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対気は本来勝負ごとではなく、気を交流させることを目的としている。しかしながら、塾生の間では気の強さを張り合うところがあり、それが単なる健康法とは違った西野流の魅力になっているのかもしれない。今は、塾生が多くなり過ぎたためになくなったが、昨年暮れまでは塾生が一堂に会して西野の話とデモンストレーションを見る機会があった。そのデモンストレーションの際に、1度、西野の遠当(とおあて)の秘術の実演を見た。西野は4人の指導員を数メートル離れて立たせ、彼らに向けて軽く手を上げた。すると4人は一様に頭を押さえ、もんどりうって倒れ、七転八倒し、硬直して動かなくなってしまった。信じられない光景ではあったが、今では人間には不可思議な力が存在しているのだと思うようになった。 西野流の力については興味深い話がいろいろあるが、ここではその精神的な意義について考えてみたい。西野流の基本の稽古の中で、一種のイメージ・トレーニングによって、自己と外界との境をなくすということがたびたび行われる。そもそも気というものは、個体の中に閉じこもっているものではなく、それが訓練によって解放されれば、他人の気ともつながり、樹木から発せられる気をも感ずることができるようになり、大気に満ち溢れている気を取り込むこともできる。このようにして自己と外界との境界が取りはずされ、私は世界に溢れているエネルギーの中に溶け込むことができるようになる。残念ながら6カ月ではそこまでの感覚は得られないが、自分にとっての一つの思想的な方向性としては、非常に興味深いものがある。 私は以前にも書いたように、三島由起夫に強い関心をもっており、彼の思想が人類の一つの到達点ではないかと思っている。しかしながら、三島思想は袋小路の思想であり、自己を切り裂くことによってしか完結しない。「太陽と鉄」において述べているように、三島にとって肥大した自我というものが最大の問題であり、これは程度の差こそあれ、近代人にとっては共通の問題であろう。これは私にとっても、20歳の頃に自意識とは何かという問題を考えるようになって以来、考え続けていた課題であった。私にとっては、肉体によって拘束された存在をなぜ「私」と意識せざるをえず、なぜ私が他の人や動物や花や木であってはならないのか、というのが大きな疑問であった。それが可能ならば私にとって限界はなく、大宇宙にさえなることができ、死はなく悠久の生命を生きることができるだろう。三島が最後の段階で、このような可能性について考えていたかどうかは定かでないが、晩年彼は輪廻転生について論じ、霊界についても強い関心を示していた。 私は三島を乗り越えることができずに、三島の死んだ年齢に近づいていくことに不安を感じていた。しかし今は西野流という異なった肉体の思想によって、生きることが面白いと感じるようになっている。まだほんの入り口ではあるが、今までに知った世界の何倍もの未知の世界が目の前に開けているような気がする。 (これは1991年4月に書きました。現在週3回道場に通っています。) |