― 2000年 5月 ―




 川上は電話のベルで起こされた。5月7日の午後だった。昨日の午後寺本が訪ねてきて朝までいたので、川上にとってはまだ夜中のようなものだった。

 キングからの電話だった。7時にホテルオークラの部屋に来てくれ、ということだった。 キングは、東京に来ると、いつもホテルオークラのプレジデンシャルスウィートに泊まる。川上がキングに言われた番号の部屋をノックすると、カール・ミルドレッドが顔を出した。ミルドレッドとは、東京に来る前にキングと一緒に打ち合わせをしたので、初対面ではなかった。ミルドレッドは、川上を招き入れると、スウィートルームの中を自分の家でもあるかのごとく案内した。川上の今居るマンションと同じくらい広くて、高そうな家具が入っていた。キングは外出しているようだった。

 ミルドレッドは心配そうな面持ちで、これからどうなるのだろうかと尋ねた。ミルドレッドは、うまくいかなければ自分は首になるのだといって溜息をついた。川上は、順調にいっている、と答えたが、勿論、そんなことを自信を持って言える立場にはなかった。

 やがて、キングが戻ってきて、東京オフィスの連中と訴訟についての打ち合わせをしてきた、と言った。キングは、外に出ると誰に会うか分からないので今日はルームサービスを取ろう、と言ってメニューを差し出した。川上は全然食欲がなかったので、スープとシーザーズサラダだけ取ることにした。キングは1ポンドのステーキをレアで注文した。程なく注文した料理が広いテーブルの上に並べられ、晩餐が始まった。

「クリスティーヌ、君はわれわれが期待した以上の働きをしているよ」とキングがシャンパンをつぎながら言った。

「そう言ってもらえると嬉しいけど、まだ、決定的なものは何も取れていないわ。とにかく、3ヶ月以内にT&Kを買収するためのお膳立てをする、というのはサダム・フセインの髭を剃ってくるのと同じくらいに難しいわ」と川上は言った。

「しかし、クリスティーヌが先週送ってくれたT&Kのクライアントリストを見ると、すごい会社が並んでいるんでびっくりするね。日本の一流企業をクライアントに持っていることは当然だが、アメリカの企業も、われわれが取りたくて取れなかったところがたくさんある。考えてみれば、日本で国際的な仕事ができる法律事務所は数えるほどしかないわけだから、それが世界の大企業を分け合っているというのは当たり前のことなのかもしれない」

「なるほど。この買収がうまくいけば、例の映画の問題が片付くだけではなくて、われわれのクライアントの拡大のためにも役立つということですね」とミルドレッドが口を挟んだ。

「そう簡単に喜んでもらっては困るんだがね。あくまでも、成功した場合の副次的な効果ということで、買収だけを目的にするんだったら、もっと慎重にやるよ。こんな荒っぽい手を使って、もしばれたら、われわれは計り知れないダメージを受けるよ」と苦い顔をしてキングが言った。

「寺本を操れたとしても、そう簡単にT&Kを買収できるとは思わないわ」と川上がシャンパンを一口飲んで言った。

「今のT&Kでは、黒田の方が寺本よりも力を持っているようだし、最近は、君原が彼らに楯突くようになってきたらしいわ」

「唐島監督は君原のクライアントだということだな」とキングが聞いた。

「そう。だから、君原を買収するなり、脅迫するなりできれば簡単なのよね」

「それができれば苦労はしないがね。われわれが調べた限りでは、君原にはつけ入るスキはない。クリスティーヌの目からどうなの」

「私の嫌いなタイプね。いい男ぶっていて、女なんか自由に操れると思っているような奴だわ。剛胆な振りをしているけど、本当は小心で、ボロを出さないことに汲々としている。弱みを見せる時も計算をしていて、相手を油断させるための武器として使うのよ」

「よほど嫌いなようだな。個人的な感情は別にして、使えそうな弱みはないのかな」

「寺本みたいに愛に飢えているわけではないし、黒田みたいに油断しきっているわけでもないし、なかなかやっかいね。私立探偵かなにか雇って愛人の存在でも調べたら?」

「離婚訴訟をやるわけじゃないんだから、愛人なんかいたってなんの足しにもならないよ。もっとすごいネタがないと」

「でも、T&Kさえ買収できれば、君原は抵抗できないんでしょう?」

「買収さえできればT&Kのクライアントはわれわれのクライアントだ。唐島監督については、われわれがハーキュリーズピクチャーズを代理して訴訟しているわけだから、利益相反になる。弁護士は争っている当事者の両方を代理することはできない。だから、買収が完了すればT&Kは代理人を辞任して、他の弁護士を紹介する。勿論、他の弁護士というのはわれわれの息のかかっている者だよ」

「買収さえできれば、50万ドルね。訴訟がどうなるっていうのは私とは関係ないことだから」

「そうだ。買収さえ成功すればいい。あとはわれわれがやる」と、ステーキを食べ終わったキングはフライドチキンを食べながら言った。




 次の日の朝、寺本がオフィスに着くと間もなく、見はからったかのようにキングからの電話がかかった。キングは、昼食を一緒にしたいと言い、ホテルオークラのフレンチレストランを予約しておくと言った。最近とみに和食党になっている寺本は鮨が食べたかったが、招待された以上仕方がない。

 

 寺本とキングは、8年前に、大きな合弁契約の交渉の際に初めて会った。日米の大会社が、それぞれ50%ずつ出資してシカゴに合弁会社を作るという話だった。その当時、キングはSH&Gのシカゴのオフィスに所属していたので、2人のアソシエイトを連れて交渉に出てきた。寺本は、日本の会社の法務部の人間と一緒に交渉に臨んだが、2日で終わるはずの交渉が1週間に延びてしまった。その間、キングとは2度ほど食事をする機会があり、仲良くなった。その当時は、寺本の方が年上であり、小さいながらもローファームの創立パートナーであったから、何百人もいるSH&Gの1パートナーでしかなかったキングに対しては、優越的な立場にあった。その後、クリスマスカードを交換するだけの関係が続いていたので、寺本は、何故今日突然電話をもらったのか、いぶかしく思っていた。もっとも、内心は、川上から吹き込まれたM&Aのことが頭にあり、米国の事務所の今後の対日進出計画についてキングの考えを聞いてみたいという気持ちはあった。

 

 天気が良かったので、寺本はホテルオークラまで歩いていくことにした。ホテルオークラの宴会場の横にある古い土塀には蔦が絡まり、鮮やかな緑の葉が覆っていた。5月の優しい風が豊饒な緑のカーテンを揺らして通り過ぎていった。

 寺本はホテルオークラの本館への急な坂を上りながら川上のことを考えていた。最近、気がつくと、心の中で川上と対話をしていた。事務所にいるときに、川上と廊下ですれ違ったりすると、心臓の鼓動が早まり呼吸が乱れた。高校2年の時に、隣のクラスにかわいい娘がいて、その娘と話をしていると、顔が赤くなる、と友達に冷やかされたが、その時以来かもしれない。

 フレンチレストランはサウスウィングの12階にあり、長年に亘って日本のフランス料理をリードしてきた伝統と風格があった。最近は、派手にマスコミに取り上げられる街のフランス料理店に押されて話題になることは少なかったが、世の軽薄な動きとは無関係に、落ち着いた味と雰囲気を提供していた。

 寺本は零時1分過ぎにレストランに着きキングの名前を言うと、テーブルでお待ちになっています、という答が返ってきた。窓際のテーブルにはキングと、寺本の知らないメガネをかけた神経質そうな男が座っていた。

 「ハーイ。ジロー」とキングは寺本のファーストネームを呼んだ。「こちらは私のパートナーのカール・ミルドレッドだ」

 寺本はミルドレッドと名刺を交換して着席した。キングは、8年前に会った時より10キロほど体重が増えているようで、大事務所のヘッドパートナーの風格が身に付いてきたようだった。

 レストランは零時半前にすべて満席となり、外国人の姿が多く見られた。寺本達のテーブルには、スープが下げられたあとにメインディッシュが運ばれ、キングはまたもや1ポンドのステーキだった。キングはレアのステーキを口に放り込みながら寺本に聞いた。

「今度、外弁法が改正されて、われわれも日本人弁護士を雇えるようになったわけだが、そういう動きはもうあるのかな?」

「日本人の若い弁護士を雇ったところはいくつかあるね。われわれとしては留学を終えた連中を取られるのが一番困るのだ」と寺本が真鯛のポワレーを食べながら言った。

「しかし、日本経済の回復はまだスローだし、今、クライアントを持っていない若い弁護士を雇用しても、仕事が充分にないんじゃないかな」

「そうね。若い弁護士にとっては、クライアントを開拓していくことは、大変なことだし、外国の法律事務所が、日本のクライアントの日本国内の仕事を取るというのは難しいと思うよ」

「われわれもそう考えてね、今のわれわれの東京オフィスで日本の若い弁護士を雇用することは当面考えていないんだ」

「日本のマーケットはそれ程魅力がないしね」

「いや、そうは思わない。日本というのは、潜在的には、大変な市場だと思うんだよ。同一言語、同一民族で、争いが少ないと言っているけれども、どこの社会でも人々が抱く不満は同じ程度あって、日本ではそれが押さえられているだけじゃないのかな。だから、それを自由に主張するためのシステムができれば、それを利用する人はたくさんいると思うよ」

「今回の外弁法の改正に反対していた人達は、日本がアメリカのようになるのを恐れていたのだよ。つまり、道を歩いていて転んだからといって訴訟を起こしたり、弁護士が訴訟をけしかけるような社会は良くないと言うのだ」

「それは同感だね。アメリカでは、訴訟がビジネスになってしまっている。そもそも損害賠償の金額が大きいし、事案によっては3倍賠償ということもあるし、訴訟することによって儲かるようなシステムができてしまっているのだ」

「日本では、今の法律と裁判制度でいく限り、そういうことはないね。日本の場合は反対に損害賠償の金額が少なすぎるという弊害がある。だから、相手方が一方的に悪くて損害を被ったとしても、弁護士を雇って訴訟をすれば、仮に勝ったとしても、弁護士費用の分損害が大きくなってしまうということがよくあるのだ」

「それは正義ではないな」

「確かにそうだ。だから、日本では、暴力団や、事件屋や弁護士以外の資格のない連中が、裁判よりももっと手っ取り早い紛争の解決を仕事として、結構成り立っているのだよ」

 キングは、おかわりしたパンを食べながら窓の外を眺めた。マンハッタンとは全く違った街並みがあった。よく言えば落ち着いていると言えるが、悪く言えば停滞した街だった。キングはミルドレッドに軽く目配せをして切り出した。

「びっくりしないで聞いてもらいたいんだが、事務所を売る気はないかい?」

 寺本は一つもびっくりはしていなかった。何故か、この同じ場面を前に経験したような気がしていた。いわゆるデジャビュ(既視)という奴だろうか。その言葉を言い出す時のキングの表情、ちょっと口ごもったような話し方、さらには、レストランのざわめきまで、すべて寺本の記憶の中にあった。

「びっくりするなと言われても無理でしょう。われわれは、今現在、日本一の法律事務所だし、そう簡単にお譲りするわけにはいかないよ」と寺本は、一応は否定してみせた。

「勿論、すぐOKを言えるはずもないし、こんなことを突然言い出すのは失礼かとも思ったのだが、ジローのファームは素晴らしいファームだと聞いていたから、他の誰かが言い出す前に先にプロポーズしたかったのだよ」

「冗談でそういうことを言っているのではないというのは分かっているから、こちらも、真剣に考えさせてもらうよ。私の一存で決められることではないし、まず、パートナーの黒田と話をしなければいけない」

「真面目に考えてくれて嬉しいよ。当然、立派なファームにふさわしいだけの対価は払うし、君や黒田は、われわれの、つまりSH&Gのヘッドクォーターのパートナーになって欲しいのだ」

「面白そうな話だね」

「ローカルなマネジメントについても当然これまでと同じように見てもらいたいが、それと同時に、SH&Gの全世界的なストラテジーについても積極的に考えてもらいたいのだ。例えば、日本のクライアントに関しては、君が全世界のSH&Gの活動の最高責任者になってもらう、ということも考えている」

「そうすると、ニューヨークに住まなければいけないということか」

「半年。いや、年間3ヶ月ぐらいニューヨークにいてもらえると、とても有り難いが。ジローはニューヨークのことはよく知っているから、あまり不便に感じることはないだろう。勿論、住むところは提供するよ」

 まるで筋書きがあるかのように物事が進んでいくではないか、と寺本は笑みがこぼれるのを押さえながら考えた。ここであまり嬉しそうな顔をすると、足元を見られてしまうから注意しなければいけない。

「先程も言ったように、突然の話だし、自分としてもよく考えてみたい。それから、うちのパートナーと個別に話をしなければいけないので、もう少し時間が欲しい」

「よく分かるよ。でも、悪いんだが、なるべく早く感触を教えてもらえないかな。われわれのファームとしては、日本の一流のローファームを買収するということは決定済なので、お宅がダメなら他を当たらなければならない。われわれとしては、ぜひ寺本&黒田と仕事をしていきたいのだよ」




 5月10日の夜、寺本は黒田と赤坂にある会員制クラブで会った。個室ではあったが、隣の部屋に入った団体の話し声がよく聞こえた。黒田はもう随分長いこと黙っていた。さっきから料理には手をつけず、天ぷらは冷めていた。黒田は、もともと酒を飲む時にはあまり食べない方であったが、今日は特に食が進まなかった。

 寺本はキングの提案を説明し、自分はその提案に乗りたい、と言った。黒田が反対なのはその態度を見れば明らかであったが、最初から諸手を上げて賛成してくるとは思っていなかったので、黒田の反応に落胆してはいなかった。黒田は手酌で熱燗の日本酒を飲みながら話し出した。

「寺本さんと俺は、19年前にあの外人が支配する事務所を飛び出して、日本人の手による初めてのローファームを作ろうと、ここまで来たんだよな。そして、まがりなりにも人数的には日本一になった。もっとも、他の老舗の大事務所に比べれば、まだまだ弱いところがあり、本当の日本一とは言えない。俺は、このローファームという建物に最後の仕上げをして、それを次の世代に渡そうと思っていたんだ。寺本さんと俺が19年かけて作り上げてきた1つの作品だよ。それを、次の世代にではなくて、外人に手渡すなんて、考えてもいなかった」

「最初は私もそう考えたよ。しかし、いろいろな可能性を考えてみると、これも1つの選択肢ではないかと思うようになったのだ。勿論、相手方の条件も聞かないで賛成するつもりはないが、少なくとも、真剣に考えてもいいのではないかと思ったのだ。私がこの週末に考えたことを整理すると次のようになる」と言って、寺本はぬるくなったビールを1口飲んだ。

「これからの日本の弁護士の世界は戦国時代に入ると思う。それは、黒船が来た、というような生易しいものではなくて、外国法律事務所による侵略が始まると思うのだ。そして、連中と最初にぶつかるのは、われわれ渉外の業界だ。

 われわれは、世界のレベルからすると比較にならないほど弱小だ。弁護士の数だけを見ても、SH&Gは2000人を超えていて、われわれは70人弱だ。資本力を見たら人数以上の開きがあるんじゃないか。日本の法律事務所は、法律上法人化できないから、利益を留保できない。われわれは、いわば、その日暮らしの自転車操業をしているようなものだ。それに比べて彼らには全世界から吸い上げた膨大な資金がある。それを集中的に日本につぎ込んでくれば、一時的に弁護士報酬をわれわれの何分の1にも下げることができる。

 人の雇用についても同じだ。われわれはアソシエイトに大きな金額を払うわけにはいかない。アソシエイトよりも低い収入しかないパートナーがいることから考えても、それは仕方のないことだ。しかし、彼らは、やろうと思えばわれわれの何倍も払うことができる。それが、短期的にはペイしなくても、仕事が集まってくれば採算が合うようになってくる」

「しかし、それは日本が世界に門戸を開く以上仕方がないことだろう。もっとも、ダンピングをやられたら困るなぁ。独禁法かなんかでなんとかならないかなぁ」

「無理だろう。反対に、そういう競争を独禁法は奨励しているのだ、と言われるだろう。それによって、一般消費者には安いリーガルサービスが提供される。今まで、弁護士という国家資格と新規参入の制限によって守られてきた規制業種が自由競争にさらされるわけだ。世の中の趨勢からしてこれは止められないし、止める理由もないだろう」

「法律事務所が外資に支配されるようになったら、日本の国益自体が危うくなるんじゃあないか。経済戦争の重要な場面で日本企業を守るものがいなくなったらどうする。そのためにもわれわれは日本人がコントロールする大事務所として頑張るべきじゃあないのか」

「その考えは古いよ。黒田先生。今現在、日本の大企業は、重大案件をわれわれに依頼してきてはいないよ。国内の案件は彼らの優秀な法務スタッフが処理できるし、海外案件については、直接外国の法律事務所に依頼してるさ。外国の法律事務所は、報酬をふんだくるところはあるかもしれないけれど、日本企業の不利益になるような仕事をしているという話は聞かない。弁護士というのは、依頼者には忠実だが、国や民族に対して忠誠を誓っているわけではない。それは、第二次世界大戦の戦犯を裁いた極東裁判でアメリカの弁護士が、日本の戦犯を誠心誠意弁護したことからみても明らかだろう」

「理屈からすればそうかもしれないけれど、法律っていうのは大きな力があるからなぁ……会計事務所が外資に占領されたというのとはわけが違うんだ。今までの日本は官僚が規制を楯にとって日本を支配してきた。その規制が緩和されるということは、それだけ私(わたし)の領域が増えるということで、そこを支配するのは法律なんだ。だから、これからの日本は、お上の指示に従って行動するのではなくて、各私人(しじん)が法律に従って動いていく世の中になるのだ。その交通整理をするのがわれわれ弁護士だから、それが全部外人になってしまったらおかしいだろう。お巡りさんが外人ばっかりの国なんてないだろう」

「規制緩和の話と法律の役割が増大してくるということは、そのとおりかもしれない。でも、交通整理をするのが外人だというのは違うよ。交通整理をするのは、あくまでわれわれ、日本国から資格を与えられた弁護士で、ただ、その弁護士が外国の法律事務所に所属しているというだけだよ。どこに所属しようとも、われわれは、社会正義と基本的人権のために仕事をするわけで、金を払ってくれる奴に尾っぽを振るわけじゃない」

「じゃあ、金を払ってくれる奴が不正なことを指示したらどうする?辞めるのか?辞めて食っていけるのか?」

「それは日本人の経営する法律事務所に居たって同じことさ。ちょっと話が抽象的になってきたようだから軌道修正するが、私が言いたいのは、こういう情勢の下でわれわれがどうすべきかということなのだよ。つまり、外国法律事務所が大きな勢力を持つことが予想される場合に、われわれはそれに抵抗し続けるのか、それとも、それを利用するのかというところなのだ。

 まず抵抗する場合を考えてみよう。外国法律事務所は優秀な若いバイリンガルの日本人弁護士を雇用したいと考える。それを提供できるのはわれわれ渉外法律事務所だ。特に、留学が済んだばかりの連中というのが彼らにとっては一番魅力的だ。それは、反対に、われわれにとっては一番打撃が大きいということになる。何れ、彼らはもっと若い層も採り、自分たちで留学のアレンジをするだろう。われわれの事務所からは若い弁護士がいなくなり、じり貧になっていく。これと並行して価格競争も迫られるだろう。そこで負ければアウトだ。そこで何とか生き残れたとしても、われわれは人を失い、クライアントも失い、どんどん小さくなっていくだろう。そんな事務所は外国法律事務所からみても、既に魅力はなくなっている。

