三島由紀夫の復活


乗杉 純    

 正月としては異常な暑さだった。街を行く人々の服装もオーバーからTシャツまで様々だった。夕方になっても気温はあまり下がらず、紅林正子は迷ったあげくカーディガンをバッグに入れてアパートを出た。
 新宿東口の田舎料理屋には西村豊と岡橋啓吾が先に来てビールを飲んでいた。
 「正子!一〇年前と変ってないな」
 紫煙にかすんだ隣のテーブルから西村が大きな声で言った。
 「バカ、一〇年前なんて言わないでよ。まだ二〇才のつもりなんだから」
 「全然変ってないようだぜ」
 と、岡橋が言った。
 正子は一〇年前大学のクラブで一緒だったこの二人と卒業以来一度も会っていなかった。一〇年の間に西村は西村プロダクションの社長に、岡橋はテレビ局のディレクターになっていた。正子は何度か勤めを変えた末今はハーキュリーズ映画会社日本代表の秘書をしている。
 「こんなメンバーで集まるから天気も狂っちゃうんだよ。今日の気温は気象庁はじまって以来だそうだぜ」
 岡橋がアナウンサーのようによく透る声で言った。学生時代岡橋は仲間うちでは文学青年で通っていたが結構優をかせぐ方でも抜け目がなかった。今はPTAに評判の悪い高視聴率番組を担当する気鋭のディレクターだ。
 学生時代柔道をやっていた西村は大柄な男だったが一〇年間に一〇キロは体重を増やしたようであった。岡橋は大学時代と変らぬ細身であったが頭髪は後退をはじめていた。西村と岡橋を驚かせたのは正子の容姿が一〇年という時間の経過を全く感じさせないことだった。大学時代何人もの男達を狂わせたその童顔と少年のような細い身体は今文学部の坂をゴムバンドでとめた教科書やノートを片手に降りてきても全く異和感を感じさせないだろう。
 正子には多くの崇拝者がいたが、正子は男には関心を示さず学部を良一つを除き全て優という成績で卒業し大学院に進んだ。大学に残り美術史の研究を続けるのが希望だった。修士を終了しようという時正子は無名の写真家の青年を恋し、両親の反対を押し切って同棲した。正子は学問を捨て、収入のない青年のためにタイプを習い外資系会社にタイピストとして就職した。一年たたないうちに青年な正子を捨て高校中退のスナックの少女と一緒になった。別れ際に青年は正子に君といると劣等感を感じる、心が安らぐ時がない、と言った。
 それから、何人かの男が正子を誘惑しようとし、何人かの男がプロポーズした。しかし、正子はその全てを拒みつづけた。傷はあまりにも大きく、人間を再び信ずることは不可能なように思われた。他者に対する恐怖心は正子が生来持っていたものだったが、一度の信頼とその裏切がその感情の正当性の証しとなった。
 正子は会社では陽気で勝気な性格を演出した。正子の時おり男言葉を交えた饒舌は他人が土足で正子の内面にまで入ってくるのを防ぐ防波堤の役割を果たした。年長の社員は正子を「坊や」と呼びマスコットのように扱った。正子の過剰な言葉の中に自分の内面を語るものが皆無なことに気付く者はほとんどいなかった。
 正子が五年来住んでいる行徳のアパートの部屋には女性的な色彩はなかった。夥しい本とステレオの他には最小限の家具しか置かなかった。正子はモーツァルトが好きだった。正子はプライベートな時間を一人で過ごした。読書と音楽と、そして、時 々海を見に行った。
 「今日声をかけたのは電話でも言ったけど知恵を借りたいからなんだ。だから今日の飲み代は俺が出す」
 と、西村が言った。
 「もう一度最初から話すと、今アメリカで『ミシマ』っていう映画を撮っている。これは正子の今勤めているハーキュリーズが製作しているもので配給はハーキュリーズ日本支社がやる。この映画は全世界で今年の一二月に封切られるんだがハーキュリーズは日本の市場を最重要視している。日本で今までになかったぐらい金をかけてプロモーションをしようとしているんだ。そして、なぜか名もない我が西村プロダクションがプロモーションを依託されたんだ。俺はスターを呼んできてテレビに出すとかそういった月並のものじゃない画期的なことをやりたいんだ。それで苦しんでいるわけなんだが、頭が悪いせいか今一つサエた企画が出てこない。そこで頭のいい御両人の力を借りたいわけだ」
 「わたしから、映画会社の人間としてちょっと補促説明させていただきますと、ミシマというのは勿論三島由紀夫のことで彼の自決に焦点をあわせたかなり忠実な伝記映画なの。ストーリーは公開まで秘密ということになっているけど三島を憂国の士という風に描いていると聞いているわ。三島由紀夫の映画をアメリカで製作するというのはちょっと不思議な感じがするかもしれないけど、今までも同じような企画は何回かあって遅かれ早かれ実現するものだったの。三島作品は世界的に翻訳されているけれど、アメリカでは特に読者が多く、どこのブックストアに行っても必ず三島のペーパーバックがあるという程なの。勿論、映画の場合は三島文学の読者だけを対象としているわけではなく、三島事件、特にハラキリの部分に惹かれてくる観客層をねらっているといっていいわね。ハラキリというのは西洋人にとって、日本的な諸々の風俗の中で最も衝撃的なものでしょうね。
 まあ、今言ったようなところがハーキュリーズのねらいなんだけど、映画自体はスキャンダラスな内容ではなく極めて真面目なものらしいですよ。まだ、会社に入って一年もたたないのに宣伝がうまいでしょう」
