今までニュース・レターにはテーマの決まった事柄だけを書いてきたので、今回は思いつくまま気の向くままの漫談をしてみたいと思う。

 まず最近の話題で、マインド・コントロールといこう。これは統一教会と山崎浩子の例の事件で話題になった言葉で、山崎浩子がある牧師の力で統一教会のマインド・コントロールから解き放たれたという話だ。これを聞いて、山崎浩子は一つのマインド・コントロールから別のマインド・コントロールに衣替えしただけじゃないか、と思った人は多いだろう。しかし、そんなことを言える資格がある者がどこにいるだろうか。マインド・コントロールされてない人、手を上げてくださいと言われて「はい」と言って立ち上がれる人は何人いるだろう。

 例えば、我々の頭の中にある思想とやらのうちで、独自なものなどあるだろうか。よく考えてみれば、どれ一つとっても誰か他の人がすでに考えたことであって、自分が発明したとか発見したとか言えるものはない。じゃあ独自性については譲ったとしても、人が作りあげたその思想を自分は主体的に選びとったとは言えるだろうか。これも怪しいものだ。ある思想が正しいかどうかについても、本当に自分で検証したわけではなく、誰かがあれは正しいと言っているのを信じたにすぎないのではないか。

 例えば「人を殺してはいけない」という命題がある。また「一人の人間の命は地球よりも重い」といのもある。これらの命題が絶対に正しいと思って、「無実の人を殺す可能性のある死刑判決」を叫んでいる人もいるが、その人は自分の身近に起きている大量殺戮を見逃していることに気づいていないんじゃないか。

 毎年日本で1万人以上の人が殺されている事件を知っているかい?そうだ交通事故だ。君は、それは仕様がないことだと言う。自動車を廃止するわけにはいかないだろうと言う。なるほど、君は自動車の必要性と人間の命を秤にかけているわけだ。そうすると、人間の命というのは自動車と天秤ばかりで量られるぐらいの重さしかないというのか。

 アメリカで日本人留学生が射殺された事件があったね。あれを機に日本で、アメリカにおける銃器販売の制限を求める署名運動が起こったというが、余計なお節介だと思わないか。銃器が危険だということでその販売規制を求めるなら、自動車についてだってそれが危険だから販売するなと言ったっていいだろう。それをしないで人の国のことをとやかく言うのは余計なお世話と言うものだ。君は「鉄砲は必要じゃないが自動車は必要だ」と言うのか。でも君は、今の日本にある人の数ほども多い自動車が全部必要だと本当に思うかい?特に都市では通勤の方法が幾らでもあるのに、なぜ自家用車に乗る必要があるんだい。それに、レジャーのために自家用車を使う必要が本当にあるのかい。病気を治す効用のある薬に副作用があって人が死んだといえば大騒ぎになるけど、ゴルフにいく途中の車に跳ねられて死んだ人のことをなぜ皆はもっと怒らないのか。

 車を全廃しろというのは経済的な影響が余りにも大きすぎるから、現実的な主張とはならないかもしれない。でも、都市部での自家用車の所有を禁止してバスとタクシーのみが走れるとするのは、決して非現実的ではない。ところがそのような意見がほとんど聞かれないのは、日本において自動車産業があまりにも大きな比重を占め、それが有形無形の圧力を行使して、そういった意見を圧殺しているからだと思う。これもマインド・コントロールというべきだろう。私はそれを全て知りながら、自動車会社の仕事をして報酬を得ている。卑怯と言うべきか。

 先程ちょっとでた死刑の話をしよう。人は誤審の可能性があるから死刑は廃止しろと言う。でも、神ではない人間が誤りのない判断をするなんてしょせん期待しがたいことだ。それを承知で裁判制度というのがあるのだ。裁判官の判断が絶対であるなどというのは全くの妄想である。でも私が司法修習生だったとき指導教官だった刑事裁判官は、そうは思っていなかったようだ。私が彼に、刑事裁判において有罪の判決を下す場合、何パーセントの割合で有罪だと信じたときそう判断するのかと聞くと、彼は100パーセントだと答えた。それは嘘だ。100パーセントの確信をもって事実認定をするなんてことはできるわけがない。それは、多少なりとも推理小説を読んだことのある人間だったら簡単に分かることだ。よくできた推理小説では、絶対に犯人ではないと思われる人間が犯人なのだ。

 私は、事実認定というのは確率の問題だと思う。殺人事件があった場合に、Aという人間がその犯人であるかどうかは確率という尺度を用いなければ言えないと思う。それも100パーセントAが犯人だということはほとんどなく、100パーセント未満から0パーセントまでの間にAは位置することになる。この確率というのは、数量化しがたいものであって難しいが、裁判官は自分が50パーセントの確率でAが犯人だと思ってもそれで有罪と判断はしないだろう。でも60パーセントか70パーセントになればその様な判断をしがちで、その場合に誤審の可能性が生じる。もしそうであれば、私はこの確率を量刑の方に取り入れればいいのではないかと思う。例えば二人殺せば死刑というのがルールだとして、Aが犯人である確率が90パーセント以上であれば死刑、80パーセント以上であれば無期懲役、70パーセント以上であれば懲役20年という風にすればいいのだ。この方法は誤審による死刑を防止するという意味においては有効であって、決して馬鹿げた議論だとは思わないが、このような話は今まで聞いたことがない。こういった議論がなされないのは、たぶん裁判の権威というものと両立しないからであり、裁判官が神のように絶対的な判断力を持つという幻想により否定されてしまうからだ。このようなことを皆が信じているとすれば、これも一つのマインド・コントロールであり、幻想のために人間が犠牲となっている一つの例となる。

 この様にマインド・コントロールというのはいたるところにあって、私は人が絶対と信じている価値のうちで崩せないものがあるとは思えない。そうであれば、我々が生きているこの世界は虚妄の世界であり、映画のセットの中を歩いているようなものである。私はかえってそれを面白いと思うことがあり、しょせんは映画のセットでしかない世界に向けて全力投球することにむしろ共鳴し、自分の美意識を満足させる何かを感ずる。ずいぶん昔になるが高倉健のやくざ映画を見ていて、最も感動的な場面で彼が土塀にもたれたところ、それが大きく揺らいでセットであることを暴露したことがある。そのとき私は意外な感動を覚えた。つまり、そこで高倉健の世界は虚構であることが証明されたわけであり、そこで演じられた美的な行動は虚構の世界にとどめられて、決して醜い現実と交差することはないということが確認されたからである。

 現実を虚構だと思いこむのは一種の逆マインド・コントロールかもしれないが、自分でわかっていればそれもいいのではないか。世の中考え方次第でいくらでも面白くなる。






(M&E News Letter No. 56 1993.8月号掲載)