私は、その事務所に入った当初は、おとなしくて素直な優等生を演じていた。私は同時に入所した他のアソシエートの都合もあって、入所した次の年の夏にミシガン大学に留学することになった。留学中に事務所である事件が起き、それを契機に私は事務所の姿勢に対して反感を覚えるようになった。 その事務所には、強い個性を持つワンマン経営者がいて、それととりまきのシニアパートナーおよび古参の秘書が支配階級を形成していた。私がミシガン大学の最後の試験の準備をしていた時、事務所の若い秘書が子供を道連れに心中したというニュースが飛び込んできた。その秘書は、離婚した日系アメリカ人で、アメリカには居られない事情があったようで、2人の子供とともに来日していた。彼女は事務所の権力者の1人である女性のオフィス・マネージャーのアシスタントをしていた。私は留学中、彼女から何通かの手紙をもらい、彼女がオフィス・マネージャーや古参の秘書達からいかにいじめられているかについて聞いていたので、彼女の自殺の原因はそれに違いないと思った。しかし、ミシガン大学の図書館で探し出した新聞の記事によれば、彼女の自殺の原因は「失恋」とされていた。私は、その新聞記事の表現に疑問を抱き、試験勉強は放り出し、図書館で日本の新聞から自殺の記事を収集した。その結果、自殺の動機が書かれている記事には、必ずその出所が明らかにされていた。たとえば、遺書とか警察の発表とかである。ところが彼女の場合には、「失恋を苦にして自殺したらしい」とのみ書かれており、何を根拠にそのような判断をしたのか明らかにされていなかった。私は、これを見て、事務所がその責任を隠蔽するために、新聞社に嘘の記事を書かせたと思い、激しい怒りを感じた。私はこの点を追及し、かつ事務所の病的な「いじめの体質」を糾弾するレポート用紙に26枚の手紙を事務所宛に送りつけた。当然のことながら、この手紙は一部パートナーにより握り潰された。私はさらに、新聞社に手紙を送り、真実を知ろうとしたが、返事はこなかった。私はそれから数ヵ月して帰国したが、事務所に対する怒りは消えなかった。 私にとっての事務所とは、1人の弱い人間を死に追いやり、さらに、その死を「失恋」という身勝手な理由を押し付けることによって汚した、許し難い存在であった。帰国してから私はほとんどのパートナーを詰問し、また、所員の組織化を試みたりしたが、事務所の空気はほとんど変わらなかった。正直にいうと、私は最後まで諸悪の根源だと思っていた大ボスとの対決を避けてしまった。それを正当化する理由は1つもなく、結局私はただの卑怯者だったと思う。 あれからもう15年が経つが、思い返してみても自分の行動は不徹底だったという気持はあるが、何かをやり過ぎたという考えは全くない。私は、権力とは、醜い連中がその富や名誉を守るために立てこもっている城だと思っていた。今、私はその権力の側にある。 私がM&Eのパートナーになってから10年以上の歳月が過ぎた。当初、私は自分の否定したような権力には決してならないと気負っていたが、段々とその意識も曖昧になってきた。それを私の変節とみるか成長とみるかは自分としては判断のできない事柄ではあるが、15年前の私と今の私とでは確実に何かが違ってきている。 内部にいる人間として、M&Eのマネージメントに対する批判一般について感ずることは、それがマネージメントをあまりにも過大評価しているということである。昔、私は権力というものは強靭でかつ狡猾なものだと思っていた。M&Eのみでの経験でこのようなことをいうのはおこがましいといわれるだろうが、私は権力というのは大会社であろうが、国家であろうが意外と愚かでいいかげんなものではないかと思うようになった。世の人は権力がある決定をすればそれは考え抜かれたものであり、ある目的を達成するために1番有効な手段であると考えがちである。しかし、その決定は、往々にして妥協の産物である。M&Eのような独裁的な力を持った人間がいない集団においては、異なった見解をそれなりに満足させるために最大公約数的な結論に落ち着くことが多い。それは反面、その結論に対しては、各人それぞれが不満を持っているということにもなる。そのような結論は、首尾一貫せず、矛盾に満ちた、とても賢い人間が考えたとは思えないような結論であることが多い。そのような評価を受けるということは、権力内部の人間にとっても十分わかっている話であり、ただそのような不満足な結論にしか合意できなかったというプロセスを、内部の人間のみが知っているということが問題なのである。権力はこのようなプロセスを公にできず(これは国政のような本来公にしなければならない場面においても同様であろうが)、考え抜かれた最良、最善の方策であると対外的には表明せざるを得ない。ここに権力の内部と外部における認識のギャップが生じ、今や内部にある私としては説明できないもどかしさを感じながら、こちらの苦しい立場も察してくれと言わざるを得ないことになる。 10年経ってもう一つわかったのは、権力というのはそれほど狡猾ではないのかもしれないということだ。昔私が考えていたのは、権力の打つ手にはすべて裏があり、一見恩恵のようにみえても結局は権力を利することになるということだった。さらに、権力側の発言はすべて周到に考え抜かれたものであり、権力側の意思(即ち悪意)を表明したものと受け取るべきだということだった。これもまた10余年の経験からすると当てはまらない場合が多く、善意からしたことが随分と曲解されたことがあった。ただこれについては権力側の無能力または不用意さというものが責められる場合も多かった。どうも権力というものは、昔私が考えていたほど利口でも綿密なものでもなく、全くの善意で愚かな決定をしたり、誤解されるような発言をすることがあるのだ。このように私の内部で権力に対する認識の変化があったことは事実だが、だからといって、権力は本来的に「善」であり、それに従っていればいいなどというつもりは毛頭ない。 権力は人がしたくないことをさせる力である。権力の行使には、サディズムに似たものがあり、それは往々にして制御し難くなる。権力が自らを規制しうるとするのは幻想であり、常に外部からの批判が必要となる。もっとも反権力というものも難物である。そこには自らを滅ぼすマゾヒズムに似た快感がある。 M&Eという小さな劇場で、結構面白い人間ドラマを見てきたが、次の幕での私の役割は何であるか考えてしまう。今さら反権力の側には立てないだろう。といって堅牢な城塞のように反対者を寄せ付けないような権力にはなれないだろう。昔からそうだったように、私はその場その場で悩んでいくしかないのかもしれない。 (M&E News Letter No. 35 1991.9月号掲載) |