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1982年。私は35歳であった。

7月7日から17日までロンドンに行き、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の共同製作契約の交渉を終え、一息ついていた頃だったと思う。「戦場のメリークリスマス」のエグゼキュティブ・プロデューサーであるヘラルドエースの原正人社長から電話があり、黒澤明監督の仕事をしないかと言われた。その後黒澤プロダクションのアソシエート・プロデューサーの野上照代さんから電話があり、8月13日に会議をすることになった。

野上さんの第一印象は、男のような人だなというものであった。全体として黒っぽい洋服を着ていて、モンペのようなズボンを履いていたという記憶がある。太い声で簡潔に話しをし、とても事務能力のある人だと思った。

野上さんの話では、黒澤さんは5年前から「乱」という作品の製作を考えていたが、これまで資金がつかず延び延びになっていた。この度フランスの大手映画会社であるゴーモンが金を出してくれることになり、見通しが立ってきた。ゴーモンの他にアメリカのコロンビアが金を出すという話もあり、東宝から金が出る可能性もある。何れにせよ、契約書を作らなければならないので、その時はお願いしたい。

野上さんは、黒澤さんにも会ってほしいんだけど、今御殿場にいるので、と言った。私は、この仕事は契約書を作るだけで終わるのではないか、と思った。黒澤明は、その時代に既に伝説的な人物であり、そのような人に会えるとは思えなかった。その後野上さんからは何の連絡もなく、資金調達は失敗したのかなと思っていた。映画の話は、製作発表をした後に潰れるケースもかなりあり、通常のビジネスとは随分違う。10月になって野上さんから突然電話があり、黒澤さんと一緒に会いに行きたい、と言った。

10月5日、会議室のドアを開けると、野上さんの隣に大きな黒澤さんが座っていた。私が名刺を差し出すと、黒澤さんは立ち上がり、「私は名刺を持ち歩かないのですよ」と言ってニコニコ笑った。

黒澤さんは当時72歳であったが、とても大きな人だった。背が高いだけではなく、骨太で骨格がしっかりしており、体の各部分が異常に大きかった。手は私の2倍位あるように見え、耳たぶの厚さが印象に残っている。日焼けしていてとても元気そうだった。

この日の会議のメモを見ると、「乱」の製作予算は860万ドル(当時のレートで約24億円)、東宝が7億円を出し、その余をゴーモンと新たに参加することになったプロデューサーのシルバーマンの会社が出資するとのことであった。製作は、黒澤プロとシルバーマンの会社の共同製作とし、黒澤さんが創作的な面における最終的な決定権を持つことが必要であった。「乱」は1984年度のカンヌ映画祭に出品する予定であった。

会議の席ではこれ以上の詳しい話はなかったようであるが、現在の知識に基づいてこの時点までの「乱」の歴史について話したい。

ヘラルド・エースが発行した「黒澤明監督作品乱記録 '85」によれば、黒澤さんが小国英雄及び井出雅人と一緒に「乱」の脚本を書き始めたのは1975年のことであった。この脚本については株式会社東宝映画と株式会社四十一との間に契約があった。株式会社四十一というのは、「デルス・ウザーラ」のプロデューサーをした松江陽一氏の会社である。この契約書によれば、東宝映画と四十一は共同して、その時は「黒澤作品(仮題)」と呼ばれていた作品の脚本を作成することになっていた。脚本の執筆者は黒澤、小国及び井出の3名で、脚本執筆の費用を東宝映画と四十一が折半して負担することになっていた。更に、この「黒澤作品(仮題)」については、株式会社四十一と日本ヘラルド映画株式会社との間にも契約があり、この映画の海外配給業務を四十一が日本ヘラルド映画に委託するように努力することの対価として、日本ヘラルド映画は四十一に対してある金額を支払うことになっていた。何れの契約も1976年に締結されたもので、その後資金集めが上手くいかなかったことから株式会社四十一はこの企画から降りていた。しかし、脚本についてこれらの当事者が権利を主張することになると困るので、権利放棄をしてもらう必要があった。この関係で松江さんとも何回か会ったが、松江さんによると、「乱」の主演は当初三船敏郎で考えられていたそうで、三船さんは資金集めにも協力していたようだ。松江さんによると、三船さんは、東宝と仕事をするのはやめたほうがいい、と言い、自分がアメリカから出資者を探してくる、と言っていたそうだが、それは実現しなかった。

黒澤さんは1978年に「影武者」を東宝で製作することになった。黒澤さんとしては本当は「乱」を作りたかったのだが、東宝がテーマが暗すぎるということで賛成しなかったので仕方なく「影武者」を撮ることにしたのだそうだ。「影武者」が1980年に完成し、5月のカンヌ映画祭でグランプリを受賞して、いよいよ「乱」に取り掛かれるようになった。しかし、資金集めは上手くいかず、1982年1月には、いわゆる冠方式で製作費を企業から集めようとしたが、これも挫折した。同年2月になってゴーモンから300万ドルを出すという申し出があり、この延長線上で話が進んでいた。

 私が野上さんから貰った資料の中に、黒澤さんと野上さんが9月にベニス及びパリに行き、ゴーモンの会長ダニエル・トスカン・ドゥ・プロンティエ(Daniel Toscan du Plantier−我々はトスカンと呼んでいた)に会った時の記録があった。

9月3日(金) Palazzo Dalio(トスカンの借邸)で夕食会があった。この時の話では、「乱」の製作費は765万ドルで、東宝のMG(minimum guarantee)300万ドル、ゴーモンの300万ドルで、残りの165万ドルを調達すればいい、ということであった。

9月5日(日) Palazzo Dalioでトスカンと話をした。ゴーモン50%、コロンビア50%で全世界配給をするという案が出た。しかし、コロンビアがネガティブ・ピックアップ・ディールを希望する場合、即ち、ネガと引き換えに金を払い、前渡金は払わないという場合、それまでの資金手当てを黒澤プロダクションがしなければいけない。黒澤プロダクションが銀行からそれだけの金を借り入れることが出来るかという問題が残った。トスカンは、それが無理な場合には、ゴーモンが銀行の信用がある外国のプロダクションを連れて来て金を調達するというアイディアを示した。その候補として、ルイス・ブニュエルのプロデューサーをしているサージ・シルバーマンの名があがった。トスカンは更に、フランス政府のジャック・ラング文化相が映画に積極的な人なので、フランス政府の補助金(100万ドル)を貰えるかもしれない、と言った。

9月9日(木) 黒澤、野上両氏はベニスからパリに移動し、ホテルラファエルに宿泊した。

9月10日(金) トスカンがシルバーマンを連れてホテルに来て、昼食を共にした。シルバーマンは「乱」の予算表を見てコメントし、もっと詳細なものを作るようにと言った。そして、数字のことばかりを言いたいのではなく、黒澤と直接話し合い意見を交換したい。それが出来なければ製作する気にはなれない、と言った。黒澤、野上両氏は文化省に行き3時半から文化大臣ジャック・ラングに会った。ラングは、「日本で黒澤さんのような人が映画資金の調達が出来ないというのは不思議だ。興行的にも成功しているのに」と言った。黒澤さんは、「日本の映画界の首脳部は、新しいことはやろうとしない。映画を愛していないし、理解しようとしない。首脳部から私はむしろ嫌われている。日本の優れた監督達が亡くなり、私ひとりが頑張っている状態だ」と言った。ホテルに帰って黒澤、野上両氏はトスカンと更に話し合った。シルバーマンが、1週間の予定で訪日し、予算、見積、コストの細かい検討をすることになった。東宝とのMGの交渉及びコロンビアとの交渉は並行して行うことになった。

東宝の7億円という話が出てきたが、これもやはりネガティブ・ピックアップ・ディールであり、東宝はネガ(完成初号)との引き換えに金を支払い、MGの前渡金の方法は採らないことが合意されていた。この当時の黒澤さんと東宝との関係は大分冷たいものになっていたようで、後日シルバーマンと一緒に東宝の松岡社長に会いに行った時も、東宝はこの条件を一切譲歩しなかった。

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黒澤、野上両氏との話合いの後すぐにシルバーマンと会うことになった。

野上さんの話によれば、シルバーマン(Serge Silberman−フランス流にセルジュ・シルベルマンと呼ぶ人もいたが、我々は英語読みでサージ・シルバーマンと呼んでいた)は、ロシア生まれのユダヤ人で、ナチス時代にはアウシュビッツ収容所に入っていたこともある人だそうだ。フランスに渡りルイス・ブニュエルのプロデューサーとして有名になり、大変な金持ちであるとのこと。ヨーロッパの映画界では怪物と言われていた。

シルバーマンとプロダクションマネージャーのウリー・ピカール(Ully Pichardt)は、帝国ホテルの1615号室に宿泊していた。今帝国ホテルに電話をしてみたところ、この部屋はフェニックス・スィートと言われる部屋で、室料を聞こうとしたところ、普通は予約を受け付けていない、失礼ですがどちら様ですか、と言われた。その当時は、1泊30万円と噂されていた。黒澤さんに言わせると、シルバーマンはケチだ、ということになるが、金の使い方をよく知っていたのかもしれない。自分を大きく見せるために金を使うということは、金しか頼りになるものはないという世界においては(映画の世界はそうだ)、有効な金の使い方なのだろう。シルバーマンは、この部屋に日本の映画界の首脳陣を呼びつけて会議をしていたのだから、十分もとは取れたのだろう。

シルバーマンは小柄な男だった。年齢を聞いたことはないが、65歳くらいか。もっとも、苦労して老けて見えたのかもしれない。ニューヨークで、空港からホテルへ車で向かう途中交通事故に遭い、重傷を負ったそうだ。リムジンでなければ死んでいたと言っていた。その傷が痛むせいか、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ウリー・ピカールは、50年配で、予算管理等、映画製作を会計面からみることを仕事としていた。エキセントリックなシルバーマンに比べれば、ずっと常識人で、話し易かった。

10月6日に野上さんとふたりでシルバーマンとピカールに会い、契約締結の段取りについて話した。シルバーマンは、何も分かっていない若い弁護士が来たなという感じで、映画の契約書が如何なるものであるかについて学校の先生のように説明してくれた。自分は映画の契約については弁護士より良く知っているので、普段は弁護士を使わないが、昔から知っているニューヨークの大物弁護士に助言を求めることはある、と言ってその弁護士の名前を教えてくれた。

10月8日に、今度は黒澤、野上の両氏にフランス映画社の柴田駿社長を加えてシルバーマンとピカールに会った。黒澤さんはシルバーマンが映画の内容に口を出すことを非常に恐れていたのでその点を確かめたところ、シルバーマンは、「黒澤は映画の芸術的内容について権利と責任を持つ」と明言した。もうひとつの、黒澤さんについてまわる予算超過の問題については、「映画製作中に黒澤の芸術的目的達成のために予算の変更が必要となる場合には、黒澤とシルバーマンは協議して決定する」と合意された。シルバーマンは次の日の飛行機でロサンゼルスに向かうことになっており、ニューヨークとパリを周って10月30日にはまた東京に戻ってくると言っていた。私はその間シルバーマンが上記内容を盛り込んだ契約書案を送ってくるのを待つことになった。

11月になり交渉が再開され、11月8日に私は黒澤、野上の両氏と帝国ホテルにシルバーマンとピカールを訪ねている。その時のメモを見ると、「トラ!トラ!トラ!」のことが書かれている。シルバーマンが黒澤さんに保険をかける際に、黒澤さんが途中で監督を降ろされたこの映画の件が問題となったようだ。ファイルの中には20世紀フォックスと黒澤プロダクションと黒澤明を当事者とする和解契約書の写しが入っている。「トラ!トラ!トラ!」に係わる紛争がこのようにはっきりと解決されているということを示す必要があったのだろう。

11月8日の夜はシルバーマンが黒澤さんを招待するということで、私も呼ばれた。ファイルの中に野上さんの書いた「今週の予定」というB4版の紙があったが、そこには、

6:30〜ギンザ(シルベルマン夕食招待)並木通り6丁目電通通りモンテカルロ右、ヴィトンの上リトルノ・バロッコ

とあった。1985年版の「食都」によるとリトルノ・バロッコは「個室が主体の店だから、例えば大事な女性と食事をする時などに最適だろう。料理はおおむね快適。ワインの値段が高く、サービスが快適でないのが残念。」とのこと。

