私の映画の仕事のルーツは、私が弁護士になって最初に入ったローガン・岡本・高島法律事務所が映画関係のクライアントを持っていたことにある。その事務所で東映株式会社の小さな仕事をしたことがあったのだが、私が桝田江尻法律事務所に移ってきた後、なぜか東映が私に仕事を頼んできた。それもまた小さな仕事ですぐ終わってしまったが、ある日突然東映の部長から電話がかかり大島渚の仕事を手伝ってくれないかと言われた。それが「戦場のメリークリスマス」だった。
大島渚の妹、大島瑛子が初めて事務所に来たのは1981年の冬だった。それから6ヶ月間何の音沙汰もなく、忘れた頃に突然ぶ厚い書類の束が届き、イギリスからエグゼキュティブ・プロデューサーが来るからすぐそれを検討するようにという指示があった。契約交渉はプロデューサーであるジェレミー・トーマスの弁護士の事務所で行われることになり、私は何もわからないままにロンドンに飛んだ。ジェレミー・トーマスは、その当時30代前半の若手プロデューサーで、大島渚が抜擢したということであったが、今では「ラストエンペラー」のプロデューサーとして大物の仲間入りをしている。「戦場のメリークリスマス」にはニュージーランドの投資銀行が製作費の半分を出すことになっており、その投資銀行の弁護士であるポール・キャランもニュージーランドから来ていた。ポールとは一緒のホテルに泊まり食事をしたり買物をしたりで仲良くなった。ポールと私は毎朝ホテルを出てロンドンの静かな住宅街にある瀟洒な邸宅風の建物の中にあるサイモン・オルスワングの事務所に通った。映画の仕事についてはほとんど素人であった私は、映画製作にはやたら多くの契約書が必要だということを初めて知ったのだが(最終的には41種類の契約書ができた)、映画専門の弁護士であるオルスワングにとってもこの件は予想外にてこずったようだ。オルスワングは仕事がまだ半分も終わっていない段階で、突然「自分は明日からエーゲ海のクルーズに行く、ヨットには電話がないので連絡はとれない」と言い残して消えてしまった。「人を呼んでおいてけしからん奴だ」と思ったが、優秀なアソシエイトがいたので仕事にはさして支障は生じなかった。
その後、いくつかの危機的な状況を乗り越えて契約は成立し、「戦場のメリークリスマス」は完成した。この作品はカンヌのグランプリを「楢山節考」にさらわれたが、その年のキネマ旬報読者投票の第1位に輝き、大島渚の代表作となった。
「戦場のメリークリスマス」の製作にはヘラルドエースの原正人社長がエグゼキュティブ・プロデューサーとして参加していたが、その原氏から1982年10月のある日電話があった。黒澤明がフランス資本で映画を作るのを手伝ってくれないか、ということだった。私は、その当時黒澤作品を15本位は見ており、好きな監督だったので、信じられないような思いで受話器を置いた。数日後黒澤明本人が事務所に現れた。その日から3年間、私は怪物プロデューサーと呼ばれるユダヤ人のセルジュ・シルベルマンと格闘することになった。映画「乱」の契約成立に至る過程は映画それ自体よりも劇的であった。これは読物として面白いと思うので、いずれまとめたいと思っているが、ファイルの中に私が「乱」にエキストラとして出演した時のメモが残っていたのでここに紹介したい。
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−「乱」出演の記−
6月21日井関氏から電話があり23日(土)に「乱」に出演しないかと誘われた。勿論、OKした。
(中略)
野上氏とスタジオに降りていくと黒澤氏は高いヤグラの上で指揮をしていた。野上氏が「乗杉さんが来ました」というと黒澤氏は変な顔をして一応挨拶した。小生がステージに上がろうとしていると、後方で「あれは誰?」「弁護士の乗杉さんですよ」「え、誰が乗杉さんなんか呼んだの?」「乗杉さんがどうしても来たいというものだから…」という会話が聞こえた。小生が武者の一群の中に座り込むと、黒澤氏が「そこじゃだめだよ、乗杉さんをもっとよく写るところに連れて行きなさい。そうだ、その3人組の後ろがいい」と言った。小生は柱の横の一番いい場所に連れていかれた。近くの武者たちが不審な顔で見ていた。
撮影は、午前中は楓の方を正面から捉える方向、つまりコの字形に並んだ武者の後方からの角度にカメラを据えて始まった。楓の方が入場した時に一同礼をするシーンだった。黒澤氏がステージの上に来て「乗杉さんよく似合いますよ。全然わからなかった」と言った。午前の撮影は12:30p.m.頃終わった。
それから昼食で、弁当が配られスタジオの後ろで木箱に腰掛けて食った。午後は1:30p.m.頃から小生の正面と左側にカメラを据えて撮影が始まった。コの字は小生の列を除いてお役御免となった。楓の方と次郎の会話の場面で、後方の武者にも、目の動きに気をつけるようにと指導があった。黒澤氏の「本番はカチンコ2つでいくよ」という声が響いた。つまりABCの3つのカメラで撮ってそのうち2台が1ヶ所にあるのでカチンコ2つになるそうだ。
本番は明らかに写っているので息がつまる思いがした。2回本番を撮り両方OKとなった。メイクを落として帰ろうとしていると、井関さんが横のレストランでビールを飲まないかと誘ってくれ、ヘラルドの人達と生ビールを飲んだ。保険代理店セジュウィックの三宅氏も来ていた。その後、黒澤氏に挨拶しようとスタッフルームに井関氏と二人で行くと、スタジオ撮影終了の打ち上げの準備をしていた。黒澤氏が、「乗杉さんも飲んでいきましょう」と声をかけてくれソファの黒澤氏の隣りに座らせてくれた。やがて根津、原田の両スターも来て30〜40人でパーティーが始まった(黒澤氏を囲んだのは12〜3人)。10:30p.m.位まで飲んで帰った。黒澤氏は勲章の話、昔の東宝のストライキの話、勝野洋一家が訪ねてきた話(リポビタンDが嫌いだとのこと)、Silbermanがうるさかった話、何故素人を使うかという話(日本の俳優の層が薄いとのこと)など楽しそうに話していた。
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映画「乱」は興行的にはあまり成功したとは言えなかったが、「影武者」から「乱」製作開始までの5年間、製作資金を集めるのに大変な苦労をしたのに比べて、「乱」以降の黒澤の資金集めは順調であり、年1作というハイペースで黒澤は作品を作っていった。私の仕事も簡単な契約書のチェックというような坦々としたものになっていった。しかし、この平穏な状況も、 1988年1月に黒澤プロダクションから東宝との長年の懸案事項を一挙に解決したいという依頼があって、また熾烈な闘争が幕をあけた。東宝との間で有利な和解をしたと思ったのも束の間、その和解内容が原因となってロサンゼルスでMGMに訴えられ、それに対抗して東京でMGMと東宝を訴えるという前代未聞の戦いが始まったのだ。この訴訟合戦についてはすでにドキュメンタリーを書き始めているので、いつの日か公表したいと思っている。
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