「乱」の製作準備は順調に進んでいるようであった。3月に入ってからの私の仕事は、「乱」の共同脚本家である小国、井出両氏との契約等細かいものになっていった。 3月23日には黒澤さんの73歳の誕生日会に夫婦で呼ばれた。淀川長治、仲代達矢等の黒澤さんと親しい映画人に加えてフランス大使館の人達も来ており、華やかで和やかなパーティーだった。黒澤さんの最後の作品である「まあだだよ」には主人公である内田百フの誕生日会の場面があるが、黒澤さんの誕生日会を彷彿させるものである。「まあだだよ」は黒澤さんが自分について、又はあらま欲しき自分について描いた作品だと思う。 「まあだだよ」はあまり評価されていない作品だが(誉めているのは淀川さんくらいか)、私は劇場で2回観て(今回改めてビデオでも観たが)、好きな作品のひとつである。「まあだだよ」が公開されてから黒澤さんが事務所に来られてお話をしたことがあるが(「七人の侍−日米訴訟合戦」参照)、私が「まあだだよ」が好きだと言うと、黒澤さんはとても嬉しそうにしていた。「まあだだよ」の中で門下生が数人百フの家に集まり酒盛りをする場面があるが、「あそこは乗杉さんに出てもらっても良かったな」と黒澤さんは言っていた。今頃言われても遅いのに、と思いながら「次回作では是非出さして下さい」と言ったが、それは不可能になってしまった。 「乱」の仕事の時は、黒澤さんと一緒に移動することも何回かあり、黒澤さんのベンツの後部座席で二人で話をする機会もあった。そのような会話の中で記憶に残ったものを幾つかあげる。数日前にテレビ放映した「七人の侍」の視聴率について野上さんが黒澤さんに報告していた。その後車の中で映画作品がテレビ放映される場合の問題について話した。私が、「テレビ放映されることも考えて映画を撮るのですか?」と聞くと、黒澤さんは「そんなことは全然考えていません」とはっきりと否定した。別な機会に、黒澤さんの戦時中の作品である「一番美しく」がとても良かったと言うと、黒澤さんは嬉しそうに「あの作品は若い女の子が沢山出て収拾がつかなくなるので、本当の女子挺身隊員のように工場の寮で共同生活をさせたのですよ」とその当時の話をしてくれた。この作品も一般にはあまり評価されていないが(むしろ黒澤さんの思想的な矛盾を突くための材料とされる傾向がある)、私は純粋な情熱を描くという黒澤さんの姿勢が端的に表現された傑作だと思う。 私はやくざ映画ファンであったので(百数十本は観ていると思う)、黒澤さんにやくざ映画について聞いてみた。黒澤さんは言下に「やくざは嫌いです」と答え、やくざというのが如何に卑劣な人間であるかについて長々と説明してくれた。結局やくざ映画についてのコメントは聞けなかったが、後に読んだ誰かの評論に黒澤さんはやくざ映画が大嫌いで東映の撮影所に行った時はやくざ映画の撮影をしているスタジオを避けて通ったと書かれていた。しかし、その黒澤さんが北野たけしを評価しているというのはどうしてなのだろうか。北野たけしの作品は、やくざをとてもリアルに描いていて(もっとも私は本当のやくざを知らないが)、鶴田浩二や高倉健の東映やくざよりも本物のやくざ映画だと思うが。 高倉健と言えば、彼が「乱」に出るという話があった。「乱」は仲代達矢演ずる一文字秀虎と3人の息子の話だが、次男の次郎正虎(根津甚八)の一の家来に鉄修理という人物がいる。この役は結局井川比佐志がやることになったが、当初は高倉健が本命だった。黒澤さんは詳細な絵コンテを描くことで有名だが、ある日「乱」の製作室を訪ねたときに黒澤さんに1枚の絵コンテを見せられた。それは武者姿の高倉健で、まぎれもなく高倉健だった。黒澤さんは「いままでに見たことが無い高倉健を見せてあげますよ」と言った。条件が会わなかったようでこの話は成立しなかった。後日、「乱」のプロデューサーになった原正人氏にこの絵コンテの話をしたら、原さんは、「健さんがその話を聞いたら喜んだろうになぁ。彼は本当は出たがっていたんだよ」と言っていた。 黒澤さんが書いた脚本の中に「黒き死の仮面」というものがある。これは、ペストが蔓延していた中世ヨーロッパを舞台にしたものだが、シルバーマンを交えてこの脚本の話をしたことがある。シルバーマンは、黒澤さんとブニュエルとのような関係を作りたかったようで、「乱」が成功すれば黒澤さんの次の作品もプロデュースしたいという気持があった。そこでこの脚本の話になった訳だが、黒澤さんは脚本のあらすじを説明し、最後の死の舞踏(ペストを表す死の仮面と装束を纏った踊り手が乱舞する場面)は自分にはとても撮れない、あそこだけはフェリーニに撮ってもらうしかないな、と言った。私はその時この脚本(手書きのもの)のコピーを貰ったが、ハリウッドあたりで映画化しようとする人はいないだろうか。多分「タイタニック」以上の製作費がかかるだろうが。 最後に不思議な話をひとつ。この話をどのような状況で聞いたのか思い出せない。黒澤さんと私の他に多分2人程人がいたと思う。シルバーマンではなく、久雄さんとか野上さんとか黒澤さんのとても親しい人だったような気がする。黒澤さんは、「僕はとても撮りたいシャシンがあるんですよ」と言った。「でもそれを撮ったら僕は殺されるかもしれない。僕だけだったら構わないんだけど、子供や孫が何をされるかわからないと思うととても出来ないんだなぁ」と言って口をつぐんだ。どういう脈略でこの話が出たのか憶えていないが、あまりにも重い話だったので、誰も「そのシャシン」が何であるかについては聞かなかった。今の日本で映画を撮ったら殺されるようなタブーはひとつしかないと思うが、それなのだろうか。黒澤さんはそれをどのように表現したかったのだろうか。黒澤さんについて書かれたものを読んでみても、この話に触れたものは今のところ見つからない。
3月24日にシルバーマンからテレックスが来た。とても重要な話があるので3月25日金曜日に電話で話したいとのこと。パリと東京との間には8時間の時差があるので、東京時間の遅い時間を指定してくれ、とのことだった。私は、金曜日の19時にオフィスに電話してくれ、とのテレックスを返した。その時間に電話を待っていると、シルバーマンの秘書から電話がかかってきて、シルバーマンは気分が悪いのでもう帰った、また連絡する、と言われた。その後この件についての連絡は来ず、3月28日付のテレックスでシルバーマンがゴーモンの社長のトスカンと一緒に4月11日から15日の間に東京に来るとの連絡が入った。このテレックスには、脚本がまだ長すぎるのでパリで何人かの作家に読んでもらいそのアイディアを提供したい、という黒澤さんへのメッセージが入っていた。このテレックスからは、異常な事態が発生しているという様子は全くうかがわれなかった。 その後の出来事については、4月26日に行われた製作延期の記者会見まで私のファイルには何の資料も綴じられていない。手帳を見るとその間何回も黒澤さんやシルバーマンと会っているようなのだが、記憶にない。我々渉外弁護士は時間で請求することから、仕事の内容とそれに要した時間を記録するタイムシートというものをつけているが、残念ながら昔のタイムシートは既に廃棄されており見ることができなかった。手帳によれば4月の12日と14日にシルバーマンと会っているので、彼は予定通り11日頃に来日したようである。多分彼が来日してから映画の製作資金をフランスから持ち出せなくなったということが我々に伝えられ、その対策のための協議が重ねられたものと思われる。尤もその間私は夫婦で2度もシルバーマンにディナーの招待を受け(1度はトスカン夫妻とも一緒に)、あまり緊迫した雰囲気がなかったような気もする。特にトスカンはまだ20歳ぐらいにしか見えないイタリアの有名監督の娘だという妻を連れて来ており、私の妻が4月の19日に彼女を東京案内に連れていっている。 あとでシルバーマンから聞いた情報をも交えて解説すると、3月25日の朝フランス政府が国外への資金の持ち出しを規制する方針を発表したとのことである。シルバーマンは「乱」の製作資金の約半分をフランスから持ち出す計画であったので、大きな影響を受けることになった。シルバーマンとゴーモンはフランス政府に働き掛けることによりこの難局を打開しようと努力したが、功をそうしなかった。 4月26日の午後4時から帝国ホテルのシルバーマンのスイートで製作延期の記者会見が行われた。