シルバーマンとピカールに招かれたのは、正確ではないが、黒澤、野上、川喜多かしこ、川喜多和子、柴田駿、大橋隆及び小生。大橋さんは米国のプロデューサー協会に属している唯一の日本人とのことで、英語は上手かった。テーブルの中央に黒澤さんとシルバーマンが向かい合って座り、そのどちらかの横に大橋さんがいて通訳をしていた。私は末席で眼前に進行する華麗な宴を見ていた。黒澤さんが柿右衛門の磁器の話をしていたのが記憶にあるが、後の記憶は夢の中のようにおぼろげだ。それまでに何回か黒澤さんと会い話をしていたにも拘わらず、黒澤さんが目の前で飲み、食べ、話をしているのが信じられないような思いだった。新宿昭和館や銀座の並木座あたりで黒澤さんの古い作品を見ていた学生時代の自分が、スクリーンを突き抜けて眩い巨匠の世界に来てしまったような気がした。日本の映画界についてはあまり知識が無いが、黒澤さんは格別に洗練された世界にいたような気がする。川喜多母娘は亡くなり、大橋さんも癌で亡くなってしまった。そして黒澤さんが亡くなり、あの夜のような華やかな宴はしばらく日本の映画界には戻って来ないのかもしれない。今にして思うと、あの日のディナーが私の4年余に渡る「乱」の仕事の中で一番幸せな時だったのではないか。

私はシルバーマンから3種類の契約書のドラフトを渡された。監督に関するもの、脚本に関するもの、及びプロダクションサービスに関するものである。監督に関する契約についてシルバーマンは、これはブニュエルとの契約をベースにしたものだ、と言った。シルバーマンによると、監督には芸術家だと言える人と、そうでない人がいて、ブニュエルや黒澤さんは前者に属する。後日この契約は「芸術的監督に関する契約」という表題を付けられた。

私はこれらの3種類の契約書の和訳を作ることから始めた。ヨーロッパの契約は、アメリカの分厚い契約に比べれば、はるかに短いものであるが、翻訳するにはそれなりの時間がかかった。私が翻訳で四苦八苦しているうちに、11月19日午後3時、帝国ホテルの牡丹の間で「乱」の製作発表が行われた。次の日の新聞によると、百人を超す報道陣が駆けつけたそうで、黒澤さんはシルバーマンについては、「本当のプロデューサーと言える人物と出会った。この人にプロデューサーをやってもらえれば私は監督に集中できる」と言った。

製作発表が終わるとシルバーマンは弁護士と打合わせると言ってニューヨークに向かった。契約のいくつかの重要なポイントについては黒澤さんを交えて会議をしており、シルバーマンはそれらの事項につきニューヨークの弁護士と相談をし修正された契約案を送ると言っていた。それまでの話合いでは、シルバーマンは、黒澤さんの芸術的な裁量権については比較的寛容であったが、黒澤さんに対する報酬については厳しい条件を出してきていた。

芸術家の中には好きな仕事が出来れば金などはいらない、という仙人のような人もいるのかもしれないが、映画監督はそれではやっていけない。特に黒澤さんのように自分の製作会社を持っている人は、沢山の従業員を養っていかなければならないので芸術家だけをやっていればいいという訳ではない。

11月18日の黒澤さんとシルバーマンとの会議においてもそのような経済的な条件が話されたが、シルバーマンがこんなことを言った。監督の契約で、映画がスケジュール通りに予算内で完成することを条件に、黒澤さんに対して映画の純利益のあるパーセンテージが払われることになっている。このパーセンテージは勿論映画が公開され収入が入ってこなければ払われないものだが、これのMGとして映画の配給契約の大部分が締結された段階でまとまった金(シルバーマンは具体的な金額を言った)を払おう。でもこれはジェントルマンズアグリーメントだから契約書の中には入れられない。

12月10日にシルバーマンのニューヨークの弁護士から契約書の改定版が届いた。それを見ると、会議で合意されていた筈の黒澤さんに対するパーセンテージが2/3に減額されている。ニューヨークの弁護士にテレックスを打つと(この頃はファックスはまだなかった)、シルバーマンに確認したところその数字でいいのだ、と言う。すぐ黒澤さん、野上さんと話し会い、どのように対応すべきかを考えた。口頭で合意されたところとは明らかに違うのだが、ここで頑張ってみても契約しないということになれば元も子もない。やむを得ずシルバーマンの言うパーセンテージをのむことにしたが、それでは気が済まないので何か反対に取れるものはないかと考えた。そこで思い付いたのが前述のジェントルマンズアグリーメントで、あれを契約書の中に入れてもらおうということになった。このパーセンテージの一件でシルバーマンの言葉に対する信頼は無きに等しいものになったので、契約書にはっきり書かれなければ絶対に払ってもらえない、と思うようになった。そこで、その旨のテレックスを打った。

2、3日してニューヨークの弁護士から次の返事が来た。

FOR MR. JUN NORISUGI

RE: YOUR TELEX DECEMBER 17:

I HAVE DELIVERED A COPY TO MR. SILBERMAN WHO HAS INSTRUCTED ME TO REPLY TO YOU IN THESE WORDS:

"PLEASE TELL MR. NORISUGI THAT I AM OFFENDED BY HIS TELEX. I KNOW QUITE WELL WHAT I AGREED AND I NEVER CHANGE MY WORD. HIS TELEX IS CONTRARY TO MY AGREEMENTS. IF THESE IDEAS ARE THOSE OF MR. KUROSAWA, THEN THERE IS NO DEAL. IF THESE IDEAS ARE HIS OWN, THEN I SHALL HAVE TO ASK MR. KUROSAWA TO HAVE SOMEONE ELSE DEAL WITH ME."

SINCERELY,

シルバーマンの口調を思い出しながら訳すとこんな風になるだろうか。

乗杉純様

貴殿の12月17日付テレックスの件

私はテレックスのコピーをシルバーマン氏に届けましたが彼は次のように伝言するようにと言いました。

「乗杉氏に私は怒っていると伝えなさい。私は自分が何に合意したかについてはよく分かっており自分の言葉を違えることは絶対にない。彼のテレックスは私の約束したこととは違う。黒澤さんがこのようなことを考えているとしたら自分は手を引く。乗杉氏が自分で考えてのことならば、私は黒澤さんに他の弁護士を使うように言わなければならない。」

野上さんに電話してこの旨伝えたところ、野上さんはびっくりして黒澤さんと相談をした。しばらくして野上さんから電話があり、契約を壊すわけにはいかないので悪いけど乗杉さんの考えだったことにしてくれないか、とのことで、野上さんと相談の上次のようなテレックスを打った。

黒澤氏はロケハンのため東京には不在で、彼はその間の交渉を私にまかせていました。従って、先のテレックスによる提案は私自身の考えです。私は弁護士の立場から両当事者のために物事を明確にしたかっただけで、貴殿の言葉に疑いを挟むつもりは全くありませんでした。言うまでもなく、黒澤氏の貴殿に対する信頼は揺るぎの無いものです。何れにせよ私は黒澤氏が東京に帰ってから相談をしてまた連絡します。

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年が明け1983年になった。私は首にならず、ニューヨークの弁護士と契約書の文言につきテレックスでやり取りをしていた。シルバーマンは1月24日に東京に帰ってきた。

 ファイルの中に1983年2月の出来事について記したメモがあった。以下のメモで、K氏というのは黒澤さん、S氏はシルバーマン、N氏は野上さん、O氏は大橋さん、P氏はピカールのことである。

「乱」の製作については、最初から問題があった。それはK氏とS氏が共に強烈な個性の持ち主であり果して協調してやっていけるかにつき疑問があったからだった。N氏、O氏と1ヶ月程前に話をした時には両氏ともこの企画が成功するとは思っておらず、いずれ契約解除、訴訟という展開になる可能性が大であると言っていた。私もその時は同感であった。

2月23日(水)に私はK氏とS氏が重要な話をするので立会ってくれと言われた。私のほかに映画関係者でない通訳が1名入るはずだったがS氏のところに行ってみると通訳は私だと言われた。S氏の部屋には私の方が先に行きK氏を待つ間話をした。例の弁護士解任要求事件から初めての再会であったので緊張したが、意外とにこやかに迎えてくれた。11:30 a.m.の約束であったがK氏は来ず11:45 a.m.頃O氏から電話がありロビーでK氏、N氏と私を待っているという。K氏がやがて上がってきて話が始まった。K氏とS氏の間ではスケジュールのことで1、2問題があったらしい。1つは馬が200頭出る場面を2日撮るところ4日になっていたのはスタッフが間違えたもので厳しく注意したとK氏は先ず言った。同様に郎等と称する20名の者を撮影に連れて行く件では20日ほど連れていけばいいところ2倍になっていたのはやはり間違いであるとK氏は述べた。K氏は他にも細かい問題について述べたがS氏はむしろ2人の間の信頼関係について話したがっていた。

30分ほど話をしてS氏はプルニエに予約してあると言い3人でレストランに向かった。先ずS氏が昨日の地震の話をし、自分は初めて経験したと言った。K氏はそこで自分が中学生だったころに経験した関東大震災について話した。朝鮮人襲撃の話になりK氏はそこで大人が信じられなくなったと言った。S氏はそこで自らのアウシュビッツでの体験談をし、人間がいかに信じられないものであるか述べた。二人とも未来については絶望的であるという点で一致した。K氏の話は事実の描写にとどまり抽象化されることが少なく、世に言われているように思想性が希薄な人だと思った。

この時契約を2日後である2月25日(金)に締結することに合意した。

2月24日(木)に2度S氏と電話で話をし、4:00 p.m.頃また電話がかかってきた。この時S氏は非常に落ち込んだ様子で先程K氏がスタッフの人と自分の部屋に来てスケジュールの間違いにつき彼等を怒鳴ったと言った。S氏はこのような非民主的は環境では映画は出来ない、このような状態では25日にサインをすることはできないと言った。S氏は更にK氏が自分の連れてきたP氏にロケハンの際恥かしい思いをさせ、また自分の推薦したAbe氏をfirst assistantとして採用しないことにしたのは自分の側の人間をみなスパイだと考えているからだと言った。S氏はK氏が自分を信頼しておらず、最近は会いにも来てくれないと嘆いた。そこで私はS氏をなだめ、すぐK氏と話をして誤解をとくべきだと述べた。S氏もそれに原則同意した。

私はその後すぐ1610号室でスタッフの人々とスケジュールについて打合せているK氏に電話した。私はK氏と二人だけで話をしたいと言ったがK氏が電話でもかまわないと言ったので、S氏の話の内容を手短かに話した。K氏がスタッフを怒鳴ったという段ではK氏は電話口で「僕が君達を今日しかったかい?」と部屋の連中に聞いた。結局K氏はすぐにでもS氏と話をしたいと言って私はまた1615のS氏に電話をした。しかし、S氏は今日は非常に疲れているので明日にしたいと言い25日の4:00 p.m.に彼の部屋で会うことにした。

私はその日は7:00 p.m.頃オフィスを出てDo(注: Do Sports Plazaのこと)に行きプールで泳いだ。泳ぎながらいったい何が原因なのか考えた。S氏の述べた理由はどれも不和の決定的な理由とは考えられず、根本の理由は別なところにあるように思われた。そこで、ふとひらめいたのだが、S氏はK氏にあこがれて日本まで来て20億の金を集めてK氏を援助しようとしている、しかし、K氏はS氏に対して相応の気持を表現しておらずS氏はそこでひねくれているのではないか。

私は、このようなメモを書いたことをすっかり忘れており、書かれている内容についても記憶にないものが多い。2月23日の昼食を帝国ホテルのプルニエで黒澤、シルバーマンの両氏ととったことは良く覚えているが、そこで話された内容は私の記憶とメモでは違っている。私の記憶は、シルバーマンがまずアウシュビッツの話をし、人を焼く煙が煙突から立ち昇っていたと言ったのに対して、黒澤さんが自分は関東大震災で人が焼けるのを見た、と言ったというものであった。私はこれを、シルバーマンがアウシュビッツの話をして黒澤さんの気を引こうとしたのに対し、黒澤さんは関東大震災の話をしてそれをはぐらかそうとした、というふうに解釈していた。メモを見ると、私の記憶が間違っており、私が黒澤さんとシルバーマンに対して持っていた先入観によって記憶が歪められていたようである。また、このような話し合いをすることになった動機についても、私は、対立する二人が仲直りするようにと私が持ち掛けたように記憶していたが、これも違うようだ。シルバーマンの希望だったのか、野上、大橋など二人の間に立っていた人達の発案だったのか。ただ、状況としては、二人の仲がうまくいっておらず、私のような映画関係者でない者が中に入って調停することが必要であったようである。