 今度は、これをチャンスと捉えて、最大限に利用する場合を考えてみよう。外国法律事務所は、いくら資金力があっても、それだけでクライアントを取れるわけではない。若い弁護士を採ったからといって、それでクライアントが増えるわけではない。弁護士の宣伝・広告は、弁護士会の規制で制限されているから、価格競争をおおっぴらに仕掛けるわけにはいかない。そうなると、できるのは、セミナーの開催とか、本の出版で、名前を浸透させていくという地道な方法しかないことになる。そのような、まどろっこしい方法では満足しない外国法律事務所は、当然M&Aを考えるだろう。定着した優良クライアントを持っている事務所を弁護士ごと買収するというのは一番効率的な方法だ。われわれのところにそのような話がくるというのも、必然的な成り行きなんだよ。そして、他の日本の大事務所にも同じようなオファーがなされない理由もない。ただ、われわれのような大きな事務所を買える資力のある外国法律事務所は限られているから、このチャンスを逃したら、もう一度同じようないい話がくるという保証はない。

 私が、今の時点でこの話に乗った方がいいと思う理由は、こちらにまだバーゲニングパワーがあるからなんだ。われわれの事務所は、まだ人やクライアントを取られるといった意味で切り崩されてはいないし、内部的にはいろいろ問題はあるかもしれないが、外からは急成長した優良事務所に見えるはずだ。要するにわれわれには高い商品価値があるわけだから、それを売る際にはいろいろな条件をつけることができるはずだ。買い手の法律事務所のパートナーになることは一つだが、他にも経済的な条件や、権限についても、いろいろな要求が出せると思う。うまくやれば、われわれは何も失うことなくワールドワイドな活躍の場が得られるかもしれない」

 

 黒田は黙って茶そばを食べていた。料理にはほとんど手をつけず、そのかわり、空になった徳利が何本も並んでいた。

「寺本さんは話がうまいから、うまく反論ができないんだが、感情的な反発と言われても構わないけれど、どうしても嫌な点が一つある」

「何?」

「買収されたら事務所の名前が変わるだろう。寺本&黒田ではなくなってしまうよね」

「それは仕方がないだろう」

「寺本さんもご存知のとおり、俺の親父は錦糸町の駅の近くで自転車屋をやっている。黒田自転車店というウス汚れた看板が掛かっている、小さな自転車屋だけれど、あの店は俺の親父が戦後のどさくさに紛れて手に入れて、それ以来ずっとあそこで商売をしているんだよ。親父には事業の才覚はないから、発展することもないが、それなりに近所の人達には喜ばれている。

 親父はあの店を俺に継がせたかったんだよ。でも、俺は弁護士になってしまった。俺の兄弟はみんな女で、嫁に行ってしまったから、誰も後を継がない。親父も年だから、今あの店の番頭をやっている奴に店を譲ろうと思っている。そうすれば、店の名前も変わるんだ。もう黒田自転車店というのはなくなってしまう。

 俺が弁護士に成りたての頃、親父と、自転車屋の後を継ぐことで話をしたことがある。その時俺は、自転車屋の後は継がないが必ず黒田法律事務所を作って黒田の名前は永久に残すよ、と約束したんだ。今の事務所で俺の名前が2番目で、親父はそれがちょっと気に入らないようだけれど、一応約束は果たしたつもりでいる。だから、俺は黒田の名前を消すわけにはいかないんだよ」

 黒田は、涙を拭うかのように、おしぼりで目の辺りを拭いた。隣の部屋の客はもう帰ったようで、静寂が寺本と黒田を重く包んでいた。

 

 数日のうちに、T&K買収の話が寺本に持ち込まれ黒田がそれに反対している、という噂が立ち、事務所の中を駆けめぐった。この噂は、黒田自身が意図的に流したものだ、という人もいたが、その真偽は定かではない。




 5月12日、唐島監督および唐島プロダクションを共同原告とし、ハーキュリーズピクチャーズを被告とする訴訟が東京地方裁判所に提起された。訴状は添付書類である米国訴訟の訴状およびその和訳文を加えると100頁以上になった。

 この訴訟を提起するにつき、最後まで問題となったのは、訴状の送達の問題だった。日本国内に被告がいる場合には、訴状は郵送により送達される。しかし、被告が外国にいる場合には、郵送は許されず、国際条約で定められた複雑なルートで訴状は被告に届けられる。この手続きに3ヶ月以上の期間が必要となるのである。希花達はこの期間を短縮できないか、いろいろと調べたが、うまい方法は見つからなかった。結局、君原のアイディアで、英訳文をつけた訴状をハーキュリーズピクチャーズとその代理人であるSH&Gにクーリエで送りつけることにした。君原の期待するところは、ハーキュリーズピクチャーズが訴訟の決着を急いでいるのならば、訴状の送達を待つことなく、積極的に応訴してくるのではないかということであった。

 訴状は午前中に東京地方裁判所に提出されたが、午後になると新聞社等から君原へ電話が入ってくるようになった。訴訟提起についてはマスコミには一切話していなかったのだが、このように話題性のある訴訟の訴状は司法記者クラブに回されるそうで、次から次へと電話が入ってきた。

 希花は、訴訟の準備に2週間まるまる取られてしまったので、その間溜まった仕事の山を見てうんざりしていた。急ぎの仕事は断るようにしていたので、今日明日中に提出する必要のあるものはなかったが、放っておいていいというものでもなかった。パートナーは自分の仕事のことしか考えていないから、他のパートナーの仕事を理由に自分の仕事が後回しにされることは我慢してくれなかった。

 希花は、着実に仕事をこなし期限に遅れないことは定評があったが、それでもやる気が起きない時はある。昨日までの仕事の疲労と、一種の達成感があって、今日ぐらいは街に出て飲みたい気分だった。手帳を開いて、誰に電話をしようかと考えていた時に電話が鳴った。

「滝川さん。急ぎの仕事がないんだったら、つきあってくれないか。もう、新聞記者のお相手をするのはイヤになったので逃げ出したいんだよ」

 君原からの内線電話だった。

 これって2人で行くってことなのかしら、それとも、訴訟の準備を手伝ってくれた人全員と行くってことかしら。希花は考えた。大きな仕事が終わったあと、君原は、慰労会と称して仕事に関わった全員を食事に招待してくれることがあった。でも、そういう時は、予め全員のスケジュールを調整して、予約を取ってから行くので、今日のように突然の話ではなかった。みんなではなくて弁護士だけということもあるかもしれない。そうすると伊藤先生が参加することになるわけだけど、彼は朝からいない。確か、伊藤先生は労働事件の打ち合わせで大阪に行っていて、最終の新幹線で帰ってくると言っていたんだ……そうか、やっぱり2人なんだ。希花は机の引き出しから手鏡を取り出して、入念に顔をチェックした。お化粧を直して、歯磨きをしよう、と思った。

 程なく君原からまた内線電話が入り、赤坂プリンスホテルのステーキレストランで会おう、と言った。そこは、君原がクライアントの接待によく使うレストランで、希花も1、2度行ったことがあった。やはり2人でオフィスを出るのは問題があるから、この方がいいわ、と希花は思った。

 

 ステーキレストランは赤坂プリンスホテルの別館の中にあったが、新館のロビーからは一番遠いところにあり、長い廊下を歩いていく必要がある。いつ行ってもすいているが、ホテルのレストランだから経営の心配はしないでもいいのかもしれない。このレストランの特徴は、半分隔離された8角形の個室のような席が、いくつもあることで、客は円形のテーブルを前に、壁を背にして、2人並んで座ることになる。男女で来た場合にはこれがとても都合がいいのだが、男同士で来たら様にならないのではないか、と希花は思った。

 レストランには君原はまだ着いておらず、希花は君原の好きな一番奥のブースに案内された。

 このブースからは、オープンスペースにある普通のテーブル席が対角線上に目隠しのプラントの向こうに見えるが、そこの席は空いていて、たぶん一晩中誰も来ないだろう。ブースの外で希花の目に入るのはその一画だけで、したがって、希花の姿もレストランの他の角度からは見えないことになる。だから、あそこの席に誰も座らなければ、ここは個室と同じなんだ、と希花は思った。君原は何故このレストランを選んだのだろう。何か下心があるのだろうか。希花がちょっと危ない想像を始めた時に、君原の声がした。

「ごめん。日経から電話があって、ちょっと長くなってしまった」

 君原は伊勢海老の網焼きのついたステーキのコースを2人分注文し、ワインは、シャトー・ラグランジュを注文した。

「訴状の件は有り難う。これからもよろしく頼むよ」

「お仕事ですから、仕方がないわ」

「……」

「2人だけで来ちゃってよかったのかしら。みんなに見つかったらヒンシュクよ」

「いや、今日は疲れていたから、気楽な人と飲みたかったのだ」

「えっ、私って、気楽じゃないわよ。文句が多いし、楯突くし」

「そういうとこがいいんだよ。遠慮しないし、思ったことをそのまま言うし」

「それじゃあ、馬鹿みたいじゃない」

「そういう見方もある」

「ひど〜い。じゃあ、今日は、馬鹿じゃないところを見せてあげるわ」

 希花は他のパートナーにはこんな調子では話をしない。ちゃんと相手を見て話をする。お愛想も言えば、おべっかも使う。愛想を使ってパートナーを喜ばすのは簡単だったが、君原にはそのような手は通じなかった。

 希花は中学の時に父を失っていたので、18も年上の君原に父の面影を求めていたのかもしれない。君原と話をしていると、つい甘えてしまい、アソシエイトとパートナーの関係ということを忘れてしまう。

 

「うちの事務所を買収するっていう話、あれ本当なの?アソシエイトの間では、あの話で持ちきりよ」

「僕の方もそれ以上の情報はない。寺本先生のところにアメリカの大事務所からそういう話があって、黒田先生に話をしたけれど、黒田先生はそれを拒否した、ということだ。でも、最近パートナー会議は開かれていないし、2人と直接話はしていないから、確かなところは分からない」

「黒田先生がリークしたっていう噂もあるけど、そうなの?黒田先生はこの話を潰すためにリークしたんでしょうね」

「黒田先生がこの話を潰そうとするっていうのは分かるね。T&Kの支配権は、今は、寺本先生から黒田先生に移っているし、黒田先生には自分なりの理想があって、そこに近づきつつあると、少なくとも本人は思っているようだから」

「でも、事務所の財政状態は悪いんでしょう。白石先生も、仕事がなくて生活していけないので辞めるっていう噂だし」

「まあ、事務所の財政状態といっても、会社と違って事務所自体の会計はないからそこら辺はよく分からないんだけれど、個々のパートナーが苦しいっていうのは事実だな。ご承知のとおり、パートナーが毎月の経費を拠出金という形で払ってそれで事務所は回っていくんだから、自転車操業のようなものだ。その拠出金が出てこなければ、資本金というのは無いから、突然バタリと倒れるっていうことはある」

「倒れちゃったらアソシエイトはどうなるの?弁護士の数は増えてるし、仕事は無くなっているから、どこも雇ってくれるところなんてないわ」

「すぐ倒れるっていうことはないと思うけど、一応考えておいた方がいいな。まあ、君なんかまだ若いから、お金にこだわらなければどこかに潜り込むことはできるけど、クライアントのついていないパートナーというのが悲劇なんだな。特に、渉外事件ばかりやっていると、簡単な債権回収の事件をやれと言われても、とまどってしまうし、潰しがきかないんだよね。渉外が嫌われる所以だね」

「じゃあ、白石先生なんて、まだいい方だったのね」

「いつまでUNCITRALにいられるか分からないけれど、とにかく生活できるんだからいいんじゃないか。もっとも、パートナー合宿ではいろいろ言われたけれどね」

「白石先生、合宿ではみんなにいじめられたんですって?君原先生、お友達なのに助けてあげなかったの?」

「別にお友達って程ではないけど……それなりに助けようとはしたんだが、難しいんだな……」

「力が無いから?」

「力は無いかもしれないが、そういう問題じゃなくて、空気とか流れとかそういうもんなのだ」

「なあに、それ?」

「まあ考えてもご覧よ。御本人と一応僕は除くとして、残りの15人の弁護士がみんな白石さんを非難するというのは壮観なものだ。いじめの原点を見るような思いだったよ」

「でも、先生は、自称ディベートの達人なんだから、相手が何人いようが、その技術で論破できないの?」

「ああいう場面は理屈じゃないんだよ。同じ事をみんなが何回も言えば、それがどんなにおかしなことでも真実のように思えてきてしまう。一種のマインドコントロールだな」

「……」

「つまり、説明するのが難しいんだけど、潮の流れに逆らって泳いでいるみたいなものなんだ。潮の流れに逆らうと、いくら手足を動かしても一つも進まないってことがあるでしょ。ちょうどあんな感じなんだ。いくら喋っても人の心が動かない。言葉が全く無力になっていると感じるのだ」

「ふぅん」

「白石さんの場合を例に取れば、白石さんを非難するというのが潮の流れなのだ。その流れに乗って、みんな1人1人がそれぞれ非難の言葉を浴びせる。その繰り返しによって、潮の流れはどんどん強まっていくのだ。1人1人は、大したことを言ってないつもりでも、全体としてはとてつもない破壊力を持った波ができてくる。それに対抗するというのは並大抵なことじゃない」

「いつも疑問に思うんだけど、いじめって、なんなのかしら。マスコミなんかで取り上げられるのは、何も悪いことをしていない子供を、他の子供が寄ってたかって攻撃する。そういうのがいじめだっていうんだけど……じゃあ、そのいじめられる子供が何か悪いことをしてたらどうなのかしら。そもそも、何が悪いことで何がいいことかって誰が決めるの?」

「弁護士的な発想だね。いじめられている子供に悪いところがあったとしても、必ずそれは弁護できるはずだ。というよりも、むしろ、ある行為について、そのことがいいという議論と悪いという議論両方が必ず成り立つはずなのだ。優秀な弁護士は、そのどちら側についても、相手側を論破できる自信がある」

「そうなの。だから、もともといいとか、悪いとかというのは無いんじゃないかと思うの。何も悪いことをしていないのにいじめられるとか、悪いことをしているから制裁されるべきだとか、というのはとてもルーズなものの言い方だと思うの」

「おっしゃるとおり。マスコミは、まず、誰がいい奴か、誰が悪い奴かを自分で決めておいて、いい奴を叩くのはいじめ、悪い奴を叩くのは正義、というふうに断定するのだ。これはマスコミだけのことではなくて、そのようなマスコミを望んでいるわれわれ一般の読者や視聴者もそうなのかもしれない。弁護士だって、法廷に行けば、正義というのが相対的なものだ、というのは分かっているのだが、日常生活においては普通の人だよね」

「そう。裁判では、何が真実かを決められるのは裁判官だけで、弁護士は、両方の側から、裁判官がその判断をするための材料を集めて、一番食べやすいような形に料理して差し出すのよね。その、材料の探し方や、お料理の仕方については、訴訟法というとても厳格な手続きの法律があって、それに従って料理されたものしか裁判官は食べられない。そうやって、長い時間と手間をかけてやっと真実が決定される。それに比べて、マスコミっていうのはとてもイージーだと思う。誰かが逮捕されれば勿論のことだし、その前だって、捜査機関が怪しいってリークすれば、それだけで真っ黒だと思ってしまう」

「そうそう、それで一斉に攻撃する。僕はさぁ、この一斉にやるっていいうのが正にいじめだと思うんだよね。法廷では、必ず自分を守ってくれる弁護士がいる、それに反して、起訴もされていない段階で、マスコミの集中攻撃を受けるっていうのはおかしいんじゃないかと思う。マスコミだって、ちょっと頭を使えば、攻撃されている人間にそれなりの言い分があるということはすぐに分かるはずなのだ。しかし、それを報道することはほとんどない。それをやるのは、攻撃が一段落して、読者や視聴者が攻撃自体に飽きて他のものを求めた時なのだ。大抵、その時には、攻撃されていた人間はズタズタになっていて、もう手遅れの場合が多いんだけど」

「どうしてそうなっちゃうのかしら?何故マスコミは、物事の2つの面を公平に報道できないのかしら?」

「それがさっき言った、潮の流れなんだと思うよ。マスコミは、自分でそういう潮の流れを作り出しているんだけど、途中で止められなくなる。止める気も無いのかも知れないけどね。悪い奴を叩くのは正義だ、という考えが根本にあるからね」

「それが間違いなのかしら?」

「いやあ、悪い奴を叩くというのはともかく、一斉に叩くというのが問題なのだ。どんな悪い奴だって弁護すべきところはある。それは弁護士でなくとも分かるはずだ。五分五分か七三か分からないけれど、必ず何割か弁護すべきところがあるはずなのだ。それを無視して100%悪いように叩くというのはそれ自体犯罪的だと思う。だからこう決めればいいんだよ。相手が誰だろうが、どんな極悪人に見えようが、ほとんどの人間がその人を攻撃する側に回った場合には、それをいじめと定義すればいいのだ」

「そういえば、いじめという言葉は定義されないままに一人歩きしているみたいね。自殺者を出した学校の校長をマスコミがみんなで寄ってたかって非難して、結局自らいじめをやっているっていうこともあるもんね」

「イザヤベンダサンが言っていたように、満場一致の決議は無効だというユダヤの掟がここでも適用されるんじゃないか。全員が1人を非難するような事態というのは、理由はなんであれ、いじめとして扱うべきだと思うよ。特にそういう状態になった時には、人間の心理状態は普通ではなくなっていると思う。1人を全員で寄ってたかって攻撃することには、サディスティックな快感があるんだよ」

 希花は、君原の論理はとってもセクシーだと思った。頭の中のモヤモヤしていたものが、鋭利な刃物で切り裂かれていって、そこに、キラキラ輝く宝石のようなものが見えてくる。君原の口調には不思議なリズムがあって、それに身を委ねていると、自分の着ているものが1枚1枚はぎ取られていくような気持ちがした。全然ロマンチックな言葉も使わないのにこんな気持ちにさせるなんて、ずるい、と希花は思った。

 

 ステーキは薄かったけれどおいしかった。レストランには数組の客しか入っていないようで、時々ウエイターが通り過ぎる他はほとんど人影が無かった。厨房で食器のふれ合う音がかすかに聞こえるだけで、都心のホテルにいることを忘れてしまいそうだった。

「君原先生は、人をいじめたことがある?」

「僕は、昔から、いじめられっ子だったから、いじめられた経験はたくさんあるな。子供の頃は体も弱かったから、いじめるような立場にはならなかったね。学生運動をやっていた時は、喧嘩はしたけど、いつも1人で戦っていたような気がする」

「私はね……小さい頃から女王様みたいだったから、チョットはいじめもしたみたい。でもそんなにひどいいじめはしたことはない……一つを除いては」

「何?」

「あまり言いたくないんだけど……」希花は何故こんなことを言い出したのかと、とまどっていた。希花は、自分のプライベートなことは人に言わない主義で、とりわけ、自分の心の中で整理がついていないことは親友にも言わなかった。このレストランの雰囲気のせいなのか、ワインを飲み過ぎたためなのか、心を裸にして、君原に見てもらいたいという欲求にかられていた。

「私は小学校2年から中学1年までアメリカにいたでしょう」と希花は話し出した。

「私がいたのは、コロラド州のデンバー。人口は40万ぐらいかな。日本人はそんなにいなくて、勿論日本人学校なんて無かった。でも、日本人は同じ地区にかたまって住んでいて、私達がいたところには20家族ぐらいがいたわ。小学校にはいつも15、6人の日本人の生徒がいた。

 ああいう所の日本人社会というのは、1つの小宇宙というか、宇宙船というか、日本という母船を離れて漂っている小型宇宙船。乗組員は時々交代する。母船から来る人もいれば、帰って行く人もいる。日本で流れている時間とは、別な時間が流れている、そんな社会だったの。

 私はその時小学校6年で、もう1人の6年生とあと5年生2人、4人の女の子でグループを作っていたの。小学校には、まだ他にも日本人の生徒がいたけど、2年とか3年で相手にならなかった。6年生の2学期に、日本から女の子が私のクラスに入ってきた。素直そうで、眼が綺麗で……。彼女は英語が全然できなかったから、先生が私を彼女の教育係に指名したの。私はその時はもうアメリカに来てから5年目だったから、英語はペラペラだったし、成績もクラスで一番だった。