 「宣伝係はともかく有能な秘書だってジョンソン氏が言ってたよ」
 西村が男爵イモを皮ごと口の中に放り込みながら言った。
 「それから」と正子は続けた。「西村君のところに頼んだのは先ずハーキュリーズがメジャーの映画会社としては日本での組織が貧弱なためで、CIC,ワーナー、フォックスだったら自分のところで宣伝も充分やれるでしょう。でも、うちはちょっと大規模なことをやろうとすると外に頼まなければならないの。次に何故西村プロダクションなのか。うちの系列会社にハーキュリーズ・ミュージックという会社があるんですけど、そこのアーチストが去年日本公演した際に西村プロダクションのお力をお借りしたわけ。そして公演は大成功に終って西村プロダクションは一躍名をあげたの…少なくともハーキュリーズ・グループ内ではね。それで今回もお願いしたわけなの」
 店はそろそろ混み始めていた。客の話題は今日の異常な暑さに集中しているようだった。生ビールがよく売れている。
 「時機的にはおもしろいな」と岡橋が言った。「三島事件は一九七〇年には狂気の沙汰だったかもしれないが今だったらおかしくない。必然とさえ言えるかもしれない。今の日本、日本だけじゃない、世界は狂いかけてるよ。世界の破滅がすぐそばまで来てるような気がするよ。今日の天気だってそうだ。人間だけじゃなくて地球まで狂ってる。今年、じゃない、去年の後半だけみてもどれだけ異常な事件があったと思う。田淵元首相の暗殺だろ、最高裁占拠事件だろ、梅木村の集団自殺だろ。最高裁占拠事件が特に不可解だなあ。何故最高裁だったんだろう。何故日本中の動物園の檻を開けろと要求したんだろう。死人に口なしだからもうわからないけど、十二人の若者があれだけの情熱をもって全く無効としか思えないことを命懸けでやったっていうのはすごいことだよ。イデオロギーじゃないんだなあ。行動への情熱だよ。六〇年代後半にはイデオロギーの仮面をつけていたものが純粋な形で出てきてしまったんだ。それと死の願望だね。行動を純粋にするための死。とても三島的だと思わないか」
 「文学的にはそうかもしれないけど」と西村が豚の角煮を口に放り込みながら言った。
 「商売上は政治の方がおもしろいんだよ。連合政権は分裂寸前、極左極右のテロはある、ソ連が攻めてくるって騒いでいるやつはいる、自衛隊がクーデターをやるって騒いでいるやつもいる。アメリカが輸入規制をやってくれる、東南アジアでは大使館を焼かれる。国民経済はメチャクチャだ。食料危機が来るっていう噂もある」
 と言って西村は黙った。食料難の時代にどうやって九〇キロの巨体を維持していくか考えていたのだろう。
 「でも、西村君としてはどうやってその政治的情況を利用しようと思うの。政治家でもかつぎ出すの」
 「いや政治家とは一線を画するというのが俺の主義だ。特にこういった政治的な商品ではね。へたに右翼なんかが入ってきたら収拾がつかなくなる。でもね、政治的な演出をするのは一つの手なんだ。あくまで政治的で政治そのものじゃない」
 「そんなにうまくいくかしら」
 「いい企画さえたてればハーキュリーズが金を出してくれるからね。変なヒモ付の金に頼ることはない」
 「テレビをうまく使うんだよ」と、岡橋が言った。「三島事件の関係者のインタビューを中心にした特別番組っていうのはどうだい。時間も経っているし、今なら話せるっていう人もいるんじゃないか。僕の力だけじゃ無理だけど上の人に話せばなんとかなると思うよ」
 「その程度じゃ月並だと思うわ。盾の会を再編成して東部方面総監部に突っ込むとか、もっと面白いことはないのかしら」
 岡橋はあきれたという顔をしながら、「確かに正子の言うように進行中の事件の中継ほど面白いテレビ番組はないよ。浅間山荘事件でたくさんの人が何の変化もない画面を何日も見つめていたのは何故だと思う。人の不幸を見るのは常に楽しいものだし、特に人の死っていうやつは人を生きているだけでも幸せだと思わせてくれる」
 「相変らずシニカルなのね。でも三島由紀夫の死っていうのは違ったと思うわ。生きていること自体を馬鹿にされたと感じた人は多かったと思うわ」
 「むずかしい話はいいから何かいい企画はないのかい」と、西村がししゃもを口に放り込みながら言った。
 「ボディビルダーのコンテストをしてさ」と、岡橋が言いかけた時入口に近いテーブルから「バカヤロー!」という怒声がした。肩巾の広いほお骨の張ったやくざ風の男が貧相な中年男のネクタイを掴んでほえていた。
 「生意気な口をきくじゃないか」と、やくざ風の男は低くかすれた声で言った。中年男は抵抗する様子もない。
 「何とか言えよ!」と、やくざ風の男は中年男のほおを張った。眼鏡がとんだ。
 やくざ風の男とその連れのチンピラが中年男をこづきながら表に出ようとしていた時、西村が「運動してくるか」といって立ち上がった。
 「行かなくていいの」
 「大丈夫。西村は柔道三段だよ」
 表で言い争う声がしてすぐ重い物が地面に叩きつけられる音がした。
 「もう終わっっちゃったみたいよ」と、正子は言って岡橋と表に出た。引き戸を開けると頭を下げて西村に礼を言っている中年男の後ろ姿があった。何故か西村は驚いたように中年男の顔を口を開けて見ていた。正子も中年男の顔をのぞき込んで唖然とした。中年男は三島由紀夫の顔をしていたのだ。