上記メモの2月24日の項で、黒澤さんがピカールにロケハンの際恥かしい思いをさせたとシルバーマンが言っているところは、もうひとつの場面を想起させる。その場面というのは、私のいた虎ノ門の法律事務所の大会議室で、黒澤さんは部屋のすみで電話に向かって話をしていた。その時黒澤組のスタッフは九州でロケハンをしており、ピカールもそれについて行った。どのような問題が起こったかは正確には覚えていないが、ピカールのフランス流のやりかたと、黒澤組の伝統的なやりかたが対立し、ピカールがロケハンをサボタージュしている、ということだったと思う。電話の向こう側にいたのは、多分大橋さんで、黒澤さんに指示を仰いでいた。話をしているうちに黒澤さんの息遣いが荒くなるのが分かり、声が1オクターブ高くなった。みるみる顔が紅潮し、大きな手で受話器を壊すのではないかと思う程強く握り締め、怒鳴った。すごい迫力だなと思ったのを覚えている。

メモによると、2月25日に2回目の巨頭会談が開かれることになった、とのことだが、記憶にない。メモの最後に私の「ひらめき」について書いているが(大したひらめきではない)、その後見聞きしたことを考え合わせるとこれは正しくない。シルバーマンは、黒澤さんについてあまり良く知っておらず、とても憧れていたとは思えない。黒澤作品を何本も見ていたとは思えない。もっと後のことだったと思うが、シルバーマンが黒澤さんに向かって、アメリカのアカデミー賞の最優秀外国語映画賞をとらせてあげるよ、と言ったことがある。黒澤さんはそれに対して、もう2回とっている、と不愉快そうに言った。(1952年に「羅生門」、1976年に「デルス・ウザーラ」で受賞した。)これはシルバーマンにとって意外なことだったようで、会話はそこで途切れた。

シルバーマンはよく怒る反面寂しがりやで話好きだった。ホテルのレストランでひとりで食事をするくらいなら部屋でミルクを飲んで寝てしまったほうがいい、と言っていた。私は、シルバーマンに親しくされることは嫌ではなかったが、相手が海千山千の人間であることはわかっていたから、警戒していた。シルバーマンは、黒澤さんが心を開いてくれないことに苛立っており、黒澤さんの周囲の人間を懐柔しようとしていたのかもしれない。そのターゲットは、野上さんと私になり、野上さんは英語があまり上手くなかったから、私のほうが対処し易かった。私は黒澤さんの弁護士だから、シルバーマンと親しくなりすぎるのは困る。でも、冷たくするとへそを曲げるので対応には苦労した。

黒澤さんを攻略するには、長男の久雄さんに近づけばいいのではないか、と思うのだが、シルバーマンと久雄さんは上手くいかなかったようだ。シルバーマンは、久雄さんが毎日違った靴を履いてくる、などと細かいところでけちをつけていた。久雄さんは利口な人だから、意識的にシルバーマンを避けていたのかもしれない。

とまれかくまれ、「芸術的監督に関する契約」、「脚本に関する契約」及び「プロダクションサービス契約」は1983年2月25日に調印され、これで私の仕事は終わったかのように思えた。

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「乱」の製作準備は順調に進んでいるようであった。3月に入ってからの私の仕事は、「乱」の共同脚本家である小国、井出両氏との契約等細かいものになっていった。

3月23日には黒澤さんの73歳の誕生日会に夫婦で呼ばれた。淀川長治、仲代達矢等の黒澤さんと親しい映画人に加えてフランス大使館の人達も来ており、華やかで和やかなパーティーだった。黒澤さんの最後の作品である「まあだだよ」には主人公である内田百フの誕生日会の場面があるが、黒澤さんの誕生日会を彷彿させるものである。「まあだだよ」は黒澤さんが自分について、又はあらま欲しき自分について描いた作品だと思う。

「まあだだよ」はあまり評価されていない作品だが(誉めているのは淀川さんくらいか)、私は劇場で2回観て(今回改めてビデオでも観たが)、好きな作品のひとつである。「まあだだよ」が公開されてから黒澤さんが事務所に来られてお話をしたことがあるが(「七人の侍−日米訴訟合戦」参照)、私が「まあだだよ」が好きだと言うと、黒澤さんはとても嬉しそうにしていた。「まあだだよ」の中で門下生が数人百フの家に集まり酒盛りをする場面があるが、「あそこは乗杉さんに出てもらっても良かったな」と黒澤さんは言っていた。今頃言われても遅いのに、と思いながら「次回作では是非出さして下さい」と言ったが、それは不可能になってしまった。

「乱」の仕事の時は、黒澤さんと一緒に移動することも何回かあり、黒澤さんのベンツの後部座席で二人で話をする機会もあった。そのような会話の中で記憶に残ったものを幾つかあげる。数日前にテレビ放映した「七人の侍」の視聴率について野上さんが黒澤さんに報告していた。その後車の中で映画作品がテレビ放映される場合の問題について話した。私が、「テレビ放映されることも考えて映画を撮るのですか?」と聞くと、黒澤さんは「そんなことは全然考えていません」とはっきりと否定した。別な機会に、黒澤さんの戦時中の作品である「一番美しく」がとても良かったと言うと、黒澤さんは嬉しそうに「あの作品は若い女の子が沢山出て収拾がつかなくなるので、本当の女子挺身隊員のように工場の寮で共同生活をさせたのですよ」とその当時の話をしてくれた。この作品も一般にはあまり評価されていないが(むしろ黒澤さんの思想的な矛盾を突くための材料とされる傾向がある)、私は純粋な情熱を描くという黒澤さんの姿勢が端的に表現された傑作だと思う。

私はやくざ映画ファンであったので(百数十本は観ていると思う)、黒澤さんにやくざ映画について聞いてみた。黒澤さんは言下に「やくざは嫌いです」と答え、やくざというのが如何に卑劣な人間であるかについて長々と説明してくれた。結局やくざ映画についてのコメントは聞けなかったが、後に読んだ誰かの評論に黒澤さんはやくざ映画が大嫌いで東映の撮影所に行った時はやくざ映画の撮影をしているスタジオを避けて通ったと書かれていた。しかし、その黒澤さんが北野たけしを評価しているというのはどうしてなのだろうか。北野たけしの作品は、やくざをとてもリアルに描いていて(もっとも私は本当のやくざを知らないが)、鶴田浩二や高倉健の東映やくざよりも本物のやくざ映画だと思うが。

高倉健と言えば、彼が「乱」に出るという話があった。「乱」は仲代達矢演ずる一文字秀虎と3人の息子の話だが、次男の次郎正虎(根津甚八)の一の家来に鉄修理という人物がいる。この役は結局井川比佐志がやることになったが、当初は高倉健が本命だった。黒澤さんは詳細な絵コンテを描くことで有名だが、ある日「乱」の製作室を訪ねたときに黒澤さんに1枚の絵コンテを見せられた。それは武者姿の高倉健で、まぎれもなく高倉健だった。黒澤さんは「いままでに見たことが無い高倉健を見せてあげますよ」と言った。条件が会わなかったようでこの話は成立しなかった。後日、「乱」のプロデューサーになった原正人氏にこの絵コンテの話をしたら、原さんは、「健さんがその話を聞いたら喜んだろうになぁ。彼は本当は出たがっていたんだよ」と言っていた。

黒澤さんが書いた脚本の中に「黒き死の仮面」というものがある。これは、ペストが蔓延していた中世ヨーロッパを舞台にしたものだが、シルバーマンを交えてこの脚本の話をしたことがある。シルバーマンは、黒澤さんとブニュエルとのような関係を作りたかったようで、「乱」が成功すれば黒澤さんの次の作品もプロデュースしたいという気持があった。そこでこの脚本の話になった訳だが、黒澤さんは脚本のあらすじを説明し、最後の死の舞踏(ペストを表す死の仮面と装束を纏った踊り手が乱舞する場面)は自分にはとても撮れない、あそこだけはフェリーニに撮ってもらうしかないな、と言った。私はその時この脚本(手書きのもの)のコピーを貰ったが、ハリウッドあたりで映画化しようとする人はいないだろうか。多分「タイタニック」以上の製作費がかかるだろうが。

最後に不思議な話をひとつ。この話をどのような状況で聞いたのか思い出せない。黒澤さんと私の他に多分2人程人がいたと思う。シルバーマンではなく、久雄さんとか野上さんとか黒澤さんのとても親しい人だったような気がする。黒澤さんは、「僕はとても撮りたいシャシンがあるんですよ」と言った。「でもそれを撮ったら僕は殺されるかもしれない。僕だけだったら構わないんだけど、子供や孫が何をされるかわからないと思うととても出来ないんだなぁ」と言って口をつぐんだ。どういう脈略でこの話が出たのか憶えていないが、あまりにも重い話だったので、誰も「そのシャシン」が何であるかについては聞かなかった。今の日本で映画を撮ったら殺されるようなタブーはひとつしかないと思うが、それなのだろうか。黒澤さんはそれをどのように表現したかったのだろうか。黒澤さんについて書かれたものを読んでみても、この話に触れたものは今のところ見つからない。

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3月24日にシルバーマンからテレックスが来た。とても重要な話があるので3月25日金曜日に電話で話したいとのこと。パリと東京との間には8時間の時差があるので、東京時間の遅い時間を指定してくれ、とのことだった。私は、金曜日の19時にオフィスに電話してくれ、とのテレックスを返した。その時間に電話を待っていると、シルバーマンの秘書から電話がかかってきて、シルバーマンは気分が悪いのでもう帰った、また連絡する、と言われた。その後この件についての連絡は来ず、3月28日付のテレックスでシルバーマンがゴーモンの社長のトスカンと一緒に4月11日から15日の間に東京に来るとの連絡が入った。このテレックスには、脚本がまだ長すぎるのでパリで何人かの作家に読んでもらいそのアイディアを提供したい、という黒澤さんへのメッセージが入っていた。このテレックスからは、異常な事態が発生しているという様子は全くうかがわれなかった。

その後の出来事については、4月26日に行われた製作延期の記者会見まで私のファイルには何の資料も綴じられていない。手帳を見るとその間何回も黒澤さんやシルバーマンと会っているようなのだが、記憶にない。我々渉外弁護士は時間で請求することから、仕事の内容とそれに要した時間を記録するタイムシートというものをつけているが、残念ながら昔のタイムシートは既に廃棄されており見ることができなかった。手帳によれば4月の12日と14日にシルバーマンと会っているので、彼は予定通り11日頃に来日したようである。多分彼が来日してから映画の製作資金をフランスから持ち出せなくなったということが我々に伝えられ、その対策のための協議が重ねられたものと思われる。尤もその間私は夫婦で2度もシルバーマンにディナーの招待を受け(1度はトスカン夫妻とも一緒に)、あまり緊迫した雰囲気がなかったような気もする。特にトスカンはまだ20歳ぐらいにしか見えないイタリアの有名監督の娘だという妻を連れて来ており、私の妻が4月の19日に彼女を東京案内に連れていっている。

あとでシルバーマンから聞いた情報をも交えて解説すると、3月25日の朝フランス政府が国外への資金の持ち出しを規制する方針を発表したとのことである。シルバーマンは「乱」の製作資金の約半分をフランスから持ち出す計画であったので、大きな影響を受けることになった。シルバーマンとゴーモンはフランス政府に働き掛けることによりこの難局を打開しようと努力したが、功をそうしなかった。

4月26日の午後4時から帝国ホテルのシルバーマンのスイートで製作延期の記者会見が行われた。次の写真はその時野上さん(?)が撮ったもので、中央に黒澤さんとシルバーマンが並びその横で私が通訳をしている。最初は私が2人の間に入っていたのだが、カメラマンから真ん中にいるのは邪魔だと言われ、横に動いた。

