- 1947年
- 東京都杉並区にて出生。
- 1953年
- 成城学園初等科入学
- 1957年
- 父(東京銀行勤務)の転勤に伴いニューヨーク市クイーンズに住む。2年半程同市の公立小学校及び中学校であるP.S.117及びP.S.217に通った。
- 1960年
- 区立和泉中学に編入学。
- 1963年
- 都立豊多摩高校入学。2年、3年と今や文豪(?)と言われる橋本治と同級だった。作文は私の方が上手いと思ったが、彼が歴代の天皇の名前をそらで言えるのにはびっくりした。
- 1967年
- 早稲田大学第一法学部入学。上祐史浩がいたことでちょっと有名になったESAという英会話サークルに入った。2年の時にTokyo Inter-Collageate Debate League (TIDL)で2位になったが、debateの天才と言われたことはない。
- 1968年
- 三島由紀夫に会う。
- 1971年
- 早稲田大学卒業。司法試験合格。
- 1972年
- 司法研修所入所。実務修習は福岡で行った。
- 1974年
- 司法研修所修了。ローガン・岡本・高島法律事務所入所。
- 1975年
- ミシガン大学ロースクールへ留学。
- 1976年
- 同卒業(Master of Laws)。
- その後ニューヨークのReid & Priest法律事務所で研修。この事務所のワシントンD.C.支店を訪問していた時ジョン・レノンとオノ・ヨーコに会った。会ったと言っても車の中から見ただけなのだが、車を運転していた若い弁護士が「自分は普通はこういう事はしないのだが」と言いながら二人を一回追い越した後ぐるりとまわってもう一度ゆっくりと2人のわきを通り過ぎた。ジョンはTシャツにジーパンでヨーコは黒っぽい大きなケープのようなものをかけていた。ジョンはヨーコの3歩程先を歩いていた。
- 1977年
- この頃安部公房の「砂の女」を米国で映画化するための契約を作成した。相手方は女優のラクウェル・ウェルチだった。ラクウェル・ウェルチとは会えなかったが安部公房とは何回か会って、安部公房スタジオの公演を何度か見に行った。安部公房は訥々と話しをする真面目な感じの人だった。結局映画は出来なかった。
- 1978年
- この頃三島由紀夫の「午後の曳航」をイギリスで映画化するための契約を作成した。三島(平岡)瑶子さんの依頼だったが、彼女は偶然私のボスの依頼者だったのだ。この小説は後に「The Sailor Who Fell From Grace With The Sea」という題名で映画化された。とても素晴らしい映画だった。瑶子さんの仕事では映画「憂国」を海外から回収する手伝いもした。 「憂国」は早稲田の学生の頃に見て大変感激したので、それを瑶子さんが廃棄しようとしていることには当惑を覚えた。
- 1980年
- この頃小説らしきものを書いていた。星新一ショートショートコンテストに応募したが一次予選で落ちた。
- 1981年
- 桝田江尻法律事務所入所。
- 1982年
- 大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」の国際共同製作契約を作成した。
- 1983年
- 黒澤明監督の映画「乱」の国際共同製作契約を作成した。
- 1984年
- 映画「乱」にエキストラとして出演した。
- 1985年
- 山咲千里と二人で食事をした。
- 1987年
- 篠田正浩監督の映画「舞姫」の国際共同製作契約を作成した。この頃大林宣彦監督や坂本龍一の仕事もしていた。
- 1990年
- 西野流呼吸法を始め由美かおる先生に飛ばされた。
- 1992年
- この頃黒澤明監督の代理人として東宝やMGMに対して訴訟を起こした。
- 1995年
- 乗杉綜合法律事務所を設立した。
- 1996年2月
- XANADU, HYPERTEXT等を生み出したTED NELSON教授来所。
- 1998年
- サイデンステッカーGと三島由紀夫について話す。
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