 二月も半ばを過ぎて厳しい寒さが続いていた。正子はジョンソン代表より西村に渡すようことづかった書類を持って水道橋の駅の近くにある西村プロダクションに向かっていた。
 濃緑色の右翼の宣伝カーが軍歌をボリューム一杯に上げて流しながら通りすぎた。歩道のわきには三日前の雪が黒く堆積してきた。信号で止っている車の中からビートルズのミッシェルが聞こえてきて正子をなつかしさで満たした。正子はなつかしさの源をつきとめようとしたが信号はすぐ変わり車は走り去り白っぽい空虚さだけが残った。
 西村プロダクションは人通りのない裏道に面した細長い六階建のビルの四階にあった。エレベーターには「故障」と書かれた黄色くなった紙が貼られていた。
 西村プロダクションの黒地に金文字の派手な看板を揚げた薄汚れたドアをノックすると西村が眠そうな顔を出した。
 「やあ正子、待ってたんだよ。今みんな出払ってちゃっててね。お茶も出せないんだよ。近くにうまいコーヒー飲ませるとこがあるんだ。時間あるだろ」
 「ええ、今日はジョンソンさん出張なの。丁度そこに外に出られる仕事じゃない、喜んじゃったわ」
 狭い階段をつかえそうになりながら今降りて行く西村の頭がだいぶ薄くなっているのに正子は気がついた。
 「ニセ三島を蒸発させたって本当」
 「蒸発させたっていうのは人聞きが悪いな。彼が蒸発したいっていったんだよ。俺は家を提供しただけだよ。ここから五分ぐらいの所に1LDKを持っているんだよ。半分投資が目的であまり使っていなかったんだけどね」
 「彼、奥さんも子供もいるんでしょう」
 「その話はしたがらないんだが、うまくいってないみたいだな。それで酒びたりの毎日だったらしいよ」
 「仕事はどうしたの」
 「大商社の課長なんだけどね。四五才っていうのは昇進の可能性がはっきりと見えてくる時らしいね。彼の場合は可能性がないっていうことが見えてきたらしいが」
 「蒸発したいっていう気持はとてもよくわかるのよね。でもこの地球上に逃げ込めるところなんてあるのかしら」
 「ずっとあのアパートに居られるっていうのも困るなあ」
 「今のところは利用価値があるけど、って言いたいんでしょ」
 「いや、それもよくわからない。うまい使い方を思いつかないんだよ。ソックリさんということでテレビに二、三度出しても面白くもなんともないからな。でも彼はニセ三島になるのが楽しいようだよ」
 「彼は毎日何しているの」
 「ボディビルと読書。今ちょうどボディビルの時間だよ。近くだから行ってみるか」
 国鉄水道橋駅東口の前を通り小さな飲食店の集まっている一角を左手にみて外堀通を渡ると風雪を経たという趣の三階建の白いビルがある。ところどころペンキが剥げて黒いコンクリートの地層が見えている。外壁を走る二本の錆びた鉄のレールには元は赤いプラスチックの活字がKORAKUEN HEALTH GYMと貼りつけられていたようであるが、今は判読するのも困難なほど抜け落ちてしまっている。表の看板によると地下がヘルスジム、一、二階が卓球センター、そして三階がボクシングジムになっている。ヘルスジムは実際は半地下で外堀通に面して明り取りがいくつか設けられている。この窓を覆うくすんだ緑色の金網の中で黒ずんだ換気扇がカタカタと回っている。
 「ニ階は空手道場だったんだけど、いつの間にかなくなってしまったな。三島由紀夫が昔ここでボディビルと空手をやってたんだよ」
 石段を上がりガラスのドアを押して建物の中に入るとすぐ左側に受付があり中年の女性が卓球のラケットを貸し出していた。受付の横を左に折れると下り階段があった。壁にはポーズをとった黒人ボディビルダーのカラー写真が貼られていて、正子はその血管の浮き出た黒光りのする太い腕をひどく猥褻なものに感じた。階段を降りるにつれて汗の臭いが強くなった。四〇坪ほどのジムは近ごろ盛んになってきたアスレチッククラブのジムのような女子供をも惹きつける華やかさは全くなく鉄の塊であるバーベルそのもののように実用だけを目的としていた。天井には褐色にペンキを塗られた鉄パイプやコードが縦横に走りその間で裸の蛍光燈が白く光っていた。フロアは一部マットが敷かれている他は板張りでその上に何台ものベンチプレス、腹筋台、その他使い途のわからない機械や器具が黒々と横たわっていた。七、八人の男が練習していて、ある者はしなりそうに重いバーベルを胸の上で上下させ、またある者は傾斜のついた腹筋台で上半身をねじりながらもち上げる運動をしていた。正子はこの刑務所のように陰鬱な施設が強靭な肉体に結びつくことがとても信じられなかった。
 「多治見さん!」と、西村が鏡の前で鉄アレーを両手に持ち前腕の運動をしている男を呼んだ。男は一瞬ビクッとしたようだったが西村を認めると笑顔で近づいてきた。
 「西村さん忘れちゃ困るな。私はここに田中っていう名前で登録しているんですよ」
 「や、ごめんごめん。田中さんだ、田中さんだ。ところで田中さん調子はどうですか」
 「一ヶ月やそこらじゃまだあまり変化はないですね。でも、もう身体が痛いっていうことはなくなりましたよ。三ヶ月ぐらいやると体型も変わってくると言いますけどね」
 「そろそろ上がる時間でしょう。お茶でも飲みませんか。紅林さんも来てるし。ほら、覚えてるでしょ。あの晩一緒だった」
 「あ、あの時の。どうも、先日は失礼しました」
 「いいえ、わたしは…」
 「じゃ、スポーツグリルで待ってるから」と、西村は言って歩き出した。


