夕焼けの後


「わしは今朝起きる間際に夢を見たよ。きのこ雲がいくつも巨大なモスクのように聳え立っているんだよ。それが朝日を浴びておそろしくきれいなんだ。その雲の下から真すぐ伸びている広い道路をわしはオートバイで雲に突っ込むように走っていくんだ」

「川崎さん、あんた前にもそんな話をしていたよ。ずいぶん前の話だよ……キューバ危機の時だった。あの時はもう少しだったなあ……。もうちょっとで核戦争だった。あんなチャンスはめったにないね。今は時期が悪い。もう二、三年は待たなきゃ……」

 川崎と呼ばれた老人は相手の言葉には構わず続けた。

「きのこ雲はそれは大きなもので、朝の光の中で虹色に輝いているんだよ。わしは十代の少年になっていて、空を覆い尽くすまでに広がったきのこ雲に向って弾丸のように走っていくんだ」

 川崎老人主催のホームパーティーに招かれたのは約三十人。豪華マンションの五階ルーフバルコニーでのバーベキューパーティーであった。一五〇平米あまりのルーフバルコニーからは隣の広大な公園の彼方に都心の高層ビル群を望むことができる。六時を少し回っているが七月の空はまだ青く、遠くに連なるビルのガラスの壁を陽光が美しく染めている。

 招待客は三十代半ばから八十過ぎの老人まで全て男である。いくつかのグループに分かれた男達は、次々と焼き上がってくる肉や野菜を頬張りながら、久しぶりの同窓会のように話に興じていた。バーベキューの炉の近くで二人の中年男が話していた。

「僕は五月にニューヨークに行ったとき東部の同志の会合に出てみたんだ。連中はかなり荒れていたね。タカ派中のタカ派を大統領にさせて四年近くなるのに何も起こる気配がない。でも次期もその男に任せるしかないんだ。ヨーロッパは地元の連中が騒いでいるだけで余程の幸運がなければ核戦争は起きない。仮に起きても限定戦争だ。世界の終焉にはつながらない。まあ敵がだらしないからかもしれないが、とても今の情勢じゃ全面核戦争はないというのが連中の読みだ」

「俺は偶発戦争しかないと思うよ。むしろ今まで大事故がないのが不思議なぐらいなんだ。もっとも、俺の情報じゃマスコミの知らない重大事故がこの十年間には少くとも三回はあったようだけど……これからはもっと増えるよ。アメリカの技術力が落ちているのは周知の事実だし。問題はむしろ技術より人間だ。今のアメリカで核ミサイルの発射ボタンに近づける人間のうち一五パーセントは正常でない……大統領を含めてね。フェイルセイフは勿論あるけど、それでは救えないミスが絶対出てくる。必ずあるさ」

 隣のテーブルでは色白の大学教授風の男が陽気に話していた。

「不思議なんだよね。みんな違う思いでここに集っている。ぼくみたいに生態系の秩序回復なんていうのはいい方で、画伯のように自分の目で世界の終りを見たいなんていう単純なのがいるかと思えば、ガイムショウのように癌ノイローゼもいる。あいつの言いぐさは自分一人が癌で死ぬのはいやだ、世界を道連れにしたいというのだ。でもぼくの知る限りでもあいつは十年以上前から末期癌だと言っていたよ。それで相変らずあの通り一番よく食うんだ」

 バルコニーの手すりに凭れて芸術家風の二人の男が話していた。

「君のこの前の映画は厚い雲の中から突然巨大なICBMが姿を現わすというのだったね。今度はどうするの?」

「今度は巡航ミサイルだ」

「巡航ミサイル?」

「ジェットエンジンで飛ぶ無人誘導有翼ミサイルだよ。地表すれすれの高さを飛ぶからレーダーには捕えられない。」

「あんまり迫力ないなあ……絵になるかな」

「川崎先生、いいマンションですね」

 水割りを手にした実業家風の男が川崎老人に話しかけた。

「マンションは好きじゃないが、あんたみたいに大邸宅には住めないからね」

「これだけ広い庭があれば文句ないでしょう。眺めもいいし」

 二人に背を向けて燃えるような夕焼を見ている長身の男がいた。

「あなた達は何を考えているのですか?」

 男は向き直り夕焼を背景に言った。若い男だった。

「私の孫だ」

 川崎老人が苦い顔で言った。

「あなた達は最終戦争を肴に飲んでいて楽しいですか。世界の終焉を望むならなぜそのために動こうとしないのですか。未練たらしく生き続けていくあなた達こそが醜いこの世界の最も醜い部分じゃあないのですか?」

「真。お前はまだ若い。まだ人生についても世界についてもわかっていない。世界の運命は個人の意志で変えられるようなものじゃあない。歴史を変えたといわれる天才や英雄も結局はもっと大きな力の操り人形でしかなかった。私のような老人になればわかると思うが虚と実とは混在しているものなのだよ。世界の崩壊を心に思えば、若者の群れ集う街も骸骨の重なる墓場に見えてくる。生と死の境界が不明確であるように、世界が滅ぼすに足るほど確固と存在しているかも怪しいものなのだよ」

「あなた達俗物の言い訳は聞き飽きたよ。あなた達には生きる勇気も死ぬ勇気もないのだ。あなた達は裸の女の写真を見るように世界の崩壊を心に描いてその刺激で辛うじて生きているのだ。そういうのが堪らなくいやなのだよ。否定すべき対象が消えてなくならないのならどうして自ら消えようと思わないのか」

 青年は手に持った水割りを、「僕の後に残る世界に乾杯!」と叫んで一気に飲み干し、グラスを床にたたきつけバルコニーの手すりをとび越し、深みを増した夕焼の空に向って跳躍した。

 青年を呑み込んだ夕焼は須臾の間に色を失い、都心のビル街の燈火が輝きを増した。その明りに引き寄せられる甲虫のように、低い羽音をたてて迷彩色の流線型の飛行物体が一つまた一つと、公園の木々の梢を掠めて都心の方向へ向かっていった。

(終)