記者会見の時に神経を使ったのは製作の延期が黒澤さんとシルバーマンの意見の対立に起因するものではなく、フランス政府の為替管理という不可抗力によるものであることを印象づけるということであった。特にシルバーマンは黒澤さんが余計なことを言うのではないかと心配しており、記者会見の前に話す内容について書面で合意することになった。ファイルの中にはStatement by Mr. Akira KurosawaとStatement by Mr. Serge Silvermanと題したふたつの文書が綴じられており、黒澤さんとシルバーマン(及びトスカン)がそれぞれにサインしている。これらのstatementは私の手書きのもので、シルバーマンのstatementには彼の手書きの修正が加えられている。これをどのように作ったのか記憶がはっきりしないのだが、帝国ホテル内の「乱」の制作室(そこに黒澤さんがいた)とシルバーマンの部屋を行ったり来たりして作ったような気がする。シルバーマンの修正は、私が「製作から手を引く」と書いたのを「製作を放棄するのではなくとりあえず延期する」と直したものである。この点をめぐって最後までごたごたしていた。

シルバーマンとしては、既に金も時間も使っているので、このまま製作から手を引くことは出来なかった。黒澤側としては、シルバーマンの要求を我慢することにも限界があり、資金を出せないのであればすっきりと手を引いてくれたほうが有難いと思っていた。議論の末、この問題の決着は1983年6月末日まで先送りすることにし、その間双方で資金調達に努力することになった。その時締結された覚書によれば、シルバーマンはゴーモンと協力して日本を含む全世界で資金調達する権利を有し、黒澤側は日本国内でのみ資金集めが出来ることになった。

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1983年5月は何事もなく過ぎていった。シルバーマンからは何の連絡もなく、黒澤側も特に出資者を探すこともせずに待っていた。私が仕事をした「戦場のメリークリスマス」が5月28日に一般公開され、5月20日には原作者であるサー・ローレンス・ヴァンデルポストを招待したパーティーに出席した。

6月15日になってシルバーマンから、次の電報を黒澤さんに打った、というテレックスが私に届いた。

親愛なるアキラ

 またもや貴方と貴方の周辺の人間が「乱」の製作と販売を企てているという証拠を掴みました。世間は狭いので何でもすぐにわかります。貴方の息子の仕事仲間であるW氏が映画の製作及び販売についての貴方の代理人だと称して米国に渡りました。そうであれば、私はこのプロジェクトから手を引かざるを得ません。何れにしても、私は全ての権利を留保します。

サージ・シルバーマン   

野上さんから電話があり、黒澤さんは全く身に憶えのないことなので怒っており、すぐにシルバーマンに電報を打つと言っている、とのことだった。ファイルの中には、黒澤さんが書いた手紙の原稿が綴じられている。

 電報を見ました。しかし、私には貴方の云っている事が全くわからない。電報に書いてある様な事実は全くないからです。息子の会社のW氏がアメリカで「乱」を売る話をしたなぞと云う話を貴方は何処から誰から聞いたのですか。 私は、貴方に約束した通り、貴方を信頼して、今月一杯は「乱」のプロジェクトは全て貴方にまかせて何もしていません。人を疑うのもいい加減にして下さい。この様な、根も葉も無い事で責められる事は、まことに心外です。こんなブジョクには堪えられません。

この手紙は黒澤プロダクションの誰かが英訳し、6月16日に発信された。

6月22日にシルバーマンから黒澤さんへ電報が届いた。それは「私はこの電報をゴーモン エスエー及びグリニッチ フィルム プロダクション エスエーの名前でお送りします。」という言葉で始まっていた。シルバーマンによれば、黒澤さんも知っているロサンゼルス在住のK氏と電話で話していた時に、K氏が突然、「乱」のビジネスについて話をしたいと黒澤さんの息子の仕事仲間であるW氏が連絡をして来たと言った、とのこと。K氏は長年の友人であり絶対に嘘をつかない人であると言い、黒澤さんに対して、「貴方は騙されているのかそれとも7月1日以前に勝手に動くことに決めたのか」と書いた。

黒澤さんはすぐW氏とK氏に問い合わせ、次のような事実が判明した。1983年5月21日に、K氏が黒澤さんに対して、映画「天国と地獄」のリメイク権を黒澤さんが持っているかどうかについて電報で問い合わせた。それに対してW氏が返事を書き、リメイクについては原作者であるエド・マクベインの了解を得る必要があると述べ、W氏が6月中旬から1ヶ月間ロサンゼルスにいるのでその際話をしたいと書いた。K氏からはこの事実を確認する電報が黒澤さんに入り、その中でK氏は次のように述べている。

 貴殿の次のプロジェクトについてのシルバーマン氏の交渉に私が何らかの方法で介入しようとしているという趣旨の想像に基づくテレックスをシルバーマン氏が貴殿に送り、貴殿が怒っておられると聞き困惑しております。私はこの件にはいかなる意味でも関与しておりませんので御安心下さい。

私は以上の事実を伝えるテレックスをシルバーマンに送り、その中で黒澤さんからのメッセージとして次のように述べた。

 私は今まで貴殿を信頼し、一緒に映画を製作するために不愉快な出来事にも堪えてきました。しかし今度は事情が違います。御承知の通り、映画製作にはプロデューサーと監督との人間的な信頼関係が不可欠です。私は今度の事件で貴殿が私を信頼していないという事をはっきりと知り、それによって私の貴殿に対する信頼も失われたと言わざるを得ません。

上記のいきさつについて説明するテレックスがK氏からシルバーマンにも送られ、この件はシルバーマンの早とちりであるという事が明らかになった。シルバーマンからは6月24日付で私にテレックスが入り、黒澤さんへのメッセージを伝えてきた。その中でシルバーマンは、何故黒澤さんが自分に対して怒っているのかわからないと言い、自分は率直に思ったことを聞いたにすぎないと言った。シルバーマンは更に、思っている事を忌憚なく伝える事がお互いの尊敬と友情のために不可欠である、と述べた。黒澤さんはこのシルバーマンの尊大な態度にますます怒りがつのり、とてもこれで一件落着という訳にはいかなくなってきた。この頃の私の手帳を見ると、黒澤さんの御殿場の電話番号、野上さんの電話番号、それに大橋さんのホテルの電話番号が書かれており、電話で連絡を取りながら対応していたようである。

怒りがおさまらない黒澤さんが考えたのは、トスカンにこの事情を伝えるという事で、黒澤さんはトスカンならわかってくれると思っていた。ファイルには、野上さんの筆跡で書かれた黒澤さんのトスカンに対する長い手紙の原稿が閉じられている。このような手紙を直接黒澤さんがトスカンに送ることの是非についてはいろいろと意見があり結局私がシルバーマンとトスカンの両名に対して黒澤さんの気持を代弁するという形でテレックスを送ることになった。その内容については、私の作文をたたき台として、野上さんと会議をして決めた。

私はテレックスの冒頭に、テレックスをシルバーマンとトスカンの両者に送る理由として、その内容が「乱」製作の基本的問題に関していることと、シルバーマンの6月21日付のテレックスの差出人がゴーモン エスエーとグリニッチ フィルム プロダクション エスエーの両者になっていたからであると述べた。次に今回の出来事を要約し、それがシルバーマンの一方的な誤解であったことを明確にした。そして黒澤さんがシルバーマンの釈明に納得していない理由としては次のように述べた。

1.黒澤氏は誤解が生じた経緯は問題ではなく、そのような情報を入手した時にまず自分にそのような事実の有無につき訊ねなかったことが問題だとしています。

2.貴方は、独善的に自分の入手した情報が正しいとし、そのような事実があったとすれば自分はこのプロジェクトから手を引くかもしれないと述べました。

3.貴方が黒澤氏を信頼していたら、このような行動は取らなかった筈です。

 更に黒澤さんの言葉として次のように書いた。

 日本では、人の信頼を裏切る行為は最も恥ずべき行為だとされています。従ってそのような行為があったとして人を非難することは、その人を最大限侮辱することになります。本来ならそのような非難が誤解に基づいていたと言って済むものではありません。

更に私の意見として黒澤さんの意を体して次のように述べた。

 黒澤氏は今まで貴方がフランス流の仕事のやり方を厳しく要求してきたことに対してフラストレーションを感じていました。黒澤氏にとっては、貴方が自分のやり方を押し付けることが黒澤氏に対する信頼の欠如と感じられたのです。私は、貴方が自分の洗練された仕事のやり方にプライドをお持ちだということは知っています。しかし、黒澤氏及び彼のスタッフにも、長年に渡って築き上げられた独自のやり方があり、この方法によって多くの傑作が世に出たのです。黒澤氏は、貴方が彼を信頼しているのであれば、もっと彼に自由を与えてくれるべきだと考えています。

この他映画の製作資金について、フランス側でどれだけの資金調達が出来たのか、フランスの為替管理法の問題がその後どうなったのか、等について聞いた。このテレックスは6月28日に発信された。

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私はシルバーマンが素直に謝ってくるとは思わなかったが、明らかに彼のミスであったので、多少は下手に出てくるのではないかと思っていた。ところが、6月30日付で次のテレックスが来た。

 我々は貴方の1983年6月28日付のテレックスを受領しました。我々は黒澤明氏の名前で彼のために出されたこのテレックスの形式も内容も承諾できないことをお伝えします。

 全ての事柄は我々の間で話合われ、解決され、何ヵ月もかかって契約がサインされました。貴方の送ったテレックスは我々の従前の話合い、契約及び東京の記者会見で黒澤明氏が述べた内容と相違します。

 ウリー・ピカール氏が先ず7月7日に東京に着き、次いでサージ・シルバーマン氏が7月14日に着くことになっていましたが、貴方のテレックスにより我々は彼等の到着を遅らせざるを得なくなりました。いずれにしても、我々はこの件を我々の弁護士に託し、映画「乱」に関する全ての権利を留保します。

サージ・シルバーマン
グリニッチ フィルム プロダクションのプロデューサー
 
ダニエル・トスカン・ドゥ・プロンティエ
ゴーモンのゼネラル・マネージャー

この内容は黒澤さんにすぐに伝えられたが、黒澤さんは、何故このような返事が来るのか、と驚いていた。それは私にしても同様であり、薬が効きすぎたのかと思った。この文章は明らかに弁護士が書いたもので、喧嘩を想定したものである。私の黒澤さんへの説明としては、彼等は我々が名誉毀損の訴訟でも起こそうとしていると考えているのではないか、というものであった。確かに、理屈から言えば、謝って済むものではないといった後には「だから金を払え」という言葉が続いてもおかしくはない。こちらとすれば、言い訳ばかりしていないでちゃんと謝れ、と言ったつもりなのだが、下手に謝れば金を取られると考えるのが日本以外の常識かもしれない。

野上さんといろいろ相談した結果、あの事件については相手をこれ以上追いつめることは止めるが、映画の製作資金についてははっきりとした回答をもらおう、ということになった。かくして、あまり歯切れの良くないテレックスを7月4日に打つことになったが、その最後にシルバーマンに宛てて、明日電話をする、と付記した。文書の往復だけだと一旦悪くなった関係をもとに戻すことは難しく、直接話をすることが必要になる。この時シルバーマンとどのような話をしたかは覚えていないが、いつものパターンだと、シルバーマンの長い愚痴を聞いたあとで適当に持ち上げながら本題に入っていく。今回の問題は、根本的な利害の対立に根差しているものではなく、えらい老人同士の意地の張り合いの感があったので、私が適当に脚色して双方の言葉を相手方に伝えることで何とかかたがつく。

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 1983年7月18日、何事もなかったかのようにサージ・シルバーマンとウリー・ピカールは来日した。ファイルの中にシルバーマンのスケジュールのメモがあるが、7月23日までの滞在中に大島渚監督とも夕食の予定があったようである。

 手帳をみると、私は7月18日にシルバーマンからディナーに招待されたようであるが、全く記憶がない。翌7月19日火曜日に黒澤明、野上及び大橋の各氏と帝国ホテルの1615号室を訪ね、シルバーマン及びピカールと会議をした。その時は、シルバーマンが「乱」の製作にその後どのように係わっていくかについて話し合われ、シルバーマンはゴーモンと一緒に350万ドルの資金を提供するつもりであると言った。但し、この350万ドルは前に述べたネガティブ・ピックアップの条件で提供されるもので、ネガが完成するまでの資金手当ては黒澤側がしなければならないことになった。この会議の席上、シルバーマンは黒澤さんに対してYou will be your own bossと度々言っていたが、相変わらずプロデューサーであるかの如く製作の細部について色々と注文を付けてきた。特に問題となったのは、シルバーマンが、映画の日本国内での配給から得られる製作者収入のうち東宝のMGを超えた分の50%を要求してきたことだった。黒澤側としてはネガティブ・ピックアップの条件でのMGがいくらあっても自己資金では製作を賄えないので、新たにスポンサーを探す必要があった。そのようなスポンサーが、シルバーマンの言う条件をのむかどうか分からないので、回答は留保するしかなかった。