 スポーツグリルはジムの建物に接続しているモダンでジムの建物とは対照的に風格のない建物の中にあった。五分も待たないうちに多治見が入ってきた。あの正月の晩と比べると多治見は何歳か若返ったように見えた。
 「こんなにすがすがしい気分なのは久しぶりですよ。二十年ぶりかなあ」
 と、多治見はレモンスカッシュを飲みながら言った。
 「奥さんと離れられたからですか」
 正子は揶揄するように言った。
 「いや…それもありますけど。一日を自由にできるのが楽しいのです。朝六時に起きてランニングを三〇分ぐらいしてシャワーを浴びてそれからゆっくりと朝食をとるんです。コーヒーは自分で碾きます。午後は二時ごろから四時ごろまでここにいます。午前中と夜は読書をすることにしています。時には映画をみたりします。誰からも干渉されることのない素晴らしい生活です。
 今までの生活が不幸だったとは言いません。幸福を測れる物指があるとは思いませんが、世間からみれば決して不幸には見えなかったと思います。会社では昇進は早いほうではありませんでしたが、元 々出世する気もなかったので別にどうも思いませんでした。上司や同僚、部下とも調子を合わせるようにして、人付き合いのいい男だと思われていたようです。家庭もテレビのホームドラマのようには行きませんでしたが…まあ、世間みんなあんなもんじゃないですか。子供を中心に父親、母親っていう役割は演ずるが夫と妻っていうやつは白けちゃってとても出来ない」
何かを思い出そうとするように窓ごしに曇った空を見ながら多治見は話を続けた。
 「みんな芝居なんですが、そのことに気がつかなければ無事幸せな一生が送れたはずなのです。それがある日急に見えてきてしまったんですね。自分は決められた役割を演じているにすぎないって。会社に対してだって家族に対してだって愛情があるから結びついているんだと言う人はいます。そうなのかもしれない、多分それが大勢なんだろうと思います。でも私はそこまで疑ってしまったんです。そうしたら世の中がレントゲンをあてたように骨だけになってしまったのです。骨だけの人間が飯を食ったり、酒を飲んだり、テレビを見て笑ったりしているんです…これは比喩ですよ、気が狂ってるわけじゃありませんから。つまり、どこからか糸で操られている骸骨のように人間がみえてきたのです。今まで生の感情によって動いているようにみえた人間は実際は役割に応じてセットされたプログラムを演じているだけなのではないかと思えてきたのです。自分自身も例外ではないのです、今まで自然だと思っていた行動が誰かが書いた脚本を演じてるにすぎないのではないかと思えてきたのです。そう考えるようになったら今までのように自然に動けなくなってしまったのです。努力すればするほど不自然になっていくのです。必然的に人付き合いが悪くなり酒びたりの毎日を送るようになりました。酒を飲んではじめて自分が自分になれるような気がしたのです」
 西村は退屈したように匙をもて遊んでいたが、正子は共鳴するところがあった。
「とってもよくわかるわ、そのお話。現実に色彩がないのね。感動することがないままに一日が終り、一週間が終り、いつの間にか一年たってしまう。ここ数年間をふり返ってみても思い出に残るようなことは何もなくて一〇年以上も昔のことが不思議と新鮮に思い出されるんです。そんな年でもないのに。
 こういう毎日の連続から逃げ出そうと職を変えてみたりしたけど、すぐ同じような生活に戻ってしまうんです。多治見さんが今充実した生活をされているのに水をさすつもりはないんですけど、本当に今迄の人生から逃げ出せるものなのかしら」
 「逃げてもいずれ追いつかれることはわかっています。今日ある自由が明日もあるとは断言できません。だから私は今日生きることに集中しようと思うのです。人は無責任と言うでしょう。妻子を捨てて、会社を捨てて、人の社会の掟を破って自分の満足のためだけに生きようとする者を人は許すはずがありません。非難されることを承知で私は逃げたのです」
 「ま、そう深刻に考えることないでしょう」
 西村が口をはさんだ。
 「しばらく命の洗濯してね、新鮮な気持で帰ってくんですよ。その時にはスターになっていますよ、きっと」