 最初の2日間はいろいろと教えてあげたのよ。学校の中を案内したり、近くのスーパーに行って、ソフトクリームを一緒に食べたり。でもね……3日目になって、おどおどして自分についてくるその子に突然嫌悪感を感じたの。あの時の気持は、自分でもよく分からないんだけど、突然口をききたくなくなった。彼女の口のきき方、態度、顔の表情、歩き方、すべて嫌いになったの。彼女は、何も分からないから私について来るんだけど、私はじゃけんに扱ったの。彼女と話をするのが嫌になっていたから、教えることも必要最小限の言葉で伝えたし、何が宿題になっているかもいい加減にしか言わなかった。彼女は、宿題をやってこなかったり、言われていないことをやってきたりして、恥をかいた。私は自分のせいにされないように、彼女の方が悪いんだとみんなに言ったわ。私がそんな態度を取っているから、他の日本人の生徒も彼女とつきあわなくなった。日本人のコミュニティーというのは、雪に閉ざされた小さな村のようなものだったから、その中で孤立するっていうことは、とても耐えられないと思う」

 

 希花は後悔していた。何故この話を始めてしまったのだろう。1つ1つの出来事が昨日のことのように思い出され、胸が締めつけられる思いだった。でも、希花は、ワインを1口飲んで続けた。

「3月9日は私の誕生日なの。グループの、4人の女の子でバースデーケーキを食べているところに、彼女が来たの。大きな花束を持って。青い顔で、震えながら、私に『お誕生日おめでとう』というの。私達4人は無言で見ていた。そのみじめな姿を見ていたら、自分の中に悪魔がいるとしか思えないほど残忍な気持ちが沸いてきた。あの気持ちは言葉では言い表わせないわ。

 私は、にっこり笑って花束を受け取ったの。その時、その子は、ホッとしたというか、緊張感が一気に解消されたような笑顔を見せた。雪解けの小川のような表情だった。

 私は、花束を受け取って、3人の女の子の方に戻っていった。3人は、私を見つめていて、私が何を考えているのか探ろうとしていた。脇のテーブルの上に私へのプレゼントが積み上げられていた。そこに近づいたから花をそこに置くのかと思ったのかもしれない。でも私は、そこにあった、プレゼントを開けるために使ったハサミで、もらった花束を花の下から切っていったの。ザクッザクッて。それを見ていた彼女の表情は、一生忘れられない……彼女は、最初は、私が何をしているか意味が分からないかのように、じっと私の手先を見ていたわ。花が全部切り落とされて、私の手の中に茎だけが残ったところで、彼女は小さな悲鳴を上げてドアに向かって走った。鍵のかかっているドアをどうやって開けたらいいか分からないで、拳から血が出るほど叩いていた。母が飛んできてドアを開けてあげたわ。あとで母に思いっきりぶたれた。

 それから、あの子は学校に来なくなった。お母さんと一緒に日本に帰ったと聞いたけど、確かめたわけではないわ。私達のグループの中でも、その子のことは、それから誰も口にしなかった。でも、私はあのことは忘れられないの。今でも思い出しては、ごめんなさいっていうけど、そんなことを言ってもしょうがないわ」

 希花の固くワイングラスを握りしめた手が白くなっていた。

「あの子の笑顔を見たとき、一瞬やめようかと思ったの。『ありがとう』って言おうという気持ちもあったの。でも、それができなかった。反対のことをしてしまった。もっとも恐ろしいこと……悪魔のようなことを……」

 希花は泣いていた。真っ直ぐ前を向いて、眼を大きく見開いて。涙は頬を伝わって落ち、テーブルクロスにしみ込んでいった。

 君原の右手が希花の肩を抱き、ハンカチが差し出された。希花は、涙を拭き、「私が嫌いになった?」と聞いた。君原は、何も答えずに、希花を抱き寄せ唇を合わせた。




 黒田が買収に反対していることは、寺本から川上、川上からキング、という形で伝えられた。黒田の反応はキングも半ば予想していたところではあったが、これで黒田の秘密のファイルの重要性が一気に増した。キングは川上に対して、危険を冒しても黒田のファイルを盗み出せ、と命令した。

 川上としても怠けていたわけではないが、なかなかチャンスがなかった。黒田の部門は忙しく、朝8時過ぎから夜12時過ぎまで誰か人がいた。12時を過ぎてもアソシエイトは誰かが残っていたので、うかつに黒田の部屋に入り込むわけにはいかなかった。そもそも、あまり仕事のない川上が、夜遅く残っていること自体不審に思われる。

 5月19日の金曜日は、アソシエイトのボーリング大会があるということで、大半のアソシエイトは7時過ぎには事務所を出るはずだった。アソシエイトがいなくなれば、パートナーも12時過ぎまで残る者は滅多にいなかったので、川上はこの日を決行の日とした。

川上は、いつもは6時過ぎに事務所を出ていたのだが、その日はレポートを書く必要があるといって遅くまで残っていた。予定通り7時過ぎには大半のアソシエイトが事務所を出て行った。希花をはじめ、まだ数人のアソシエイトが残っていたが、それ程忙しそうにしている者はいなかった。パートナーは9時頃になると半分以上が帰宅し、事務所内は急に静かになった。特に、寺本のオフィスのある26階の東半分は真っ暗になった。

川上は、9時半過ぎに机の上を片付け、まだ残っていた事務長の川口に挨拶をしてから、東側の出口に向かった。しかし、川上は、出口へは直接行かず、ファイルを返すふりをしてファイルキャビネットの裏側に回った。そして、寺本の部屋の隣の隣にある空き部屋に忍び込んだ。その部屋は、T&Kが提携している海外の法律事務所の弁護士が日本を訪れた際に一時的に使う執務室だった。部屋の大きさは他のパートナーの部屋と変わらなかったが、普通のパートナーの机よりも一回り大きく高そうな机が壁際に置かれていた。川上はその机の足が収まる部分に体を丸くして入り込んだ。少し窮屈だが、がまんできないほどではなかった。そうして、椅子を引き寄せると、わざわざ覗き込まなければ、誰にも分からないはずだった。川上は、疲れが溜まっていたので、睡魔に勝てなかった。

 

 川上はドアの開く音で眼を覚ました。時計を見ると、11時少し前だった。人が部屋の中に入って来る音がした。2人の足音だった。

「ここでするの?」と女の声がした。希花の声だった。

「イヤ?」と男の声がした。君原の声だった。

「イヤじゃない」と希花が答えた。

 それから2人の間には会話はなかったが、2人の息づかいを聞いているだけで、何をしているかはよく分かった。川上は、机の下を覗き込まれないかと気が気ではなかったが、10分もすると2人は出ていった。川上の情報収集にとっては、予想外の収穫があったわけだ。

 12時半になったので、川上は音を立てないように部屋を出て、人の気配を探った。電気は完全に消えていて誰もいないようだった。それでも、さっきのように、暗闇で何かをしている2人がいないとも限らなかったので、川上は26階の全部の部屋をチェックした。誰もいないことを確認したあとで、川上は黒田の部屋に忍び込み、ファイルを探した。その時も、部屋の電気はつけずに小さなライトを使った。「弁護士会」と表紙に書かれたファイルはすぐ見つかり、西城の言ったとおり、2、3枚は弁護士会の書類だったが、その下にはバハマのエージェントとのEメールの束があった。川上は、内容を素早くチェックし、必要と思われる部分をキングの指定した番号にファックスした。そして、ファイルを元の場所に戻し、自分も元いた部屋に戻った。これで、朝まで隠れていて、ビルの正面のエントランスが開いたときに正々堂々と帰ればいいのだった。明日は土曜日で事務所は休みなので、早朝なら誰とも会うおそれはなかった。




 眠れぬままに、川上は、26階の窓から東京の夜景を眺めていた。午前2時を過ぎると、新宿の超高層ビルはほとんど明かりが消え、黒い墓石のように見えた。しかし、その足元はまだ明るく、特に歌舞伎町の辺りは、光のドームのように、夜空に浮かび上がって見えた。

 川上は、自分が子供時代を過ごした場所を、このような形で眺めていることに、運命の不思議を感じた。帰るべき祖国を持たず、祖国でない国に郷愁を感じる自分とは一体何なんだろう。川上は祖父から聞いた話を思い出していた。

 

 クリスティーヌ川上は本名を李華美(リファミ)といい、在日韓国人三世だった。祖父の李英淳(リヨンスン)は朝鮮半島南西部の全羅南道(チョルラナムド)の小作農の7人兄弟の末っ子として生まれた。

 朝鮮は、1910年の日韓併合により日本の一部となったが、当初は、朝鮮から日本へ来る者よりも、日本から朝鮮へ渡っていく者の方がはるかに多かった。新天地で一旗挙げようという日本人が何万人と朝鮮半島に押し寄せた。日本政府もこれを助けるかのように、「土地調査事業」と称して朝鮮人の土地を取り上げ、先祖代々の土地から追い出された朝鮮人は、やむを得ず日本に渡航した。

 李英淳は、兄で4男の李在淳(リジェスン)に従って、対馬海峡を越え下関に上陸し、そこから夜汽車にゆられて神戸に行った。在淳20才、英淳14才の時であった。2人は神戸をはじめとして関西地区で土方、人夫のたぐいの仕事をしていたが、関東の方で北総鉄道(現在の東武野田線)の敷設工事が始まったことを知り、2人して千葉県へやってきた。

 2人は北総鉄道の塚田駅近くの飯場に住み、毎日汗水垂らして土を掘り、トロッコを押していた。1923年9月1日の正午頃、大きな地震があり、やがて東京が壊滅的な被害を受けたという情報が流れてきた。次の日には船橋小学校に1000人を越える被災者が東京から避難してきた。3日目には船橋近辺への被災者の数は5〜6万人に達した。

 船橋小学校に避難してきた朝鮮人の1人が爆弾を持っているという噂が広がった。のちにこれは砲弾の模型の焼けたものであることが判明したが、噂は訂正されず、船橋周辺に伝わった。同時に、東京から来た避難民のうちに「東京の火災は朝鮮人が火をつけた」とか「朝鮮人が船で攻めてくる」というデマを流す者がおり、それらは、人から人へ伝わるうちに、拡大、補強され、疑いようのない事実と取られるようになった。

 船橋の周辺では各村で自警団が組織され、鳶口や竹槍を持った若者が、朝鮮人の来襲に備えていた。9月3日の午後になり、突然、塚田村の自警団が英淳や在淳が居る飯場にやって来て、そこにいた朝鮮人を針金で縛り始めた。結局、女子供も含めて、53人の朝鮮人が針金で後ろ手に縛られ、繋がれたまま船橋市へ行進させられることになった。

 塚田村の自警団は船橋警察署に朝鮮人を連行しようとしていた。ところが、船橋警察署の前辺りまで来たところで、船橋の自警団や、東京から来た避難民の集団に遭遇した。警鐘が乱打され、500人近い群衆が手に手に竹槍や鳶口や日本刀を持って押し寄せてきた。塚田村の自警団はしばらく押し問答をしていたが、やがて引き上げ、朝鮮人は、殺気に満ちた船橋の自警団や避難民の一団に包囲された。

 船橋周辺では既に朝鮮人の虐殺が始まっており、小さな噂から発した流れは奔流となり、理性を呑み込み、誰も押し返すことのできない巨大な流れになっていた。群衆のそこここから「不逞鮮人を殺せ!」という声が上がり、敢えてそれを止めようとする者はいなかった。日本刀を持った、右翼風の男が「叩き切れ!」と叫ぶと同時に、四方八方から竹槍が突き出され、朝鮮人は針金で繋がれたまま将棋倒しになった。在淳は英淳の上に覆いかぶさり、全身に傷を負って死亡した。群衆の攻撃は最後の呻き声が無くなるまで続けられ、船橋警察署の前は文字どおり血の海となった。

 英淳は死体の山の一番下にいて、まだ生きていた。群衆が去り、夜も更けた頃に、死体の山をかき分けて這い出し、必死に逃走した。

 英淳は東京に移り住み靴屋で丁稚奉公を始めた。もともと器用で勤勉だったので、親方にも気に入られ、そこそこの生活ができるようになった。やがて、同じ全羅南道から来た女性と結婚し、華美の父、敬宰(キョンヂェ)が生まれた。

 

 英淳は、華美が15才の時に亡くなったが、華美は様々なことをこの祖父から教わった。英淳は、韓国人は自分の文化を守らなければいけないと言った。英淳によれば、文化というのは言葉であり、言葉の中にその民族の長い歴史が溶けて入っているのだ。華美が、他の大部分の在日韓国人三世と違って、韓国語がそれなりに話せるのは、祖父のおかげだった。華美は毎朝英淳と散歩をしながら韓国語を話すのを楽しみにしていた。

 もう一つ祖父英淳が教えてくれたのがテコンドーだった。英淳は、民族が自分の文化を守るには力が必要だ、と言った。力がなければ、より大きなものに押し潰されてしまう。関東大震災の時の朝鮮人虐殺から英淳が得た教訓は、人間は、みな敵になりうるということだった。特に、異民族の中に暮らしている場合には、何かのきっかけで、民族間の敵対感情が発生することがある。そうなれば、朝起きてみれば、周り中が敵、ということもあり得る。そのような事態から、完全に自分の身を守ることは不可能だが、自分の身は自分で守るという精神は大事だ、と英淳は言った。

 テコンドーは、96年のIOC執行委員会の決議により、2000年のシドニーオリンピックから正式種目として行われることが決定した。しかし、テコンドーが、その形を整えたのは、そう古い話ではない。テコンドーは55年に日本の空手の技術を朝鮮の古武道に導入することにより生み出された、とされている。英淳は、その前から自ら独自に、朝鮮古武道の研究をしていたが、66年に国際テコンドー協会(ITF)が創設されてからは、ITFに協力してきた。82年には、日本国際テコンドー協会(JITF)が発足し、各地に道場ができるようになった。華美は小学校に上がる前から、祖父の手ほどきでテコンドーの技を修得していた。近くに道場ができてからは、そこの第1期生として技を磨いた。

 華美が生まれる前に、祖父英淳は西新宿6丁目に小さな店舗を借り靴屋を始めた。家族全員が仕事に精を出して、それなりに事業はうまくいっていた。85年に英淳は79才で亡くなり、事業は父の手に移った。

 西新宿6丁目は地上げの激しい場所であった。巨大ビルを建てる計画があるとかで、不動産業者が入れ替わり立ち替わり、立ち退きを要請してきた。祖父英淳は、そのような話には耳を貸さなかったが、父敬宰は、もともとあまり働くのが好きではなかったので、心を動かされた。

 祖父が死んでから2年も経たないうちに、李一家は西新宿のその場所を立ち退くことになった。立ち退きの補償金として、多額の金銭が入るはずであったが、不動産屋は何かと理由を付けてそれを支払わず、敬宰は地元の有力者に調停を頼まざるを得なくなった。その有力者が話をした結果、金は払われることになったが、今度は、大層な金額をその有力者に取られることになってしまった。

 それまで真面目であった敬宰は、大金を手にすると賭事に走り、瞬く間に金を使い果たしてしまった。時を同じくして、華美の母はアメリカ人の愛人を作り、家庭は崩壊していった。ある日敬宰は家を出てそのまま帰ってこなかった。しばらくして、母の愛人であるアメリカ人が家に住み着き、母はアメリカに行ってその男と結婚すると言い出した。

 

 87年の夏、華美は、母と14才の弟と3人でアメリカに待っている母の愛人のところへ飛び立った。しかし、サンディエゴでのその男との生活は長くは続かず、3ヶ月ほどして母はその男と別れ、遠い親戚を頼ってロサンゼルスの韓国人街へ行った。ロサンゼルスのコリアタウンは、北のサードストリート、南のピコブルバード、東のバーモントアベニュー、西のウェスタンアベニューに囲まれた広い地域で、ハングル文字が氾濫し、どこに行ってもキムチの匂いがする街だった。親戚の家は小さな食料品スーパーをやっていて、華美達はその家の2階の小さな部屋に親子3人で寝ることになった。

 数ヶ月後、突然父が現れ、弟を連れて日本に帰っていった。華美は、母と一緒に住みたかったわけではなかったが、アメリカという国にそれなりの魅力を感じていたので、日本に帰りたいとは思わなかった。しかし、コリアタウンでの華美の生活は楽ではなかった。来た当初は、朝5時から夜10時まで働かされ、学校にも行かせてもらえなかった。半年ほど経って、やっと夜間の語学学校に行けるようになった。

 はたから見ると変化のない退屈な生活が続いているようだったが、華美の英語と韓国語の能力はその間飛躍的に向上した。コリアタウンでは、英語を話す層と、韓国語を話す層とがはっきり別れていたが、華美は天性の語学の才能を活かして、両方の言語を修得していった。

 92年4月29日の午後、いわゆるロドニー・キング事件の評決があった。この事件は、スピード違反をした黒人ドライバーを白人警官数人が暴行し、そのシーンがビデオに撮られ、テレビでも放映されたという事件であった。しかし、この日、州裁判所で4人の白人警官に対する無罪の評決が下された。その直後、黒人街であるサウス・セントラル地区で発生した暴動が、ロサンゼルス全体に広がり、やがては米国全体を捲き込んだ大暴動に発展していった。

 

 その日、華美たちが世話になっていた親戚は、祭祀(チェサ)があるということで、午後から店を閉めてロサンゼルスの郊外にある親戚の家に行っていた。母も、友達のところへ行くと言って、出ていった。華美は1人残されたが、日頃の疲れがたまっていたので、昼食を食べてすぐ横になった。

 華美は窓の外から聞こえる叫び声で起こされた。外はもう暗くなっていて、かなり長い間眠っていたことに気が付いた。窓から外を見ると夥しい数の群衆がいた。それも韓国人ではなく、黒人や、ヒスパニックの普段見かけない顔だった。数人のヒスパニックが手にバットや棒を持ち、向かいのクリーニング店のガラス窓を壊していた。窓から顔を出してピコブルバードの方を見ると、何軒かの家が黒い煙を吐きながら燃えていた。華美は、何が起こったか分からなかったが、自分の身に危険が迫っていることははっきりと認識した。日頃の黒人やヒスパニックとの関係からして、韓国人がよく思われていないことは明らかだった。彼らも、韓国人も、アメリカ社会では差別されている民族だったが、悲しいことに、怒りは、差別している白人に向けられることはなく、差別されている者同士での争いになっていた。韓国人は勤勉で、商売も上手かったので、黒人やヒスパニックなど、他のマイノリティーから仕事を奪っていた。

 暴徒の内数人が窓から顔を出している華美を認め、道を渡ってスーパーの方に向かってきた。華美は、脱出することは不可能だと思い、部屋の中で武器になるものを探した。スーパーのレジには拳銃が隠してあったが、それを取りに行く暇は無かった。何も武器になりそうなものは無かったので、華美は、素手で戦うしかないと覚悟を決め、拳の破壊力を強めるためにハンカチを固く握りしめ、足技を使いやすくするために床に散らばっていた雑誌などを片付けた。

 程なく、ドアのノブを回す音がして、鍵が掛かっていることが分かると、体当たりをし始めた。嫌な音がしてドアが裂け、男が3人入ってきた。全員ヒスパニック系の顔をしていて、1人がナイフを持ち、1人はバットを持ち、もう1人は腰にピストルを差していた。ナイフを持った男が、女1人だと分かると、ナイフをテーブルの上に置き、薄ら笑いを浮かべながら近づいてきた。華美は壁に背を向けて立ち、眼で距離を計った。男の手が華美の肩にかかろうとしたとき、華美の右手が一瞬動き、男は眼を押さえて床に倒れ、「眼が見えない!眼が見えない!」と叫びながら床を這いずり回った。華美の2本の指が男の両目をえぐっていたのだ。これはテコンドーでは禁じ手だったが、この際仕方がない。

 2人の男は床を這いずり回っているもう1人を見て、何が起こったのか分からないようだったが、バットを持った方が、バットを床の上に置き、先の男がテーブルの上に残したナイフを取って突きかかってきた。華美は、軽く体をよけると、ナイフは壁に刺さり、男がそれを抜こうとしているところを膝蹴りで突き放した。相手が少し後ずさりしたところで、華美は相手の頭上に足を真っ直ぐ蹴り上げ、蹴り降ろした。踵が脳天にめり込み相手は昏倒した。テコンドーの代表的な技、チッキ(脳天蹴り)だ。