次の写真はその時野上さん(?)が撮ったもので、中央に黒澤さんとシルバーマンが並びその横で私が通訳をしている。最初は私が2人の間に入っていたのだが、カメラマンから真ん中にいるのは邪魔だと言われ、横に動いた。 記者会見の時に神経を使ったのは製作の延期が黒澤さんとシルバーマンの意見の対立に起因するものではなく、フランス政府の為替管理という不可抗力によるものであることを印象づけるということであった。特にシルバーマンは黒澤さんが余計なことを言うのではないかと心配しており、記者会見の前に話す内容について書面で合意することになった。ファイルの中にはStatement by Mr. Akira KurosawaとStatement by Mr. Serge Silvermanと題したふたつの文書が綴じられており、黒澤さんとシルバーマン(及びトスカン)がそれぞれにサインしている。これらのstatementは私の手書きのもので、シルバーマンのstatementには彼の手書きの修正が加えられている。これをどのように作ったのか記憶がはっきりしないのだが、帝国ホテル内の「乱」の制作室(そこに黒澤さんがいた)とシルバーマンの部屋を行ったり来たりして作ったような気がする。シルバーマンの修正は、私が「製作から手を引く」と書いたのを「製作を放棄するのではなくとりあえず延期する」と直したものである。この点をめぐって最後までごたごたしていた。 シルバーマンとしては、既に金も時間も使っているので、このまま製作から手を引くことは出来なかった。黒澤側としては、シルバーマンの要求を我慢することにも限界があり、資金を出せないのであればすっきりと手を引いてくれたほうが有難いと思っていた。議論の末、この問題の決着は1983年6月末日まで先送りすることにし、その間双方で資金調達に努力することになった。その時締結された覚書によれば、シルバーマンはゴーモンと協力して日本を含む全世界で資金調達する権利を有し、黒澤側は日本国内でのみ資金集めが出来ることになった。
1983年5月は何事もなく過ぎていった。シルバーマンからは何の連絡もなく、黒澤側も特に出資者を探すこともせずに待っていた。私が仕事をした「戦場のメリークリスマス」が5月28日に一般公開され、5月20日には原作者であるサー・ローレンス・ヴァンデルポストを招待したパーティーに出席した。 6月15日になってシルバーマンから、次の電報を黒澤さんに打った、というテレックスが私に届いた。
野上さんから電話があり、黒澤さんは全く身に憶えのないことなので怒っており、すぐにシルバーマンに電報を打つと言っている、とのことだった。ファイルの中には、黒澤さんが書いた手紙の原稿が綴じられている。
この手紙は黒澤プロダクションの誰かが英訳し、6月16日に発信された。 6月22日にシルバーマンから黒澤さんへ電報が届いた。それは「私はこの電報をゴーモン エスエー及びグリニッチ フィルム プロダクション エスエーの名前でお送りします。」という言葉で始まっていた。シルバーマンによれば、黒澤さんも知っているロサンゼルス在住のK氏と電話で話していた時に、K氏が突然、「乱」のビジネスについて話をしたいと黒澤さんの息子の仕事仲間であるW氏が連絡をして来たと言った、とのこと。K氏は長年の友人であり絶対に嘘をつかない人であると言い、黒澤さんに対して、「貴方は騙されているのかそれとも7月1日以前に勝手に動くことに決めたのか」と書いた。 黒澤さんはすぐW氏とK氏に問い合わせ、次のような事実が判明した。1983年5月21日に、K氏が黒澤さんに対して、映画「天国と地獄」のリメイク権を黒澤さんが持っているかどうかについて電報で問い合わせた。それに対してW氏が返事を書き、リメイクについては原作者であるエド・マクベインの了解を得る必要があると述べ、W氏が6月中旬から1ヶ月間ロサンゼルスにいるのでその際話をしたいと書いた。K氏からはこの事実を確認する電報が黒澤さんに入り、その中でK氏は次のように述べている。
私は以上の事実を伝えるテレックスをシルバーマンに送り、その中で黒澤さんからのメッセージとして次のように述べた。
上記のいきさつについて説明するテレックスがK氏からシルバーマンにも送られ、この件はシルバーマンの早とちりであるという事が明らかになった。シルバーマンからは6月24日付で私にテレックスが入り、黒澤さんへのメッセージを伝えてきた。その中でシルバーマンは、何故黒澤さんが自分に対して怒っているのかわからないと言い、自分は率直に思ったことを聞いたにすぎないと言った。シルバーマンは更に、思っている事を忌憚なく伝える事がお互いの尊敬と友情のために不可欠である、と述べた。黒澤さんはこのシルバーマンの尊大な態度にますます怒りがつのり、とてもこれで一件落着という訳にはいかなくなってきた。この頃の私の手帳を見ると、黒澤さんの御殿場の電話番号、野上さんの電話番号、それに大橋さんのホテルの電話番号が書かれており、電話で連絡を取りながら対応していたようである。 怒りがおさまらない黒澤さんが考えたのは、トスカンにこの事情を伝えるという事で、黒澤さんはトスカンならわかってくれると思っていた。ファイルには、野上さんの筆跡で書かれた黒澤さんのトスカンに対する長い手紙の原稿が閉じられている。このような手紙を直接黒澤さんがトスカンに送ることの是非についてはいろいろと意見があり結局私がシルバーマンとトスカンの両名に対して黒澤さんの気持を代弁するという形でテレックスを送ることになった。その内容については、私の作文をたたき台として、野上さんと会議をして決めた。 私はテレックスの冒頭に、テレックスをシルバーマンとトスカンの両者に送る理由として、その内容が「乱」製作の基本的問題に関していることと、シルバーマンの6月21日付のテレックスの差出人がゴーモン エスエーとグリニッチ フィルム プロダクション エスエーの両者になっていたからであると述べた。次に今回の出来事を要約し、それがシルバーマンの一方的な誤解であったことを明確にした。そして黒澤さんがシルバーマンの釈明に納得していない理由としては次のように述べた。
更に黒澤さんの言葉として次のように書いた。
更に私の意見として黒澤さんの意を体して次のように述べた。
この他映画の製作資金について、フランス側でどれだけの資金調達が出来たのか、フランスの為替管理法の問題がその後どうなったのか、等について聞いた。このテレックスは6月28日に発信された。
私はシルバーマンが素直に謝ってくるとは思わなかったが、明らかに彼のミスであったので、多少は下手に出てくるのではないかと思っていた。ところが、6月30日付で次のテレックスが来た。
この内容は黒澤さんにすぐに伝えられたが、黒澤さんは、何故このような返事が来るのか、と驚いていた。それは私にしても同様であり、薬が効きすぎたのかと思った。この文章は明らかに弁護士が書いたもので、喧嘩を想定したものである。私の黒澤さんへの説明としては、彼等は我々が名誉毀損の訴訟でも起こそうとしていると考えているのではないか、というものであった。確かに、理屈から言えば、謝って済むものではないといった後には「だから金を払え」という言葉が続いてもおかしくはない。こちらとすれば、言い訳ばかりしていないでちゃんと謝れ、と言ったつもりなのだが、下手に謝れば金を取られると考えるのが日本以外の常識かもしれない。 野上さんといろいろ相談した結果、あの事件については相手をこれ以上追いつめることは止めるが、映画の製作資金についてははっきりとした回答をもらおう、ということになった。かくして、あまり歯切れの良くないテレックスを7月4日に打つことになったが、その最後にシルバーマンに宛てて、明日電話をする、と付記した。文書の往復だけだと一旦悪くなった関係をもとに戻すことは難しく、直接話をすることが必要になる。この時シルバーマンとどのような話をしたかは覚えていないが、いつものパターンだと、シルバーマンの長い愚痴を聞いたあとで適当に持ち上げながら本題に入っていく。今回の問題は、根本的な利害の対立に根差しているものではなく、えらい老人同士の意地の張り合いの感があったので、私が適当に脚色して双方の言葉を相手方に伝えることで何とかかたがつく。 |