 東京では三月も終りになった頃大雪が降った。その晩、正子はジョンソンと初めて寝た。正子がそうした理由は二つあった。一つはジョンソンを決して愛さないという自信があったこと。二つ目はジョンソンと肉体関係を持つということが正子の従来の美意識からは許されないものであったからだ。
 つまり、正子は脱皮しようとしていたのだ。純粋で傷つきやすかった正子から、したたかで決して傷つかない正子へ。ジョンソンを愛してしまう心配はなかったから裏切られることはあり得なかった。妻子ある外人ボスと秘書という陳腐な関係の醜悪さは、正子が未だ夢に見るあの美しかった日を忘れ去るためには必要なものだった。こうすることによってはじめて裏切っていった男に対して、自分は決して傷ついていないことを示すことができるような気がした。
 ジョンソンは正子が入社した直後から折りあるごとに正子に言い寄ってきた。正子は一一ヶ月かけて考えて右の結論に達した。自分の生き方が行き詰っているということを正子は充分承知していた。二つの人格を使い分けていくことはこれ以上は無理だった。守り続けてきたものを捨てるか死ぬか、というところまで考えて、正子は前者を採った。ただ、なしくずし的に堕ちるのではなく、目を開いて飛び降りようと決意した。そのための最初の機会がジョンソンの誘惑であり、正子は躊躇しなかった。
 このころ、後に一五人の与野党国会議員が逮捕されることになった韓国大陸棚事件が一夕刊紙のスクープとして報道された。


 五月に入ると西村の企画が具体化し出した。西村の企画というのは新宿西口超高層街の空地となっている都有地で試写会を行おうというものであった。試写会を屋外で行うというだけでは特に新味はなかったが、試写会の後に趣向があった。西村は会場に三島が最後の演説をした東部方面総監部のバルコニーの模型を建築するつもりだった。そこで多治見が主役となって三島の最後を再現するのである。割腹の場面はバルコニーの後方にある総監室が舞台となったため、回り舞台のような工夫をする必要があった。この企画にはハーキュリーズ本社も原則的に同意していた。


 小さな、ぶどうの粒のような生物が増殖を続けていた。狭い部屋は天井といわず壁といわず黒い球型の生物がへばりついていた。天井にはぶどうの房のようになったこの生物の塊がさらに増え続けていた。正子は自分が夢の中にいることを知っていた、しかしそこから抜けでることは出来なかった。


 正子は自分の悲鳴で目を覚ました。七月の陽がカーテン越しに差し込んでいた。正子は汗で湿ったパジャマを脱ぎ捨てシャワーを浴びた。手ぬぐいに石けんをつけ皮膚が赤くなるほどこすった。しかし、いくら洗ってもジョンソンの体臭がとれないような気がした。
 正子は裸のままキッチンに行き、レモンを輪切りにした。今朝はコーヒーよりも紅茶が飲みたかった。窓からは隣に建ちかけている巨大なアパートの鉄骨がみえる。鉄骨の間を通り抜けてきた太陽の光が果物ナイフに反射して金色に輝かせた。正子は初めて気がついたように手の中のナイフを見つめた。もう耐えられない…今に私はあの男を刺すだろう…と正子はつぶやいた。ジョンションのピンク色の身体、正子の上で波うつ肉塊、ねばりついてくる手、そして、生の鳥肉のような体臭。全て耐えられなかった。もし、これが現実であり、この試験に合格しなければ現実が正子を受け入れないのであれば、いっそ生きることを断念すべきではないか。誰のために生きているわけではなく、誰かが生きろと強制できるわけでもない。正子は果物ナイフを逆手に持ちかえ、小さな乳房の下に当てた。ナイフの先が膚に触れ、やわらかい肉を押し開き、ひと雫の血が流れ落ちた。その瞬間正子は長いこと忘れていた感情―孤独―に捉えられていることに気付いた。一人で誰にも理解されることなく死んでいくことには耐えられなかった。誰かに自分が死を選んだ理由を聞いてもらいたかった。たとえ理解してくれなくてもいい、聞いてさえくれればいい…正子は多治見に会いに行こうと思った。彼ならきっと判ってくれる。正子が死を選ぶのを許してくれるに違いない。そう思った時涙がこぼれ落ちた。


