_ 小泉批判の嵐の中で考えたのだが、あそこで田中真紀子を切ったのは小泉の恩情ではないか。
_ 真紀子が大臣の器でないことは彼女のファンですら認めるところで、これまでも失脚に値するミスを繰り返してきた。その彼女がはじめて賞賛するに足る仕事をした。しかし、問題をあれ以上追及することは真紀子には無理だと小泉は思った。
_ 更迭の直前、紛争の焦点は「鈴木宗男」の名前が会話の中で出たか否かという「言った言わない論争」に移っていた。ここでは真紀子は劣勢で、追及されれば彼女のウソが判明したと思う。そこで小泉は考えた。真紀子が嘘つきの汚名を着せられて強制退場させられるより、悲劇のヒロインとして消えていく花道を作ってあげよう。そのためには、小泉が悪者にならなければならない。
_ 結果は小泉の思ったとおりになった。真紀子はヒロインになり、自分は悪者になった。しかし、世論の過剰な反応は小泉にとっても予想外だった。だれも小泉の恩情に気づいてくれない。
_ 事実はこれほど単純ではないと思うが、恩情が小泉の判断を狂わせた可能性はある。彼が非情な人だったら、あのような自分にとって最悪のタイミングを選ぶわけはない。小泉はヒトラーやスターリンにはなれなかった。それでよかったのだろう。
_ 日本人宇宙飛行士向井千秋さんは「3度目の飛行の機会があれば乗ってみたい」と言っている。今回の事故の結果、スペースシャトルによる死亡事故の確率は多分100分の1ぐらいになっただろう。それでも行くというんだから宇宙飛行士は勇敢なんだと感心した。でも、考え方によっては、それほどでもないかもしれない。
_ 私の高校のクラスは卒業から30年以内に4人が死んでいる。これはクラスの人数の約10%で、3年間では1%の割合になる。この割合が一般的だと仮定して、もし向井さんの次のフライトが3年先だとすると、それまでに彼女が宇宙飛行と関係なく死ぬ確率は1%ということになる。つまり、向井さんが待機期間中に死ぬ確率と宇宙飛行で死ぬ確率は同じなのだ。
_ 今回のような事故に遭遇して人がよく犯す誤りは、死を色で言えば真っ黒と考え、生を真っ白と考えることだ。本当は生の中にも死は混在していて、真っ白ということはない。死と生の違いは黒と灰色の違いなのだ。
_ 無事生還した宇宙飛行士も1ヵ月後に交通事故で死ぬかも知れず、いずれにせよ永久に生きる人はいない。生きているということは、まだ死んでいないということでしかなく、シャトルの打ち上げ時の傷がその2週間後の運命を規定したように(と現在では言われている)、我々もいずれ致命的となる傷をどこかに持ちながら生きているのだ。
_ 「朝青龍は引退させられたが、なぜ小沢一郎は引退しなくていいのか?」
_ 「それは、横綱には品格が要求されるが、政治家には品格は必要ないからだ」
_ という問答がある(笑)
_ それはともかく、横綱の品格について考えてみよう。
_ 朝青龍の引退記者会見を見ていて印象に残ったのは、マスコミ報道の行き過ぎについて、「それでメシを食っているんだから」と理解を示したことだった。そこには、自分も相撲でメシを食っているのに何でこんなことで辞めなければいけないのか、という無念がにじみ出ていた。
_ 今回の「引退」は横綱審議委員会が引退か解雇かと迫った結果だったとのこと。では、もし朝青龍が引退を選ばず解雇されていたらどうなったか。
_ 朝青龍は賃金をもらって生活しているので、労働基準法にいう「労働者」である。労働基準法は不当な解雇から労働者を保護していて、正当事由のない解雇は無効になる。社風に合わないから解雇するなどということは認められない。今回のような、仕事外の仲間内でのケンカも普通は解雇事由にならない。
_ そこで問題の「横綱の品格」が登場する。何をもって横綱の品格の有無を判断するのか明確でない。書いたものがあるわけではなく、昔の大横綱はこうだったなどと伝説のようなものを持ち出す。
_ 例えば、土俵上のガッツポーズについては賛否両論があった。それは双葉山の時代には無かっただろうが、時代は変わっている。規範が明確でないのに違反であるということは出来ない。日本人にも分からないものを外国人に押し付けるのは不当だ。
_ 百歩譲って、「横綱の品格」という概念を用いて朝青龍の言動を批判するのは自由だとしよう。しかし、だからと言って人の職を奪っていいわけではない。罪刑法定主義と同じ理由で、職を奪うためには何をすればそのような結果になるかが事前に本人に知らされていなければならない。
_ モンゴルでは、今回の出来事について、日本を非難する声があるという。当然である。外国人力士をこれだけ受け入れて金儲けをしている相撲協会は、誰にでも分かるルールを定めるべきである。ルールがないのに罰を科すような国は文明国とは言えない。
_ 日本人が「横綱の品格」という言語化できない独特の美意識で外国人を批判するのと、それで外国人の職を奪うのとは全く次元が違う行為なのだ。大日本帝国が「八紘一宇」などという思想でアジアを従わせようとしたのと同じ愚である。