 次の写真は、その会議の時のものだと思う。左にシルバーマン、ソファーに私と黒澤さんそして右端に大橋さんの姿が見える。

 7月22日金曜日にはシルバーマンとのディナーがあった。次の写真はその時のもので、黒澤さんの左にいるのが私で、右にいるのが川喜多和子と大橋喬。黒澤さんの正面にいるのがシルバーマンである。

 前に書いたように、黒澤さん達との最初のディナーの時には、私は部外者であり、別の世界を覗き見ているという感があった。それから8ヶ月経って、私は黒澤さんとシルバーマンの会話を通訳することになり、それだけでなく彼等と同じ世界の人間であるかのように振る舞うようになっていた。前のように、スターの中に紛れ込んでしまったという違和感は無くなり、私自身がスターであるかのように錯覚していた。

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 パリに帰ったシルバーマンから7月28日付の長いテレックスが来た。それは東京での合意を確認するというものであったが、こちらの立場は、スポンサーがまだ見つかっていないこの段階ではシルバーマンとの「合意」は出来ないというものであったから、そもそも前提からして違っていた。更に、東京での話し合いで触れられなかったことが幾つも合意されたものとして書かれており、また、表現としても黒澤さんの要請に応じてシルバーマンが助けているというニュアンスが強く出ていたので、とても黒澤さんに見せられるものではなかった。野上さん、大橋さんと相談した結果、これを黒澤さんに見せたら怒ってしまい、また大騒ぎになるという事になり、シルバーマンにテレックスを書き直してもらおうということになった。私からの私信という形でテレックスを送ったところ、8月19日になって私への私信という形でシルバーマンから返事が来た。この中で彼は次のように述べている。

まず私は、私が黒澤明氏に送るテレックスや手紙について、彼がいつも腹を立てなければならないということがまだ理解できません。彼は、約1年前パリで天皇にはならないと約束し、それを東京でも何回も繰り返しました。いかなる場合にも、本当の天皇は卑しい人々の言葉に耳を傾け、彼等の言うことにつき考える度量を持つ必要があります。

黒澤明氏についての私の見方は、彼は偉大なる知性及び才能を持っているにも拘わらず、相変わらず人間を恐れているということで、このような状態は彼自身のためにも良くありません。

 シルバーマンの「黒澤さんは人間を恐れている」という指摘は一面の真理をついており、確かに黒澤さんは過剰防衛になることがあった。周りにいる人間も、黒澤さんが傷つき易い人であるということが判っているから、なかなか本当のことを伝えなくなる。そのようにして隠されていた情報が他のルートで黒澤さんに伝わったりすると、黒澤さんは周りの身近な人間に裏切られたと思ってしまう。このような悪循環のあげく、黒澤さんが信じられるのは家族だけになってしまう。この当時聞いた噂では、久雄さんと野上さんの間がうまくいっておらず、黒澤さんが久雄さんの言うことばかり聞くので、野上さんが疎外されているということであった。根拠のない噂なのかもしれないが、ありそうな話ではあった。シルバーマンは、久雄さんのことが嫌いだったから、野上さんにアプローチすることになり、野上さんとしてもやりにくかったろう。

 東京会談で何が合意されたかについては、テレックスでは解決できず、私がシルバーマンと電話で話をすることになった。シルバーマンは野上さんも一緒にいるようにと言ってきたので、8月24日の夜7時、事務所で野上さんと電話を待っていた。2時間待ったが電話はかかってこなかった。

 翌日シルバーマンから、昨日は電話をかけられなかったという愛想の無いメッセージと共に新たな日時を指定するテレックスが来たが、我々はそれには構わず、黒澤さんからのメッセージを伝えるテレックスを送ることにした。黒澤さんからのメッセージは、「乱」の製作については、スポンサーが見つかってからゴーモンと話す、というものであった。そして、スポンサーは、黒澤側を介してではなく、直接ゴーモンと話をするであろう、と述べた。黒澤さんとしては、うるさく注文を付けてくるシルバーマンを抜きにして、口を出さずにお金だけ出してくれる(とまだ思っていた)ゴーモンとだけ話したかったのだ。このテレックスに対しては、ゴーモンのトスカンから私に、黒澤さんへメッセージを伝えるようにとのテレックスが返ってきた。トスカンの立場は、シルバーマン抜きで「乱」の話を進めることは出来ないというものだった。

 黒澤側のスポンサー探しがどのように行われていたかについては、私の知るところではなかったが、私もそれなりに心配していた。私のクライアントで映画に金を出してくれそうな所は殆ど無かったが、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の時に松竹の奥山融副社長に会ったことを思い出した。野上さんに聞いたところ松竹にはまだ声をかけていないということで、「私から聞いてみていいですか?」と言うと「別にいいんじゃないかしら」ということだったので、電話をした。奥山さんに電話をすると、話を聞いてくれて、取締役と相談してから返事をする、ということになった。数日してから電話があり、「黒澤監督についてはお手伝いをしたいのだが、久雄さんがいるのが問題だ」と言われた。ここでも久雄氏の評判は芳しくなかったようで、それを理由に(または口実に)断ることを勧めた人がいるようだ。久雄さんが映画の仕事にタッチしたのは「乱」が初めてだとのことで、この当時はまだタレントとしてのチャラチャラした印象が抜けていなかったのだろう。

 私の印象では、久雄さんはビジネスマンとして優れた才能を持っていたと思う。頭の回転は速く、論理的である。黒澤明氏は、私の翻訳した契約書を長いこと眺めて、「僕はこういうのが全然駄目なんだなぁ」と言って法律的な文章は全く頭に入っていかないようだったが、久雄さんはとても理解が速かった。ずっと後の話になるが、東宝との和解交渉をしていた時に、どう対応したらいいか悩んでいた問題があって久雄さんに相談したことがあった。久雄さんは即座に、ちょっと強引だが明快な対応を示してくれて、それが通ってしまった。久雄さんはニッと笑って「僕は弁護士になったら結構やれるんじゃないかなぁ」と言ったが、本当にそうだと思った。久雄さんは黒澤明の息子であるということで損をしているところがあるかもしれない。

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 私の関知しないところで「乱」のスポンサーは決まった。久雄氏が日本ヘラルド映画の古川勝巳社長と話をし、ヘラルドグループが全面的に支援をすることになった。具体的には、日本ヘラルド映画株式会社の子会社である株式会社ヘラルド・エースが製作会社になることになった。ヘラルド・エースの社長は原正人氏であり、前述のように黒澤監督を紹介してくれたのは原氏であった。当然のように原氏は、今度は私がヘラルド・エースの代理人としてシルバーマンと交渉を続けるように依頼し、黒澤さんもそれを望んでいたので私は喜んで承諾した。

 日本ヘラルド映画は黒澤さんの「デルス・ウザーラ」(1975モスフィルム)の日本配給を担当しており、その後黒澤さんが脚本を書いた「暴走機関車」をユーゴで撮る話も日本ヘラルド映画が手掛けたが、これは実現しなかった。「ヘラルド」という名前から外資系の映画会社であると勘違いする人がいるが、日本ヘラルド映画は純粋な日本資本の会社である。名古屋が発祥の地で、パチンコ店経営に成功して、それから映画配給に乗り出した、ということを聞いたことがある。ヘラルド・エースは、日本ヘラルド映画の完全子会社ではなく、原さんが3分の1程の株を持っており、従って原さんは単なる雇われ社長ではなく、時には日本ヘラルド映画と喧嘩をしながらこの仕事を進めていった。

 原さんは、10月31日、11月1日の2日間パリでシルバーマンと話合い、私はその時原さんが作ったメモを英語に直しシルバーマンとの東京での会議に備えることになった。ヘラルドとシルバーマンとの契約には、黒澤さんが一方の当事者であった場合とは異なる別な難しさがあった。黒澤さんの場合には、シルバーマンが映画の芸術的な部分に口を出してくることを阻止し、黒澤さんが自由に映画を作れる環境を作ることに留意していた。ヘラルドの場合も同様な問題が残ったが、それよりも重要だったのはどのような条件でシルバーマンに金を出してもらい、またヘラルドとシルバーマンがどのように映画から得られる収入を回収(recoup)していくかであった。製作予算は1,050万ドル(当時の為替レート$1=¥240で25億円)であったがそのうち350万ドルについては日本を除く全世界での配給権と引き換えにシルバーマンが支払うことになっていた。しかし、前にも述べたように、この350万ドルはネガティブ・ピックアップの条件で支払われるもので、ヘラルドとしては、映画を完成しネガを提供したがシルバーマンが支払ってくれない、というような事態になっては困る。そこで、ヘラルドは、シルバーマンに対して350万ドルのL/Cを開設してくれるよう要求することになった。このようにすれば、ヘラルドはネガを提供すれば、必ず銀行から350万ドルを支払ってもらえることになる。これに対し、シルバーマンは、L/C開設を承諾する条件としてヘラルド側の製作予算1,050万ドル全部についての銀行保証(bank guarantee)を要求し、且つ、初号の納品が遅れた場合にはペナルティーが課せられることを要求した。シルバーマンは11月8日に来日し、私はヘラルドの井関惺氏と11月11日の4時に帝国ホテルのシルバーマンを訪ねた。

 その後、原、井関、シルバーマン、ピカール及び私のメンバーでの会議が4、5回行われ、11月25日にはMemorandum of Agreementがサインされた。このMemorandum of Agreementは正式契約が調印されるまで拘束力を有するものとされ、次の内容を含んでいた。

1. ヘラルド・エースとGreenwich Film Production S.A.が共同製作会社となる。

2. ヘラルドとGreenwichとのテリトリーをそれぞれ日本及び日本を除く全世界とする。

3. Greenwichは350万ドルをネガティブ・ピックアップの条件で提供し、その債務を担保するために住友銀行の銀行保証をつける。

4. ヘラルドは1,050万ドルの資金を有している旨の確認書(残高証明書)を住友銀行に発行させる。

5. 日本及び日本を除く全世界の各テリトリーからの純収入の配分の仕方が合意された。

6. タイアップがあった場合の処理につき合意された。

7. その他、クレジット、ドキュメンタリーフィルム、音楽出版権、ミクシング等につき合意された。

 面白いのは、"Mr. Silberman will have no difficulty in discussing with Mr. Akira Kurosawa on any problem of artistic point of view including the music." という文章が契約の中に含まれていることで、これが法律的に意味があるかは疑問だが、シルバーマンの強い要求に応じて入れたという記憶がある。

 サインされたMemorandum of Agreementは私が一旦預かり、シルバーマンのニューヨークの弁護士がその内容を確認した後契約当事者にオリジナルが1部ずつ渡された。正式契約は、ニューヨークで詰めの交渉をし、締結することになったが、原さんは映画の準備で忙しいので、私が原さんの委任状を持ってニューヨークに行くことになった。私は、Memorandum of Agreementに基づいて正式契約の案を作り12月15日にシルバーマンに送った。しばらくして、シルバーマンからテレックスによるコメントが来たが、この中でシルバーマンはヘラルドが1,050万ドルの資金を有しているという銀行の確認書に関する条項がMemorandum of Agreementと違っていると言ってきた。私が作った正式契約の文章はMemorandum of Agreementと一言一句違いがなかったので、その旨シルバーマンに伝えたが、嫌な予感がした。ヘラルドとGreenwichの共同製作による「乱」の製作発表記者会見は12月12日に盛大に行われ、黒澤さんも原さんも契約が実質的に完了したものと思い映画製作に全力を傾注していた。

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 私のニューヨーク行きは、1984年1月15日から19日に決まった。年が明けてから、その準備のための会議がいくつも入って忙しくなった。その時点での「乱」製作公開スケジュールは次のようなものだった。

1984年5月15日から6月1日 クランクイン
1984年11月30日から12月15日 クランクアップ
1985年2月28日 日本語版初号
1985年3月31日 英・仏語版完成
1985年4月12日 第1回東京国際映画祭最終日 ワールドプレミア
1985年4月末日から6月 東宝・ヘラルド映画共同配給 にて全国封切り
1985年5月 カンヌ映画祭特別出品 (ノンコンペ招待を予定)
1985年9月から12月 世界各都市封切り