 正子は西村豊という表札の下のチャイムを何度も鳴らしたが返事はなかった。多治見はまだジムから帰ってきていないのかもしれない。毎日時刻表に従ったような生活をしていると考えるのもかえって不自然だった。しかし、正子はあきらめ切れずノッブを少し回してみた。ドアは思いがけずに開き、狭い部屋の反対側のガラス越しにビルの彼方に没し去ろうとする夕陽が見えた。閉じたサッシの向こうに夕陽に向かって上半身裸でバルコニーに立つ多治見のシルエットがあった。しばらくの間に首から肩にかけて肉がつき精悍な体つきになっていた。多治見は彫像のように動く気配がなく、正子は部屋に上がったがすぐに呼びかけようとはせずに生き物のように色を変えていく夕焼と多治見の後姿を見つめていた。
 部屋の片方の壁には三島由紀夫全集三十五巻が整然と並べられていて、ロッキングチェアのわきのガラスのテーブルには読みかけの一冊が開かれていた。正子はふとバルコニーに居るのが多治見ではなく三島由紀夫その人ではないかという気持に捉われた。勿論そんな訳はないと思いながら、三島由紀夫全集の黒いケースと燃えるような夕陽と夕焼を黒く切り抜いたような動かぬ影は正子を不可解な酩酊の気分にさせた。耐え切れなくなった正子はサッシを開け「多治見さん」と呼んだ。
 振り返った顔を見て正子は思わず一歩下がった。一瞬ではあったがそこには三島由紀夫の顔があった。見開かれた大きな目は真夏の太陽さえも凍らすほど冷たかった。すぐに顔は溶け出し、何が変わったというのではないが、そこには多治見の愛想のいい顔があった。
 「びっくりしたなあ。ずっとそこにいたんですか」
 「ごめんなさい。チャイムを鳴らしたんですけど御返事がなかったので…」
 「いや、紅林さんが尋ねてきてくださるなんて光栄ですよ。コーヒー入れましょうか」
 多治見の部屋は一二階にあった。近くに高い建物はなく、陽が沈み周囲が暗くなるにつれて家々の明かりが目立ってくる。多治見は玄関の右手の小さな台所で湯をわかしカリタ式でコーヒーを入れた。
 「何かあったんですか」と多治見は厚みのあるカップにコーヒーを注ぎながら聞いた。
 「私、今日死のうとしたんです」
 「…」
 「ナイフで胸をついて。でも、その瞬間に淋しくなってやめました」
 「何故…死のうと思ったんですか」
 「生きる理由がないから」
 「生きる理由がある人なんて珍しいですよ…大半の人間は義務として生きているか…死ねないから生きているんじゃないですか」
多治見は正子が唐突に持ち出した深刻な話題が当然、彼女の最も個人的な問題にまで至るだろうことを意識していた。それを避けるために彼は問題を抽象的な人生論にすりかえようと考えた。
「もっとも僕は何も考えないで、一日、一日、楽しいなと思いながら生きてます。また別なタイプかな」
「それは多治見さんが人生の休暇を生きているからでしょう。そんな生き方は長続きすると思えないわ」
「そうかもしれない…だから考えることを拒否しているのかもしれませんね」
「今の多治見さんの生活は遊びでしょ。真面目に生きているとは言えないわ…ごめんなさい…非難する気持はないんです」
「いや、正に正解ですね。僕の今の生活は全てが遊びと言ってもいいかもしれない。僕は本物に近いにせものになる努力をしているわけだけど、それが成功したところで誰も僕を本物だと思う者はいない。全てが一時の余興のためであって、それが終れば誰も僕を必要としない。そこで僕の休暇は終って生活に直面することになる。
 ここまで考えると僕は蒸発を決意した時から一歩も動いていないことがわかる。今の生活はうそであり夢であり、決められた時間が過ぎれば目が覚める。そして相変らず昨夜のベッドにいる自分を見出すというわけだ。しかし、この結末から逃げ出す方法が一つだけあるんだ。それは本物になってしまうことだ」
「本物って…」
「三島由紀夫にね。これは勿論ばかげた考えだ。三島由紀夫は胴体と首を切断されて死んだ。これは動かし得ない事実だ。三島が生き返ることはない。でも、僕が自分を三島由紀夫であると信じ、そして、二千人の目の前で本当に腹を切ったらどうだろう。僕はその瞬間に本物になるのではないか」