1983年7月18日、何事もなかったかのようにサージ・シルバーマンとウリー・ピカールは来日した。ファイルの中にシルバーマンのスケジュールのメモがあるが、7月23日までの滞在中に大島渚監督とも夕食の予定があったようである。 手帳をみると、私は7月18日にシルバーマンからディナーに招待されたようであるが、全く記憶がない。翌7月19日火曜日に黒澤明、野上及び大橋の各氏と帝国ホテルの1615号室を訪ね、シルバーマン及びピカールと会議をした。その時は、シルバーマンが「乱」の製作にその後どのように係わっていくかについて話し合われ、シルバーマンはゴーモンと一緒に350万ドルの資金を提供するつもりであると言った。但し、この350万ドルは前に述べたネガティブ・ピックアップの条件で提供されるもので、ネガが完成するまでの資金手当ては黒澤側がしなければならないことになった。この会議の席上、シルバーマンは黒澤さんに対してYou will be your own bossと度々言っていたが、相変わらずプロデューサーであるかの如く製作の細部について色々と注文を付けてきた。特に問題となったのは、シルバーマンが、映画の日本国内での配給から得られる製作者収入のうち東宝のMGを超えた分の50%を要求してきたことだった。黒澤側としてはネガティブ・ピックアップの条件でのMGがいくらあっても自己資金では製作を賄えないので、新たにスポンサーを探す必要があった。そのようなスポンサーが、シルバーマンの言う条件をのむかどうか分からないので、回答は留保するしかなかった。 次の写真は、その会議の時のものだと思う。左にシルバーマン、ソファーに私と黒澤さんそして右端に大橋さんの姿が見える。 7月22日金曜日にはシルバーマンとのディナーがあった。次の写真はその時のもので、黒澤さんの左にいるのが私で、右にいるのが川喜多和子と大橋喬。黒澤さんの正面にいるのがシルバーマンである。 前に書いたように、黒澤さん達との最初のディナーの時には、私は部外者であり、別の世界を覗き見ているという感があった。それから8ヶ月経って、私は黒澤さんとシルバーマンの会話を通訳することになり、それだけでなく彼等と同じ世界の人間であるかのように振る舞うようになっていた。前のように、スターの中に紛れ込んでしまったという違和感は無くなり、私自身がスターであるかのように錯覚していた。
パリに帰ったシルバーマンから7月28日付の長いテレックスが来た。それは東京での合意を確認するというものであったが、こちらの立場は、スポンサーがまだ見つかっていないこの段階ではシルバーマンとの「合意」は出来ないというものであったから、そもそも前提からして違っていた。更に、東京での話し合いで触れられなかったことが幾つも合意されたものとして書かれており、また、表現としても黒澤さんの要請に応じてシルバーマンが助けているというニュアンスが強く出ていたので、とても黒澤さんに見せられるものではなかった。野上さん、大橋さんと相談した結果、これを黒澤さんに見せたら怒ってしまい、また大騒ぎになるという事になり、シルバーマンにテレックスを書き直してもらおうということになった。私からの私信という形でテレックスを送ったところ、8月19日になって私への私信という形でシルバーマンから返事が来た。この中で彼は次のように述べている。
シルバーマンの「黒澤さんは人間を恐れている」という指摘は一面の真理をついており、確かに黒澤さんは過剰防衛になることがあった。周りにいる人間も、黒澤さんが傷つき易い人であるということが判っているから、なかなか本当のことを伝えなくなる。そのようにして隠されていた情報が他のルートで黒澤さんに伝わったりすると、黒澤さんは周りの身近な人間に裏切られたと思ってしまう。このような悪循環のあげく、黒澤さんが信じられるのは家族だけになってしまう。この当時聞いた噂では、久雄さんと野上さんの間がうまくいっておらず、黒澤さんが久雄さんの言うことばかり聞くので、野上さんが疎外されているということであった。根拠のない噂なのかもしれないが、ありそうな話ではあった。シルバーマンは、久雄さんのことが嫌いだったから、野上さんにアプローチすることになり、野上さんとしてもやりにくかったろう。 東京会談で何が合意されたかについては、テレックスでは解決できず、私がシルバーマンと電話で話をすることになった。シルバーマンは野上さんも一緒にいるようにと言ってきたので、8月24日の夜7時、事務所で野上さんと電話を待っていた。2時間待ったが電話はかかってこなかった。 翌日シルバーマンから、昨日は電話をかけられなかったという愛想の無いメッセージと共に新たな日時を指定するテレックスが来たが、我々はそれには構わず、黒澤さんからのメッセージを伝えるテレックスを送ることにした。黒澤さんからのメッセージは、「乱」の製作については、スポンサーが見つかってからゴーモンと話す、というものであった。そして、スポンサーは、黒澤側を介してではなく、直接ゴーモンと話をするであろう、と述べた。黒澤さんとしては、うるさく注文を付けてくるシルバーマンを抜きにして、口を出さずにお金だけ出してくれる(とまだ思っていた)ゴーモンとだけ話したかったのだ。このテレックスに対しては、ゴーモンのトスカンから私に、黒澤さんへメッセージを伝えるようにとのテレックスが返ってきた。トスカンの立場は、シルバーマン抜きで「乱」の話を進めることは出来ないというものだった。 黒澤側のスポンサー探しがどのように行われていたかについては、私の知るところではなかったが、私もそれなりに心配していた。私のクライアントで映画に金を出してくれそうな所は殆ど無かったが、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の時に松竹の奥山融副社長に会ったことを思い出した。野上さんに聞いたところ松竹にはまだ声をかけていないということで、「私から聞いてみていいですか?」と言うと「別にいいんじゃないかしら」ということだったので、電話をした。奥山さんに電話をすると、話を聞いてくれて、取締役と相談してから返事をする、ということになった。数日してから電話があり、「黒澤監督についてはお手伝いをしたいのだが、久雄さんがいるのが問題だ」と言われた。ここでも久雄氏の評判は芳しくなかったようで、それを理由に(または口実に)断ることを勧めた人がいるようだ。久雄さんが映画の仕事にタッチしたのは「乱」が初めてだとのことで、この当時はまだタレントとしてのチャラチャラした印象が抜けていなかったのだろう。 私の印象では、久雄さんはビジネスマンとして優れた才能を持っていたと思う。頭の回転は速く、論理的である。黒澤明氏は、私の翻訳した契約書を長いこと眺めて、「僕はこういうのが全然駄目なんだなぁ」と言って法律的な文章は全く頭に入っていかないようだったが、久雄さんはとても理解が速かった。ずっと後の話になるが、東宝との和解交渉をしていた時に、どう対応したらいいか悩んでいた問題があって久雄さんに相談したことがあった。久雄さんは即座に、ちょっと強引だが明快な対応を示してくれて、それが通ってしまった。久雄さんはニッと笑って「僕は弁護士になったら結構やれるんじゃないかなぁ」と言ったが、本当にそうだと思った。久雄さんは黒澤明の息子であるということで損をしているところがあるかもしれない。