 1月12日に原、井関の両氏と会議をした。原さんが心配していたのは、11月25日にサインされたMemorandum of Agreementの内容が正式契約にそのまま盛込まれることを前提に各方面と話をしていたので、それが変わることになれば信用問題になる、ということだった。特にGreenwichの提供する350万ドルに銀行保証が付いていることは重要な要件だった。これが確保されないと、銀行はヘラルドに金を貸さないだろうし、東宝との配給契約や、フジテレビとのテレビ放映権の契約も締結できないことになる。私は、12日の夜シルバーマンに電話をして原さんのメッセージを伝えた。シルバーマンは、Memorandum of Agreementの内容が変えられることはないと約束し、銀行保証は2月末日までに取得できると言った。

 ニューヨークには、井関氏も一緒に行くことになった。シルバーマンが、定宿のピエールホテルを紹介してくれて、割引料金で泊まれることになった。15日日曜日の午後成田を立って同日の午前中にニューヨークに着いた。ピエールは、ヨーロッパ風の外観の高級ホテルで、セントラルパークを見下ろす場所にある。ホテルで少し休んでから、シルバーマンの弁護士であるモスコビッツの事務所へ行った。モスコビッツの事務所はパークアベニューに面した大きなビルの中にあり、弁護士数2、300人の比較的大きな事務所だった。モスコビッツは、ゴルバチョフに似た風貌の男で、シルバーマンとは昔からの知り合いのようで、スイスの大きな製薬会社をクライアントとして持ち、シルバーマンの仕事は安くやってくれていたそうだ。次の日は、朝9時半から夜10時頃まで会議をし、東京の原さんに電話をし、更に契約書の修正案を作って12時に寝た、と手帳に書いてある。

 先ずびっくりしたのは、モスコビッツに渡された正式契約のドラフトがMemorandum of Agreementの内容と大幅に異なっていたことだった。350万ドルの銀行保証については、それを提供することの条件として、ヘラルドも1,050万ドルについて銀行保証を提供するとしていた。Memorandum of Agreementでは、ヘラルドは1,050万ドルについては残高証明書を出せば良いとなっていたのだが、モスコビッツは、瞬間風速的にそのような金額がヘラルドの口座にあったとしても何の意味も無いという。確かにその理屈は正しいが、そもそもこのプロジェクトはヘラルドが実質的な製作会社で全てのリスクを負担して行うものなので、そのような立場にある者が残高証明書を出すことでさえ不必要なことである、というのがこちらの立場であった。他の部分については次第に合意が成立し、ドラフトを何回かやり取りするうちに形が見えてきたが、このヘラルドの銀行保証の問題は最後までもつれた。交渉の最終日である17日火曜日は、夕方までモスコビッツの事務所で会議をし、晩飯を食べた後(確かシルバーマンのスウィートで豪華なルームサービスを食べたはず)シルバーマンの部屋で最後の交渉をした。私とシルバーマンと井関さんの他にモスコビッツの事務所の若い日系のアソシエートが加わった。12時近くなって、シルバーマンはとうとうヘラルドは残高証明書を出せば良い、銀行保証はいらないと言い、それをアソシエートが書き取るのを確認してから、部屋に帰った。

 翌18日の東京行きの便は昼すぎにニューヨークを出発することになっていたので、私と井関さんは朝早くモスコビッツの事務所に行った。夜通し作業したらしく、修正された契約書が用意されていた。契約書を見る暇もなく、我々はシルバーマン、モスコビッツとの会議に臨むことになったが、そこでも保険等の件について色々な議論が出て、飛行機の時間ぎりぎりまで交渉が続いた。その間私は、この交渉を通じて相手方が信用できないという感じを抱いていたので、契約書に何か仕掛けがされているのではないか(例えば後ろの方の目立たない所に新たな条項が加えられていたり)と思い、議論をしながら契約書の後ろの方から読んでいた。しかし、色々と新しい問題が提起されるので集中できず、全部見終わる前にタイムアップとなった。最後に、この契約の内容で良いか、と聞かれたので、私は、ヘラルド映画とヘラルド・エースに確認をしてもらわないとサインは出来ないと言った。委任状は持っていたが、あまりにも内容が変わってしまったのでとてもサインできる状態ではなかった。結局、私とシルバーマンが契約書のドラフトにイニシャルをし、モスコビッツの事務所が契約当事者全ての確認を得るまで契約書は預かるということになった。

 ニューヨークは、私達が滞在していた間ずっと大雪で、飛行機が飛び立てるかどうか心配だった。私は当時貧乏だったので、デパートのバーゲンで買った1万円のコートを着ていたが、とても寒かった。シルバーマンの50万円の(と野上さんが言っていた)コートと並べて掛けられるととてもみすぼらしかった。時間を気にしながら、井関さんと私はタクシーで空港に向った。

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 出張の帰りは楽しかった。行きは試合に臨むスポーツ選手のような気分で、相手がどのように出てくるかを想像し、それに応じた作戦を考える。契約書や資料も読まなければならず、酒に酔っている暇はない。帰りは、特に良い仕事をした時は、ゆったりと満足感に浸ることができる。

 私は、ウォッカをロックで飲みながら、東京に帰ってからのスケジュールをぼんやりと考えていた。井関さんは真面目なので、隣の席で契約書を読んでいた。「乗杉先生、ここ直っていませんね…」井関さんが、契約書の第4条のところを指さして言った。

 そこには、ヘラルドが1,050万ドルにつき銀行保証を提供する、と書いてあった。「えっ!これは今朝もらった契約書ですか?」契約書の日付は1984年1月18日となっていた。間違いない。昨日の夜あれだけ議論して、シルバーマンは残高証明書でいいと言ったのに、全く直っていなかった。

 「これは何かの間違いでしょう。直し忘れただけでしょう。」とは言ったものの、相手が相手なので、不安が残った。一番大事なところなのに何故最初に確認しなかったのだろう、と思ったが、もう遅かった。リラックスできる筈の帰りのフライトが急に重苦しいものになり、一刻も早く東京に帰って疑問を解消したいと思った。しかし、ついていない時はどこまでもついていないもので、成田に着く直前に機長のアナウンスがあり、成田は大雪のため着陸できないので名古屋に向かう、と言った。

 名古屋に1泊し東京に帰り、すぐモスコビッツにテレックスを打ったが、クライアントと連絡がつかないので答えられない、という返事が来た。そうこうするうちに、シルバーマンが東京に立ち寄ることがわかったので、直接彼に確認しようと思った。1月26日帝国ホテルでシルバーマンに会ったが、弁護士に聞かないとわからないと逃げられてしまった。2月1日になってモスコビッツから返事が来たが、変更が合意されるまではニューヨークで確認した契約書が生きる、と言うのみで、とりつく島が無かった。更に、こちらが住友銀行と協議の上作成した残高証明書については、まったく問題にならないという。少なくとも「1,050万ドルは常に映画製作のためにヘラルドが使える」となっていなければならないとのこと。その後何度もテレックスを取り交わしたが、その度に相手方の要求が変わってきて、それまでの話には出ていなかったフランス銀行やThe French Centre de Cinema(国際共同合作を許可する委員会だそうだ)を満足させるものでなければいけない、等と言い出しその都度住友銀行と協議を重ねることになった。

 2月末日(この年は29日まであった)になってやっと住友銀行が発行するレター(残高証明書にかわるもの)の文言についての合意が成立し、この問題はひとまず解決した。しかし、3月1日にモスコビッツから来た保険等に関して無理な要求を突きつける高圧的なテレックスの中に、ヘラルドサイドの対応の遅れを非難する部分を見て我慢できなくなった。全ての遅れの原因はヘラルドがニューヨークで合意された契約の条件に従った銀行保証を取得できず、それに変わるものを彼らがフランス銀行やフランス当局と交渉して何度も提案しなければならなかったことにある、というのだ。私は次の日モスコビッツにテレックスを送り、私個人として彼の言葉に怒りを覚えると書いた。1月17日の夜のシルバーマンとの交渉について詳述し、次の日の朝は契約書を検討する時間などなかったと言った。更に、その後こちらが何度も1月17日の夜成立した契約の内容についてシルバーマンに確認するように言ったにも拘らず、モスコビッツがそれに1度として正面から答えなかったのは、何が合意されていたかを彼自身が了解していたからだと言った。そして、このような態度はシルバーマンが常日頃から言っている率直に(open cards)で話し会うというポリシーに反しているのではないかと述べた。これに対して、今度はモスコビッツの下でこの交渉に参加した2人の弁護士(1人は1月17日のシルバーマンとの会議に立ち会った日系弁護士)からテレックスが来て、1月18日の朝契約書にイニシャルした時には、私はその内容を了解していた筈だ、と言ってきた。私は、しつこいとは思いながら、今度はこの2人の弁護士にテレックスを送り、(1) 1月17日の夜シルバーマンのスウィートで成立した口頭の合意は何であったのか、また (2)その口頭の合意が翌日作成された契約書の内容と異なっていたならば、その理由は何か、と尋ねた。これに対して、二人から別々にテレックスが来て、立ち会った日系弁護士は、自分がサイン用の契約書を作成した時には、前日の夜成立した合意を正確に反映していると思っていた。しかし、交渉が行われたのは夜遅くであったので記憶が違っていることはあり得る、と言った。私は、そろそろ矛を治める潮時と思い、二人宛てにテレックスを送り、二人の回答には満足しており、これ以上は追及しない、特に立会人だった日系弁護士を苦境に立たせるつもりはなかった、と言った。

 銀行保証か残高証明書かという問題は解決していたので、既に歴史的事実となってしまった事柄について私が相手方の弁護士と喧嘩をしたのは蛇足か、かえって有害だという考え方もあるだろう。しかし、この後まだ延々と続いていった交渉全体を今振り返ってみると、あの時点で怒ってみせた(実際に怒っていたのだが)ことはそれなりに意味があったと思う。もう一度実際何があったのかを推測してみると、1月17日の夜の合意の内容をあの日系弁護士は正確に契約書に反映しようとしたのだと思う。しかし、それを見たモスコビッツはヘラルドの銀行保証については譲歩すべきではないとシルバーマンに助言し、シルバーマンも考え直した。ここで、本来ならばシルバーマンは昨日言ったことは撤回する、と我々に伝えるべきだった。しかし、彼とモスコビッツはそのようにせず、契約書の条項を彼らの主張に沿う形で残したまま我々に最終合意として提示した。そこで我々が気が付けば、彼らは一から議論をし直す気だったのだろう。ところが我々はそれに気が付かなかった。そこで彼らは優位に立ったと思い、強気で交渉してきた。

 私は、1月17日の夜の合意内容が明らかになれば全てが解決すると思い、その確認を求めた。しかし、彼らは「何が合意されたか」という問題を巧妙に避けて、契約書に書かれていることが合意の筈だ、という立場で押してきた。何故彼らはこのように対応してきたのだろうか。契約書の表現だけではなく、その前提となる前夜の話し合いの中でも銀行保証が合意されていた、としたならば彼らの主張は一貫したものとなっていた筈だ。しかしこのような主張をするならば彼らは明らかに嘘を言うことになる。もっとも何れの側が嘘を言っているかは、第三者を交えない話し合いの中でのことなので、立証は困難である。何が合意されたかの唯一の証拠は次の朝両当事者が一応確認しイニシャルを付した契約書のみである。日本の裁判所でこの問題が裁かれ、両者が何れも相手方が嘘を言っていると譲らないとすれば、我々の立場は弱いと思う。アメリカの裁判手続が日本のそれと大きく異なるのは、ディスカバリーという制度があることで、ディスカバリーの一つである文書提出請求(Request for Production of Documents)を用いることによって相手方が所持している紛争に係わる書類の提出を求めることが出来る。提出すべき書類の中にはメモも含まれ、例の日系弁護士がとっていた会議のメモも提出せざるを得なくなる。このように、アメリカで裁判になることを考えた場合嘘をつくというのは大変危険なことである。彼らは多分ここまで考えて対応策を決めたのだろう。

 1月17日の夜の会議に立ち会っていた日系弁護士が直接連絡してきたことは私にとってはまさに渡りに船であった。その晩いなかったモスコビッツを相手にしていたのでは埒があかず、張本人のシルバーマンは弁護士に聞けと言って逃げるので、堂々巡りであった。日系弁護士はその夜何が話されたかを克明に記録しており、知らないと言って逃げる訳にはいかず、また弁護士に聞けと言って回答を拒否できる立場にもなかった。従って彼の回答は苦し紛れの迫力の無いものにならざるを得ず、私は一本取ったと思った。私としては、あそこまで追求すればその後の交渉で甘く見られることはないと思い、一応の目的を達した。

