_ 昨日南麻布のアッピアで食事をしたが、隣のテーブルに宮沢りえがいた。今製作中の作品の監督、スタッフと一緒のようで、楽しそうに話していた。表情はとても明るかったが、体重は戻っていないようで痛々しかった。あの時の傷は大きかったのだろう。
_ 昨日はめったに見ない高校野球を見た。駒大苫小牧と早稲田実業の15回引き分け再試合となった熱戦で人並みに感動した。でも、疑問が残った。
_ なぜ高校野球では、3連投、4連投を許すのだろう。プロ野球では、中4、5日が当たり前で連投など考えられない。連投をすれば投手は肩を壊して寿命が短くなるからだ。その理屈が高校野球にも当てはまらないわけがない。むしろ、高校生は身体が出来上がっていないから、その時期に過剰な負担を与えれば影響はより大だろう。
_ では何故そのような無茶をさせるのか。トーナメントである以上連投も仕方がないということか。そうであっても、健康に配慮してある回数以上の連投を禁止するルールを作ることはできるだろう。しかし、そんな動きはないようだ。むしろ、世間は早実斉藤の4連投を見たがっている。ローマのコロッセオに集まってライオンが奴隷を食い殺すところを見る連中のように。アマチュアリズムの負の部分と日本人の集団ヒステリーが合わさるとこのような異常なことが起こる。
_ プロとアマの違いとはなにか。技術の差であると誤解する人がいるが、そうではない。プロは金をもらって仕事をする人で、アマチュアは金をもらわないで仕事をする人なのだ。だから人は、プロ野球選手が連投を拒否し自分の商品価値を維持しようとすることに理解を示す。プロは、もらう金の分だけ仕事をすればいいのである。アマチュアの場合には、プロにとっての金のように仕事の量や程度を画する限界が存在しない。反対に金から切り離されることによって、アマチュアの仕事は神聖化され、それに対する献身が要求されるようになる。
_ 今日の試合で斉藤が肩を痛めて選手生命が短くなったら誰が責任を取るのだろう。日本の常で、誰かが致命的な損害を負うまで誰も何もしないのだろう。
_ 私は、再試合は1週間後の日曜日にすればいいと思う。15回を投げた次の日に9回投げろというのは気違い沙汰だろう。まだ延長を続けた方が一回で終わる可能性があったからよかった。
_ 三人目の精神科医のつけた病名は解離性障害だった。びっくりした。
_ 私は、この日記で何回か「解離性同一性障害」について書いてきた(2004年9月17日、2005年11月14日、2006年7月18日、2007年7月14日)。解離性同一性障害はいわゆる多重人格で解離性障害の一つの類型である。朝青龍は解離性健忘と離人症性障害に該当するようだが、同一性障害を発症することは無いのであろうか。
_ 私が関心を持ってきた事件では、普段おだやかな人が突然凶悪な事件を起こしている。そこには人格の連続性がない。一人の人間の中に複数の人格が潜在していて強いストレスによりその一つが発現するのではないか。そのとき出てくるのは、普段抑圧されている攻撃的な人格が多いようだ。
_ もし朝青龍の中に、殺人鬼の人格があって、その人格が現在の強いストレスで発現することは考えられないのか。そんなことがあったら、ジュラシックパークのティラノザウルス級の恐怖だ。
_ 黒沢清監督の「地獄の警備員」という映画がある。1992年の作品で、ある商社に警備員として雇われた大男が元相撲取りで、兄弟子と愛人を惨殺したにもかかわらず精神病で無罪になった過去がある。その男が無差別殺人を開始する。ロッカーに隠れた女子社員をロッカーごとつぶして殺すところがすごかった。傑作ホラーだ。
_ 筒井康隆の短編で「走る取的」というのがある。酒場で飲んでいた二人のサラリーマン(一人は空手二段)が取的(下っ端の相撲取り)と目があったことから、執拗に追いかけられる。追い詰められた二人は駅のトイレのわきで惨殺される。相撲が最強の格闘技と信じられていた、曙がK-1で負ける前の話。でも、サッカーの映像を見ていると、朝青龍だったらどこまでも追いかけてきそうだ。この小説も傑作。
_ 何れにしても、朝青龍に同一性障害が発症する可能性が少しでもあるなら、早く手を打ったほうがいい。さもないと、とんでもない惨劇が始まる。