私の関知しないところで「乱」のスポンサーは決まった。久雄氏が日本ヘラルド映画の古川勝巳社長と話をし、ヘラルドグループが全面的に支援をすることになった。具体的には、日本ヘラルド映画株式会社の子会社である株式会社ヘラルド・エースが製作会社になることになった。ヘラルド・エースの社長は原正人氏であり、前述のように黒澤監督を紹介してくれたのは原氏であった。当然のように原氏は、今度は私がヘラルド・エースの代理人としてシルバーマンと交渉を続けるように依頼し、黒澤さんもそれを望んでいたので私は喜んで承諾した。 日本ヘラルド映画は黒澤さんの「デルス・ウザーラ」(1975モスフィルム)の日本配給を担当しており、その後黒澤さんが脚本を書いた「暴走機関車」をユーゴで撮る話も日本ヘラルド映画が手掛けたが、これは実現しなかった。「ヘラルド」という名前から外資系の映画会社であると勘違いする人がいるが、日本ヘラルド映画は純粋な日本資本の会社である。名古屋が発祥の地で、パチンコ店経営に成功して、それから映画配給に乗り出した、ということを聞いたことがある。ヘラルド・エースは、日本ヘラルド映画の完全子会社ではなく、原さんが3分の1程の株を持っており、従って原さんは単なる雇われ社長ではなく、時には日本ヘラルド映画と喧嘩をしながらこの仕事を進めていった。 原さんは、10月31日、11月1日の2日間パリでシルバーマンと話合い、私はその時原さんが作ったメモを英語に直しシルバーマンとの東京での会議に備えることになった。ヘラルドとシルバーマンとの契約には、黒澤さんが一方の当事者であった場合とは異なる別な難しさがあった。黒澤さんの場合には、シルバーマンが映画の芸術的な部分に口を出してくることを阻止し、黒澤さんが自由に映画を作れる環境を作ることに留意していた。ヘラルドの場合も同様な問題が残ったが、それよりも重要だったのはどのような条件でシルバーマンに金を出してもらい、またヘラルドとシルバーマンがどのように映画から得られる収入を回収(recoup)していくかであった。製作予算は1,050万ドル(当時の為替レート$1=¥240で25億円)であったがそのうち350万ドルについては日本を除く全世界での配給権と引き換えにシルバーマンが支払うことになっていた。しかし、前にも述べたように、この350万ドルはネガティブ・ピックアップの条件で支払われるもので、ヘラルドとしては、映画を完成しネガを提供したがシルバーマンが支払ってくれない、というような事態になっては困る。そこで、ヘラルドは、シルバーマンに対して350万ドルのL/Cを開設してくれるよう要求することになった。このようにすれば、ヘラルドはネガを提供すれば、必ず銀行から350万ドルを支払ってもらえることになる。これに対し、シルバーマンは、L/C開設を承諾する条件としてヘラルド側の製作予算1,050万ドル全部についての銀行保証(bank guarantee)を要求し、且つ、初号の納品が遅れた場合にはペナルティーが課せられることを要求した。シルバーマンは11月8日に来日し、私はヘラルドの井関惺氏と11月11日の4時に帝国ホテルのシルバーマンを訪ねた。 その後、原、井関、シルバーマン、ピカール及び私のメンバーでの会議が4、5回行われ、11月25日にはMemorandum of Agreementがサインされた。このMemorandum of Agreementは正式契約が調印されるまで拘束力を有するものとされ、次の内容を含んでいた。
面白いのは、"Mr. Silberman will have no difficulty in discussing with Mr. Akira Kurosawa on any problem of artistic point of view including the music." という文章が契約の中に含まれていることで、これが法律的に意味があるかは疑問だが、シルバーマンの強い要求に応じて入れたという記憶がある。 サインされたMemorandum of Agreementは私が一旦預かり、シルバーマンのニューヨークの弁護士がその内容を確認した後契約当事者にオリジナルが1部ずつ渡された。正式契約は、ニューヨークで詰めの交渉をし、締結することになったが、原さんは映画の準備で忙しいので、私が原さんの委任状を持ってニューヨークに行くことになった。私は、Memorandum of Agreementに基づいて正式契約の案を作り12月15日にシルバーマンに送った。しばらくして、シルバーマンからテレックスによるコメントが来たが、この中でシルバーマンはヘラルドが1,050万ドルの資金を有しているという銀行の確認書に関する条項がMemorandum of Agreementと違っていると言ってきた。私が作った正式契約の文章はMemorandum of Agreementと一言一句違いがなかったので、その旨シルバーマンに伝えたが、嫌な予感がした。ヘラルドとGreenwichの共同製作による「乱」の製作発表記者会見は12月12日に盛大に行われ、黒澤さんも原さんも契約が実質的に完了したものと思い映画製作に全力を傾注していた。 |
私のニューヨーク行きは、1984年1月15日から19日に決まった。年が明けてから、その準備のための会議がいくつも入って忙しくなった。その時点での「乱」製作公開スケジュールは次のようなものだった。
1月12日に原、井関の両氏と会議をした。原さんが心配していたのは、11月25日にサインされたMemorandum of Agreementの内容が正式契約にそのまま盛込まれることを前提に各方面と話をしていたので、それが変わることになれば信用問題になる、ということだった。特にGreenwichの提供する350万ドルに銀行保証が付いていることは重要な要件だった。これが確保されないと、銀行はヘラルドに金を貸さないだろうし、東宝との配給契約や、フジテレビとのテレビ放映権の契約も締結できないことになる。私は、12日の夜シルバーマンに電話をして原さんのメッセージを伝えた。シルバーマンは、Memorandum of Agreementの内容が変えられることはないと約束し、銀行保証は2月末日までに取得できると言った。 ニューヨークには、井関氏も一緒に行くことになった。シルバーマンが、定宿のピエールホテルを紹介してくれて、割引料金で泊まれることになった。15日日曜日の午後成田を立って同日の午前中にニューヨークに着いた。ピエールは、ヨーロッパ風の外観の高級ホテルで、セントラルパークを見下ろす場所にある。ホテルで少し休んでから、シルバーマンの弁護士であるモスコビッツの事務所へ行った。モスコビッツの事務所はパークアベニューに面した大きなビルの中にあり、弁護士数2、300人の比較的大きな事務所だった。モスコビッツは、ゴルバチョフに似た風貌の男で、シルバーマンとは昔からの知り合いのようで、スイスの大きな製薬会社をクライアントとして持ち、シルバーマンの仕事は安くやってくれていたそうだ。次の日は、朝9時半から夜10時頃まで会議をし、東京の原さんに電話をし、更に契約書の修正案を作って12時に寝た、と手帳に書いてある。 先ずびっくりしたのは、モスコビッツに渡された正式契約のドラフトがMemorandum of Agreementの内容と大幅に異なっていたことだった。350万ドルの銀行保証については、それを提供することの条件として、ヘラルドも1,050万ドルについて銀行保証を提供するとしていた。Memorandum of Agreementでは、ヘラルドは1,050万ドルについては残高証明書を出せば良いとなっていたのだが、モスコビッツは、瞬間風速的にそのような金額がヘラルドの口座にあったとしても何の意味も無いという。確かにその理屈は正しいが、そもそもこのプロジェクトはヘラルドが実質的な製作会社で全てのリスクを負担して行うものなので、そのような立場にある者が残高証明書を出すことでさえ不必要なことである、というのがこちらの立場であった。他の部分については次第に合意が成立し、ドラフトを何回かやり取りするうちに形が見えてきたが、このヘラルドの銀行保証の問題は最後までもつれた。交渉の最終日である17日火曜日は、夕方までモスコビッツの事務所で会議をし、晩飯を食べた後(確かシルバーマンのスウィートで豪華なルームサービスを食べたはず)シルバーマンの部屋で最後の交渉をした。私とシルバーマンと井関さんの他にモスコビッツの事務所の若い日系のアソシエートが加わった。12時近くなって、シルバーマンはとうとうヘラルドは残高証明書を出せば良い、銀行保証はいらないと言い、それをアソシエートが書き取るのを確認してから、部屋に帰った。 翌18日の東京行きの便は昼すぎにニューヨークを出発することになっていたので、私と井関さんは朝早くモスコビッツの事務所に行った。夜通し作業したらしく、修正された契約書が用意されていた。契約書を見る暇もなく、我々はシルバーマン、モスコビッツとの会議に臨むことになったが、そこでも保険等の件について色々な議論が出て、飛行機の時間ぎりぎりまで交渉が続いた。その間私は、この交渉を通じて相手方が信用できないという感じを抱いていたので、契約書に何か仕掛けがされているのではないか(例えば後ろの方の目立たない所に新たな条項が加えられていたり)と思い、議論をしながら契約書の後ろの方から読んでいた。しかし、色々と新しい問題が提起されるので集中できず、全部見終わる前にタイムアップとなった。最後に、この契約の内容で良いか、と聞かれたので、私は、ヘラルド映画とヘラルド・エースに確認をしてもらわないとサインは出来ないと言った。委任状は持っていたが、あまりにも内容が変わってしまったのでとてもサインできる状態ではなかった。結局、私とシルバーマンが契約書のドラフトにイニシャルをし、モスコビッツの事務所が契約当事者全ての確認を得るまで契約書は預かるということになった。 ニューヨークは、私達が滞在していた間ずっと大雪で、飛行機が飛び立てるかどうか心配だった。私は当時貧乏だったので、デパートのバーゲンで買った1万円のコートを着ていたが、とても寒かった。シルバーマンの50万円の(と野上さんが言っていた)コートと並べて掛けられるととてもみすぼらしかった。時間を気にしながら、井関さんと私はタクシーで空港に向った。
