何ら判断していないという事は、その訴訟において承諾書が証拠として提出されなかったことを意味している。承諾書の文言は脚本家達の主張する内容に沿っているため、脚本家達がその時に承諾書を持っていたならば当然証拠として提出したであろう。脚本家達はもともと承諾書の写しを持っていなかったのか、又はそれを紛失してしまったのか、今となっては真相は明らかにすべくもない。東宝はと言えば、今回の訴訟で承諾書を提出してきた以上、前回の訴訟の時にも持っていたのであろう。前回の訴訟の時には紛失していて、今回の訴訟になって倉庫の奥から発見された、というような話は現実的ではない。 では、何故東宝は承諾書を隠して、承諾が著作者人格権に関するものである等という嘘の主張をしたのだろうか。それは、承諾書を出してしまえば、それが脚本家達の主張を裏付けることになり、訴訟に負けることになると考えていたからであろう。この推論が正しいとすれば、東宝は、承諾書が不完全なものであり、東宝がアルシオナに与えた権利を追認する効果を持たないという認識を有していたことになる。どのように不完全であったかについては、いろいろな可能性があるが、少なくとも東宝がアルシオナとの契約の内容を脚本家達に説明してその内容全体についての承諾を求めたことはなかったであろう。本来であれば、アルシオナとの契約書及びその日本語訳を添付しその内容全体について承諾するという契約書を脚本家達と作るべきであった。それが出来なかったということは、東宝の対応に後ろめたいものがあったことを示唆している。例えば、「荒野の七人」の製作について知った脚本家達が抗議をしてきたので、東宝はその1本についてのみのリメイクを認める契約をこれから締結するので承諾して欲しい、と言ったのかもしれない。
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1993年3月23日に、対東宝訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれた。ここで原告らは準備書面(2)を提出したが、この準備書面は珍しいことに私が書いたものである。渉外事務所においては、一般民事の事務所と異なり、パートナーがアソシエートよりも豊富な訴訟の経験を持っているわけでは無い為、訴訟に慣れたアソシエートが準備書面を作成し、パートナーはそれをチェックするだけのことが多い。実際は、全く目を通さないパートナーの方が多い。対東宝訴訟については、私自身が半分当事者のような立場にあったこともあり、自分で準備書面を書くことにした。書くといっても、実際はマイクロカセットレコーダーを使って吹込みをしたのだが、53頁の大作が出来上がった。準備書面(2)は、前の章で述べた事実にかなりの頁を割いた。そして次の通り締めくくった。 「ここで改めて30年前の被告による共同著作者からの承諾書取得の経緯と1990年の本件契約成立までのいきさつを比べてみると、被告の行動が不思議なほど似ていることに気付く。1960年、被告はアルシオナ契約を既に締結している事実を秘し、事情を知らない共同著作者を欺罔し、将来締結することを考えている契約の事前承認という形で承諾書を取付たものと思われる。この手口は、1990年の本件契約交渉の際、被告がエム・ジー・エムから再三のクレームを受け、放置すれば訴訟を起されるという状況をひた隠しにして、かようなリスクが僅少であると信じこんでいる原告らから……補償を取付けた被告の手口と余りにも酷似しているのではないか。30年の年月をはさんで企てられた2つの欺罔行為が、被告の卑劣な体質を余りにも見事に表していることには驚嘆せざるを得ない。」 グローバート弁護士からの1993年3月22日付のファックスによると、米国訴訟のトライアル(公判)の期日が同年7月19日に決定されたとのことで、厳しい状況になっていた。米国の訴訟は公判前手続きは長いが、公判に入ってしまうと集中審理なのですぐ終わってしまう。米国訴訟の結論が出てしまうと(勝てば良いが)、日本の訴訟を維持していく意味が無くなってしまう。 その頃、米国では訴訟と並行して和解の話が出ており、1993年3月頃には、MGMからかなり具体的な和解の提案がなされていた。1993年4月になって、黒澤、MGM、東宝の間で進んでいた和解の話にユニバーサルも加わることになり(前述のようにユニバーサルは「七人の侍」に基づく長編映画を作りたがっていた。)、一挙に和解の話が具体的になってきた。5月には和解案の骨子が合意され、米国裁判所は、7月19日のトライアルの期日を日程から削除し、和解は決定的になった。 正式な和解契約が調印されたのは1993年11月18日のことで、この6ヶ月間に和解契約書案は日米の法律事務所の間をファックスで飛び交い、8回も書き直された。和解の内容については書けないが、黒澤側とすれば満足な和解であったと思う。日本の訴訟は、1993年11月25日に原告らによる請求の放棄という形で終了した。 1993年12月3日に、黒澤監督がある書面にサインをする必要があったため、事務所に来られた。その時に、訴訟を担当した弁護団と撮ったのが次の写真である。 (終) |