 3人目の男は一瞬のうちに2人が倒されたのを見て呆然としていたが、我に返ると腰のベルトに挟んだピストルをつかみ、華美に向けた。華美の体は一瞬のうちに宙に舞い、男のピストルを蹴り落とした。跳びティフリギ(跳び後ろ廻し蹴り)だ。しかし、華美は、着地したときに倒れている2番目の男の足につまづき、体勢を崩した。その一瞬を捉えて、ピストルを蹴り落とされた男は床にあったバットを取り華美に殴りかかった。華美は、それを避けきれず、したたかに後頭部を打たれ、意識が薄れていった。しかし、その最後の瞬間、東洋人の男が部屋に入ってきて、恐ろしく切れのいいヨプチャギ(横蹴り)でヒスパニックの男を倒すのが見えた。

 

 華美を救った男はロバート・パクといい、コリアタウンの自警団の隊長だった。普段はウィルシャーブルバードに面した焼き肉屋のオーナー兼店長をしていたが、もう1つの顔はコリアタウン最大のギャングの幹部だった。ロサンゼルスには各民族のギャング団がいて勢力争いをしていた。最近は、アジア系ギャングが勢力を増しており、中国、日本、ベトナムが大きな勢力を持っていた。韓国系ギャングは、人数は多かったがまとまりが悪く、組織として争った場合には弱かった。

 華美とロバート・パクは、そのうち愛し合うようになり、華美はロバートの焼き肉屋で仕事をするようになった。ロバートは2つの顔を持っていたので、必然的に、華美も裏の世界を知るようになった。ロバートは華美の武道の腕前を高く評価していたが、ギャング同士の抗争の場に華美を参加させることは決してせず、幹部間の交渉の場にのみ同席させた。

 ロバートにとって好都合だったのは、華美が日本語のネイティブ・スピーカーであることだった。英語と韓国語と日本語が話せる者は、コリアタウン全体を見てもそう多くはなかった。

 華美とロバートとの幸せな日々は続かず、1年後、ロバートは、中国人ギャングとの抗争の際に負った傷がもとで死んだ。

 

 茫然自失の状態だった華美のところへある男が訪れた。彼はロバートが以前冗談でゴッドファーザーと呼んでいた男で、ギャングを陰で操っているという噂があった。その男は華美の語学力を買っていて、その能力を活かした仕事をしないか、と言った。華美はロバートのいない焼き肉屋で働き続けるのも嫌だったので、あまり深く考えずに承諾した。その男はディビッド・コウといったが、商社、雑誌社、食料品会社等の様々な企業を経営していた。

 華美は商社に席を置いたが、与えられた仕事は情報の分析であった。華美は、毎日、ロサンゼルスで発行される英語、韓国語、日本語の新聞や雑誌を読み比べて、その中から韓国に影響のある情報を抜き出すという仕事をした。最初は何をどう読んでいいのか分からなかったが、何ヶ月か続けていくうちに、何の変哲もない記事の中に大きな意味があることが分かってきた。いわゆるベタ記事の中に数ヶ月後の大変革を予告するような内容が含まれていることもあった。

 そのような仕事を1年半ばかり続けて、そろそろ飽きてきた頃に、ディビッド・コウがもう少し刺激的な仕事をしないかと言ってきた。それは、いわゆるスパイの仕事で、ロサンゼルスを訪問する日本の著名な財界人からある情報を入手するというものだった。ただ、そのためには、その財界人と親密な関係になる必要があり、華美は回答を留保した。

 一晩考えて、華美は、自分の持っているすべての力を武器にして生きていこう、と考え、その仕事を引き受けた。華美は最初の仕事を完璧にやり終え、彼女の評価は一気に上がった。華美はしたたかにディビッド・コウと交渉し、スパイの仕事の場合には特別の報酬がもらえるようになった。華美は日本人になりすますことが多かったが、ターゲットは、日本人だけではなくて韓国人やアメリカ人のこともあった。

 マーシャル&野村との関係は、野村弁護士が政治的に動く人間だったので、日本の厚生省の高官からある食品添加物についての情報を入手するという仕事を依頼してきた。以後、野村弁護士はお得意さんになり、日本がらみの仕事を何件ももらった。やがて、直接華美のところに仕事の依頼が来るようになり、華美はディビッド・コウから離れて段々とフリーランスのようになってきた。ディビッド・コウはそれを知っていたが、取り立てて文句は言わず、華美が必要とする援助はいつでも与えてくれた。

 華美は、ディビッド・コウがKCIAのために働いているということを、誰からもはっきりと言われたことはないが、仕事の傾向から見てそれは明らかだと思っていた。もっとも、時々は、ディビッド・コウは本当は北のエージェントではないか、と思う時があったり、北でも南でもない組織に属している、と思えたりすることもあった。ことほど左様に、この世界は複雑怪奇であった。今回のT&Kの1件についても、華美はディビッド・コウの支援を得ていて、彼の組織の日本にいるメンバーが協力してくれていた。

 

 いつの間にか午前4時近くなっていて、東の方の空が段々と白くなっていた。新宿の超高層街が綺麗なシルエットとなって浮かび上がり、新しい朝を迎えようとしていた。

華美は今回の任務について考えていた。キングは、この件について華美に説明した際に、これは歴史的に意義のある仕事だ、と言った。日本人というのは特殊な民族で、はっきりと主張しないでも、欲しいものが自然と手に入ると思っている、とキングは言った。だから、誰も自己主張はしないし、企業は横並びで、個人は個性がない。それでも何とかなるのは、日本が規制の社会だからだ。規制というのは、政府の作るものだけでなくて、業界団体などを通してライバル企業同士がみんな規制しあって調和を保っているのだ。要するに国全体が談合で成り立っている、そういう国なのだ。

日本では金融ビッグバンといわれるものが始まっているようだが、金融業界は日本の産業の聖域だったから、これまでの日本の生温いやり方に比べれば評価できる。この改革が成功すれば、日本国民は、どこの銀行に行っても同じサービスしか受けられないという、社会主義国並の扱いは受けなくてすむようになるのだろう。これを機に、日本の様々な産業に多くの外資が参入することになれば、日本企業同士のなれ合いの体質は改められるだろう。お上や同業者の制約がなくなって、初めて本当の自由競争が可能になるのだ。そうなると、日本企業は、政府や業界団体に頼らずに、それぞれの意思で行動しなければならなくなる。その場合、何に従って行動するかというと、それは法律しかない。今までの日本では法律は一種の飾り物にすぎなかった。法律に違反しても罰せられない人はたくさんいたし、それを決めるのは国だった。ただ、いつも罰せられないかというとそうではなくて、今まで一度も使われなかった法律が使われて、突然逮捕されたりすることもある。しかし、これは本来の法律の在り方ではない。法律は万人に平等であるべきだ。法律が公平に適用されるようにできるのは弁護士なんだ。国や、政府や、官僚にそういう役割を任せておけば、彼らは、自分の好きなように法律を操り、ある人には優しく、ある人には厳しく、自分たちの思ったように人を動かす道具として使うだろう。それをさせないのが弁護士なのだ。弁護士は自分のクライアントのために、法律が一番有利に適用されるように、国を相手にしたって戦う。そのような戦いが、分け隔てなく行われるようになれば、否応なしに法律は平等で公正なものになっていく。そのような意識を持っている弁護士が、今の日本にいるだろうか。今の日本の弁護士には、自分達の行動が法律を作っていく、というような意識は全くない。

日本の弁護士会は、アメリカが門戸開放を要求した時に、アメリカの弁護士は営利だけを追求するから日本の風土には合わないと言った。日本の弁護士は人権の擁護を第一に考え、利益は二の次とのことだった。これを偽善と言うのはたやすいことだが、彼等が本当にそう信じていることを前提に考えてみよう。弁護士はプロである。プロはアマチュアと異なり金をもらって仕事をする。銀行員もプロだが、銀行員は恵まれない人に無利子で金を貸したりするだろうか。否である。では同じプロである弁護士が何故恵まれない人の人権を無料で守らなければいけないのか。アメリカには個々の信条に従ってプロボノ(無料奉仕の弁護士活動)に力を注ぐ弁護士は沢山いる。しかし、弁護士が一般的にこのような義務を負っているという者はいない。SH&Gはアソシエートが5%の時間をプロボノに削くことを奨励しているが、これは日本の弁護士会が言うような偽善的な理由によるものではない。SH&Gのような巨大ローファームは社会の重要な一部であり、社会と共存していかなければならない。社会から好意的な目で見られることによって長期的な利益が保証されるのだ。これも自由競争の一環なのだ。SH&Gのライバルがプロボノに力を入れ社会から好感をもたれるようになれば、利益をもたらすクライアントもそちらに流れていく。それを阻止するためには我々も負けずにプロボノに力を入れなければならない。これが資本主義なのだ。日本の弁護士の業界は資格によって守られた少数エリートの世界だから利益のための競争もなければプロボノの競争もない。そこを突かれるのが恐いので、日本の弁護士会は人権の擁護を錦の御旗に自分達の業界を聖域にみせかけようとしているのだ。

日本の弁護士には自国民の権利を守る力すらない。彼らは自分達の気楽な生活を守ることにしか関心がない。それを打ち破るのは誰か。それはわれわれでしかない。われわれが彼らの社会に入っていって、権利の擁護というものが本当はどういうものであるかを教えてやらなければならない。そうしなければ、日本人は、乳飲み子のように、スプーンを与えられても、それをどう使っていいか分からないのだ。

 

 華美は、キングの主張が正しいかどうかは自分としては判断できなかったが、日本人が赤子のように無防備な存在であるということは事実だと思った。日本民族は、有史以来外国に占領されたことはなく、唯一の例外といえる太平洋戦争後のアメリカによる占領は、他に例を見ないほど寛容なものだった。日本は、それ以来、50年余の平和を貪り、近隣諸国が戦火にまみえようとも、われ関せずで、平和と生命尊重をお題目のように唱えて動こうとはしなかった。華美は、自分や、自分達韓国人が生きてきた人生を、日本人にも味わせたいのかどうか、よく分からなかったが、日本人の平和ボケした顔を見ていると、腹が立つことも事実だった。

 時計は4時半を回り、新宿の高層ビルの間から見える空が段々と赤みを帯び、やがて、青みを増していく空に向けて、ビルの背後から真っ赤な太陽が昇っていった。動き始めた大都会を見ながら、華美は呟いた。「これが、日本にとっての、本当の開国になるかもしれない」




 米国の訴訟では、グリーンバーグ弁護士は、訴訟の起こされたカリフォルニア州ロサンゼルス郡地方裁判所には管轄がないと主張して、訴えの却下を求めた。これに対して、同地方裁判所は、唐島プロダクションが以前カリフォルニアの弁護士を使って契約交渉をしたことを理由に、管轄が存在するとの判断を下した。これを不服として、グリーンバーグ弁護士はカリフォルニア高等裁判所に上訴したが、全く理由を付することなく棄却された。

 君原達が東京地方裁判所に起こした訴訟については、君原の考えていたとおり、すぐに反応があった。SH&Gのニューヨーク事務所にクーリエで訴状の写しを送ってから3日と経たないうちに、同事務所の東京オフィスから君原に電話があり、同事務所と提携している日本人弁護士が代理人となってハーキュリーズピクチャーズは応訴すると伝えてきた。原・被告の代理人は、裁判所と協議した結果、6月14日水曜日午前10時に第1回口頭弁論期日を入れることで合意した。


― 2000年 6月 ―




 希花は裁判所から事務所までの道を、散歩するような気分で歩いていた。損害賠償請求事件の被告である証券会社の代理人として、10時の法廷に直行し、3分間で弁論が終わったので、書店で時間をつぶしてから事務所に帰るところだった。梅雨入りが近く、変わりやすい天気だったが、その日は朝から晴れていた。

 希花は事務所のビルの周辺が騒がしいのに気がついた。報道関係の車が何台も止まっており、テレビの中継車までいた。正面のエントランスの辺りは、野次馬が幾重にも取り巻いていた。前に、銀行の不祥事があった時に、このビルに入っている支店が捜索を受けたので、またそのたぐいかと思った。

 人垣をかき分けてビルの中に入り、エレベーターに乗り、25階のボタンを押した。普段は、26階に直行するのだが、今日は25階の図書室に寄り本を借りようと思っていた。25階でエレベーターのドアが開くと、エレベーターホールに立っていた十数人の男達がいっせいに振り向いた。カメラを向ける者もいた。希花は、ここでやっとT&Kが異変の源であることに気がついた。

 T&Kは25階を半分占めていて、受付のある正面入り口にはガラスの自動ドアがあった。就業時間中、この自動ドアは開かれているのが普通だったが、今日はそれは閉じられていて、内側から新聞紙が張りつめられていた。希花が新聞紙の隙間から中を覗くと、受付の女性と目が合い、ドアを開けてくれた。

「山口さん、何があったの?」と希花が聞いた。

「黒田先生が逮捕されたんです。たくさん、検事さんが来て、新聞記者の人が入ろうとして、大変だったんです……」と受付の山口が言った。

「黒田先生が何をしたの?」

「私には分かりません。でも、今朝、自宅で逮捕された、と聞きました」

「寺本先生はいるの?」

「はい、今第2会議室で検事さんとお話をしています」

 希花は脇の階段で26階に昇り、ドアを自分の鍵で開けて中に入った。中は騒然としていて、弁護士も、秘書も、仕事が手につかない様子だった。西側の黒田のオフィスのあたりでは、黒っぽい背広を着た男が何人も部屋に出たり入ったりしていた。部屋の前では、黒田の秘書の川崎が、矢継ぎ早に質問を浴びせる男達に対して気丈に対応していた。希花が自分の部屋に入ると、伊藤がいつものようにノートパソコンに向かっていた。

「よく平然と仕事をしていられるわね」

「慌ててもしょうがないですから」

「びっくりすることってないの?尊敬しちゃうわ」

「感覚が鈍いんですかね」

「とにかく、何があったの?なんで黒田先生は逮捕されたの?」

「インサイダーらしいですよ。この間のTOBの件でうちのクライアントの株を買ってしまったらしいんですよ」

「いかにも黒田先生らしいけど……なんで捕まるようなことをするのかしら?先例があるんだからもう少し気をつけてもいいのに」

 希花は、ドアから首だけ外に出して、黒田の部屋の方を眺めていたが、突然嬉しそうな声を上げた。

「あれ……あれは、清田君だ。伊藤先生、私の同期の検事になった清田君がいるわ」

「えっ、誰ですって?」

「実務修習でずっと同じ班だった清田君。彼は、特捜にいたんだ……」

「……」

「清田君って、私に惚れていて、実務修習が終わる頃にプロポーズしてきたの。もちろん断ったけど。でも、今でも友達なのよ。ちょっと呼んでくるわ」と言って希花は出ていった。

 2、3分して、清田は希花に引きずられるようにして部屋に来た。

「清田君、こちらが私のルームメイトの伊藤先生。まだ2年目だけど、とても頭がよくて冷静な人。こんな時に、仕事ができるなんて、信じられないわ」

 2人の男は、ばつが悪そうに名刺を交換した。

「ねえ、清田君。黒田先生はインサイダーで逮捕されたの?」

「ええ、そういうことです」

「愛人に株を買わせるとか、前と同じようなことをしたの?」

「いや、そこらへんは……ちょっと言いにくいんですけど」

「今度食事でもしましょうか」

「ええ、それは喜んで……いますぐはちょっとまずいんですけど……」

「いいわ。私から連絡するわ」




 T&Kの臨時パートナーズミーティングは、黒田が逮捕された6月8日の午後8時から25階の1番会議室で開かれた。会議には、海外出張中の3人のパートナーを除いて、全員が出席した。

 皆が着席したところで寺本は話し始めた。

「正直なところ、何を言っていいか分からないのですが、とにかく、残念なことでした。私は、黒田さんとは20年以上もつきあっていて、なんでも分かっているつもりだったので、このようなことは予想もしていませんでした。

 実は、私は、黒田さんが逮捕されることを、ある筋から昨日の夜聞いたのです。それで、すぐ黒田さんと連絡を取り、善後策を協議しました。われわれが協議して決めたこと、つまり、黒田さんが望んでいることは次のようになります。

 まず、黒田さんは弁護士会を退会します。これは、責任を取って、ということはもちろんあるわけですが、懲戒請求を避けるという意味もあります。つまり、懲戒請求があり、弁護士会を除名されるようなことになれば、不名誉なだけではなく、弁護士に戻れないという実質的な不利益があります。自ら退会すれば懲戒にかけることはできないわけで、黒田さんが弁護士に復帰する道も残されます。禁錮以上の刑にならなければの話ですが。

 次は、事務所名のことで、黒田さんは、自分の名前を事務所名からはずしてほしいと言っていました。これについてはあとでお話しします。

 3番目は、黒田さんは、自分のいなくなったあとの事務所のことを大変心配しておりました。事務所経費だけを見ても、黒田さんは毎月2000万円以上負担していたわけで、それが無くなることは大打撃です。それ以上に、この事件で、クライアントが離れていくだろうということがもっと大きな問題になります。事務所全体として、どれだけ大きな影響があるかは、もう少し様子を見ないと分かりませんが、証券発行の関係のクライアントは黒田さんがいなくなれば半分以上は離れていくと見ざるをえません。これは、私の全くの勘ですが、事務所全体として、収入が3分の2になり、経費の方は、黒田さんが抜けた分みんながそれだけ余計に負担することになると思います。その結果、今、既に財政的に余裕のないパートナーは落ちていき、そのしわ寄せが残ったパートナーにくるということになります。これは、先日のパートナー合宿で、君原さんの言ったドミノ倒しの仮説が現実になるということです。それでも、私は、T&Kが潰れるとは思いませんが、アソシエイトとスタッフの数をそれぞれ半分にし、25階のスペースを明け渡す、というぐらいのことを考えないと、本当に危ないと思います。

 こういう状況になりますと、以前ちょっとお話しした、外国事務所による買収という話が魅力的に見えてくるわけです。これについてはまたのちほど具体的に説明したいと思います」

「寺本先生、どういうふうに進めたらいいのかしら?」

 この会の議長をしている宮下が尋ねた。

「挨拶状の文言から決めていったらどうかな」と寺本が言った。

「はい。挨拶状の文章は、寺本先生がお考えくださった案がお手元にありますので、お読みください」

 配られていたA4判の紙には次のように書かれていた。

 

 

 拝啓 時下益々ご清栄のこととお慶び申しあげます。

 平成11年6月9日付をもって、当事務所の名称を下記のとおり変更致しましたので、ここにお知らせいたします。

 今後も質の高い法律業務を遂行し、皆様のご期待に応えるべく、事務所をあげて努力する所存でありますので、よろしくご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申しあげます。

敬 具   

 

 新 名 称   寺本総合法律事務所

(旧名称 寺本黒田法律事務所)





 


「この文章の英文も作らなくてはいけないんですけど、和文はこれでよろしいでしょうか?」と宮下が聞いた。

「木で鼻をくくったような文章ですね」と君原が言った。

「こういう場合、日本の会社だったら、世間を騒がして申し訳ないとか、こういう事態になったことは遺憾であるとか、何か言うんじゃないですか。主要な新聞の今日の夕刊をだいたい見ましたが、全部1面に載っていますから、この事件を無視するのは通らないと思うのですが」

「でも、うちは事務所としては何も悪いことはしていないんだよ。あれをやったのは黒田さん個人なんだから」と寺本は言った。

「しかし、黒田先生は、創立パートナーで代表パートナーなんですから、その人の行為について事務所が全く言及しないのもおかしいんじゃないですか?」

「それは違うね」と寺本は君原を睨みつけながら言った。

「会社の代表取締役が何かをやったのと今回は全く違うのだ。会社の代表取締役は、会社の機関なんだから、たとえ、やったことが個人的な悪事だったとしても、会社自体が謝るというのは分かる。