出張の帰りは楽しかった。行きは試合に臨むスポーツ選手のような気分で、相手がどのように出てくるかを想像し、それに応じた作戦を考える。契約書や資料も読まなければならず、酒に酔っている暇はない。帰りは、特に良い仕事をした時は、ゆったりと満足感に浸ることができる。 私は、ウォッカをロックで飲みながら、東京に帰ってからのスケジュールをぼんやりと考えていた。井関さんは真面目なので、隣の席で契約書を読んでいた。「乗杉先生、ここ直っていませんね…」井関さんが、契約書の第4条のところを指さして言った。 そこには、ヘラルドが1,050万ドルにつき銀行保証を提供する、と書いてあった。「えっ!これは今朝もらった契約書ですか?」契約書の日付は1984年1月18日となっていた。間違いない。昨日の夜あれだけ議論して、シルバーマンは残高証明書でいいと言ったのに、全く直っていなかった。 「これは何かの間違いでしょう。直し忘れただけでしょう。」とは言ったものの、相手が相手なので、不安が残った。一番大事なところなのに何故最初に確認しなかったのだろう、と思ったが、もう遅かった。リラックスできる筈の帰りのフライトが急に重苦しいものになり、一刻も早く東京に帰って疑問を解消したいと思った。しかし、ついていない時はどこまでもついていないもので、成田に着く直前に機長のアナウンスがあり、成田は大雪のため着陸できないので名古屋に向かう、と言った。 名古屋に1泊し東京に帰り、すぐモスコビッツにテレックスを打ったが、クライアントと連絡がつかないので答えられない、という返事が来た。そうこうするうちに、シルバーマンが東京に立ち寄ることがわかったので、直接彼に確認しようと思った。1月26日帝国ホテルでシルバーマンに会ったが、弁護士に聞かないとわからないと逃げられてしまった。2月1日になってモスコビッツから返事が来たが、変更が合意されるまではニューヨークで確認した契約書が生きる、と言うのみで、とりつく島が無かった。更に、こちらが住友銀行と協議の上作成した残高証明書については、まったく問題にならないという。少なくとも「1,050万ドルは常に映画製作のためにヘラルドが使える」となっていなければならないとのこと。その後何度もテレックスを取り交わしたが、その度に相手方の要求が変わってきて、それまでの話には出ていなかったフランス銀行やThe French Centre de Cinema(国際共同合作を許可する委員会だそうだ)を満足させるものでなければいけない、等と言い出しその都度住友銀行と協議を重ねることになった。 2月末日(この年は29日まであった)になってやっと住友銀行が発行するレター(残高証明書にかわるもの)の文言についての合意が成立し、この問題はひとまず解決した。しかし、3月1日にモスコビッツから来た保険等に関して無理な要求を突きつける高圧的なテレックスの中に、ヘラルドサイドの対応の遅れを非難する部分を見て我慢できなくなった。全ての遅れの原因はヘラルドがニューヨークで合意された契約の条件に従った銀行保証を取得できず、それに変わるものを彼らがフランス銀行やフランス当局と交渉して何度も提案しなければならなかったことにある、というのだ。私は次の日モスコビッツにテレックスを送り、私個人として彼の言葉に怒りを覚えると書いた。1月17日の夜のシルバーマンとの交渉について詳述し、次の日の朝は契約書を検討する時間などなかったと言った。更に、その後こちらが何度も1月17日の夜成立した契約の内容についてシルバーマンに確認するように言ったにも拘らず、モスコビッツがそれに1度として正面から答えなかったのは、何が合意されていたかを彼自身が了解していたからだと言った。そして、このような態度はシルバーマンが常日頃から言っている率直に(open cards)で話し会うというポリシーに反しているのではないかと述べた。これに対して、今度はモスコビッツの下でこの交渉に参加した2人の弁護士(1人は1月17日のシルバーマンとの会議に立ち会った日系弁護士)からテレックスが来て、1月18日の朝契約書にイニシャルした時には、私はその内容を了解していた筈だ、と言ってきた。私は、しつこいとは思いながら、今度はこの2人の弁護士にテレックスを送り、(1) 1月17日の夜シルバーマンのスウィートで成立した口頭の合意は何であったのか、また (2)その口頭の合意が翌日作成された契約書の内容と異なっていたならば、その理由は何か、と尋ねた。これに対して、二人から別々にテレックスが来て、立ち会った日系弁護士は、自分がサイン用の契約書を作成した時には、前日の夜成立した合意を正確に反映していると思っていた。しかし、交渉が行われたのは夜遅くであったので記憶が違っていることはあり得る、と言った。私は、そろそろ矛を治める潮時と思い、二人宛てにテレックスを送り、二人の回答には満足しており、これ以上は追及しない、特に立会人だった日系弁護士を苦境に立たせるつもりはなかった、と言った。 銀行保証か残高証明書かという問題は解決していたので、既に歴史的事実となってしまった事柄について私が相手方の弁護士と喧嘩をしたのは蛇足か、かえって有害だという考え方もあるだろう。しかし、この後まだ延々と続いていった交渉全体を今振り返ってみると、あの時点で怒ってみせた(実際に怒っていたのだが)ことはそれなりに意味があったと思う。もう一度実際何があったのかを推測してみると、1月17日の夜の合意の内容をあの日系弁護士は正確に契約書に反映しようとしたのだと思う。しかし、それを見たモスコビッツはヘラルドの銀行保証については譲歩すべきではないとシルバーマンに助言し、シルバーマンも考え直した。ここで、本来ならばシルバーマンは昨日言ったことは撤回する、と我々に伝えるべきだった。しかし、彼とモスコビッツはそのようにせず、契約書の条項を彼らの主張に沿う形で残したまま我々に最終合意として提示した。そこで我々が気が付けば、彼らは一から議論をし直す気だったのだろう。ところが我々はそれに気が付かなかった。そこで彼らは優位に立ったと思い、強気で交渉してきた。 私は、1月17日の夜の合意内容が明らかになれば全てが解決すると思い、その確認を求めた。しかし、彼らは「何が合意されたか」という問題を巧妙に避けて、契約書に書かれていることが合意の筈だ、という立場で押してきた。何故彼らはこのように対応してきたのだろうか。契約書の表現だけではなく、その前提となる前夜の話し合いの中でも銀行保証が合意されていた、としたならば彼らの主張は一貫したものとなっていた筈だ。しかしこのような主張をするならば彼らは明らかに嘘を言うことになる。もっとも何れの側が嘘を言っているかは、第三者を交えない話し合いの中でのことなので、立証は困難である。何が合意されたかの唯一の証拠は次の朝両当事者が一応確認しイニシャルを付した契約書のみである。日本の裁判所でこの問題が裁かれ、両者が何れも相手方が嘘を言っていると譲らないとすれば、我々の立場は弱いと思う。アメリカの裁判手続が日本のそれと大きく異なるのは、ディスカバリーという制度があることで、ディスカバリーの一つである文書提出請求(Request for Production of Documents)を用いることによって相手方が所持している紛争に係わる書類の提出を求めることが出来る。提出すべき書類の中にはメモも含まれ、例の日系弁護士がとっていた会議のメモも提出せざるを得なくなる。このように、アメリカで裁判になることを考えた場合嘘をつくというのは大変危険なことである。彼らは多分ここまで考えて対応策を決めたのだろう。 1月17日の夜の会議に立ち会っていた日系弁護士が直接連絡してきたことは私にとってはまさに渡りに船であった。その晩いなかったモスコビッツを相手にしていたのでは埒があかず、張本人のシルバーマンは弁護士に聞けと言って逃げるので、堂々巡りであった。日系弁護士はその夜何が話されたかを克明に記録しており、知らないと言って逃げる訳にはいかず、また弁護士に聞けと言って回答を拒否できる立場にもなかった。従って彼の回答は苦し紛れの迫力の無いものにならざるを得ず、私は一本取ったと思った。私としては、あそこまで追求すればその後の交渉で甘く見られることはないと思い、一応の目的を達した。 |
