刑        法


 僕は今朝大学に行こうとしてアパートを出たところで2人の刑事に逮捕された。罪名は傷害致死だった。そして僕は今中央検事局の取調室にいる。薄暗く狭い部屋に机が1つ椅子が2つある。

 ドアが開いて背の高い長髪の中年男が入ってきた。男は検事であると名のり、僕の名前を確認した。

 「どうして逮捕されたかわかるね」

 「人違いです。僕は今まで人を傷つけたことは一度もありません。喧嘩をしたこともないんですよ」

 「Mという女性を知っているね」

 「ええ、友達です」

 「ただの友達かね」

 「恋人といった方がいいかもしれません」

 Mとはこの夏知り合って2ヶ月ほど同棲した。

 「Mと一昨夜喧嘩したんじゃないのか」

 「ええ、ちょっと」

 よくある別れ話だった。Mは公園で二時間も泣いていて無理やり別れてアパートに帰ったあとも夜中まで電話のベルが鳴っていた。

 「でも暴力を振ったりはしませんでしたよ。僕は女の子に手をあげたことはありません」

 「殴らなくても人は傷つくんだよ。君はずいぶんひどいことをMに言ったようじゃないか」

 「それで僕は逮捕されたっていうんですか。どうしてそれが犯罪になるんです」

 「君は確か法学部の学生だったね。今度の刑法改正を知らないっていうんじゃないだろうね」

 検事はあきれたように言った。そういえば最近刑法に大改正があったということはきいていた。でも僕は大学には遊びに行っているようなものだし、新聞もほとんど読まないから刑法改正の内容については何も知らない。

 検事は少し考えてから話し出した。

 「物理的な暴力が身体に傷跡を残すように精神的な暴力も人間の心に、いや脳細胞に傷跡を残す。心の傷というのは科学者によれば脳の中上線条体腹側部という場所に起きる化学変化のことだという。そして現代の科学は肉体の傷害の程度を全治何ヶ月と判定できるように心の傷の程度も正確に測定できるようになった。その結果、今度の刑法改正では精神的暴力による傷害も傷害罪の対象とすることになった。この改正については反対意見も強かった。法技術的な問題もあった。精神的暴力と心の傷の因果関係は肉体の傷の原因が特定の殴打だというほど簡単ではない。しかし、そういった不明確さは物理的暴力についてもある程度はいえることで、本質的な問題ではない。

 色々と問題はあってもこの改正は正義を達成するためには是非とも必要なものだったのだ。物理的暴力はいわば天秤の皿に乗る分銅のようなもので、物理的暴力が発生するのは反対の皿に積まれた精神的暴力の重みとバランスをとろうとするからなのだ。従って、その一方のみを罰するというのは明らかに不公平なのだ。

 言葉には拳と等しい破壊力がある。それなのに現代の法律は拳のみに重い枷をはめていた。現代の暴力事件をみると加害者は多くが精神的暴力の犠牲者なのだ。彼らは精神的暴力に対抗する手段としては物理的な力しか持っていない不幸な人々といえるかもしれない。彼らは法により確実に罰せられる。しかし、彼らをそこまで追い込んだ精神的暴力の加害者は何のとがめも受けなかった。わずかに名誉毀損のような客観的に認められる精神的暴力のみが処罰された。外部からは窺い知ることのできない、それでいて確実に存在する精神的傷害に対しては何の救済もなかった。

 今度の刑法改正でこの永年の不公平は是正された。精神的暴力の加害者は物理的暴力の加害者と同じく裁かれ罰せられるのだ」

 検事は自らの長広舌に気恥かしさを覚えたかのようにポケットの中からタバコを取り出して火をつけた。

 「Mと話をさせてください。誤解です、きっとわかってくれます」

 「Mは死んだよ。ガス栓をひねって死んだ。君を恨んで死ぬという遺書を残していたんだよ。そして解剖の結果一昨日の君とのいさかいが自殺の原因だと確認できたのだ。だから君は傷害罪ではなく傷害致死罪に問われているんだよ」

 「僕はどうなるんです。刑務所に行くんですか」

 「傷害致死だからね。何年か入ってもらうことになるだろう」

 ドアが急に開いて白い光と一緒に背の低い太った男が入ってきた。えりの銀色のバッヂがなければとても弁護士にはみえなかった。

 「検事さん、ちょっと外で話ができますか」

 検事と弁護士は僕を残して出ていった。十分ほどして弁護士が戻ってきた。

 「不起訴になったよ。もう家に帰れるよ。あの検事には情婦がいるんだよ。バーのホステスだ。最近あいつに新しい女ができたんで怒っているんだ。その女から告訴状をとってきたんだ。あいつは君よりもよっぽど悪いことをしているよ。今度の刑法では十分懲役刑になる。大変な時代になったもんだな。本当に潔白な人間なんているもんじゃないからね」