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 その後も次々と問題が発生し、喧嘩をしながらの交渉が続いていった。3月になり、山積した問題を一挙に解決するために、原さんと私はパリに行ってシルバーマンと交渉しようと考えた。しかし、出発直前になってモスコビッツからテレックスが入り、シルバーマンは自分なしには法律的な話は一切しない、と言ってきた。モスコビッツが会議に参加するためには、ヘラルド側が彼の報酬と費用として15,000ドルをすぐに振込む必要がある、とのことであった。我々はこの提案に呆れ果て、結局原さんが一人でパリに行きシルバーマンと話をすることになった。この話合いの結果は、5月になって共同製作契約の第1回の修正契約として確認された。

 「乱」の契約は映画の題名のとおりにもつれていたが、黒澤さんはこのような煩わしさから解放され、映画「乱」は6月2日にクランクインした。6月は主に黒澤フィルムスタジオにてのセット撮影であった。6月21日に井関さんから電話があり、23日の土曜日に「乱」に出演しないかと言われた。一文字太郎(根津甚八)の郎党のエキストラだが多少歳をくった人間が必要だとのこと。ヘラルド・エースに声がかかり、井関さんをはじめ何人かの社員が出演するという。ヘラルド・エースが発行した「黒澤明監督作品記録 '85」中の製作日誌の6月23日(土)の項には次のように書かれている。

雨のち曇り シーンナンバー126撮影。各パート朝早くから準備する。次郎の郎党としてエキストラ29名出演。中にはヘラルド映画、ヘラルド・エースの社員、弁護士の乗杉氏の顔も見える。

撮影終了後監督を囲んでスタッフの飲み会となる。撮影、照明、特機部らも参加。

 6月23日は、朝5時過ぎに起きて6時に家を出て渋谷経由で青葉台へ行き、待っていた緑色のコダックの名前の入ったバスに乗って黒澤フィルムスタジオへ向かった。スタジオの2階に着替えの部屋があり、そこで井関さんに会った。着替えを終えた後3階へ行きメークをした。合戦の後郎党が大広間に集まる場面だったので、頭はざんばら髪で、ドーランは土ぼこりにまみれたような色を塗った。その後1階のスタジオに行き鎧を着けた。予想外に重かった。9時半頃に黒澤さんが来るというので、鎧を着け終わった井関さんと一緒に2階のスタッフルームに行った。やがて、野上さんも来たので、写真を撮ったりコーヒーを飲んだりして待っていた。井関さんは途中でスタジオに降りて行き、野上さんと二人で待っていたが、なかなか黒澤さんは現れなかった。やがて、黒澤さんは既にスタジオで人を並べていることがわかったので、野上さんと一緒にスタジオに降りて行った。

 スタジオの中央には巨大なステージがあり、既に鎧姿の数十人のエキストラがコの字型に配置されていた。ステージのすぐ横に高い櫓があり、その上で黒澤さんが指揮をしていた。野上さんが櫓の下から、「乗杉さんが来ました」と言うと、黒澤さんはけげんな顔で私の方を見て一応挨拶した。私がステージに上がろうとしていると、後方で、「あれは誰?」「弁護士の乗杉さんですよ」「えっ、誰が乗杉さんなんか呼んだの?」「乗杉さんがどうしても来たいというものだから・・・」という会話が聞こえた。

 私は、どこに居たら良いのかわからなかったので、武者が一番密集している辺りに座り込んだ。すると、黒澤さんが近付いてきて、「そこじゃだめだよ。乗杉さんをもっと良く映るところに連れて行きなさい」と誰かに指示した。さらに、「そうだ、その3人組の後ろがいい」と黒澤さんは言って、私は柱の横の一番いい場所に連れて行かれた。その近くの武者たちは、こいつは何者か?という顔で私を見た。

 午前中の撮影は、一文字次郎の正室楓の方(原田美枝子)を正面から撮る方向―コの字型に並んだ武者の背後−にカメラを据えて始まった。楓の方が入場したときに一同礼をするというシーンだった。黒澤さんがステージの上を歩いて来て、「乗杉さんよく似合いますよ。全然わからなかった」と言った。午前の撮影は12時半頃終った。

 昼食の弁当が配られ、スタジオの裏で木箱に腰掛けて皆で食べた。午後の撮影は1時半頃から始まったが、コの字型であった武者は私の列を除いてお役御免となった。カメラは私の正面と左側にあった。楓の方と太郎の会話の場面で、黒澤さんから、後方の武者も目の動きに気をつけるようにと指導があった。黒澤さんの、「本番はカチンコ二つで行くよ」という声が響いた。つまり、ABCの三つのカメラで撮って、そのうち2台が一箇所にあるのでカチンコ二つになるそうだ。2回本番を撮り両方OKとなった。黒澤さんが近付いて来て、「乗杉さんがどんなに撮れているか見てみよう」と言って一台のカメラを覗き込んだ。黒澤さんは私の方を見て、「あまりはっきり撮れてないなあ」と言って苦笑いした。

 撮影が終わり、私は井関さん達と黒澤フィルムスタジオ内のレストランでビールを飲み、帰る前に黒澤さんに挨拶しようと井関さんと一緒にスタッフルームに行った。その日はスタジオ撮影の最終日だったので、スタッフルームでは皆が打上げパーティーの準備をしていた。黒澤さんが、一緒に飲んでいきましょうよ、と言ってくれたので、残ることにした。

 本多猪四郎監督(「ゴジラ」の監督として有名で、「乱」では演出補佐として参加していた)が、乗杉さんはこっちへ、と言って黒澤さんのとなりの席を指した。黒澤さんを囲むグループには、斎藤孝雄(撮影)、村木与四郎(美術)、矢野口文雄(録音)等の黒澤組の錚々たるメンバーが揃っており、後で、根津甚八、原田美枝子の御両人が来て黒澤さんの向い側の席に座った。黒澤さんを囲んだのは12,3人で、他に30人位のスタッフがパーティに参加していた。

 宴はまもなく黒澤さんの独演会となり、皆が黒澤さんの話を拝聴するかたちになった。根津さんはほとんど居眠りをしていた。黒澤さんは上機嫌で、やがて勲章の話になった。これまでに貰った勲章にまつわるエピソードを話し、3つめの勲章の話が終わったところで、ある国(東欧の方だったと思うが忘れた)でパーティーに招待された時その国の政府からこれまでに黒澤さんが貰った全ての勲章を着けて来るように言われた、という話をした。黒澤さんは、そんなに勲章を沢山着けたら重くてたまらないよ、と言って笑った。私はその時、胸いっぱいに勲章を着けた黒澤さんの姿を想像した。そこで気がついたのは、これまでの黒澤さんの話の中に全部で幾つの勲章を貰ったかということが出てきていないことだった。きっと山ほど勲章を貰っているのだが、黒澤さんは謙虚だからそのうち3つについてだけ話をしたのだ、と思い込んだ。そして、その山ほど貰った勲章の数を本当は言いたいのではないか、誰かが聞いてあげるべきではないか、と考えた。皆黙ってお話を拝聴しているだけなので、そのような(黒澤さんが喜ぶような)質問を出来るのは私しかいないのではないか、という考えにとりつかれた。そこで、タイミングを見計らって「先生はこれまでに幾つ勲章を貰われたのですか?」と聞いた。

 黒澤さんは一瞬びっくりしたように口ごもり、「3つです」と言った。その後に取り繕うように「いろんな大学からの名誉博士号とか、そういうのは沢山もらっているけどね」と言った。

 それから黒澤さんは明らかに不機嫌になったようで、独演会は続いていったが、会の終わりのほうで外野席から(多分若いスタッフだと思う)日本映画の将来とかいう問題についての質問があった時には、声を荒げて「そんなつまんない質問をするんじゃない!」と怒鳴った。

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 共同製作契約の第一回の修正契約は、Greenwichからの資金提供の時期を変えることになった。本来Greenwichはいわゆるネガティブ・ピックアップの条件で350万ドルを提供し、ヘラルドは映画のネガと交換にこの金額を受取ることになっていた。修正契約では、この350万ドルのうち100万ドルをGreenwichが前払いすることとし、映画の撮影開始と同時に25万ドル、その後10週目の終わりと21週目の終わりに各25万ドル、そして撮影が終わった段階で更に25万ドルが払われることになった。この変更はヘラルドにとっては歓迎すべきことであったが、Greenwichも回収金額の増額などヘラルドから取れるべきものはちゃんと取っており、どちらかが一方的に譲歩したという訳ではなかった。

 「乱」の撮影は1984年6月2日に開始され、黒澤フィルム・スタジオでの撮影にはシルバーマンも立ち会った。私は、原さんの名前でGreenwichに対して撮影が開始したことをテレックスで伝え、最初の25万ドルの送金依頼をした。しかし、シルバーマンから来たのは25万ドルではなくて、原さんに対して様々な要求を突きつける長いテレックスであった。シルバーマンのクレームは、予算、クレジット、保険、俳優との契約等に関する技術的なことが主であったが、彼が特に強調していたのは、Greenwichとヘラルドとの間の契約は共同製作契約であって映画の売買契約ではない、ということだった。この立場から、シルバーマンは原さんと同等の待遇を要求し、共同プロデューサーとして対等の権利を主張してきた。共同製作契約が変更される前であれば、原さんは、共同製作契約とは名ばかりで本当は売買契約なのだ、と言えたのだが、Greenwichが100万ドルとはいえリスクをとって前払いしてきた以上、話はそう単純ではなくなっていた。この共同製作か売買かという問題は「乱」の製作の過程でことある度に両プロデューサーの対立の原因となった。

 結局、一ヶ月程遅れてGreenwichからの送金はあり、未解決の問題を沢山抱えながら「乱」の製作は進行していった。

 前半のセット撮影を終了した黒澤さん達は、6月30日に姫路入りし、姫路城ロケに臨んだ。その後黒澤さん達は熊本を経て大分県玖珠郡九重町飯田高原へ向かった。飯田高原は「乱」の主要なロケ地で、エキストラ1000名を動員した大合戦シーンなどが撮られることになっていた。

 7月になってまた突然井関さんから電話があり、ロケを見に行かないかということ。ヘラルドが費用を出してくれるということなので、喜んで行くことにした。7月16日(月)、熊本空港に着くとマイクロバスが待っており、出演者である植木等さんと田崎潤さんが乗っていた。植木さんは秀虎の隣国の領主である藤巻信弘、田崎さんは同じく隣国の領主である綾部政治の役であった。これに三十騎の会の青年が加わり飯田高原へ向かった。この若者は、リハーサル中に足を痛めて治療していたが、完治したので復帰するとのことだった。2時間の道中は植木さんと田崎さんの掛け合い漫才のような話を楽しませてもらった。

 九重観光ホテルにチェックインすると休む間もなくロケ現場に向かった。その日はシーンナンバー55を撮るということで、広大な飯田高原を背景にした岩場の一角で撮影が行われていた。黒澤さんは櫓の上に乗り、その周りを何百人もの人々が忙しそうに動き回っていた。シーンナンバー55というのは、太郎と次郎から城を追い出された秀虎が放浪の末行き場を失い途方にくれているという場面である。秀虎には重臣である生駒勘解由(加藤和夫)と道化の狂阿弥(ピーター)他少数の郎党が従っている。そこに、以前秀虎に三郎と供に追放された重臣の平山丹後(油井昌由樹)が現れ藤巻のところに身を寄せている三郎のもとへ行こうと言う。それに対して、後に秀虎を裏切ることになる生駒は、藤巻の陰謀だとして反対する。

 高原ではあるが日差しは強く、乾ききった白い砂場で演技をする役者達はご苦労なことであった。特に、厚いメークをした仲代達矢は皮膚呼吸が出来ているのか疑わしかった。リハーサルが終わったらしく、黒澤さんの隣にいた野上さんが空を眺めてスタートのころあいを見ていた。しかし、その日は天気の変化が激しく、やがて空が黒雲に覆われ突然土砂降りの雨が降ってきた。皆は天幕の中に入り、弁当を食べながら雨の止むのを待っていた。しばらくして雨が止み、撮影開始かと思いきや、その日はそれで終わりだという。白い砂が濡れて黒く映ってしまうからだとのこと。映画の撮影というのは大変なものだと思った。