その後も次々と問題が発生し、喧嘩をしながらの交渉が続いていった。3月になり、山積した問題を一挙に解決するために、原さんと私はパリに行ってシルバーマンと交渉しようと考えた。しかし、出発直前になってモスコビッツからテレックスが入り、シルバーマンは自分なしには法律的な話は一切しない、と言ってきた。モスコビッツが会議に参加するためには、ヘラルド側が彼の報酬と費用として15,000ドルをすぐに振込む必要がある、とのことであった。我々はこの提案に呆れ果て、結局原さんが一人でパリに行きシルバーマンと話をすることになった。この話合いの結果は、5月になって共同製作契約の第1回の修正契約として確認された。 「乱」の契約は映画の題名のとおりにもつれていたが、黒澤さんはこのような煩わしさから解放され、映画「乱」は6月2日にクランクインした。6月は主に黒澤フィルムスタジオにてのセット撮影であった。6月21日に井関さんから電話があり、23日の土曜日に「乱」に出演しないかと言われた。一文字太郎(根津甚八)の郎党のエキストラだが多少歳をくった人間が必要だとのこと。ヘラルド・エースに声がかかり、井関さんをはじめ何人かの社員が出演するという。ヘラルド・エースが発行した「黒澤明監督作品乱記録 '85」中の製作日誌の6月23日(土)の項には次のように書かれている。
6月23日は、朝5時過ぎに起きて6時に家を出て渋谷経由で青葉台へ行き、待っていた緑色のコダックの名前の入ったバスに乗って黒澤フィルムスタジオへ向かった。スタジオの2階に着替えの部屋があり、そこで井関さんに会った。着替えを終えた後3階へ行きメークをした。合戦の後郎党が大広間に集まる場面だったので、頭はざんばら髪で、ドーランは土ぼこりにまみれたような色を塗った。その後1階のスタジオに行き鎧を着けた。予想外に重かった。9時半頃に黒澤さんが来るというので、鎧を着け終わった井関さんと一緒に2階のスタッフルームに行った。やがて、野上さんも来たので、写真を撮ったりコーヒーを飲んだりして待っていた。井関さんは途中でスタジオに降りて行き、野上さんと二人で待っていたが、なかなか黒澤さんは現れなかった。やがて、黒澤さんは既にスタジオで人を並べていることがわかったので、野上さんと一緒にスタジオに降りて行った。 スタジオの中央には巨大なステージがあり、既に鎧姿の数十人のエキストラがコの字型に配置されていた。ステージのすぐ横に高い櫓があり、その上で黒澤さんが指揮をしていた。野上さんが櫓の下から、「乗杉さんが来ました」と言うと、黒澤さんはけげんな顔で私の方を見て一応挨拶した。私がステージに上がろうとしていると、後方で、「あれは誰?」「弁護士の乗杉さんですよ」「えっ、誰が乗杉さんなんか呼んだの?」「乗杉さんがどうしても来たいというものだから・・・」という会話が聞こえた。
私は、どこに居たら良いのかわからなかったので、武者が一番密集している辺りに座り込んだ。すると、黒澤さんが近付いてきて、「そこじゃだめだよ。乗杉さんをもっと良く映るところに連れて行きなさい」と誰かに指示した。さらに、「そうだ、その3人組の後ろがいい」と黒澤さんは言って、私は柱の横の一番いい場所に連れて行かれた。その近くの武者たちは、こいつは何者か?という顔で私を見た。
午前中の撮影は、一文字次郎の正室楓の方(原田美枝子)を正面から撮る方向―コの字型に並んだ武者の背後−にカメラを据えて始まった。楓の方が入場したときに一同礼をするというシーンだった。黒澤さんがステージの上を歩いて来て、「乗杉さんよく似合いますよ。全然わからなかった」と言った。午前の撮影は12時半頃終った。
昼食の弁当が配られ、スタジオの裏で木箱に腰掛けて皆で食べた。午後の撮影は1時半頃から始まったが、コの字型であった武者は私の列を除いてお役御免となった。カメラは私の正面と左側にあった。楓の方と太郎の会話の場面で、黒澤さんから、後方の武者も目の動きに気をつけるようにと指導があった。黒澤さんの、「本番はカチンコ二つで行くよ」という声が響いた。つまり、ABCの三つのカメラで撮って、そのうち2台が一箇所にあるのでカチンコ二つになるそうだ。2回本番を撮り両方OKとなった。黒澤さんが近付いて来て、「乗杉さんがどんなに撮れているか見てみよう」と言って一台のカメラを覗き込んだ。黒澤さんは私の方を見て、「あまりはっきり撮れてないなあ」と言って苦笑いした。
撮影が終わり、私は井関さん達と黒澤フィルムスタジオ内のレストランでビールを飲み、帰る前に黒澤さんに挨拶しようと井関さんと一緒にスタッフルームに行った。その日はスタジオ撮影の最終日だったので、スタッフルームでは皆が打上げパーティーの準備をしていた。黒澤さんが、一緒に飲んでいきましょうよ、と言ってくれたので、残ることにした。 本多猪四郎監督(「ゴジラ」の監督として有名で、「乱」では演出補佐として参加していた)が、乗杉さんはこっちへ、と言って黒澤さんのとなりの席を指した。黒澤さんを囲むグループには、斎藤孝雄(撮影)、村木与四郎(美術)、矢野口文雄(録音)等の黒澤組の錚々たるメンバーが揃っており、後で、根津甚八、原田美枝子の御両人が来て黒澤さんの向い側の席に座った。黒澤さんを囲んだのは12,3人で、他に30人位のスタッフがパーティに参加していた。 宴はまもなく黒澤さんの独演会となり、皆が黒澤さんの話を拝聴するかたちになった。根津さんはほとんど居眠りをしていた。黒澤さんは上機嫌で、やがて勲章の話になった。これまでに貰った勲章にまつわるエピソードを話し、3つめの勲章の話が終わったところで、ある国(東欧の方だったと思うが忘れた)でパーティーに招待された時その国の政府からこれまでに黒澤さんが貰った全ての勲章を着けて来るように言われた、という話をした。黒澤さんは、そんなに勲章を沢山着けたら重くてたまらないよ、と言って笑った。私はその時、胸いっぱいに勲章を着けた黒澤さんの姿を想像した。そこで気がついたのは、これまでの黒澤さんの話の中に全部で幾つの勲章を貰ったかということが出てきていないことだった。きっと山ほど勲章を貰っているのだが、黒澤さんは謙虚だからそのうち3つについてだけ話をしたのだ、と思い込んだ。そして、その山ほど貰った勲章の数を本当は言いたいのではないか、誰かが聞いてあげるべきではないか、と考えた。皆黙ってお話を拝聴しているだけなので、そのような(黒澤さんが喜ぶような)質問を出来るのは私しかいないのではないか、という考えにとりつかれた。そこで、タイミングを見計らって「先生はこれまでに幾つ勲章を貰われたのですか?」と聞いた。 黒澤さんは一瞬びっくりしたように口ごもり、「3つです」と言った。その後に取り繕うように「いろんな大学からの名誉博士号とか、そういうのは沢山もらっているけどね」と言った。 それから黒澤さんは明らかに不機嫌になったようで、独演会は続いていったが、会の終わりのほうで外野席から(多分若いスタッフだと思う)日本映画の将来とかいう問題についての質問があった時には、声を荒げて「そんなつまんない質問をするんじゃない!」と怒鳴った。
