_ 西野に面白い女の子が入ってきた。小柄で学生風。彼女は指導員の気を受けると猛烈な勢いで走り出し、壁に立てかけてあるマットに顔から当たって、今度は反対方向に走り出す。ここまでは西野の日常的な風景で誰も驚かない。みんながびっくりするのは、彼女が走りながらどすの利いた声で「てめぇー!この野郎!ぶっ殺すぞー!」と叫ぶからだ。普通のときはむしろおとなしい感じの子なのに勝手に声が出てしまうようだ。昨日の稽古の後半は手で口を押さえながら走っていた。
_ おかしかったのは、マットに当たって三回転した彼女が起き上がって「オレは。。」と言ったところで我に返り「わたし。。」と言いなおしたことだった。
_ この光景を見て、何かに似ていると思った。多重人格における別の人格の発現だ。実際見たわけではなく、本で読んだだけだが、かわいい女の子が突然男の声で話し出し、態度も一変する。多重人格が何なのかは私には分からないが、そのような現象が存在することは確かだ。
_ 仮に西野の彼女のケースが多重人格の発現だとしたら、なぜそのようなことが起きるのだろう。
_ それと関係があるか分からないが、気を受けた人の中には動物のような動作をする人がいる。馬のように四足で走ったり、蛙のように跳んだり、ゴリラのように吼えたりする。
_ 遺伝子の中に隠されている進化の過程が再現されているのだろうか。それとも、前世でそのような動物だったのだろうか。
_ 前に、妙齢の女性で、気を受けると指導員に詰め寄って「あなたは誰なの?あなたは本当は誰なの?」と詰問する人がいた。それも指導員のW先生の気を受けたときだけそのような反応が出る。過去生で二人は会ったことがあるのだろうか。今はW先生の姿をしているが、本当は違う人間だと言いたかったのだろうか。
_ 我々は固有の自我を持っていると信じているが本当だろうか。多重人格は珍しいものではなく、我々はただ気づいていないだけかもしれない。気の世界は不思議に満ちている。
_ クリント・イーストウッドの監督主演作。
_ ウォルトは、頑固な老人で健康を害している。息子たちや孫たちとは不仲だ。一人暮らしの家の周りは白人が引っ越して出て行き、隣にはモン族の一家が越してきた。最初は不快に思っていたウォルトだったが、やがて一家と親しくなる。その一家の姉弟を守るためにウォルトは身を挺する。
_ 昔の東映ヤクザ映画を思い出したが、あまり感動しなかった。
_ ヤクザ映画のクライマックスが感動的になるのは、ヒーローがある価値のために他の価値を捨てるからだ。それは組のために女を捨てるというように義理と人情の関係で語られることが多い。
_ ウォルトの場合は、最初から人生に未練はなかった。むしろ自殺願望があるとさえ思える。無意味に死ぬことも出来ないと思っていたところに絶好の死に場所が用意された。だから彼の死には崇高さがない。
_ もう一つ感動を妨げるのは、ウォルトがモン族の一家と関わる理由が明確でないことだ。親しみを感じるようになったエピソードはあるが、人種差別主義者のウォルトが変身するだけのものか。
_ ヤクザ映画の場合は、ヒーローの行動は義務の履行でもある。それは組の責任ある立場というポジションであったり、恩を受けた人に対する義理だったりする。「ごくせん」などもそのパターンを踏襲していて、やんくみが窮地に陥った生徒を救いに現れたときに言うセリフは「私はお前らを決して見捨てはしない。だって私はお前らの先生だから」。それは義務であり義理でもあるが、あたたかい感情に裏打ちされたもので「先生だから」は「母親だから」と似た響きがある。
_ 「ごくせん」では、約束を守る、裏切らない、など信頼に基づく価値が熱く語られる。ヤクザの組とか、学校とか、緊密な人間関係が予想される社会における物語であれば、信頼が献身的な行動を引き起こすというストーリーが可能だ。「グラン・トリノ」はそれを異民族間で描こうとしたので無理があった。
_ 600ページを超える「三島由紀夫論」を読み終えた。期待して読んだががっかりした。
_ 平野啓一郎は京大法学部卒業のようだが、事案を分析して因果関係を発見する能力はあるようだ。三島は、東大法学部卒で、その点では平野はほかの文芸評論家より優っている。しかし、彼がやっているのは、巨象の鼻や、しっぽや、爪を観察して、剥製を作るような作業で、巨象の中身は空っぽだ。
_ 平野は、20年以上費やしてこの本を書いたとのことだが、それでこの程度なのは残念としか言えない。
_ 平野は、「天人五衰」について、
_ 「来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であっても、なんら妨げがない。」ーこの宇宙的な想像は、飛躍的だが、「美しい星」のガン告知後の重一郎を思い出させる。
_ と言っている。ここで「飛躍的だが」と述べているのは、平野が三島について何も理解していないことを示している。
_ この部分は、私が、「滝川希花の冒険」で「卓上のビーズについて書かれた文章」と言っているところの一部だが、三島の世界解釈の到達点を示すものである。