「わからないわ。多治見さんが舞台の上で死んでも、それは多治見さんの死であって、三島が二度死ぬことにならないでしょう」
「僕は、役者はその演じている役の上の人間に無限に近づき得るんじゃないかと思うんだ。たとえばシェークスピア俳優がオセロを演じて、迫真の演技を披露し、その点睛として舞台の上で死んだら、その死は俳優の死というよりオセロの死と言うべきじゃないだろうか」
「三島由紀夫の死が正にそういう死だったんじゃないかしら」
「正にそうだ。三島の死は演技だったが、非常に純度の高いもので、ほとんど一行動右翼の死といってもいいものだった」
「多治見さんが舞台の上で死んだら、それは演技のまた演技ということになるわ」
「それはそうだ。僕は勿論腹を切るつもりはない。それほど自己顕示欲が強い方じゃないからね。ただ、この演技が無限に現実に近づき得るという考え方はおもしろいでしょう。世の中が全て脚本に書かれたもののように見えてきた僕のような人間にとっては、それじゃ自分も演技をしてやろう、ただし最高の演技を…という風に考えられればとても心強いものですよ」
「わからないことはないけど…それはあくまで男の人の考えじゃないかしら。大義とか栄光のために命を賭ける…それは男の人の夢かもしれないけど。三島由紀夫は女の生き方については何も言っていないわ。多分女はそういう英雄的な男の帰りをひたすら待ちつづけていればいいということでしょうけど」
「三島は女の生き方にはあまり関心がなかったみたいだね」
「桜の花のように散るという生き方は一見華麗なようだけど、本当は人生の長さに耐えられない人の生き方だと思うわ。大義だとか栄光という言葉はそのウソを悟られないためのカモフラージュじゃないのかしら。女はそんな生き方はできないし、またしたいとも思わない。女は観念のためには死ねないわ。女は男のために死ぬことはあっても恋のためには死にはしない。三島由紀夫は唯一の認め得る自殺は自己正当化のための自殺だと言っているけど、自己正当化のために死ぬ女はいないわ。女は敗れはてて死ぬしか仕方がないから死ぬのよ。弱い者が自らの弱さを認めて、もう耐えられないから死ぬというのは自己正当化のための死と比べてどれだけ劣るものなのかしら」
正子は、今日までつっぱって生きてきた自分がとうとう弱音をはいていると思った。自分は敗けたのだという自覚は、しかし、波に身体をまかせるように心地よいものであった。
「私は二四才のときにはじめて恋をしたの…」と正子は今まで誰に向かって話したよりも自然に、飾らず自分の過去を話し出した。初恋と失恋、人間不信、そして、ジョンソンとのこと。
「何故ジョンソンとこうなったかは自分でもよくわからないわ。でも、人間って、いやだいやだと思いながらしてしまうことがあるんじゃないかしら。私はただマゾヒスティックなだけかもしれない…獣のような男に身体をまかせることで自虐的な快楽を感じているのかもしれない。でも、そうは思いたくないわ…いつまでも大人になれない私にとっての一つの儀式だと考えたかった。私は自分が純粋で傷つきやすいものと思い込んでいたから、よく吠えるスピッツのように、人が私の内面に近づけないようにたくさんの言葉を並べてバリケードを作っていたの。
ジョンソンと寝たことでは何も解決しなかったわ。私は醜いものを直視できるほど強くはなれなかった。自分の中のナイーブな部分はそのままで残っていて醜い現実と衝突していた…毎日が自分の中での闘いで身体が二つに割れてしまいそうに苦しかった。
死を選んだのは敗けたからよ。生きて行けるっていう自身がなくなったの…すごく月並だけど。でもね、死というものをとても近くで見た時に、苦しいほどに淋しくなったの…死ねば誰にも話をできなくなるってことが。私は誰にも本当の自分を見せてこなかった。だから、ここで死んだら誰も本当の私を知らないんだ…こう思ったら、とても、とても悲しくて涙が出てきたの」
正子は目頭が熱くなっているのをごまかすように笑ってみせた。しかし、こわばった笑顔を涙が流れ落ちた。神妙に聞いていた多治見は正子の手を取り強く握りしめた。