共同製作契約の第一回の修正契約は、Greenwichからの資金提供の時期を変えることになった。本来Greenwichはいわゆるネガティブ・ピックアップの条件で350万ドルを提供し、ヘラルドは映画のネガと交換にこの金額を受取ることになっていた。修正契約では、この350万ドルのうち100万ドルをGreenwichが前払いすることとし、映画の撮影開始と同時に25万ドル、その後10週目の終わりと21週目の終わりに各25万ドル、そして撮影が終わった段階で更に25万ドルが払われることになった。この変更はヘラルドにとっては歓迎すべきことであったが、Greenwichも回収金額の増額などヘラルドから取れるべきものはちゃんと取っており、どちらかが一方的に譲歩したという訳ではなかった。 「乱」の撮影は1984年6月2日に開始され、黒澤フィルム・スタジオでの撮影にはシルバーマンも立ち会った。私は、原さんの名前でGreenwichに対して撮影が開始したことをテレックスで伝え、最初の25万ドルの送金依頼をした。しかし、シルバーマンから来たのは25万ドルではなくて、原さんに対して様々な要求を突きつける長いテレックスであった。シルバーマンのクレームは、予算、クレジット、保険、俳優との契約等に関する技術的なことが主であったが、彼が特に強調していたのは、Greenwichとヘラルドとの間の契約は共同製作契約であって映画の売買契約ではない、ということだった。この立場から、シルバーマンは原さんと同等の待遇を要求し、共同プロデューサーとして対等の権利を主張してきた。共同製作契約が変更される前であれば、原さんは、共同製作契約とは名ばかりで本当は売買契約なのだ、と言えたのだが、Greenwichが100万ドルとはいえリスクをとって前払いしてきた以上、話はそう単純ではなくなっていた。この共同製作か売買かという問題は「乱」の製作の過程でことある度に両プロデューサーの対立の原因となった。 結局、一ヶ月程遅れてGreenwichからの送金はあり、未解決の問題を沢山抱えながら「乱」の製作は進行していった。 前半のセット撮影を終了した黒澤さん達は、6月30日に姫路入りし、姫路城ロケに臨んだ。その後黒澤さん達は熊本を経て大分県玖珠郡九重町飯田高原へ向かった。飯田高原は「乱」の主要なロケ地で、エキストラ1000名を動員した大合戦シーンなどが撮られることになっていた。 7月になってまた突然井関さんから電話があり、ロケを見に行かないかということ。ヘラルドが費用を出してくれるということなので、喜んで行くことにした。7月16日(月)、熊本空港に着くとマイクロバスが待っており、出演者である植木等さんと田崎潤さんが乗っていた。植木さんは秀虎の隣国の領主である藤巻信弘、田崎さんは同じく隣国の領主である綾部政治の役であった。これに三十騎の会の青年が加わり飯田高原へ向かった。この若者は、リハーサル中に足を痛めて治療していたが、完治したので復帰するとのことだった。2時間の道中は植木さんと田崎さんの掛け合い漫才のような話を楽しませてもらった。 九重観光ホテルにチェックインすると休む間もなくロケ現場に向かった。その日はシーンナンバー55を撮るということで、広大な飯田高原を背景にした岩場の一角で撮影が行われていた。黒澤さんは櫓の上に乗り、その周りを何百人もの人々が忙しそうに動き回っていた。シーンナンバー55というのは、太郎と次郎から城を追い出された秀虎が放浪の末行き場を失い途方にくれているという場面である。秀虎には重臣である生駒勘解由(加藤和夫)と道化の狂阿弥(ピーター)他少数の郎党が従っている。そこに、以前秀虎に三郎と供に追放された重臣の平山丹後(油井昌由樹)が現れ藤巻のところに身を寄せている三郎のもとへ行こうと言う。それに対して、後に秀虎を裏切ることになる生駒は、藤巻の陰謀だとして反対する。 高原ではあるが日差しは強く、乾ききった白い砂場で演技をする役者達はご苦労なことであった。特に、厚いメークをした仲代達矢は皮膚呼吸が出来ているのか疑わしかった。リハーサルが終わったらしく、黒澤さんの隣にいた野上さんが空を眺めてスタートのころあいを見ていた。しかし、その日は天気の変化が激しく、やがて空が黒雲に覆われ突然土砂降りの雨が降ってきた。皆は天幕の中に入り、弁当を食べながら雨の止むのを待っていた。しばらくして雨が止み、撮影開始かと思いきや、その日はそれで終わりだという。白い砂が濡れて黒く映ってしまうからだとのこと。映画の撮影というのは大変なものだと思った。 黒澤さんとは一言二言挨拶をしただけで、思い過ごしかもしれないが、何となく他人行儀な態度であった。私は勲章の件を気にしていたので、黒澤さんの態度をそれと絡めてみていたが、考えてみればロケ現場で黒澤さんが私に愛想を使う必要など全く無かったのだ。ロケ現場の映画監督というのは戦闘中の軍隊の大将のようなもので、私は文字通り見学者でしかなかった。 夕食は全員一緒に食堂で食べるということで、指定された場所に向かった。指定された食堂は、ホテルを一旦出て、別な建物に入った記憶があるのだが、資料を見るとどうやら黒澤監督が泊まっていたやまなみ荘の食堂であったようだ。私は、寺尾聰(太郎役)や隆大介(三郎役)等と共に食堂に向かい、近道をするために連中と一緒に柵を乗り越えたのを覚えている。食堂は、貸切のようで、長いテーブルが幾つも並び、野上さんが待っていて私を黒澤さん達のテーブルの一番端の席に導いた。そのテーブルは、両側に7、8人ずつが座れるようになっており、窓側の真中の席に黒澤さんが座り、その右にピーター、左に仲代さんが座った。その向いに植木、田崎の御両人と本多猪四郎監督が座って、その後はよく覚えていない。私の隣には生駒役の加藤和夫氏がいたように記憶している。黒澤さんは一人でよくしゃべって、ピーターがホステスのように世話をやいていた。黒澤さんの話は主に昔の「七人の侍」等の古い映画にまつわるエピソードが多かったが、何故か知っている話が多かった。黒澤さんから直にそのような話を聞いた覚えがなかったので考えたら、黒澤さんの「蝦蟇の油−自伝のようなもの」に書かれている話だった。面白かったのは、黒澤さんの話の一つ一つに、待ち構えていたかのように一番最初に大きな声で「ワッハッハ」と笑うのは仲代さんだったということだ。仲代さんはこのような話はもう何百回も聞いたであろうに、あの豪快な笑いは何だったのだろう。黒澤さんは、この仲代さんのくさい演技を全く意に介する様子もなく、上機嫌で話をしていた。 黒澤さんは熊本で発見したという「いいちこ」という焼酎(今では全国区になっているがその当時はそうではなかった)を何杯もおかわりして、宴はいつ果てるとも知れなかった。永遠に終わらないかと思えた宴会もやがてお開きになり、参加者は三々五々と自分達の宿舎に帰って行った。私は、何故か人が疎らになるまで残っていたが、そこで面白いものを目撃した。仲代さんがつかつかと野上さんのところに歩いていき、「野上さん、食事をもう少し早く終わらせるようにしてもらえませんか。」と言った。野上さんは困ったような顔をして、「でも先生が.....」と呟いた。仲代さんは「先生は遅く起きられるからいいんですけどね。私はメークに3時間半かかるんですよ。それに合わせて朝起きなければいけないので、これでは体がもちませんよ。」 役者というのは大変な職業だと思った。 |
