_ 今「ロッキー」のシリーズをDVDで観かえしている。1976年の「ロッキー」から1990年の「ロッキー5」まで5作品あるが、私は1982年の「ロッキー3」でいやになり、その後の作品は観ていなかった。
_ 「ロッキー3」は、世界ヘビー級チャンピオンの座を10回防衛し、銅像まで立ったロッキー(シルベスター・スタローン)が最強の挑戦者に敗れ、その戦いの直後にコーチのミッキーが死ぬ。失意のロッキーを前世界チャンピオンのアポロ・クリードが激励し、再起戦に向けて二人でトレーニングを始める。私が前に見ていやだったのは、ロッキーの愛妻エイドリアンが息子をフィラデルフィアの豪邸に残しサンフランシスコでのトレーニングについてくるところだ。汗臭い汚いジムでも、プールでも、海辺でも、どこへでもエイドリアンがべったりとついてくる。それを見てほとんど生理的といえる嫌悪を感じた。
_ 20年ぶりに「ロッキー3」を観て、ほとんど筋は忘れていたが嫌いな場面は記憶していた通りだった。やはり今回も不快だった。
_ そこでペタジーニの話になる。スポーツ紙によると巨人のキャンプにはペタジーニのオルガ夫人がついてきてべたべたしているとのこと。サンデーモーニングというTBSの番組があるが、その中に大澤(親分)、張本の両氏がスポーツネタに「喝」をいれるコーナーがある。ペタジーニとオルガ夫人については二人とも異口同音に「喝!」で、男の神聖な仕事場へ女房を連れてきてベタベタするなということだった。
_ これで終わってはオヤジのタワゴトになってしまうので考えてみた。
_ 神聖な仕事場とのことだが、キャンプの練習を地元のきれいどころや追っかけのギャルが見にくることには大澤、張本両氏もまんざらでもないのでは。日本映画でも、スポ根ものはいざ知らず、サラリーマンものだったら必ず主人公を励ます若い女子社員が出てくるはずだ。結局日本男子は仕事場を神聖と考えているわけではなく、女房がくるのがいやなだけなのだ。
_ さらに極論すれば、これは動物のオスとメスの戦いの結末が二つのかたちをとるのではないか。つまり、男は自分のDNAを広くばらまきたがるが、それには女房がじゃまになる。女は、育児期間の長い人類という種のメスの立場から、子供が成長するまでの餌運びと用心棒としての夫が他のメスに関心を持つことを阻止しようとする。
_ ロッキー・ぺタジーニと大澤・張本の違いが文化人類学の問題なのかよく分からないが、私が後者のグループに属しているのは確かだ。今の日本の若者はどう思うのだろう。