 法律事務所はこれとは違う。法律事務所には法人格は認められていないし、税務申告をするのも弁護士が各々やるわけだ。法人化が許されないという制約を受けている法律事務所が、不祥事の時だけ、法人のような顔をして謝らなければいけないのは、それ自体不公平じゃないか」

 そんな理屈が世間で通ると思うのか、と君原は思ったが、こんなことで議論をするのがばかばかしくなって、黙った。

 宮下が次の議題に移ろうとした時に、山崎がおずおずと手を挙げた。

「この文面には、黒田先生が辞められたということが、何も触れられていませんが、これでいいのでしょうか?つまり、黒田先生は、創立パートナーで、これまで寺本先生と一緒に事務所を支えてこられた方ですので、そういう方が辞められる場合には、何か一言あってもいいのではないでしょうか」

「黒田先生が辞めたことに言及するとまずいことになるんですよ。事務所を辞めただけでは済まないでしょう。何故辞めたか、弁護士登録を抹消したからだ、何故抹消したのか、犯罪を犯したからだ、とこのように続くでしょう。そこまでいくと、事務所としても関係がないでは済まなくなって、謝罪めいたことを言わなければならなくなる。さっきも言ったように、私は、事務所は何も悪くはないと思う。だから、事務所は謝るべきではないし、謝らなければならないような立場に事務所を追い込むべきではない」と寺本は言った。

 山崎は、威圧的な口調で話す寺本を不満そうな顔をして見ていたが、何も反論しなかった。

「では、次の議題……サイモン・ヘイスティング&ゴールドマン……ゴールドマンでしたっけ……からのお話に移りたいと思います。

 私はこれ、とてもいいお話だと思うのですけど……何か問題があるのかしら。すぐお金がいただけるというのがとても有り難いと思うのですけど」と宮下が言った。

「金が入ってくるなどということは、どうでもいいことだけど、私はこれを一つのチャンスだと見ているのですよ。これで、われわれは本当にインターナショナルな仕事ができるようになる。これが実現すれば、私はSH&Gのワールドワイドのオペレーションも見ていかなければならなくなる。1年の半分くらいはニューヨークのヘッドクオーターで仕事をしてくれと言われているんですが、それもやむを得ないかなと思っている。50を過ぎてこういうことを始めるのは正直なところしんどいんですけれど、一つのチャレンジだと思って、皆さんのために頑張りたいと思います」。有無を言わせないという強い調子で寺本が言った。

 

 T&Kの入っているビルから100メートルほど離れたところにある喫茶店で、この会話をイヤホンで聴いていた川上は思わず笑ってしまった。パートナーズミーティングが行われている会議室の、電話が載っているサイドテーブルの下の段には、ステープラーやセロハンテープなどを入れた箱が置いてあり、その中には電池を取り替えたばかりの、SH&Gの名前の入った電卓も入っていた。

 

「買収の話は、われわれの自治権が確保されればそれほど問題はないように思うんですが」とシニアパートナーの田中が言った。

 田中は、これまで、黒田の証券関係の仕事で生計を立てていたのだが、黒田がいなくなった今、寺本の力を借りて、証券関係のクライアントが落ちていくのを防ぎたいと思っていた。

「その点は私も一番気にかけているところで、皆さんが肩身の狭い思いをすることがないことは保証します。私は、日本よりもアメリカで名前が通っている人間だから、彼らは私の意見を無視はできないはずです。私がSH&Gのパートナーになれば、皆さんがこれまで以上にいい環境で仕事ができるように、体を張って頑張るつもりです」と寺本が答えた。

「寺本先生がこれだけ言ってくださっているんだから、私は、何も心配することはないと思いますが」と宮下が言った。

「私は今週の金曜日からニューヨークに行って、具体的な条件について話を詰めてこようと思っています。もちろん、皆さんの承諾なしには、何も合意するつもりはありませんが、私が交渉することについて異議のある人はいますか?」

「お願いします」と元気よく田中が言い、何人かが頷いた。君原は不愉快そうに横を向いていた。




 次の朝、珍しく、山崎が君原の部屋に来た。山崎は、部屋に入るとドアを閉めた。パートナーの部屋のドアは、開けておくのが普通だったから、これは内密の話があるというしるしだった。

「君原先生。昨日のこと、どう思いますか?」

 山崎が辛うじて聞き取れるほどの小さな声で聞いた。

「昨日のことって?」

「あの挨拶状のことですけど、あれではまるでわれわれが黒田先生を切り捨てた、と言われても仕方がないように思います。暴力団だってもっと情があると思います」

「寺本と黒田の関係というのはよく分からないんだな。表面は仲がよさそうにしているけれど、内心では相手が滅びればいいと思っているようなところがあるんだよね」

「考え過ぎかもしれませんが、今回の事件には腑に落ちないところがあるんです。問題のインサイダー取引は、この間のTOBの時のものですよね。そうだとすれば、株の売買から逮捕まで1ヶ月ちょっとしかないわけで、あまりにも早すぎます。96年の例の事件の時には、特捜は1年以上かけて捜査をしていました。今回は、よほど確実な証拠が手に入ったとしか思えません」

「内部告発、というようなこと?」

「ええ。ひょっとしたら……寺本先生が……」

「それはないでしょう。ライバルを蹴落として事務所が自分1人のものになったとしても、その事務所自体が潰れてしまったらしょうがないでしょう」

「普通はそう考えるわけですが、今回は、例の買収の話がありますからね……」

「買収に反対していた黒田先生を消すということか……」

「それが1つですし、もう1つは、われわれに対しても、黒田先生のいない事務所は生き延びていくことはできない、だから買収に応じるしかない、というプレッシャーをかけるということです」

「随分危ないゲームだなぁ。うまくいかなければ、事務所を潰すという結果だけが残るかもしれないわけでしょう」

「全くの推測ですけれど……寺本先生に、よほどいいポジションが提供されるとか、買収の金額とは別な裏金が出るとか……考えればいろいろあります。とにかく、昨日の寺本先生の態度は、これで買収に進めるという安堵のようなものばかりが目立って、黒田先生が逮捕されたことについての悲しみのようなものは、全く見られませんでした」

「それで、山崎先生はどうするの?」

「あの会議の前までは、黒田先生からいただいたクライアントをしっかりと守って、この事務所でやっていこうと思っていたのですが、何か嫌になりました。このまま行けば、買収ということになるんでしょうが、そうなれば、事務所は変わってしまうと思います。黒田先生のような人情味のあるというか、大雑把というか、ああいうやり方が通用しなくなり、コストパフォーマンスのみを考えた仕事のやり方になっていくんでしょう。そんなことなら、この機会に事務所を出ようかと、考えているところなんです」

「なるほどね。僕も、あの会議が始まった時は、買収に反対して、リストラや何かで事務所を建て直すということを考えていたのだけど、そんなことで寺本先生と対立してゴタゴタやっていたら、本当に事務所が潰れてしまうと思った。だから、言いたいことはたくさんあったんだけど、敢えて何も言わなかった。ということは、あの雰囲気からすると、買収に賛成していることになってしまうのだよね」

「もう元には戻れないとは思いますよ」

「どこから狂ってきてしまったのかなぁ。頭脳の割に体が大きくなりすぎた恐竜みたいなものかなぁ。しばらく前から、環境の変化にうまく対応できなくなっていたと思うのだ。今回の事件にしても、われわれはどう対処していいか分からなくて、おろおろしているだけだ」

「私は今まで、黒田先生に従って、自分の意見も主張しないでここまで来たわけですけど。君原先生がそういう私の生き方に対して、批判的なのは十分承知していますが、今が、そういうものから抜け出られるチャンスだと思えるのです。これを逃せば、また、長い物には巻かれろ、的な人生を送っていきそうな気がするんです」

「弁護士が組織の中で生きていくっていうのは難しいもんだよね。僕も、この事務所では、弁護士が5、6人の時から、組織作りでいろいろと努力してきたつもりだけど、やればやるほど生きにくい社会ができてしまったという気がするね。だから、少人数で、気ままにやっていくのも魅力は感じるね」

 一瞬の沈黙のあと、山崎は、意を決したように言った。

「端的に言いますと、先生が、私と、パートナーシップを組むことは考えられますか?」

「面白い話だなぁ。今まで考えたことはなかったけれど……」と君原は言って、あとに続く言葉を探した。

 君原は、山崎とは一定の距離をおいてつきあっていたので、彼とのパートナーシップがどのようなものになるかはすぐには想像ができなかった。山崎には黒田から引き継いだ優良なクライアントがたくさんいたから、新事務所の財政的な基盤を考えた場合には、いい相手かもしれなかった。その反面、現在のところ君原よりも収入が多い若い弁護士と組むのは、いろいろとやりにくいところもあった。君原は回答を引き延ばすことにした。

「パートナーシップを組んで1つの事務所でやっていくのも一つの方法だけど、もう少し距離をおいて、提携というような形でやっていく方法もあるんだよ。僕は、コンピューターを使って弁護士業務をどのように改善できるか、ということを研究する会に入っているんだけれど、そこで、1つのアイディアを発表しようと思っている。15日の夜その会合があるんだけど、一緒に出ない?」

「是非お願いします」

 

 川上は、さっきから、FMラジオをいろいろな角度に向けて音声を捉えようとしていたが、ほとんど成功しなかった。

 川上は、山崎が君原の部屋に入っていきドアを閉めた時に、これは重要な会議に違いない、と直感した。すぐ自分の机に戻り、受信を試みたが、発信器である電卓に入っている電池がかなり消耗していること、君原が、たぶん電卓を机の引き出しの中に入れていること、山崎の声が普段でも聞こえないほど小さいことが相乗的に作用して、意味のある会話はほとんど捉えられなかった。




 東京地方裁判所に起こされた、ハーキュリーズピクチャーズを被告とする訴訟の第1回口頭弁論は、6月14日の午前10時に予定されていた。法廷は6階の611号法廷で、希花は10分前に法廷に着いた。法廷の前の事件表を見ると、10時の弁論は5件指定されていた。傍聴席には既に弁護士が2人、記録を読みながら待っていたが、希花の事件の相手方の弁護士はまだ来ていなかった。被告側から既に答弁書が提出されており、そこには予想されたとおり、管轄を争う旨の主張が述べられていた。

 今日は訴状と答弁書の陳述で終わるはずだった。いつも希花より先に法廷に来ている伊藤が今日は遅かった。君原は渉外事務所のパートナーの多くがそうであるように、法廷には滅多に出てこなかった。もっとも訴訟の経験の乏しい君原が出て来てもあまり役には立たなかったが。

 数分後に、相手方の下田という若い弁護士が到着し、今日提出予定の準備書面です、と言って準備書面の副本を希花に渡した。準備書面は10頁余りのものであり、仮に管轄の主張が認められなかったとしても、という書き出しでハーキュリーズピクチャーズがリメイク権を有していると主張しているようだった。準備書面と一緒に、書証(証拠として裁判所に提出される書面)も何枚か出されており、その中に「覚書」というものがあった。乙第六号証とされたその覚書を読んで希花は愕然とした。

 そこにはこう書かれていた。

覚書

 希花は、一瞬、頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなっていた。後ろから声がした。

「滝川先生、遅くなってごめんなさい。事務所で、宮下先生に捕まってしまって、出るのが遅くなって……」

 伊藤が、珍しく慌てたようで、額の汗を拭いながら立っていた。

「伊藤先生。こんなのが出てきたわ。どうしたらいいの」

 伊藤は一読して呟いた。

「これが本物だったら、この訴訟はわれわれの負けですね」

 

 10時に3人の裁判官が入廷し、希花達の事件が最初に審理された。訴状、答弁書の陳述と、審理は段取りを追って進んでいったが、希花は上の空だった。

 裁判長が書証について被告代理人と話をしていた。被告代理人の下田弁護士は、クリアフォルダーに入っていた書類を取り出し、廷吏に渡した。廷吏はこれを裁判長に渡した。裁判所が原本の確認を済ませたあと、廷吏は書証の原本を希花に渡した。希花は他の書証には見向きもせずに、乙第六号証の覚書を穴のあくほど見つめていた。

 それはB5判の用紙にタイプで打たれており、用紙は30年の歳月を感じさせるように黄ばんでいた。印影は薄くなっていたが、鮮明であった。奇妙なところは、その文書の本文が書かれているすぐ上の余白が大きくえぐり取られていることだった。まるで、鋭い歯をもった動物が噛みきっていったかのように楕円形に切りとられていた。希花は、伊藤と、首をかしげながら、その部分を斜めから見たり透かしてみたりしたが、何も分からなかった。

「被告代理人にお尋ねしたいのですが」と立ち上がって希花が言った。

「この乙第六号証の上の部分ですが、切りとられた跡がありますが、これはどうしたんでしょうか?」

「それは、私が日東映画株式会社から受領した時からそのような状態でした。不審な点がおありでしたら、そちらにも原本が一部あるはずですから、お確かめになったらいかがでしょうか」

 

「唐島プロダクションに原本があれば苦労はしないわよ」

 重い足どりで裁判所からの帰り道を伊藤と歩きながら、希花が言った。

「唐島プロダクションには何もないという話だったですよね」

「あのハンコが本物だったら、唐島監督がリメイク権を与えたということを、追認したことになってしまうわ。あれをひっくり返す方法はないのかしら」

「仮にこちらに原本がなくても、唐島プロダクションの側で誰が交渉したかが分かれば、その人を証人に呼んでくることはできますよね」

 

 希花と伊藤は事務所に着くと、すぐ君原の部屋に行き、今日の裁判所での顛末を説明した。

 君原は被告の提出した乙第六号証のスタンプが押された覚書の写しをじっと見ていた。

「これをひっくり返さないと、われわれは負けだな」

「でも、原本が破かれていたっていうのは絶対おかしいですよ。切り口も新しいようだったし、何か都合の悪いことが書かれていたから破いたに違いないわ」と希花が言った。

「とにかく、唐島監督にすぐ連絡をして、こちらサイドの原本を見つけよう。何れにしても打ち合わせる必要があるから、なるべく早く会議を入れよう」




 君原は唐島監督の訴訟のことも気にはなったが、ここ数日間は自分のことで頭がいっぱいだった。山崎から、一緒に独立をしないか、という誘いを受けるまでは、君原は自分が独立することは想像もしていなかった。君原は、T&Kが設立されて3年ほど経ったときに、寺本に誘われて、パートナーになる直前であった前の事務所を辞めてT&Kに移ってきた。それから15年が経ち、君原が入った時は5人しかいなかった弁護士が、今や70人近くになっている。その中で、黒田が辞めたために、君原はナンバー3で、実質的には寺本に次ぐ地位にあった。本来であれば、何十人かの弁護士を引き連れて出るのならともかく、1人で飛び出すことは考えられないことだった。

 しかし、客観的な情勢を見ると、このまま事務所に残っているのが得であるかは、はなはだ疑問であった。黒田が辞めたことにより、T&Kの財政事情は逼迫しており、倒産も考えられないことはなかった。大法律事務所が倒産した例はなかったので、どのような事態になるかは予想がつかなかった。会社が倒産した場合には、破産法とか会社更生法などによって処理の方法が示されているが、法律事務所は法人ではないから、そのような手続きは適用にならない。結局、全パートナーが連帯して責任を負うことになるのだが、その責任の負い方について取決めがないので、混乱は避けられない。さらに、財政的に破綻しようとも、各弁護士は依頼者に対して事件を処理するという責任が残っているので、それは事務所の清算と同時に進めなければならない。それを怠れば、依頼者からは損害賠償を請求されるだろうし、弁護士資格を剥奪されることにもなりかねない。

 寺本は、このような最悪の事態を避けるために、米国の法律事務所にT&Kを売るべきだと言っている。黒田が辞めた今となっては、この話は救済策の色彩を帯びて、パートナーの中にもこれに同調する者が増えつつある。しかし、この話は、黒田が逮捕される前からあったもので、それに黒田は反対していたのだ。だから、山崎のように、寺本が黒田をはめた、と考える者も出て来る。

 君原にとって腑に落ちないのは、そもそも何故寺本がこの買収話に飛びついたのか、ということだった。あの頃は、T&Kの危機説を主張していたのは君原のみであって、寺本はそれに興味を示していたとは思えなかった。そのような危機意識なくして、日本一になったばかりの大事務所のトップのパートナーが、何故身売りを考えたのだろうか。君原は、何かこの話には胡散臭いところがあると思っていた。買収の相手方とは、寺本のみが接触しているので、買収の条件として何が話し合われているかは他の人間には分からない。結果的に、寺本のみがいい思いをして、他のパートナーは裏切られることになるのかもしれない。何れにしても、買収されてしまえば、人事権はアメリカの事務所が持つわけだから、予め保証を与えられていないパートナーは、不安な思いをすることになる。

 買収が終わってから、その後の状況を見極めて、それから辞める辞めないを考えてもいいのではないか、と一度は君原も考えた。しかし、買収が終わってから辞めることは、裸一貫で出るということである。つまり、法律事務所の財産はクライアントだから、アメリカの法律事務所は、T&Kのクライアントの持ち出しを認めるわけがない。買収に応じてお金をもらうことは、各パートナーが自分のクライアントを売り渡すということだ。君原は、今更ゼロからクライアントを開拓することは、とても考えられなかったので、買収後に辞めることは弁護士を廃業するに等しかった。

 考えられる可能性を全て分析した結果、君原は独立を決意した。独立するについても、いくつかの可能性があり、1人で飛び出すというものから、事務所のパートナー、アソシエイト、スタッフのかなりの部分を連れて出るという形までいろいろな段階が考えられた。過去の渉外事務所の分裂の例では、ナンバー2の弁護士が、トップの弁護士だけをおいて残りの全員を連れて出てしまった、という極端な例もあったが、ナンバー1とナンバー2が別れる場合にはそれぞれが持っているクライアントの数に応じて事務所が割れるのが普通だった。君原は、寺本に対抗できるほどの力はなかったから、事務所を割って出るにしても、他の力のあるパートナーと語らって、新たに共同事務所を作るというのが唯一の可能性だった。この場合には、突出した力のある者がいなければ、さらに分裂が起きる可能性があった。君原は、しばらく前から、法律事務所が規模を売り物にすることに懐疑的になっていたので、小規模な共同事務所を作ってそれをまた日本一にしよう、という気はさらさらなかった。君原が考えていたのは、小規模な事務所のネットワーク化で、まだ誰も成し遂げたことのないものであった。




「う〜ん」と唐島監督はうなった。

 唐島監督は、乙六号証の覚書を見て、一生懸命何かを思い出そうとしていた。

「見たことがあるような気もするんだが……それとも、別な会社の話だったかなぁ。とにかく僕は、こういうものには興味がなくて、言われるままに判を押していたのだよ」

「ここに押してあるハンコは監督のものですか?」と君原が聞いた。

「これは覚えているね。10年ぐらい前まではこのハンコを使っていたよ」

「この当時、つまり、1967年の頃ですけれども、唐島プロダクションで契約の話をしていたのは誰ですか?」

「山本だったっけねぇ?」と唐島監督は田代の方を見て聞いた。

「私は、その頃まだ生まれていなかったので、知らないんですけれど、その頃唐島プロダクションにいた人に聞きますと、そうらしいですよ」

「その山本っていう人は、今どこで何をしているんですか?」と君原が聞いた。

「ちゃんと調べてあります」と田代が得意そうに言った。

「山本六郎という人で、監督が中国で撮った『揚子江』のプロデューサーをしていた人です。唐島監督の下を去ってから、ピンク映画の製作をしばらくしていたようですけれど、今は映画界を全く離れているようです」

「何をしているの?」と唐島監督が聞いた。

「風俗営業のお店を5、6軒持っていて、羽振りがいいそうです」

「今どこに住んでいるか分かりますか?」と君原が聞いた。

「いえ。でも、今興信所に頼んで調べてもらっていますので、あと2、3日で分かると思います」

「覚書の原本を持っているとしたらこの人ですね」

「住所が分かったら、私が行って話をしてみましょうか?」と田代が言った。

「そうですね、田代さんには行っていただきたいが、1人では危ないから、滝川が一緒に行くようにしましょう。女性が行けば相手も気を許すだろうし、私が行くよりいいでしょう」