「乱」の撮影は、いろいろな問題を孕みながら進んでいた。 映画製作に事故はつきもののようで、現に、14項に書いたやまなみ荘での宴会の夜、ピーターが九重観光ホテルの自室で左足アキレス腱の上を切り大分の県立病院へ入院することになり、10日間撮影が遅れたとのことである。このような問題には私は殆ど関わらなかったと思っていたが、ファイルを見ると、撮影中に怪我をした役者(騎馬武者として出演していた)との傷害の示談に関する念書が入っていた。ピーターの件については、私は何の相談も受けなかった。 本来のシルバーマンとの関係は、相変わらず問題含みで、頻繁にテレックスを交換していた。このような話が黒澤さんには伝わらないよう皆でガードしていたが、プロデューサーの原さんは現場と契約の両方を見なければならず、大変だったと思う。映画製作の契約は、「戦場のメリークリスマス」の時でもそうだったが、映画の撮影開始前に完成することはあまりないようで、契約調印が終わっている場合でも撮影が開始されてから分ってくる問題が沢山あり修正を余儀なくされる。 アメリカの映画専門の弁護士であれば映画製作の実務についても知っているのかもしれないが、私は映画ファンではあっても、映画製作の実務については全くの素人だった。恥ずかしい話だが、初めて黒澤さんと野上さんに会った時に、野上さんが、「これから北海道にロケハンに行く」と言ったのに対して「もうロケーションをするのですか?」と言ってしまい、野上さんは困ったなという顔をしていた。勿論、ロケハンとはロケーションハンティングの略語であり、ロケーションの場所を探す事である。 映画を製作するための契約には、これまで述べてきた共同製作契約のような大きな契約の他に、様々な付随する契約がある。「乱」は外国との合作であったために私のような渉外弁護士が関与したのであるが、外国が絡まない映画製作については製作会社の人が契約も作っている。そもそも、契約書というようなフォーマルなものを交わさないで口頭で済ますことが多いようである。「乱」の場合には、シルバーマンから後で文句を言われないために、ということもあって細かな契約まで私が見ることになった。例えば、「乱」では沢山の馬を使い、そのうち50頭は輸入したクォーターホースだったが、その飼育に関する契約を大分の牧場と交わした。この契約に関しては、後日輸入馬と国産馬が取り違えられるという事件が起こり、紛争になった。この他、「乱」の映画音楽を作曲した武満徹さんの所属する東京コンサーツとの契約を作ったり、アメリカの著作権局に「乱」の脚本を登録することなどいろいろと仕事はあったが、一番大きな問題となっていたのはフランスの現像所との契約であった。 前にも述べたように、「乱」の共同製作契約は、基本的にいわゆるネガティブピックアップの条件で合意されていた。即ち、ヘラルドが映画のネガを引渡すのと交換にシルバーマンが金を払うということである。これは、お店で買い物をする場合にお金と引替えに品物をもらうのと同じでシンプルな取引である。しかし、品物が目に見えるものである場合には買主は安心して(例えば傷のないリンゴであるとか)代金を払うが、映画の場合には素人がフィルムを見てもどのような映画であるかは分らない。フィルムに映っている映画が約束された内容のものであるかは(芸術性はともかくその品質については)専門家が見なければ分らない。ネガティブピックアップの条件の場合にそのような判断をする専門家が現像所なのである。 順調に進んでいたように見えた撮影だが、やはり遅れが出て、予定していた3月末日には間に合わなくなった。1985年のカンヌ映画祭への出品も駄目になり、あれやこれやでまた共同製作契約の修正をすることになり、4月1日に「1985年修正契約書」が締結された。それでも映画は黒澤さんにしては少しの遅れで完成し、6月1日に全国公開されることになった。次の写真はプレミアの時のものである。 映画は完成したが、シルバーマンに海外版を引渡すまでにはまだいろいろと問題があった。原さんが6月にパリに行き、シルバーマンと協議をしてさらなる共同製作契約の修正について合意をしたが、後日モスコビッツから送られてきた修正契約案は合意された内容と大幅に異なっていた。その後テレックスでのやりとりを何回かしたが埒があかず、結局私が原さんと一緒にパリに行くことになった。 8月20日(火)21時30分発のJAL425便に乗り翌日の7時25分にパリに着いた。パリでは原さんが常宿にしておりシルバーマンの事務所とも近い瀟洒なホテルに泊まった。事務所を訪ねるとシルバーマンは開口一番「先日の日航機の事故についてお悔みを申し上げたい」と言った。日航機が御巣鷹山に墜落したのは8月12日のことだった。シルバーマンはとても気が回る人だった。 シルバーマンの事務所にはウリー・ピカールもおり、4人で何回も話合ったがなかなか決着がつかなかった。特に、前に述べた現像所との契約が問題で、シルバーマンの指定したパリの現像所は明らかにシルバーマンの側に立っており、一緒になって無理な条件を突き付けてきた。一時は、原さんと相談して、パリの仲裁協会に仲裁の申立をしようかとさえ思ったが、結局そのような事態にはならず、大幅な譲歩をしたが合意にたどり着くことが出来、8月24日(土)のJAL428便で帰国することが出来た。 パリ出張で面白かったのは、大島渚監督と会ったことだった。シルバーマンは、黒澤の次を大島と決めたようで、大島さんの次回作「マックス、モン・アムール」のプロデューサーをすることになっていた。私は、「戦場のメリークリスマス」が終わってから3年ぶり(その間パーティーで会ったかもしれないが)で大島監督に会い、昔話に花が咲いた。 大島さんは結構上手な英語でシルバーマンと話しをしており、シルバーマンが大島さんの脚本にコメントをしていた。具体的な内容は分からなかったが、シルバーマンは大島さんに「ここをこう直せばもっと良くなる」というようなことを言い、大島さんはニコニコしながら頷いていた。そこで気が付いたのだが、あの時の大島さんは日本で見る大島さんと全然違っていた。日本での大島さんは論客であり闘士であり、あらゆる権威、権力を否定するという風情があった。しかし、シルバーマンの前の大島さんは、老教師のお気に入りの出来の良い生徒のようで、いつもの颯爽としたところが無かった。結局出来あがった映画も迫力の無いもので、その後大島さんは「御法度」まで長い休みをとることになってしまった。 1998年9月13日(日曜日)の朝私はグローバート弁護士一家をピックアップするために帝国ホテルに向かった。その日は、黒澤明監督のお別れ会が午後2時から横浜の黒澤フィルムスタジオで執り行われることになっていた。ジェフリー・グローバート(ジェフと呼んでいた)は1990年頃から黒澤プロの仕事をしており、特に東宝及びMGM相手の訴訟の時には毎日のように連絡を取り合っていた(「七人の侍」日米訴訟合戦参照)。1998年当時、ジェフの次男ジョシュアが日本の大学に留学しており、ジェフと妻ナタリーは息子に会うことも兼ねて黒澤監督のお別れ会に出席することにした。 黒澤フィルムスタジオまでは、日比谷線、東横線及び横浜線を乗り継いで十日市場へ行き、そこから黒澤プロ差し向けのバスに乗るという道程だった。バスに乗った距離は本来10分程度しかかからないものだったと思うが、お別れ会に出席する人の車で混雑していたためか、大層時間がかかった。バスを降りてから黒澤フィルムスタジオまで一般参列者の長い列が続いており、老若男女が厳しい残暑の中開場を待っていた。私は、案内役とは言いながら、どこに行ったら良いのか分からずうろうろしていると、「乱」の時監督助手をしていたビットリオ・ダレ・オレが我々を見つけて、手招きをした。 黒澤フィルムスタジオの中は、既に招待された人々が埋め尽くしており(新聞報道では約5,000人)、その巨大な空間は中世ヨーロッパの大聖堂に見まがうものだった。スタジオ内の壁には、黒澤作品のスチールが大きなパネルとなって貼られ、「七人の侍」のテーマ曲等懐かしい音楽が流れていた。中央前方の祭壇には、「乱」の「金の間」をモチーフにした金箔を張り詰めた部屋が作られ、左手にはカンヌ映画祭グランプリ、アカデミー名誉賞、文化勲章、D.W.グリフィス賞の4本のトロフィーが飾られていた。 弔辞が終わり、長い献花の列に並び、黒澤久雄さん、和子さんに挨拶をして退場しようとした時に、主催者側として会場の整理にあたっていた原さんが近づいてきて「お久しぶり。元気?」と声を掛けてくれ、次いで井関さんが名刺を差出し「今こういうことをしています。後で電話します。」と言った(井関さんは映画会社の社長になっていた)。原さんの会社はヘラルド・エースではなくアスミック・エースになっていた。私も自分の事務所を持つようになっており、10年余の歳月が確実に流れていた。 「乱」は、そのテーマが暗いためか、黒澤明の作品の中ではあまり高く評価されていないが、その完成度は黒澤芸術の頂点近くに位置するのではないか。人はよくテーマやストーリーで映画を評価するが、映画監督や映画に係わる他のクリエーターが力を注ぐのはもっと細かい部分なのではないか。そのような細部の完成度が映画全体の完成度を高めていく。その意味からすれば「乱」はどの部分を切り取ってみても黒澤さん等の才能と情熱が表現されており、2時間15分の絵画を見る思いがする。いずれ再評価される時が来るだろう。 |