波   形


 夜九時を過ぎると、T大学医学部付属中央研究所も人影が疎らになる。様々な電子機器が所狭しと並ぶ研究室を、早田教授は奥野教授を案内していた。二人はT大の学部時代からの友人で早田教授はT大に残り、奥野教授はK大学に移っていった。

 「これだけの研究室を持てるというのはうらやましい限りだね。こっちに来てからどのくらいになるの?」

 奥野教授が聞いた。

 「二年ぐらいかな」

 「ずっと臨床にいた君が基礎に移った時はびっくりしたよ。あの時ははっきりとした理由が聞けなかったけど、本当の理由は何なの?」

 「うん。ご存知のとおり、僕は臨床で一〇年以上やってきたわけだけど、その間にどうしても研究したいテーマが出てきたのだ」

 「それが今度の学会で発表するやつかい?」

 「そうだ……。僕は臨床をやっていたときに何度も患者の臨終に立会った。ある時、患者の死亡を確認してから部屋に帰る途中で検査部に寄ったんだ。そうしたら、若いインターンたちがAPレコーダーに正体不明の電磁波が記録されていると言って騒いでいた。聞いてみると、過去に何回か同様なことがあったらしい。そこでひらめいたんだが、検査部の真上は病室になっていて、その病室は重病患者のためのものだった。その日に死んだ患者も真上の部屋に入っていた」

 「死にかけている患者がAPレコーダーに作用するとでも言うのかい?」

 「僕の仮説はそうだった。僕は次の機会に死にかけている患者の病室にAPレコーダーを持ち込み測定した。案の定、明瞭な電磁波の記録−オシログラムがとれた。僕はそれからひそかにこのようなオシログラムを集めだした。コレクションが増えるにつれて、僕はその解読にとりかかった。電磁波は五−十秒ぐらいのものなんだが、それぞれの波形に特徴があるんだ。サイン曲線のような単調なものもあれば、細かく変化するものもある。

 そしてある日思いついたのだ。この電磁波は人が死の直前に一生を走馬燈のように回顧するときに発するものではないかと……。そこで、僕はコレクションを提供してくれた患者の遺族と接触をとり、これらの人々の一生の記録を作りはじめた。まるで伝記作家のような作業だが、ずいぶんいやがられもしたよ」

 「波形は何を表わしていたんだ?」

 「苦悩だよ。一生のうちに味わった苦しみが時系列的に忠実に反映されているんだ。なだらかなサイン曲線に近い波形を持つ人間は幸福な、つまり、苦悩の少ない人生を送っている。波形が複雑になればなるほど不幸な人生を送っているのだ。波形の一つゝの刻み目に個々の事件を当てはめることのできた例もあるよ。

 しかし、これが全てじゃあないんだ。ある脳腫瘍の患者を診察していた時のことだが、僕は前頭葉のある部分に電気的刺激を与えると、死の直前に発するものと同じ電磁波が記録されることを発見したのだ。このこと自体はそれほど驚くべきことではないかもしれない。問題はその記録された電磁波の内容なのだ。その患者は三〇代半ばの男で、何の苦労もなくエリートコースを歩んでいた。彼のオシログラムは、その半生を象徴するようななだらかな線で始まり、そのまま終るかに思えたが、最後の部分で激しく小刻みに動き止った。その時は、測定のミスかなという程度であまり気にしなかった。

 三年後、僕はその男と再開した。救急病棟でだった。僕はその頃は、禿鷹のように死の臭いを嗅ぎつけると病院中どこへでもとんでいった。彼はビルの六階から飛び降り自殺をはかり、病院までよく持ったという程の重傷だった。彼は数時間後に死亡したが、彼が残したオシログラムは、三年前に記録したものと細部まで正確に一致していた。

 彼は人生の最後の三年間に、想像を絶するような苦悩を味わっていた。三年前の脳腫瘍の手術は一応成功したが、言語障害の後遺症を残し、そのためかどうかは知らないが、彼は二年後に離婚し、更に会社の金を使い込み、懲戒免職になっている。彼の救いは六階の窓しかなかったのだ」

 「つまり、君は死の三年前に記録された電磁波が、不運だった最後の三年間までも予知したものだったと言うのかい?」

 「正にそうだ。僕は未来予知という超自然現象にはじめて科学のメスを入れることになったのだよ。僕は集めた資料を分析整理するために大学病院から暇をもらって、二年間この研究室に籠った。そして、今度の学会でその成果を発表できるまでになったんだ」

 早田教授は研究室の奥にあるドアを開けた。そこは小さな部屋で、リクライニング・チェアが一つあり、そのひじ掛けから色とりどりのコードが伸び、かたわらの上部にブラウン管を置いた電子機器につながっていた。

 「このイスにすわれば、一分以内に君の未来を教えてあげられるよ」

 自慢げに早田教授は言った。

 「すごい発明であることは認めるけど、君はこれを何に役立てようというんだい?残りの人生がわかったからといって何の得があるんだい?後の人生が不幸だとわかっても、この機械はその運命を変える術を教えてくれるわけじゃないだろう」

 「真理だよ。僕は真理を知りたかったんだ。科学というのは真理を探究するためのものでしょう。真理を人生にどう役立てるかは僕が考えるべきことではないさ」

 「そういう君は自分の未来を見たのかい?」

 「いや、僕にはその必要はないさ」

 「逃げてるんじゃないか?確かに、君ほど恵まれた人間もいないだろう。最年少でT大の教授になり、医学部長の娘と結婚し、一粒種の啓一郎君は優等生だし……」

 「僕は何もこわがってはいないさ。必要がないから試してみなかっただけさ。でも、君がそれで満足するのならいつでも実験台になるよ」

 早田教授は、硬ばった笑みうかべて、リクライニング・チェアに腰を降ろした。

 「そこのスイッチを入れてくれ。右のスクリーンに電磁波の波形が表われるよ。僕も見物するとするか……」

 スクリーンが緑色に輝き、白いなだらかな曲線が左から右へ流れはじめた。曲線は、晴れた大海原を走る白波のように悠揚とうねっていった。異変は五秒ほどして起きた。海面が突然烈風に襲われたかのように、白線は鋭い上下動を繰り返し、唐突に消えた。

 「うそだ……」

 早田教授はスクリーンを凝視しながらつぶやいた。

 ドアの向うで電話が鳴っていた。皆帰ったらしく電話をとる者はいない。六回、七回と電話は鳴り続けた。早田教授は、うつろな目をして立ち上がり、ドアを開け、手近の受話器をとった。

 「早田研究室です」

 「あなた!……」

 「お前か……どうしたんだ?」

 「啓一郎が!……啓一郎が!」

(終)