 黒澤さんとは一言二言挨拶をしただけで、思い過ごしかもしれないが、何となく他人行儀な態度であった。私は勲章の件を気にしていたので、黒澤さんの態度をそれと絡めてみていたが、考えてみればロケ現場で黒澤さんが私に愛想を使う必要など全く無かったのだ。ロケ現場の映画監督というのは戦闘中の軍隊の大将のようなもので、私は文字通り見学者でしかなかった。

 夕食は全員一緒に食堂で食べるということで、指定された場所に向かった。指定された食堂は、ホテルを一旦出て、別な建物に入った記憶があるのだが、資料を見るとどうやら黒澤監督が泊まっていたやまなみ荘の食堂であったようだ。私は、寺尾聰(太郎役)や隆大介(三郎役)等と共に食堂に向かい、近道をするために連中と一緒に柵を乗り越えたのを覚えている。食堂は、貸切のようで、長いテーブルが幾つも並び、野上さんが待っていて私を黒澤さん達のテーブルの一番端の席に導いた。そのテーブルは、両側に7、8人ずつが座れるようになっており、窓側の真中の席に黒澤さんが座り、その右にピーター、左に仲代さんが座った。その向いに植木、田崎の御両人と本多猪四郎監督が座って、その後はよく覚えていない。私の隣には生駒役の加藤和夫氏がいたように記憶している。黒澤さんは一人でよくしゃべって、ピーターがホステスのように世話をやいていた。黒澤さんの話は主に昔の「七人の侍」等の古い映画にまつわるエピソードが多かったが、何故か知っている話が多かった。黒澤さんから直にそのような話を聞いた覚えがなかったので考えたら、黒澤さんの「蝦蟇の油−自伝のようなもの」に書かれている話だった。面白かったのは、黒澤さんの話の一つ一つに、待ち構えていたかのように一番最初に大きな声で「ワッハッハ」と笑うのは仲代さんだったということだ。仲代さんはこのような話はもう何百回も聞いたであろうに、あの豪快な笑いは何だったのだろう。黒澤さんは、この仲代さんのくさい演技を全く意に介する様子もなく、上機嫌で話をしていた。

 黒澤さんは熊本で発見したという「いいちこ」という焼酎(今では全国区になっているがその当時はそうではなかった)を何杯もおかわりして、宴はいつ果てるとも知れなかった。永遠に終わらないかと思えた宴会もやがてお開きになり、参加者は三々五々と自分達の宿舎に帰って行った。私は、何故か人が疎らになるまで残っていたが、そこで面白いものを目撃した。仲代さんがつかつかと野上さんのところに歩いていき、「野上さん、食事をもう少し早く終わらせるようにしてもらえませんか。」と言った。野上さんは困ったような顔をして、「でも先生が.....」と呟いた。仲代さんは「先生は遅く起きられるからいいんですけどね。私はメークに3時間半かかるんですよ。それに合わせて朝起きなければいけないので、これでは体がもちませんよ。」

 役者というのは大変な職業だと思った。

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 「乱」の撮影は、いろいろな問題を孕みながら進んでいた。  

 映画製作に事故はつきもののようで、現に、14項に書いたやまなみ荘での宴会の夜、ピーターが九重観光ホテルの自室で左足アキレス腱の上を切り大分の県立病院へ入院することになり、10日間撮影が遅れたとのことである。このような問題には私は殆ど関わらなかったと思っていたが、ファイルを見ると、撮影中に怪我をした役者(騎馬武者として出演していた)との傷害の示談に関する念書が入っていた。ピーターの件については、私は何の相談も受けなかった。

 本来のシルバーマンとの関係は、相変わらず問題含みで、頻繁にテレックスを交換していた。このような話が黒澤さんには伝わらないよう皆でガードしていたが、プロデューサーの原さんは現場と契約の両方を見なければならず、大変だったと思う。映画製作の契約は、「戦場のメリークリスマス」の時でもそうだったが、映画の撮影開始前に完成することはあまりないようで、契約調印が終わっている場合でも撮影が開始されてから分ってくる問題が沢山あり修正を余儀なくされる。

 アメリカの映画専門の弁護士であれば映画製作の実務についても知っているのかもしれないが、私は映画ファンではあっても、映画製作の実務については全くの素人だった。恥ずかしい話だが、初めて黒澤さんと野上さんに会った時に、野上さんが、「これから北海道にロケハンに行く」と言ったのに対して「もうロケーションをするのですか?」と言ってしまい、野上さんは困ったなという顔をしていた。勿論、ロケハンとはロケーションハンティングの略語であり、ロケーションの場所を探す事である。

 映画を製作するための契約には、これまで述べてきた共同製作契約のような大きな契約の他に、様々な付随する契約がある。「乱」は外国との合作であったために私のような渉外弁護士が関与したのであるが、外国が絡まない映画製作については製作会社の人が契約も作っている。そもそも、契約書というようなフォーマルなものを交わさないで口頭で済ますことが多いようである。「乱」の場合には、シルバーマンから後で文句を言われないために、ということもあって細かな契約まで私が見ることになった。例えば、「乱」では沢山の馬を使い、そのうち50頭は輸入したクォーターホースだったが、その飼育に関する契約を大分の牧場と交わした。この契約に関しては、後日輸入馬と国産馬が取り違えられるという事件が起こり、紛争になった。この他、「乱」の映画音楽を作曲した武満徹さんの所属する東京コンサーツとの契約を作ったり、アメリカの著作権局に「乱」の脚本を登録することなどいろいろと仕事はあったが、一番大きな問題となっていたのはフランスの現像所との契約であった。

 前にも述べたように、「乱」の共同製作契約は、基本的にいわゆるネガティブピックアップの条件で合意されていた。即ち、ヘラルドが映画のネガを引渡すのと交換にシルバーマンが金を払うということである。これは、お店で買い物をする場合にお金と引替えに品物をもらうのと同じでシンプルな取引である。しかし、品物が目に見えるものである場合には買主は安心して(例えば傷のないリンゴであるとか)代金を払うが、映画の場合には素人がフィルムを見てもどのような映画であるかは分らない。フィルムに映っている映画が約束された内容のものであるかは(芸術性はともかくその品質については)専門家が見なければ分らない。ネガティブピックアップの条件の場合にそのような判断をする専門家が現像所なのである。

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 順調に進んでいたように見えた撮影だが、やはり遅れが出て、予定していた3月末日には間に合わなくなった。1985年のカンヌ映画祭への出品も駄目になり、あれやこれやでまた共同製作契約の修正をすることになり、4月1日に「1985年修正契約書」が締結された。それでも映画は黒澤さんにしては少しの遅れで完成し、6月1日に全国公開されることになった。次の写真はプレミアの時のものである。

 映画は完成したが、シルバーマンに海外版を引渡すまでにはまだいろいろと問題があった。原さんが6月にパリに行き、シルバーマンと協議をしてさらなる共同製作契約の修正について合意をしたが、後日モスコビッツから送られてきた修正契約案は合意された内容と大幅に異なっていた。その後テレックスでのやりとりを何回かしたが埒があかず、結局私が原さんと一緒にパリに行くことになった。

    8月20日(火)21時30分発のJAL425便に乗り翌日の7時25分にパリに着いた。パリでは原さんが常宿にしておりシルバーマンの事務所とも近い瀟洒なホテルに泊まった。事務所を訪ねるとシルバーマンは開口一番「先日の日航機の事故についてお悔みを申し上げたい」と言った。日航機が御巣鷹山に墜落したのは8月12日のことだった。シルバーマンはとても気が回る人だった。     

   シルバーマンの事務所にはウリー・ピカールもおり、4人で何回も話合ったがなかなか決着がつかなかった。特に、前に述べた現像所との契約が問題で、シルバーマンの指定したパリの現像所は明らかにシルバーマンの側に立っており、一緒になって無理な条件を突き付けてきた。一時は、原さんと相談して、パリの仲裁協会に仲裁の申立をしようかとさえ思ったが、結局そのような事態にはならず、大幅な譲歩をしたが合意にたどり着くことが出来、8月24日(土)のJAL428便で帰国することが出来た。

 パリ出張で面白かったのは、大島渚監督と会ったことだった。シルバーマンは、黒澤の次を大島と決めたようで、大島さんの次回作「マックス、モン・アムール」のプロデューサーをすることになっていた。私は、「戦場のメリークリスマス」が終わってから3年ぶり(その間パーティーで会ったかもしれないが)で大島監督に会い、昔話に花が咲いた。

 大島さんは結構上手な英語でシルバーマンと話しをしており、シルバーマンが大島さんの脚本にコメントをしていた。具体的な内容は分からなかったが、シルバーマンは大島さんに「ここをこう直せばもっと良くなる」というようなことを言い、大島さんはニコニコしながら頷いていた。そこで気が付いたのだが、あの時の大島さんは日本で見る大島さんと全然違っていた。日本での大島さんは論客であり闘士であり、あらゆる権威、権力を否定するという風情があった。しかし、シルバーマンの前の大島さんは、老教師のお気に入りの出来の良い生徒のようで、いつもの颯爽としたところが無かった。結局出来あがった映画も迫力の無いもので、その後大島さんは「御法度」まで長い休みをとることになってしまった。

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 1998年9月13日(日曜日)の朝私はグローバート弁護士一家をピックアップするために帝国ホテルに向かった。その日は、黒澤明監督のお別れ会が午後2時から横浜の黒澤フィルムスタジオで執り行われることになっていた。ジェフリー・グローバート(ジェフと呼んでいた)は1990年頃から黒澤プロの仕事をしており、特に東宝及びMGM相手の訴訟の時には毎日のように連絡を取り合っていた(「七人の侍」日米訴訟合戦参照)。1998年当時、ジェフの次男ジョシュアが日本の大学に留学しており、ジェフと妻ナタリーは息子に会うことも兼ねて黒澤監督のお別れ会に出席することにした。

   黒澤フィルムスタジオまでは、日比谷線、東横線及び横浜線を乗り継いで十日市場へ行き、そこから黒澤プロ差し向けのバスに乗るという道程だった。バスに乗った距離は本来10分程度しかかからないものだったと思うが、お別れ会に出席する人の車で混雑していたためか、大層時間がかかった。バスを降りてから黒澤フィルムスタジオまで一般参列者の長い列が続いており、老若男女が厳しい残暑の中開場を待っていた。私は、案内役とは言いながら、どこに行ったら良いのか分からずうろうろしていると、「乱」の時監督助手をしていたビットリオ・ダレ・オレが我々を見つけて、手招きをした。

   黒澤フィルムスタジオの中は、既に招待された人々が埋め尽くしており(新聞報道では約5,000人)、その巨大な空間は中世ヨーロッパの大聖堂に見まがうものだった。スタジオ内の壁には、黒澤作品のスチールが大きなパネルとなって貼られ、「七人の侍」のテーマ曲等懐かしい音楽が流れていた。中央前方の祭壇には、「乱」の「金の間」をモチーフにした金箔を張り詰めた部屋が作られ、左手にはカンヌ映画祭グランプリ、アカデミー名誉賞、文化勲章、D.W.グリフィス賞の4本のトロフィーが飾られていた。

   弔辞が終わり、長い献花の列に並び、黒澤久雄さん、和子さんに挨拶をして退場しようとした時に、主催者側として会場の整理にあたっていた原さんが近づいてきて「お久しぶり。元気?」と声を掛けてくれ、次いで井関さんが名刺を差出し「今こういうことをしています。後で電話します。」と言った(井関さんは映画会社の社長になっていた)。原さんの会社はヘラルド・エースではなくアスミック・エースになっていた。私も自分の事務所を持つようになっており、10年余の歳月が確実に流れていた。

   「乱」は、そのテーマが暗いためか、黒澤明の作品の中ではあまり高く評価されていないが、その完成度は黒澤芸術の頂点近くに位置するのではないか。人はよくテーマやストーリーで映画を評価するが、映画監督や映画に係わる他のクリエーターが力を注ぐのはもっと細かい部分なのではないか。そのような細部の完成度が映画全体の完成度を高めていく。その意味からすれば「乱」はどの部分を切り取ってみても黒澤さん等の才能と情熱が表現されており、2時間15分の絵画を見る思いがする。いずれ再評価される時が来るだろう。

  ( 完 )

 

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