 希花が内線電話をとると君原からで、新宿にタイ料理を食べに行こう、と誘われた。希花は仕事が忙しかったので最初は断ったが、君原が、どうしても話したいことがあると言うので行くことにした。

 靖国通りから区役所通りへ入ってすぐのところにあるその店は、タイの王宮料理を食べさせることで人気があった。希花達が着いた時には、店内はほぼ満席で、タイ料理独特の香りで部屋中が満たされていた。君原が予約していた席は窓際で、それはそれでよかったのだが、隣りに20人程の団体がテーブルをつなげて座っていて騒がしいことこの上なかった。君原は生春巻き、海老の春雨スパイシーサラダ、トムヤムクンとチキンとバジルの葉の唐辛子炒めを頼み、赤ワインをオーダーした。君原はいつになく疲れた様子だった。

「今日話したかったのはね……僕がT&Kを辞めることを伝えたかったのだ」

「え!辞めるって、独立するっていうこと?」

「そう」

「誰と一緒に出るの?1人じゃないでしょ」

「山崎さんから、一緒に出ないかって誘われたんだけれど、あの人とはちょっと波長が合わないからなぁ。お互いに協力していくということにはなったけど」

「山崎先生はちょっとくたびれるわよね。それで、誰と組むの?」

「君だよ」

「えっ!私なんかクライアントもいないし、足手まといなだけよ。それともアソシエイトとしてこき使おうっていうの?」

「君と一緒に仕事ができたらいいなと思っただけだよ」

「寝たから?そういうことで、何か責任を感じてくれていると言うんだったら、それは心配ないのよ。私は自立しているから」と希花は微笑んだ。

「いや。ただ一緒にいられればいいなと思っただけで……」

「でも、私にも将来があるし。先生が本当に独立して大丈夫か、分からないでしょ」

「いや、そのことだったら心配はいらないよ。ユナイテッドモーターズとは話をして、僕についてきてくれることになったし、他に、日本の一部上場の企業も3社ばかりある」

「でも、寄らば大樹の陰、ということもあるしなぁ」

「大樹といったって、T&Kはもうすぐ買収されちゃうんだよ。そうすれば、アソシエイトなんかいつ首を切られるか分からない」

「外資だからってそんなひどいことはしないでしょ」

「いやぁ、僕は前に、準会員系の事務所にいたからよく分かるけど、まともな人間には耐えられないよ」

「ふぅん」

「僕の前いた事務所は、ラッセルというアメリカの弁護士が作った事務所だった。彼は、極東裁判で日本人の大物を弁護したということで一目置かれていた人物だったけれど、日本のことは、死ぬまで植民地としか思っていなかったようだ。彼が30年間日本にいて覚えた日本語は、『右』『左』と『止まれ』で、これはタクシーに道を指示する時に必要だから覚えたそうだ。

 事務所の中でオフィシャルに使われるのはもちろん英語だけだし、パートナー会議も全部英語でやっていたらしい。彼に評価されるのは、英語のできる奴だけで、弁護士としての能力は関係ない。彼に気に入られていたのが、マイク木村、これはれっきとした日本人の弁護士だ。でも、自分のファーストネームである誠という名前は誰にも呼ばせず、どこにいってもマイク木村で通していた。ラッセルはその木村を通して入って来る情報ですべてを判断していたから、ラッセルがボケてきた最後の2、3年は、木村が絶大な権力を持っていた。木村の機嫌を損ねれば、パートナーでも首を切られるという話だった」

「それからもう20年近く経っているのだから、だいぶ違ってきているのではないかしら。日本もその頃に比べれば、大国になってきたのだから」

「いや、アメリカ人のやり方っていうのは変わらないと思うよ。パックス・アメリカーナで、どこに行っても、自分だけが正義だと思っている。買収されてしまえば、われわれはみんな雇われ弁護士になるわけだし、いつ首を切られたって文句は言えない。純粋な労働者だったら、労働基準法で守られるけれど、弁護士の場合は、委任関係だから、それもおぼつかない」

「寺本先生は、ニューヨークのパートナーになるのかしら?」

「さぁ、あれだけ一生懸命になっているからには、当然何かいい話があるんだろう。ニューヨークのパートナーになるのは当然のこととして、他にも裏金があるとか、いろいろあるかもしれない」

 食事が終わったら、君原は、またあの派手なネオンサインのついたホテルに私を誘うのだろうか、と希花は考えた。どうしても嫌だというわけではなかったが、積極的にそうしたいという気持はなかった。いつもは手入れのいい君原の髪が、今日は伸びすぎていて鬱陶しかった。忙しくて、しばらく床屋に行っていないのかもしれない。横から君原の髪を観察していた希花は、もみ上げのところが真っ白になっているのに気がついた。よく観察してみると、長い髪も、根元のところが白くなっている。これは、ヘアダイかヘアマニキュアに違いない、と希花は思った。そう思ってみると、君原は決して若くはなかった。希花は、自分の隣で赤ワインをちびちび舐めるように飲んでいるこの中年男が、本当に自分が憧れていたあの君原なのか不安になり、確かめるように横顔を見た。




 希花と田代は、唐島監督のショーファー(お抱え運転手)付の車で、元プロデューサー、山本六郎の帰りを待っていた。バブル期に建てられたと思われる豪華な作りのマンションの前は公園になっていて、公園の横に止めてある車からマンションへの人の出入りが明瞭に把握できた。

「田代さん。あの3階の窓に明かりが点けば帰ってきたということだから、ずっと見張っていることはないわよ」と、双眼鏡をマンションのエントランス方向に向けている田代に希花が言った。

「あの男かもしれない。今タクシーから降りてきた禿げた男」と田代が小声で言った。

 2、3分して3階の明かりが点いたので、田代と希花は車を降りてエントランスへ向かった。

 

「滝川さん、ここはオートロックだ。どうしよう」と田代が大きなシャンデリアの下の部屋番号を書いたボードの前で立ち尽くしていた。

「ここで、唐島監督の代理人ですとか言ったら、入れてもらえないでしょ。誰かが出入りしたらそのスキに入り込もうか?」

「ちょっと私にやらしてくれる」と希花が言って、403とボードにあるボタンを押した。

「部屋番号が違うわよ?303よ」

「ちょっと黙っていて」

「誰ですか?」とスピーカーを通して声がした。

「洗濯屋です。いつもお世話になっています」と希花が言った。

 ドアの方でカチッという音がして、ガラスのドアがスルスルと開いた。

「滝川さんて、頭がいいだけかと思ったら、結構ワルなのね」と田代が感心したように言った。

「ただのワルなのよ」

 

 303号室のチャイムを鳴らすと、ドアが30センチほど開き、海坊主のような赤ら顔の男が顔を出した。唐島プロダクションにあった、30年前に撮られた写真に、唐島監督と一緒に写っていた男に間違いがなかった。

「何だ。お前等?」

「山本六郎さんですね」と田代が言った。

「そうだ。表札に書いてあるだろう」

「唐島清の姪の田代と申します」

 山本は、唐島の名前が出た時に一瞬怯えたような表情を見せたが、唐島がどこにも隠れていないことを確認すると、ふてぶてしさを取り戻した。

「だからどうしたというんだ」

「ちょっと、お話ししたいことがあるのですが……」

「俺は忙しいんだ」

「大きなお金がからんだ話なんですよ」と希花が口を挟んだ。

「金がどうしたっていうんだ。ここで言ってみなよ」

 山本の目が光った。

「長くなるのでここでは話せません」と希花が答えた。

「しょうがねえな。入れよ」

 山本は、2人を招き入れると、ドアの鍵を閉め、チェーンをかけた。

 2人は30畳程の広いリビングルームに通された。厚い絨毯が敷かれていて、羽根布団の上を歩いているようだった。部屋にはアジアの各地から集めてきたと思われる仏像や仏頭が飾られていて、アメリカ映画に出て来るオリエンタル趣味の富豪の部屋のようだった。

「何だ、その金の話っていうのは?」

 2人をソファーに座らせると、山本は聞いた。

「山本さんは、前に唐島プロダクションの面倒を見てくださっていたと聞きましたので、もしやご存知かと思いまして。

 監督の『天守閣』ですが……日東が製作したものです……あの映画のリメイクの契約を日東がアメリカの会社と結んだことをご存知でしょうか?」と田代が言った。

「それで?」

「その契約は、監督の知らないうちに結ばれたもので、無効なものなんです。そこで、多分、監督が文句を言ったんだと思うのですが、日東が、その契約について、監督の追認を取るための覚書を提案してきたようなのです」

「へぇ、びっくりしたね。昨日の今日でまたその話か」

「またって何ですか?」と希花が聞いた。

「その覚書っていうのが、欲しいんだろう」

「昨日、誰かが来たんですか?」

「500万円払うってさ。俺は、そんな安くはないよって追い返したんだ」

「誰です、それ」

「綺麗な姉ちゃんだよ。色の白い」

「色が白くって、切れ長の眼をした、博多人形みたいな人?」と希花が聞いた。

「知らねぇよ。関係ないだろ」

「滝川さん。どういうことなの?誰なのその人?」と、話についていけなくなった田代が希花に聞いた。

「いや、違うかもしれない……」希花は、独り言のように言った。

「それで、お嬢さん達は、いくら払うっていうんだい」

「でも、あれは監督のものなんですよ。あなたが持っているのがおかしいのよ」と田代が言った。

「誰も持っているなんて言っていないよ。嫌なら帰れよ。さあ、帰れよ」

「分かったわ。金は出せるわ。だから現物を見せて」と希花が言った。

「本当かね。見せてやってもいいが、おかしなことを言い出したら、いつでも燃やして灰にできるんだぞ」と山本はドスの利いた声で言った。

 山本は隣の部屋に行き、茶封筒を持って戻ってきた。そして、封筒の中から、四つ折りになった黄ばんだ紙を取り出し、広げて田代に手渡した。

 覚書と題された書面は、乙第六号証と全く同じように見えた。ただ、乙第六号証で切りとられていた部分に、手書きで書き込みがあった。覚書の第一項の2行目の「与えることを承諾する。」の上に「1本に限り」という言葉が手書きで加えられていてそこにハンコが2つ押してあった。この挿入された文字を加えて読むと、覚書の第一項は「乙は、甲が、米国加州法人イオナピクチャーズに対して『天守閣』の映画化権を1本に限り与えることを承諾する」となる。

 1本に限って映画化権を与えるというのはどういうことなんだろう。希花は、この発見を喜んでいいのか、分からなかった。1本だけなら、イオナピクチャーズが『天守閣』をベースにした映画を作ってもいいわけだから、それが今回ハーキュリーズピクチャーズが作った映画ということになったら、それには唐島監督の承諾が与えられていることになってしまう。

「日東と、この件で話をしていたのは、山本さんですよね」と希花が聞いた。

「そうだ。俺しかいなかったからよ」

「この、1本に限り、というのは、どうして入れたのですか?」

「そりゃ、1本はできちまっていたからしょうがないが、それ以上のはダメだっていうことよ。ちゃんと、監督のことを考えて、俺が交渉して入れさせたんだ」

「1本できていたって、それ、何ですか?」

「何にも知らねえんだなぁ。『ウォーリアーズ・パス』っていうのは知らないか。知らねえよなぁ、全然当たらなかったからな」

「それが、1本に限り、の1本なの?じゃあ、1本はもうその時にできていたんだ……」と希花はホッとして言った。

「それがあったから、俺達が騒いだんだよ。映画ができなきゃ、日東が勝手なことをやったってことは、俺達には分からないんだよ」

「それで、1本だけはできてしまっているから仕方がないけど、それ以上作るには別な承諾が必要だということね」

「そうだよ。そうすれば、2本目から、また金が取れるだろ」

「よかったわ」

「なるほど……誰かが2本目を作りたがっているんだな。それとも、もうすでに作ってしまったのか」

「それで、いくらだったら譲ってくれるの?」

「いくら払えるんだ?」

 希花と田代は顔を見合わせた。

「監督は、しばらく映画を撮っていないので、お金ないんです。家も借家だし……」と田代が哀れっぽく言った。

「お話にならねぇよな。もう帰んなよ。あっちにも渡さないからよ。どうせ、俺は金なんていらないんだ。500万なんて、3日もあれば入って来るよ。寝てても入って来るんだよ」

「じゃあ、何が欲しいんですか?」と希花が言った。

「そうだな……女は腐るほどいるし……。ところで、あんたは何者なんだ。監督の何なんだ?」

「私は、唐島監督の弁護士です」と希花が言った。

「へぇ……女弁護士か。女弁護士っていうのは、ブスばっかりかと思っていたよ」

「この人は、ただの弁護士じゃないんですよ。バイリンガルで、ニューヨークの弁護士資格も持っているんですよ」と田代が口を挟んだ。

 山本の目の色が変わった。

「ほぅ。それでいて、体もいいじゃないか。俺は、脱がなくたって、いい体しているかどうか、すぐ分かるんだよ。目利きっていうのかな」と山本は好色な眼で希花を見ながら言った。

「それと交換っていうのはどうかしら?」と希花が言った。

「それって……何がいいたいんだ?」

「私が一晩つきあったら、あの紙をくれるっていうのはどう?」

「面白いじゃねえか。こんな女弁護士は、テレビには出てこないぞ。上等じゃないか。今晩か?」

「今日は、ちょっとダメなの。あれだから」

「あれか……」

 山本は生唾を呑み込みながら言った。

「ダメよ、滝川さん。そんなことをしちゃいけないわ」と田代が希花の耳元で囁いた。

「じゃあ、来週だったらいいんだな」

 山本は手帳を取り出してスケジュールを見ていた。

「来週の、金曜日は、7日だよな……7日か」と言って山本は少し考えた。

「こういうのはどうだ。7日の金曜日に、ここでちょっとしたパーティーがあるんだよ。超大物が来る仮面パーティーだ。いや、本当にお面をつけてもらうんだ。顔を見たら誰でも分かるような、お偉方が来るんだ」

「芸能人?」と希花が聞いた。

「とんでもない」馬鹿にしたように山本が言った。

「アッと驚くような大物代議士。次官クラスの官僚。それにオーナー社長。それもスター経営者だ」

「それと、私と、何の関係があるの?」

「女の子が足りないんだよ。各店のナンバー1を出して、人数は揃っているんだが、なんていうのかな……輝くような女がいないんだよなぁ。この女と寝たらあとはもういいっていうような、そんな子が欲しかったんだよ」

「私が、それだっていうの?」

「肩書きがすごいって言っているんじゃないぞ。そんなのは言わなくたっていい。そんなのは話していれば自然と分かる。あんたを初めて見たときから、俺も久しぶりにその気になっていたんだよ。そういうものを、あんたは持っているんだよ」

「嬉しいわ、そこまで言っていただけると」

「じゃあ、いいんだな。何人も相手をすることになるけど、いいんだな」

「SMはいやよ」

「それはない。部屋が汚れるからな」

 

 田代は、このとんでもないやり取りに眼を白黒させていた。

 希花が、急に立ち上がり、お腹が痛いのでトイレに行きたいと言った。何を思ってか、山本は、また卑猥な笑いを浮かべながら、希花をトイレに案内した。

 トイレから戻ってきた希花は、もう一度覚書を広げて、しげしげと眺めた。そして、元のように四つ折りに畳むと、何を思ったのか、その紙片をブラジャーとふくよかな胸の間に押し込もうとした。

「何をしているんだ。それを返せ!」と山本は怒鳴った。

「冗談よ。どうせ、来週もらえるんだから」と希花は言った。

 希花は紙片を茶封筒の中に戻し、テーブルの上に置いた。山本が、それを取り上げ、中を見ようとした。

「黒い下着を着けていっていいかしら?レースのスケスケのやつ」と希花が聞いた。

「いいんじゃないか。みんな喜ぶと思うぞ」と、卑猥な笑いを浮かべて山本は言った。

「じゃあ、私達もう帰るから」

 唐突に希花は言って立ち上がった。ドアの方にさっさと歩いていく希花を、田代も追いかけた。

 

 山本のマンションの部屋を出て、ドアが閉まるのを確認すると、希花は、田代に向かって早く、と言うと、エレベーターを使わずに階段を駆け下りた。田代は何が起きたのか分からずに、転びそうになりながら希花の後にしたがった。

 唐島監督の車に乗り、山本のマンションが見えなくなったところで、初めて希花は口を開いた。

「ごめんなさいね。訳の分からないことをしてしまって」

「本当にそんなパーティーに行くの?そんなことまでしてもらうわけには行かないわ。  あの覚書は手に入らなくてもしょうがないわ。他の方法を探しましょう」

「もう、手に入ってしまったわ」と希花は言って、ブラジャーの中に手を入れると、黄ばんだ紙片を取り出し、それを広げた。それは、茶封筒に入れて、山本のところに置いてきたはずの覚書だった。

「どうしたの!」

 田代は眼を見開いて叫んだ。

「ちょっと、手先が器用なだけなのよ」

「いつ……どこで?」

「私は、前に法廷で、日東の持っている覚書の原本を見たでしょ。だから、それがどんな大きさでどんな色をしてどんな紙質かっていうのは分かっていたの。そして、似たような紙を手に入れることができた。だけど、分からなかったのは、山本のところにあるその紙がどんなふうに折り畳まれているかということだったの」

「それで、そういうふうに折ったわけ?どこで?」

「トイレで」

「それで、あの時にすり替えたの?手品みたい」

「それはどうってことはなかったんだけれど、そのあとが危なかった。山本が、茶封筒を取って中を見ようとしたでしょ。あの紙を広げて見られたら、一巻の終わりだから、そこで注意を逸らそうとしたの。最後に言った言葉は、窮余の一策というやつ。田代さん、私が色情狂だと思ったでしょ」

「頭が混乱して分からないわ。全部嘘だったの?全部お芝居だったの?」

「さぁね。来週、パーティーに出るかもしれないわ。結構面白そうじゃない」




 李華美はリビングルームのソファの上でまどろんでいた。

 華美は、新宿駅の方向へ真っ直ぐに伸びている広い道路を歩いていた。道路の両側には、いずれ超高層ビルが建てられるはずの広い四角い土地が暗い穴のようにいくつも続いていた。黒い雲に覆われた空に向かって、高い煙突のようなビルが2本立っていた。高いビルの最上階には、綺麗なレストランがあるということだったが、華美は行ったことはなかった。レストランの明かりは、強い風に吹き流されてきた雲に遮られて、あとには、どこまでも続く闇が残った。厚い雲の中から突然UFOが降りてくるのではないかと、華美は空を見上げた。華美は、道路から、周りに背の高い草が生い茂る、四角い土地に降りていった。そこは、昼間はグラウンドとして草野球で賑わっていたが、今は誰もいない。

 華美は、手に手に棒を持った上級生の男子生徒と、グラウンドの中央で向かい合っていた。「生意気だぞ、朝鮮人!」とその中の1人が言った。

 いつの間にか華美は取り囲まれていて、敵は四方から迫っていた。華美は、身構えようとしたが、足が動かなかった。地面にはりついたように、足が上がらなかった。

 太い腕が、華美の細い胴に回され、華美の体は宙に浮いた。ロバート・パク。あなたなのね。私が困った時にいつも助けに来てくれる。

 華美の体は、夜空高く浮上し、超高層ビルを見おろした。

 突然、花火のように、下界の明るさが増し、光の花園のようになった。超高層ビルが林立し、自動車の赤いテールランプが、どこまでも続いていた。

 何故、ロバートとは最近会えなかったのだろう。華美は考えた。でも、何か恐いことに行き当たりそうだったので、考えるのを止めた。このままずっと飛んでいたかった。

 下界が、急に騒がしくなった。繁華街の喧噪が押し寄せてきた。

 隣の部屋で、リーリーッと呼び出し音がうるさい。テレビ電話だ。

 