八月下旬


日韓大陸棚事件は当初の予想を超えて戦後最大の疑獄事件に発展し、戦後三十余年の日韓癒着の構造につらなることが判明していった。疑惑は自民党のみならず野党各党にも及び、ついに閣僚二人を含む五人の国会議員に対して逮捕状が発令された。
八月下旬に衆議院は内閣不信任の決議案を可決し、憲法第六九条、第七条第三項に基づき天皇は内閣の助言により衆議院を解散した。衆議院議員総選挙は憲法第五四条第一項により解散の日から四〇日以内の一〇月の第一日曜に行われることになった。



九月上旬


ハーキュリーズ日本支社は最近建った青山の高層ビルの中にあり、窓からは神宮の森が見える。ジョンソンは八月の人事異動で本社に戻り、かわって本社から日本代表として赴任したシュミットが奥の二〇畳あまりの部屋の主となった。シュミットはまだ三〇代だが一流ビジネススクール出のきれ者で将来マネージメントを担うものと嘱望されていた。正子はひきつづいて日本代表秘書としてシュミットの部屋の隣の小さな個室を与えられていた。
正子はシュミットのディクテイトしたテープを聞きながら長い手紙を打っていたが、なかなか仕事に集中できなかった。隣の部屋ではシュミットと西村がもう二時間以上も会議をしている。しばらく見ないうちに西村がすっかりやつれてしまっていたのが妙に気にかかっていた。
一二時近くなってやっとシュミットの部屋のドアが開きにが怒ったような顔をして出てきた。西村は正子の部屋の前で立止まり、手帳に何かを走り書きしそのページを破って正子に手渡した。紙片には―電話をくれ―とだけあった。正子は西村との関係を会社には秘密にしていた。
西村が電話で指定したのは赤坂の日本料理屋で正子は三〇分ほど遅れていった。座敷に案内されたが、ふすまの外から西村のいびきが聞えた。西村はとっくりを二本前に置いて座ぶとんを二つに折って枕にして寝ていた。正子はこの姿を見て豪快だと思うよりかわいそうだと思った。それほど西村は疲れているようにみえた。
西村は気配に目を覚まし、正子を認めて起き上がった。
「ずいぶん疲れているみたいね」
「人生苦労の連続だよ」
と、言って西村はよだれを拭った。
西村は何日も食事をしていないかのように猛烈に食いかつ飲み、やっと落ちついて本題に入った。
「どうもあの話はおかしな方向にいっているんだよ。あのニセ三島の話だ。何か大きな力が動きはじめているんだ」
「大きな力って」
「斉藤光二って名乗る四〇前後の男が来てね、あの企画の権利を譲れって言うんだ。一ヶ月ぐらい前の話だ。それもすごくいい値段をつけてくるんだ。でも、オレは拒否した…いくら高い値段をつけられても売る気はない、とね。これはオレが考え出した企画で、オレの名前が世に出るチャンスなんだ。
しばらくしたら、今度はパートナーにしてくれっていうんだ。金のめんどうはみるとおっしゃる。またオレは拒否した。自分一人でやりたかったんだ…人に口出しされるのはいやだった。やつはかなり頭に来たようで、帰りぎわにお宅の子供さんは何々小学校に通ってますね、交通事故が多いから気をつけた方がいいですよ、って言うんだ。脅迫だよ。よくある手だ。そんなことに驚いていたんじゃこの商売はやってけないからすぐ忘れちまった。
ちょうど三日後に長男がひき逃げされて一ヶ月のケガだ。これは偶然じゃないと思ったね。そこで斉藤っていう奴について調べた。やくざがらみだとにらんだからその筋を調べた。どの世界でも情報通っていうのはいるんだ。そして、とんでもないことがわかった。斉藤という男は草加隆三の懐刀といわれている人物なんだ。草加隆三は知っているだろう。」
「いいえ」
「右翼の実力者としては三本の指に入る男だ。もっとも、ロッキードで児玉がだめになって、今度の事件で皆川がつかまったから今や実力ナンバーワンかもしれない。そんな男がなんでオレなんかを狙わなければならないんだ。いや、オレというよりニセ三島のショーというべきかね」
西村は冷たくなった酒を一気に飲み干し、ため息をついた。西村にはいつもの生彩がなかった。
「正直いってオレはこわくなった。草加のバックには日本最大の暴力団山岡組がいる。人殺しなんて朝飯前の連中だ。オレ一人だったらまだいい。でもオレには妻子がいる。子連れで闘うっていうのは無理だよ。とりあえず妻と子供は福岡の実家に帰した。勿論そのぐらい調べはついているだろうから一つも安心じゃないんだが…日本中どこに行っても安全じゃないんだ」
「今思い出したんだけど、草加隆三ってイニシャルはR・Sね。二週間ほど前本社から変なテレックスが入ったの。ミシマ・プロジェクトについてはR・Sの指示に従えっていうの」
「そうか…話はそこまで行っているのか。映画会社と右翼っていうのはつながるよね…CIAもからんでいるかもしれないな」
「CIAが?」
「メジャーの映画会社とCIAとの関係は有名だよ。映画会社がCIAの手先として働いた例はいくつもある。有名スターがCIAのエージェントだったことさえあるよ。
右翼との関係だって充分考えられる。M資金っていうの知ってるでしょう。全日空社長追い落としに使われたという幻の資金だよ。あのMがムービーのMだという説もあるんだ。蓄積円というのがある。ハリウッドの映画会社や外資系石油会社が日本であげた利益が外為法の規制で本国に送金できずに日本で蓄積されていたというものだ。昭和三一年当時の蓄積円の総額は六〇〇〇億円もあったという説もある。そして、この蓄積円が今日M資金といわれているものの一部を構成しているというんだよ。
このM資金をめぐっては右翼が暗躍している。田中・児玉・小佐野のいわゆるTKO軍団がM資金を通じてハリウッド映画会社と日本の右翼が関係していることで即、ハーキュリーズと草加の関係を導き出すことはできないが、しかし、少なくとも少しも不自然ではないなあ」


西村は正子と別れて、自宅近くの細い道を歩いていた。かなりの量の酒を飲んだにもかかわらず全く酔った気分はしなかった。とんでもない相手を敵にまわしてしまった。という気持がある半面、一世一代の大勝負をやってやろうじゃないかという声も聞えてくる。福岡の妻子のことを考えると威勢のいいかけ声はしぼんでしまう。家に帰ったらすぐ電話しようと西村は考えた。
その時、西村は前方から歩いてくる赤いトレーニング・ウェアの男を認めた。男は中肉中背で、西村は一見して武道、それも空手の有段者だと判断した。男は西村の三メートルほど手前で立止まり、西村が通りすぎようとすると「西村豊さんですね」と尋いた。西村はこの時この男が刺客だとはっきり悟った。西村は瞬時に身構えた。学生時代に空手の黒帯二人を同時に相手にして勝ったことがあるので自信はあった。しかし、次の瞬間西村は正拳を水月に受けて倒れ起き上がることができなかった。


約一週間後、正子はシュミットから契約書のドラフトを渡された。その契約書は従来の西村プロダクションとのプロモーション契約を変更し、西村プロダクションの他にパシフィカ企画という会社をプロモーターに加えたものであった。


一〇月
衆議院議員総選挙の投票日となった一〇月第一日曜は台風の影響で全国的に雨模様となり関東地方は豪雨にみまわれた。この天候と政治不信のムードに災いされ投票率は史上最低を記録した。開票の結果、日韓大陸棚事件にまき込まれなかった唯一の主要政党である共産党が大躍進をとげ、一挙に連合政権の主導権をとることになった。
一〇月第二日曜に「一九七〇年一一月二五日」と名乗る団体が一一月二五日に神宮球場である催し物をすることを発表した。宣伝用のパンフレットによれば、「三島由紀夫の復活」と証するこの催し物は二部に分かれていて、第一部では三島由紀夫と旧交のあった政治家、思想家、芸術家等が話をすることになっていた。この点は民族派の主催している憂国忌とかわらず、ゲストの顔ぶれを多少一般うけのする面々に変えた程度のものであった。第二部の紹介としては単に「三島由紀夫は復活するか?」と書かれているのみであった。
この企画の共参者としてはハーキュリーズ映画会社及びKGBテレビの二社の名前があった。