(昭和43年夏、私は三島由紀夫に会った。21才の時だった。三島の父、平岡梓氏と親友であった私の母方の祖父の勧めによるものだった。私は、当時三派系全学連の親派だった町永俊雄−現在NHKのアナウンサーをしている−を誘って三島邸に赴いた。以下はその時の日記である。) 三島の家は大森からバスで少し行ったところの、割合静かな住宅地にあった。高い土塀の端に平岡公威と平岡梓の名札を左右に掲げた木戸があり、私たちはそこから中に入った。和風の玄関から上がると、右手に梓氏の居間があった。そこから、三島の住む棟と芝生が垣根ごしに見えた。 一時になると三島が庭に出てきて我々も降りていった。三島の服装は焦げ茶の短パンにズックの靴。胸毛は相当なもので、筋肉は異常な程であり、起きたばかりのせいかいささか弛んでいた。あとで彼が電話をかけている時に気付いたのだが、胸の骨格は貧弱で、そこに同じくらいの厚さの肉が付いていた。頭は幾分薄くなっており、全体に脂ぎっていて、顔はまだ洗っていないようだった。持ち物は黒のアタッシュケース(中には書類、薬など)、他に手紙多数。朝食はパン一枚、牛乳、目玉焼き(ベーコンなし)、グレープフルーツ、後でメロン。私たちはコーラ。 庭はたいして広くなく、芝生の手入れは出来ていない。椅子は地面に固定されていて、木ではなかったようだ。 三島は、まず名刺の裏に書いた私の名前を見て、姓が長沢でないことについて聞き、そのことについて少し話した。それから三島は、「私の親戚は皆俗物でどうして私のようなものができたか不思議です」と言い、急いで「もっとも小説家なんて一番の俗物かもしれませんが」と三島らしくつけ加えた。次に三島は、昨日ボディービルをしにいったらランニングの途中でデモ隊に会い、デモの中の女の子をひやかしたなどという話をした。これは多分町永に当て付けたものと思われる。勿論町永は反論できるわけもない。私が早稲田ではデモはしょっちゅうだと言うと、三島は、少し前に早稲田に剣道の関係で行ったが、道場に紹介してくれた人の名前が掲示されていなかったという話をした。 私が、幻想小説はお好きですか、と聞くと、三島は幻想小説とは何をいうのか、と聞くので、ブラッドベリイのようなものというと、三島は太宰的であまり好きではない、と言った。それから、ゴティックロマンなどという聞いたことのない話になり、何かと思ったら、フランケンシュタインの類の話らしい。魔王だか魔笛だかに似た物語を話してくれて、大変怖いものだと言った。次に、SFの話になり、小松左京は最近書きすぎる、と言い、書き過ぎると文体が薄れると言った。光瀬龍は、と言うと、まだ文体が出来ていないと言った。「たそがれに還る」は読んでいないようだった。SF映画の話などもし、三島は「2001年宇宙の旅」が面白かったと言ったが、同時にさっぱり分からなかったとも言っていた。この頃のSF映画は良くなっていると言い、「禁断の惑星」が良かったと言った。SF小説では、A.C.クラークの「幼年期の終り」が構想、文体ともに素晴らしいと絶賛した。 三島の「美しい星」の話になり、その小説を書いていた時は、屋根に小天文台をつくり小松左京と空飛ぶ円盤を探したと言った。でも結局一度も見ていないとのことであった。「美しい星」で最後に円盤が出てくるところで感動したと言ったら、いささか馬鹿にしたような調子で、あれは出てこなければならないようになっている、と言った。本格的SFを書かないのかと聞いたら、専門知識がないと書けないと、時代小説の例を出して、大衆作家が古本屋と金にまかせて結託して本を独占してしまうと、軽蔑したように言った。 文体の話では、町永に向かって、君の背中に黒子が三つあればそれが文体に出ると言った。だから、翻訳も文体のあった人がやるべきだと言った。三島の「禁色」の翻訳を今やっているとのことで、前にひどい訳をやった人なので心配していると言っていた。誤訳の例として、「金閣寺」の英訳の中でhe stopped at the eight bridgeの原文は、八つ橋の前で立ち止まった、というものだったと言った。また、三島自身がフランス語の原典からアラビアン・ナイトを訳すのに、フランス語の訳者と一緒に辞書をひきひき訳した話などした。 町永が野口武彦の「洪水の後」という小説について聞いたが、三島はその中で、ある女が夕陽を見ながらこの世の終末を感じたという箇所について、女は逆さに振ってもそんなことは感じない、と面白い表現をした。でも野口武彦の三島論は良く書けていると言っていた。 大江健三郎については、戦後最大の作家であると言ったが(勿論自分は除いてであろうが)、大江は文学部を、それもフランス文学を出たので、彼の小説には社会科学の体系による基礎がないと言った。 正味一時間話したところで、三島は用事があるので残念だがと言い、さっと立ってアタッシュケースを持って行ってしまった。 (三島と会うことになる前は、私は彼の著作は何も読んだことがなかった。会うことが決まってから数冊読み、感銘を受けた。三島への礼状は「美しく死んでください」と結んだ。三島は当時「英霊の声」を書き右翼的言動を強めていた。私は三島が英雄的最期を遂げるものと信じていた。昭和45年11月25日三島は自決した。) |