 モニターには「電話がかかっています。応答しますか?」という表示が出ていた。川上がYESをクリックすると、キングの不愉快そうな顔が大写しになった。

「さっき、寺本から電話があって、君原から辞表が出た、と言っていた。どういうことなんだ?」

「辞表が……そんな兆候はなかったわ。寺本もそんなことは言ってなかったし……」

「パートナーやアソシエイト6人だかの辞表が一度に出てきたそうだ。他の連中はどうでもいいが、君原は困る」

「私に文句を言われても困るわ。買収は請け負ったけれども、誰が残るかっていうのは条件じゃないでしょ」

「それは分かっているよ。でも、君原にあの訴訟を持って出られたら、何のために買収をしたか分からない。何か方法はないのか?」

「君原の弱みっていうのは、アソシエイトの滝川っていうのとできていることぐらいだわ」

「それじゃあなぁ……そういう材料を使って、反発されたら、もうおしまいだからな。もっと情報が欲しいんだ。使いものにならないような情報でも、分析していけば、いろんなことが分かってくる。もっとデータはないかな?」

「データ……ないことはないわ。役に立つか分からないけど」

「何だ、それは。どんなデータなんだ?」

「君原を辞めさせないというのは、私の請負の範囲には入っていないわよね」

「確かにそうだ。それはエキストラサービスということになる」

「そのエキストラサービスについては、エキストラフィーも出るの?もし、私の取ってくる情報で君原がT&Kに残ることになったら、いくらもらえるのかしら?」

「契約のやり方を間違えたかもしれないな」

「もう遅いわ」

「分かった。プラス10万を出そう」

「少ないわ」

「じゃあ、20万」

「30万」

「25万でどうだ?」

「いいわ」

「クリスティーヌ、君は大した奴だよ、弁護士になれば、きっと一流になるよ」

「本当にそうなるかもしれないわ」

「それはともかく、この25万というのは、成功報酬だよ。失敗したらゼロだ」

「失敗はしないつもりだけど、この前のようには簡単ではないと思うわ。100メガ以上あるファイルだから」

「100メガ?百科事典でも送ろうっていうのかい」

「データベースなのよ。T&Kが、パートナーが持っているフロッピーディスクの中に入っているすべての文書をコンピューターのハードディスクに入れて、それをデータベースにしようとしているの。君原の分はほとんど完成していて、彼のだけで15メガぐらいあると思う。君原の分だけを分離するのは難しいから、ファイル全体を送りたいの」

「なるほど……それだけ分量があれば何か見つけられるかもしれないな。インターネットで送ってくれるのか?」

「そうするつもりだけど、ファイルが大きいので、転送に時間がかかるけれど」

「なるべく早く欲しいんだよ。明日にでもできないかなぁ?マリックの言っていた3ヶ月の期限は、7月16日に切れるんだよ。もう2週間ぐらいしかない。その期限までにあの訴訟が、われわれの思い通りになるようになっていなければならないのだ」

「分かったわ。できるだけのことはする。それから、あの覚書とかいうのを手に入れる話だけど、山本は、500万ではイヤだと言っているんだけれど、どうしたらいいのかしら?」

「どうしても手に入れなければならないものではないから、もう少し様子を見るかな。とにかく、あれが、唐島監督のところにないことが分かっただけでも、大成功だ。連中も、あれを手に入れることはできないだろうから、われわれがこの前東京の訴訟で出した書証が唯一の証拠になるのだ」

「盗み出せっていわれればやるけど、本当にいいのね?」

「そこまでやらなくてもいいよ。それよりも君原の方が大切だ。そっちの方を全力でやって欲しい」

「いつものメールアドレスでいいのね、ファイルを送る先は」

「あれでいいよ。あのアドレスは闇のルートで買ったものだから、私までは辿れない」

「明日の晩メールを送るわ。100メガのファイルと請求書もね」


― 2000年 7月 ―




「どう、私ってちょっとすごいでしょ」

 希花は伊藤の顔の前で覚書をヒラヒラさせて言った。

「要するに窃盗したということですね。刑法235条。10年以下の懲役」

「自力救済よ。唐島監督の所有物ですもの」

「この場合は仕方ないですかね。でも、善良なる市民にはなかなかできないことですね」

「私が犯罪者のような言い方ね」

「初めてじゃないでしょ」

「中学までは万引きをしていたけれど、最近は何もやっていないわ」

「……」

 君原が昨日からバンコクに出張しているので、希花と伊藤は相談して、7月10日の次回期日前に裁判所に提出できるように書証を準備することにした。伊藤はすぐにそれにとりかかり、ついでにこの覚書がどのようにして作成され、どのような法的意味があるかについて述べた準備書面も作成した。伊藤が書き終えようとしていた時に、川上がクライアントからもらった菓子を配りに部屋に入ってきた。

 

「今、川上さんが部屋から出てきたけれど、どうしたの?」

 会議から戻ってきた希花が言った。

「ただ、お菓子を配ってくれただけですよ」

「この覚書のことは、事務所の中でも秘密にしておいた方がいいわ。絶対に狙われているんだから」

「事務長に言って、金庫に入れてもらいましょうか?」

「ダメよ。あんな金庫、プロにとっては、鍵がないのも同じよ」

「じゃあ、滝川先生が持ち歩きますか?」

「それも困るわね。今日、私は飲みに行くから、失くしてしまったら大変だわ」

「ファイルの中に入れておきますか?」

「唐島のファイルではなくて、他のファイルの中に入れておいたら分からないんじゃないかしら。あの証券会社の事件の箱ファイルの中に入れて置くわ。あの事件は書証が多いから、紛れて分からなくなるわ」

「自分で分からなくならないように、気をつけてくださいね」

 伊藤がいたずらっぽい眼をして言った。

 

 川上が、例の、使われていない、外人弁護士用の部屋から出てきたのは、午前1時を過ぎてからだった。30分ほど前に、26階の電気は全部消えたが、忘れ物をして戻って来るという可能性もあったので、しばらくは部屋の中で様子を窺っていた。

 前回と違って、今度はいろいろと仕事があった。川上はまず、ワープロセクションにあるデータベースが入っているコンピューターを起動し、そこから10メートルほど離れている別のコンピューターも起動した。26階にあるコンピューターの中で、電話回線につなげるものは3台しかなかったので、そのうちの1台のハードディスクにデータベースを入れることから始めなければならなかった。データの容量が大きかったので、フロッピーで移すわけにはいかず、直接ケーブルで繋ぐことにした。川上は昼間秋葉原で買ってきたRS232Cリバースケーブルで2つのコンピューターを繋いだ。コンピューター間のデータの転送は数分で終わったので、今度は通信ソフトを起動し、キングのEメールアドレスにデータを送る作業に入った。これ自体は簡単だったが、データが膨大だったので、送信が完了するまでに2時間ちょっとかかる計算だった。その間、管理事務所の人が見回りに来たらどうしようかと考えたが、名案はなく、見つからないことを祈るだけだった。

 川上はデータが送信されている間にもすることがあった。昼間、伊藤の机の上で見たのは、川上が山本六郎のマンションで見せてもらった覚書に間違いなかった。あれを唐島サイドに取られることは、キングにとっては致命的になるはずだったので、キングに相談するまでもなく、川上はそれを取り戻すつもりだった。小さなライトをつけて、伊藤の机の辺りを見たが、それらしきものはなかった。希花の机にライトを向けると、机の上のファイルの中に唐島訴訟のものが数冊あったので喜んだが、あの覚書やそれに関係する書類はファイルのどこにも見当らなかった。希花と伊藤があの覚書を他のファイルの中に隠したとすればその捜索は大変なことになる。部屋の中の小さなキャビネには60冊あまりのファイルがあり、2人の机の引出しにも数十冊あり、更に希花の机の横には20冊ほどのファイルと、ファイルに入り切らない膨大な書類が積み上げられていた。

 

 希花は、大学時代の友人で、上智の文学部の助手をしている男と2時過ぎまで六本木で飲んでいたが、急にあの覚書のことが心配になり、タクシーを拾って事務所に向かった。

 26階の中央のエントランスの鍵を開け、中に入り電気をつけた。真っ直ぐ自分の部屋に向かい、箱ファイルの中にあの覚書があることを確認した。何も心配することはなかったのだ、とつぶやいて希花は部屋を出た。気のせいか、東側のドアの閉まる音がした。そちらの方向を見て、希花は様子がおかしいのに気がついた。

 通路を挟んで、2台のコンピューターが、青白い光を放っていた。さらに見ると、2台のコンピューターはケーブルで繋がれていた。誰かがまだ残っていて仕事をしているのだろうか。

 希花は気味が悪かったので、管理人室に電話をして警備員に来てもらった。26階の全部の部屋を見て回ったが、特に異変はなかった。もう一度コンピューターのところに戻ってきてみると、1台の方のモニターの画面に、通信が完了した旨の表示があった。




「このコンピューターから送信していたんです」

 26階の中央にあるランチテーブルの横の秘書の机に置かれたデスクトップパソコンの前で、希花は、伊藤と事務長の川口を前に説明していた。

「このコンピューターが、あのワープロ部門のコンピューターとケーブルで繋がっていたんですね」

 伊藤は、廊下を挟んで10メートル程離れたところにあるコンピューターを指差しながら言った。

「何を送ったかわかる?」と希花が伊藤に聞いた。

「ログ(通信記録)を見ればすぐ分かりますよ」と言って、伊藤はコンピューターのマウスを動かした。

「バイナリー送信なので、内容は分かりませんが、115メガバイトぐらいの巨大なファイルですね」

「115メガって言うと、あれかしら?」

「多分そうですね」と言って、伊藤はまたマウスを動かした。

「やっぱりそうだ。このマシンのハードディスクに例のデータベースが入っていますよ」

「ワープロ部門のマシンから、ケーブルを使って移したのね」

「セキュリティーを設定しとくべきでしたね」

「この事務所で鍵のかかるのは、事務長のところの小さな金庫だけですもの。データベースのセキュリティーなんか誰も考えないわ」

「でも、何のために、そんなものを盗っていったんですかね?」と苦笑いしながら川口が言った。

「あれを分析すれば、うちの仕事の内容が全部分かってしまうでしょ」と希花が言った。「でも、動いている案件は入っていないのですから、致命的なことにはならないと思いますけど」と伊藤が言った。

「古いものでも、M&Aの買収価格なんかが分かったら困るわね。でも、そのためにわざわざこんなことをするとは思えないけれど……」

 

「この書証を持っているのはいやよね。昨夜は、これが心配で戻ってきたのよ」

 部屋に戻った希花は、書証を箱ファイルから出しながら言った。

「君原先生に全部渡しちゃえばいいんですよ。今日の午後、バンコクから戻って来られるんですよね」と伊藤が言った。

「私は、内部に誰かいるんじゃないかと思うの。昨夜だって、外部から誰か侵入したと考えるのはおかしいわ」

「関係あるかどうか、分からないんですが……ちょっと変わったことがあったんですよ。もう2週間くらい前になりますが、FMラジオを聴いていたら、急に田中先生の声が聞こえてきたんです」

「何、それ?」

「盗聴だと思うんです。たまたま、周波数が合って受信できたんだと思うのです」

「それ、大変なことよ。何で、もっと早く言ってくれなかったの?」

「いやぁ……事務所の中がごたごたしていたから、パートナーの先生の誰かがやったのかと思ったんです」

「で、その盗聴器はどこに仕掛けられていたの?」

「いや、田中先生の部屋の中を勝手に調べるわけにはいきませんし、田中先生に盗聴されていますよって教えるのも、ちょっと……。こういうのって、落とし物の財布を持ち主に届けるのと違って、被害者からもいい感じを持たれないんですよね。お前も聴いていたんだろうって思うんですよ」

「気が弱いんだなぁ……普通、どういう所に仕掛けるの?」

「電気が必要ですから……コンセントとか……蛍光燈とか……」

「電池でもいいの?」

「もちろんです」

「じゃあ。電卓は?」と、希花は机の上にあったマーシャル&野村のマークが入った電卓を取り上げた。

「ちょっと貸して下さい」

 伊藤は電卓に顔を近づけた。

「ここに穴が空いてますね」と伊藤は電卓の右側面にある小さな穴を指差した。

「ここに、マイクがあるのかもしれません」

 伊藤は、自分の机の引き出しから小さなドライバーを取り出し、電卓の裏側のプレートを取り外した。

「やっぱりね。ここにマイクがありますよ」と伊藤は基板に貼り付いている、ピンのような物をドライバーの先で示した。




 0時40分頃、川上は西城と連れ立って食事に行った。希花は、正午前から、通路に面して並べられた秘書の机でコンピューターを操作するふりをしながら、川上が席を離れるのを待っていた。

 希花は川上が出ていくのを確認すると、紙袋を持って川上のブースに向かった。川上の机の上には、ミネラルウォーターのペットボトルと水が半分入ったガラスのコップがあった。コップは事務所の食器棚にいくつも並んでいるものだった。

 希花は、右手に軍手をはめてから、紙袋に用意した同じ形のガラスのコップを取り出し、川上の机の上にあるコップとすりかえた。

 部屋に戻った希花は、机の上の名刺ケースのKのインデックスのところから、清田の名刺を取り出し、電話した。清田は急な呼出しに困っていた様子だったが、結局押し切られ、8時に西麻布のフレンチレストランで会うことになった。

 

 そのレストランは、西麻布の静かな住宅街にある瀟洒な洋館の中にあった。

 清田は遅れていたので、希花は1人でメニューを眺めていた。コース料理のみだが、前菜、温前菜、スープ、魚料理、肉料理が何種類かある中から、1品ずつ選べるようになっていた。前菜では、キャビアを取りたかったが、追加料金が必要だった。今日は、誰が払うんだろうか、と希花は考えた。

 8時を10分程過ぎて、清田がやって来た。走って来たらしく、暑い、暑い、と言いながら上着を脱いだ。

「今、マスコミで騒がれている奴でてんやわんやで……なかなか抜け出られなくて……」

「ごめんね。いつもわがまま言って……」

「いいんだよ。滝川さんから電話をもらえるなんて、滅多にあることじゃないんだから」

 清田は、学生時代にラグビーをしていたとのことで、ガッシリとした体格をしていて、毛深かった。面食いの希花としては、とても連れて歩きたい男の中には入らなかったが、最近の希花は、男は容姿のみではない、と考えるようになっていた。

 清田は、プロポーズを断られてからも頻繁に手紙をよこしたが、希花は1度も返事を書いたことがない。修習生時代には、希花の好みで、フレンチやイタリアンにつき合わせたが、この店にはその当時1回来たことがあった。そういえばこのレストランに来た時だった、と希花は思い出した。帰り道の暗がりで、清田がキスをしたいと言った時に、希花がけんもほろろに撥ねつけたのだった。あの時は随分酷いことを言ってしまった。

 希花と清田は、実務修習地が京都で、1年4ヶ月行動を共にした。修習が終わって5年以上経っているので、先ずその当時の仲間の消息について互いに情報を交換した。 温前菜のフォアグラのソテー大根添えと手長エビのグリルしそ風味が運ばれてくる頃には、話題は黒田のことになっていた。

「うちの事務所じゃあ、黒田先生については、内部告発があったに違いないってもっぱらの噂なの」

「それは聞いてないけど……」

「でも、株の取引から逮捕まであまりにも短かったでしょ。普通は、捜査にもっと時間をかけるものじゃないの?」

「確かに我々もびっくりしたんだ。でも、証拠はそろっているというし……」

「どんな証拠?」

「これは噂なんだけど……絶対に人に言っちゃあだめだよ」

「絶対に言わないわ」

「黒田さんのファイルが手に入ったというのだ」

「どこから手に入ったの?」

「不思議な話なんだけど……アメリカからだって言うんだ」

「アメリカの法律事務所?」

「それは知らないけど、アメリカから捜査の要請があったと言うんだ」

「アメリカの何処から?」

「これまた信じられない話なんだけど、この前ワシントンで日米首脳会談があったでしょう。あの時に、アメリカの大統領が日本の首相に捜査を要請したと言うんだ」

「うそでしょう。なんで、黒田先生の逮捕を、アメリカの大統領が要請するっていうの?」

「大統領が直接言ったんじゃあないのかもしれないけど……それにしても、ぼくは、あり得ないと思うけど、部内には情報通と称する奴がいて、そいつがそうだと言っているんだよ」

 

 希花は、やっと、全体の構図が見えてきたような気がした。川上が来て、あの電卓を配った。寺本先生のところへSH&Gから買収の申し出があった。黒田先生がそれに反対した。そして、黒田先生が逮捕された。それに、この前のデータベースの件。

 でも、T&Kを買収するために、こんな大掛かりなことをするかしら。アメリカの大事務所だったら、大統領を動かすことぐらいできるかもしれないけれど、黒田先生を逮捕するために、そんなことまでするのかしら。大体、T&Kを買収して、どんな良いことがあるのかしら。日本には、もっと良い事務所が幾つもあるのに。

 

「うちの事務所には、スパイが送り込まれているらしいの」

「スパイ?」

「日系三世という触れ込みなんだけど、私は絶対違うと思う。」

「……」

「彼女の日本語は上手すぎるし、英語がちょっと変なのよ。彼女の英語はうまいけれど、子供の頃からアメリカで育った人とはアクセントが違うの」

「それだけで、スパイだという訳ではないでしょう」

「いろいろと他にもおかしいところがあるんだけど、まず、日系三世じゃあないってことを証明したいの」

「どうやって?」

「これを調べてもらいたいの」

 希花は、ハンドバッグの中から茶色の紙袋を取出した。

「この中には、彼女が使っていたガラスのコップが入っているの。ここから指紋が検出できるでしょ。彼女が、日本人で、スパイのようなことをやる人なら、きっと日本での犯罪歴があると思うの」

「しかし、それは、警視庁の管轄だからなあ……」

「警視庁にもお友達はいるでしょう?」

「警視庁鑑識課か……いないことはないけれど」

「もうこんなことは頼まないからぁ。ねえ、お願い」

 これを断ったら、希花から電話がかかってくることはなくなるだろう、と清田は思った。勿論、検事が、私的な目的で、指紋の照合をすることなどできるわけはなかったが、希花に頼まれると、ノーと言うわけにはいかなかった。とにかく預かってみて、努力したけどだめだった、ということでも仕方がないんじゃないか。清田は紙袋を受け取った。




 川上からデータベースを受領するとすぐに、キングはSH&Gの弁護士で日本語に堪能な者に集合をかけた。データベースの転送を受けたSH&Gの東京事務所も同時にデータベースの検討に取りかかった。

 データベースのうち君原に関するものは15メガバイトを少し超えたが、この文書を印刷するとA4判の用紙を積み重ねて70センチ以上の高さになった。SH&Gのニューヨーク事務所に集められた15人と東京事務所の8人はこれらの文書を手分けして読むことになったが、相互の発見を迅速に伝え合うことを可能にするために、両事務所のテレビ会議システムは常時相手方の検討風景を映し出していた。

 文書の検討を始める前に、キングは次のような点に注意して読むようにと言った。即ち、文書の内容が違法である可能性があるものについてはマークすべきである。違法な内容についても、2つの種類があり、一つは自分のクライアントの相手方に対して違法行為を行う場合、例えば相手方を脅迫するような場合がこれに当たる。もう一つは、クライアントに対して違法行為をするように教唆する場合、例えば詐欺をするようにそそのかす場合がこれに当たる。次の類型として注意すべきものは、文書の内容が不当な場合である。例えば、誤った法律解釈に基づいてクライアントにアドバイスをしている場合がこれに当たる。最後に注意すべき類型としては利益相反がある。例えば、自分のクライアントと紛争関係にある相手方に助言をした場合などはこれに当たる。

 ニューヨーク時間の午後8時に開始された検討は、意外にもその日のうちに終了した。ニューヨークの時計が午前零時を指そうとした時、ニューヨーク事務所の弁護士のひとりが「eureka(発見した)!」と叫んで立ち上がり、テレビ会議のカメラの前にVの字にした指を突き出した。ちなみに eureka はアルキメデスが比重の原理を発見した時に発したといわれる言葉である。




 君原は、キング弁護士からの電話が入っていると秘書に伝えられた時に、来るべきものが来たと覚悟した。

 希花から、データベースが何処へか送信されたことを聞いた時、君原は、そのターゲットが自分だと直感した。あのデータベースの中には、君原が外部の者に見られたくないものが入っていた。データベースが完成するまでに、削除しようと思っていたファイルがひとつだけ残っていたのだ。

 君原が電話に出ると、キングは陽気に話し始めた。君原については、いろいろと良い評判を聞いていること。君原の英語力は、日本の弁護士としては傑出していること。そのような君原が、事務所を辞めると聞いたが、考え直す気がないのか、等々。

 君原は、SH&Gによる買収に反感を持って辞めるのではなく、自分なりの新しい活動を計画していると説明した。

 キングはやっと本題に入った。

「ユナイテッドモータースは君のクライアントだったね」

「そうだが……それが何か?」

「ユナイテッドモータースがオートローンの契約のことで、神田信販から訴えられたことがあったね」

「あれは、和解で片付きましたよ」

「神田信販というのも、君のクライアントらしいね」

「時々、小さな仕事を頼まれる関係だけですけどね」

「1994年3月2日に神田信販に手紙を出しているね」

「何が言いたいんです?」

「あの手紙は、和解の条件についてユナイテッドモータースがどの程度のことを考えているか、と聞かれて、それに答えているものだね」

「和解で解決するのは、両者のためになることだと思ったからですよ」

「手紙の最後に、読んだらすぐシュレッドしてくれ、と書いてあるね」

「……」

「君は、ユナイテッドモータースの訴訟代理人であったのに、依頼者に断りなく、相手方に助言をしているね。これは利益相反行為だね」

「……」

「これは、弁護士法違反だし、懲戒事由にもなるね」

「……‥」

「ユナイテッドモータースがこれを知ったら、どうすると思う?

 勿論、君に仕事を頼むのはやめるだろう。それだけじゃなくて、損害賠償請求をしてくるかもしれないよ」

「分かった。どうすればいいんだ」

「君に、T&Kを辞めないでほしいんだ。それから、唐島監督の例の訴訟だけど、あれを、我々が指定する弁護士に引き継がせてもらいたいのだ」

「唐島監督の訴訟?まさか、あれが目的だったのか?」

「まあ、それはともかく、条件はこの2つだけだ。そうすれば、我々は何もしないし、むしろ、君のためになることをいろいろと考えたいと思う」

「私がT&Kを辞めても、唐島監督の訴訟をそちらの指定する人に引き継ぐということではだめなのか?」

「それはだめだ。唐島監督は、T&Kではなく君に依頼している訳だから、君が事務所を辞めたからって何も変わらないと思っている。それを、訴訟を残して事務所を辞めて、事務所が更にそれを他の人間に任せるなんていうのは、おかしいだろう。唐島監督が、不審に思うようなことは絶対にできない。君はT&Kに残り、君から直接、唐島監督に言ってほしいのだ。T&Kは訴訟の相手方の法律事務所に買収されてしまったので自分は唐島監督の代理人は続けられない、でも信頼できるいい弁護士を紹介する、と」

「何を要求されているかはよく分かった。とにかく急な話だから、少し時間をもらえないか」

「30分。30分したら、また電話するから、その時にイエスかノーで答えてくれ」

「分かった」

 

 君原は、秘書に本屋に行くと言い残して、事務所を出た。

 虎ノ門から新橋方向に歩きながら、君原は考えていた。結論は、電話を切る前にもう出ていた。あの男に逆らうことはできない。逆らえば身の破滅だ。ユナイテッドモータースの仕事は君原の全収入の4割近くを占めるから、それを失うわけにはいかない。懲戒とか損害賠償請求についてはあまり心配していなかったが、これが明らかになれば、ユナイテッドモータースが仕事を引き上げることは確実だった。アメリカの大企業は、こういうことについては非常に厳しい。

 神田信販へのアドバイスを書面でしたのは君原らしくないミスだった。ユナイテッドモータースの和解案が3通りあり、それぞれ和解金の算出方法が違っていたのでそれを正確に伝えようとしたのがあだになった。しかし今悔やんでも仕方がない。

 新事務所については、アソシエイト、パラリーガルを含め、君原についていくことを表明した者が数人おり、彼らに説明しなければいけない。君原が中心となって組織作りを始めていた法律事務所のネットワークも、T&Kに残るのであれば意味がなくなる。主唱者としてはみっともないことだが、抜けさせてもらおう、と君原は思った。

 30年前の、全共闘を抜けた時のことを思い出していた。自分は、何一つ変わっていない。大きな力の前には足が竦んでしまう。思想も、信念もない人間なのかもしれない。あの時、軽蔑する、という言葉を残して去っていった女がいた。希花は何と言うだろう。

 

 君原がT&Kに残ることが決定してから2日後に、SH&Gから50頁余りの買収契約書の草稿がクーリエで届いた。契約書の署名欄には、T&Kに残ることになった君原を含む15人のパートナーの名前が列記されていた。それから2日後、キングに率いられたSH&Gの代表団が来日し、契約書の最終の詰めに入り、その日のうちにサイン用の契約書が作成された。調印は、7月7日金曜日の午後6時から、T&Kの第1会議室で行われることになった。会議室の大きなテーブルの上には、日米両国の国旗を交差させた置物が、ブラインドの間から差し込む夏の日を受けて長い影を造っていた。 

 

 希花は、午後から大阪に出張することになっていたので、その準備をしていた。唐島訴訟の例の準備書面と書証は、君原が問題はないと言いながらなかなか返してくれず、希花は、月曜日の朝の法廷に直接持っていこうと思っていた。

 希花が事務所を出ようとした時に、清田から電話が入った。

「あの件だけど、面白いことが分かったよ」

「え、調べてくれたの?」

「普通は、こういうことはできないんだけど、無理を言ってやってもらった」

「それで、どうだったの?」

「前科はない」

「なんだぁ、そうかぁ……」

「彼女には、前科・前歴はなかった。でも、指紋の記録はあったんだよ」

「何で?」

「91年まで、在日外国人が外国人登録をする時には、登録原票と登録証に指紋を押さなければいけなかったんだよ。そのデータが警視庁には残っているんだ」

「在日韓国人?」

「そう。在日韓国人三世。李華美。29歳」

「そうかぁ。そういうことだったのか」

 希花は喫茶店で韓国語で電話をしていたクリスティーヌ川上を思い出した。でも、在日韓国人三世が何故アメリカから来たのだろう。




 7月10日月曜日、希花は訴訟の準備があったので9時10分に事務所に着いた。いつもであれば、まだ閑散としている事務所が、その日は何故かざわついていた。自分の部屋に着くまでに、巻尺を持ってパーティションの高さを測っている内装関係の人間らしい2、三名と、外国の弁護士らしき男2名とすれ違った。

 部屋に入ると、伊藤がコーヒーを飲んでいた。

「早いのね」

「落ち着かないので、いつもより早く来てしまいました」

「訴訟のこと?」

「あっ、先生は金曜日の午後いなかったんですよね」

「何があったの?」

「買収されちゃったんですよ」

「えっ!」

「金曜日の夜、第1会議室で買収契約の調印があって、我々は、SH&Gの東京事務所になったんです。今日の昼、我々は第1会議室に集められて、キングというヘッドパートナーのお話を聞かなければいけないようですよ」

「すごく急な話なのね。君原先生はどうしたの?」

「金曜日の夜遅く、君原先生の部屋に呼ばれてお話をうかがったんですが、君原先生は事務所に残ることに決めたそうです」

「ほんと?もう辞表は出したって聞いていたけど」

「それが、どうしても辞められなくなったようなんです」

「唐島監督の訴訟はどうなるの?SH&Gはハーキュリーズピクチャーズの代理人なのだから、私たちがこのまま唐島監督を代理することはできないわ。君原先生が外の弁護士を紹介するのかしら?」

「そこらへんははっきり言われなかったんですけど、どうも、SH&Gの息のかかった弁護士がやることになりそうですよ」

「それじゃあ、唐島監督の権利の擁護なんかできるわけないじゃないの。全然納得いかないわ」

「これは、君原先生の秘書から聞いたことなので、秘密にしておいてほしいんですけど……君原先生は、キングに脅されたらしいんですよ。例のデータベースをネタに」

「連中が盗っていったって言うの?それで、君原先生を辞めさせないようにしたの?でも何故?」

「君原先生が唐島監督の訴訟を持って出るのを阻止したかったらしいんですよ」 

 ジグソーパズルの最後の欠片が穴を埋めて、それまで意味を成さなかった形が、突然、一つの大きな絵になったような気がした。黒田の逮捕も、買収の話も、データベースを盗み出したのも、全部あの訴訟に勝ちたかったからだったのだ。それなら、あの山本六郎のところに川上らしき女が来て覚書を手に入れようとしたのも理解できる。あの訴訟が、彼らにとって何故それほどの意味があるのかは分からなかったが、スパイを送り込み、大統領をも動かすほどの、大事なものに違いなかった。

 

「君原先生が、事務所を辞めるか辞めないかというのは、君原先生の勝手ですけど、そのために、唐島監督の権利が守られなくなるとすれば、それはおかしいと思います。唐島監督には、誰の影響も受けないで、唐島監督の立場に立って判断できる弁護士が就くべきです。そして、その弁護士に対して、我々は全ての資料を引き渡して、今現在我々が持っている全ての情報を話すべきです。それをしなければ、我々は弁護士としての最低の職務を果たしていると言えません」

 君原は9時前から事務所に来ていて、忙しく動き回っていたが、法廷に行こうとカバンを取りに部屋に戻ったところを希花につかまった。

「それはよく分かるんだが……我々は、買収契約書にサインした時から、SH&Gの支配下にあるのだよ。だから、彼らの指示なしに勝手なことはできない……」 

「SH&Gの支配下にあるために、依頼者の権利が守れないというのなら、事務所を辞めればいいのだわ。先生は、彼らに何か弱みを握られているのかもしれないけれども、弁護士である以上、依頼者のために、自分が傷つかなければいけないこともあるでしょう。それができなければ、弁護士は辞めたほうがいいわ」

「……」

 君原は、顔を上げることができずに、机の上に広げた契約書を意味もなくめくっていた。

 

「滝川先生。随分恐い顔をしていますよ」と伊藤が言った。

「君原先生を見損なったわ。あんな男だとは思わなかった。今日の法廷は自分1人で行くって言っていたわ。きっと、あの覚書は握り潰すつもりだわ」

「……」

「伊藤先生、何か方法はないかしら。あの覚書を出さなければ、唐島監督は負けてしまうわ。君原先生に覚書を渡すんじゃなかった」

「一つ方法がありますよ」

「何それ?」

「書証を作る時に、甲号証のスタンプが上手く押せなかったコピーが1枚あるんですよ。それがまだとってありますから、それを原本として書証を作ればいいんですよ」

「そうかぁ。写しを原本として提出するっていうことね」

「それを提出することで、被告の提出した書証の証明力が大きく減殺される筈です」

 契約書はハンコを押したオリジナルのみが証拠となるわけではない。特に今回のような場合、被告の提出した書証の欠けている部分に何があったかを被告は証明し得ていないのだから、その部分を明らかにするコピーは大きな証拠価値を持つ。

 

 希花が611号法廷に駆け込んだ時、丁度3人の裁判官が退廷するところだった。

 原告被告の代理人もそれぞれ書類をカバンにしまい、帰り仕度をしていた。

「裁判長!」と希花が傍聴席の後方から叫んだ。

「原告……原告代理人の……滝川です」タクシーを降りてから全力で走って来たので、息が切れて言葉がうまく出てこない。

「甲第……甲第八号証を提出します」

 3人の裁判官が振り返った。

「滝川さん、あなたはもう解任されているんだよ」と君原は原告代理人席の隣に座っている弁護士を示して言った。「唐島監督が判を押した解任届けは今日裁判所に提出しました。勿論、私も伊藤先生も同時に解任されて、今はこちらの島原先生が原告代理人なんですよ」

 希花は茫然と立ちつくしていた。

 君原は今度は3人の裁判官の方を向き、「打合せが不十分で失礼いたしました」と言って一礼した。

 

 希花は、裁判所からオフィスへの道を1人で歩いていた。もう一度説明させてくれ、という君原を振り切って、希花は法廷を出た。話を聞く必要はなかった。希花は言い訳をする男が嫌いだった。

 朝方降った通り雨が舗石を濡らしていたが、夏の強い太陽がその跡を消しつつあった。街路樹の下を歩く希花の白い横顔に、木漏れ日が降りかかっていた。

 虎ノ門の交差点を渡り、商船三井ビルの前あたりに来たところで、希花は、反対方向から歩いてくる川上と目が合った。川上は重そうなボストンバッグを持っていた。今朝見たウィークリーレポートには、川上が急に帰国することになったと書いてあった。

 軽く会釈して通り過ぎようとした川上に、希花が呼びかけた。

「李華美」

 クリスティーヌ川上こと李華美は振り返った。

「そう。在日韓国人三世、李華美。生年月日1971年1月18日。同い年ね」

「そうだったら?」

 華美は動じることなく、希花の目を見ていた。

「聞きたいことがあるの」

「……」

「あなたは黒田先生のファイルを盗みだした。そして、データベースのファイルをアメリカに送信した。そのおかげで、黒田先生は逮捕され、君原先生は裏切った。そしてT&Kは買収された」

「……」

「あなたがやったんでしょ……全部あの映画のためだったの?」

「知らないわ……知っていても言えないわ」

「あなたは日本を憎んでいるの?日本で育った人なんでしょう?どうして、日本を売り渡すようなことをするの?私たちがあなた達に悪いことをしたから?」

「それには答えられるわ」

 華美は一言一言噛み締めるように言った。

「私は民族とは関係がない。民族も国家も私を守ってはくれない。私を守るのは私だけ」

「私達は自分を守らなかったということなのね」

「隙があれば狙われるわ」

「隙だらけだったのね」

 華美は黙っていた。答えは自明だった。

「もう帰るんでしょ。仕事が終わったから」

「そう」

「またどこかで会うかもしれないわね」

「世界のどこかでね」

「その時は負けないわ」

「楽しみにしているわ」

心地よい風が2人の間を通り過ぎた。

あの喫茶店で初めて川上を見た時から抱き続けていた敵意が消えていることに希花は気付いた。ひとつの戦いが終り、2人の戦士は相手に自分と相似の資質を認めていた。

「じゃあ元気で。アンニョン(さよなら)」

 韓国語で希花が言った。

「アンニョン ト マンナヨ(さよなら。また会いましょう)」

 華美は、一瞬微笑み、目礼して去って行った。




 1週間後滝川希花はバリ島にいた。

 

 何をおいても希花はひとりになりたかった。ここ3ヶ月程の間に起きたいくつかの事件については一応の説明は付けられたが、それが自分にとってどのような意味を持つかを考えると頭が混乱した。目をつぶっていれば元の平和で退屈な日々が戻ってくるような気もしたが、心の中にはそれは許されないと囁く声もあった。

 

バリ島は3度目だった。最初はヌサ・ドゥアのきれいなホテルに泊まり、2度目はクタのシャワーもないロスメン(民宿)に1ヶ月間滞在した。クタはビーチを10歩も行けば物売りに捕まる活気にあふれた場所で、その雰囲気が嫌いではなかったが、今希花に必要なのは静寂だった。

 希花が選んだのはヌサ・ドゥアのプトゥリ・バリという中級のホテルだった。日本人の利用者が比較的少なく、ぼんやりと考え事をするには良いのではないかと希花は思った。しかし、女性の一人旅だということが分かると、ヨーロッパから来ている男達がうるさくつきまとって来た。

 

 結局昼間は落ち着いて考え事をする環境にはなく、夜ベッドの中で考えていると目が冴えるだけで何の結論も出てこなかった。午前3時になっても寝付かれないので希花はホテルの庭を歩いてみようと思った。

 

 この時間は流石に外には人影はなく、昼間イタリア人の男達がバレーボールをして騒がしかったプールも静まりかえっていた。プールの脇を抜けると黒い海が広がっていた。波は静かで海も半分眠りについているかのようであった。

 波打ち際まで行って希花は波の引いた後の濡れた砂が光っているのに気付いた。波が宝石を運んで来たかのように青白く光るものが幾つも砂の中に残されていた。視線を移すと、波の引いた後の砂浜は遠くまで星空のようにキラキラと光っていた。夜光虫だった。

 希花は寄せてくる波に足が洗われる位置に腰を下ろした。ゆっくりと砂の上に仰向けに寝てみると、満天の星が覆い被さってきた。それは作り物のような星空だった。夥しい恒星がその存在を主張し、その背後には銀河が光の粉を撒き散らしたように横たわっていた。星空と夜光虫の光の間にはさまれて、希花は体が重さを失って夜空に浮上していくように感じた。流れ星が銀河をよぎり消えた。

 その時希花は自分の内部にある宇宙が外部の宇宙に呼応して震え、ひとつの秩序が生まれるのを感じた。無造作にばら撒かれたような星々がそれ以外にはない必然の位置にあることが確認され、宇宙は明白な意味を持った。

 

 弁護士を辞めよう、と希花は思った。法律は人間がつくった壮大な建物だが、天に届くものではない。いや、本当に天に向かって伸びていっているのかさえ定かではない。それを見極めるには法律という建物の外に立って眺めなくてはいけない。それが私に出来るかどうか分からないけれど、私も宇宙の一部なのだし、私の中にも宇宙がある筈だから、それを試みる資格はあるに違いない。

 そう考えると方程式の解答はおのずと明らかになった。まず、今の事務所は辞めよう。あそこにいても美しいものが見えてくるとは思えない。その後どうするかは気楽に考えよう。何をやっても勉強にはなるだろうし、また一生の選択をここでする訳でもない。やり残したことがあるとすれば唐島監督の訴訟だろう。あれをあのままにしておくことは出来ない。事務所を辞めれば私を拘束する者はいないのだから、唐島監督に助言することはできる。田代さんとは友達のようになっているから、彼女を通じて言えばいい。君原先生が裏切ったということまで伝える必要はないけれど、少なくとも有利な和解が出来るところまでは持って行きたい。

 

 天頂近くにひときわ輝く4つの星があった。あれが南十字星だろうか。4つの輝く星は希花の小さな決意を見守ってくれているようだった。 

 

*   *   *

 

 唐島監督の訴訟は、程なく和解で決着した。和解の条件は明らかにされていないが、ハーキュリーズピクチャーズは、唐島監督に相当な金額の和解金を支払ったとのことである。

 

 寺本がSH&Gのパートナーになる話はたな晒しにされ、1年後、雇用契約の満了により寺本はSH&G東京事務所を去った。もっとも、寺本はその前から弁護士業務に興味を失っていた。現在は、真鶴半島の海が見える丘の上にある別荘に引きこもり、100坪の菜園で過ごす時間を何よりも大切にしている。海を見ていると、時々、クリスティーヌ川上のことを思い出し、耐え難い程の寂しさを感じることがあるが、全てが夢の中の出来事だったようにも思える。

 

 黒田は、執行猶予付きの懲役判決を受け、弁護士に復帰する道はなくなり、黒田自転車店を継ぐことになった。黒田は、黒田自転車店をチェーン店化し、いずれ、日本一の規模にすることを夢見ている。

 

 李華美は、スパイ稼業を一時中断し、ロサンゼルスのロースクールに入った。3年後には、カリフォルニアで弁護士資格を取るつもりだ。

 

 君原は、SH&Gのパートナーになり、日米間を忙しく往復するようになった。いつの頃からか、君原の名刺の英文で表示された裏面には、Tetsuya Kimiharaではなく Ted Kimiharaと書かれるようになっていた。

 

 希花は、買収後間もなく事務所を辞め、知り合いの弁護士の事務所で、それまで経験のなかった刑事弁護の仕事を手伝っていたが、やがてその事務所からもいなくなった。翌2001年の弁護士名簿からは、滝川希花の名前は消え、その行方は杳として知れない。

 

(了)

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