_ クリント・イーストウッド監督作品にしては切れが悪いと思った。
_ これは true story とのことで、キネ旬によれば登場人物の言葉なども史実に則していると。扱われた事件は奇想天外で、事実の重みには圧倒される。しかし、これがフィクションだったら脚本は詰め込みすぎで焦点が絞れていない失敗作だと思う。
_ 子供が失踪した母親の視点から描かれていて、感情移入しやすい。その反面他の人間が類型的で平凡だ。教会が善で、警察が悪という構図がどこかで変わるかと思っていたが、最後までそのままだった。
_ うそつきの子供と混乱している母親に翻弄される警察の視点で描いたらもっと面白いものが出来ただろう。
_ サイコパスの殺人犯には興味があるのでどんな人間なのか知りたかった。彼にとっての罪と神と赦しは何なのだろう。日本の犯罪史にはいない異常な怪物だ。
_ アンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、美人が泣き、怒り、叫ぶ姿はあまり見たくなかった。最後の方で、毛皮の襟がついた高そうなコートを着ていたのはそぐわなかった。多分これも史実なんだろうが。
_ 北川悦束子監督、北乃きい、岡田将生主演。
_ キネ旬の4月下旬号で、映画評論家の江戸木氏が、「即興演技で映画を作ることの致命的な勘違い」、「映画における自然体とはきっちりと作りこむことで創造できるものだ」と言っている。
_ この映画のタイトルは、北乃きいが halfway を読み間違えた(演技ではなく)のをそのまま使っている。
_ 私は、この映画が好きだが、多分フィクションというよりドキュメンタリーとして好きなのだろう。作られたセリフは何回も繰り返せるが、アドリブは一回きりだ。
_ 北乃きいが halfway をハルフウェイと読み違えることは今後ないだろうから、あの場面は彼女の人生における唯一の瞬間を捉えたことになる。
_ 即興演技による映画が傑作になることは稀であり、そのためにはストーリーの登場人物と役者が近似していて、役にはまり込んで現実の自分と区別がつかなくなるほどの状況が必要だろう。
_ 映画における自然体がきっちりと作りこまれたものである必要があるかは、監督によって見解が異なると思う。黒澤明はそれを必要とし、大島渚は必要としないだろう。演技の新鮮さを重視する監督は作りこまれた完成度より勢いを取るようだ。
_ 「ハルフウェイ」は演出を放棄しているようで、実際は手のひらの上で二人の若い役者を動かしているという、奇跡的な作品だ。
_ 「ハルフウェイ」について書いていて考えたのだが、そもそも自然体の演技はありうるのだろうか。
_ 自然体に見える演技はあるだろうが、それはあくまでも脚本家や演出家が作り上げたものだ。では、ドキュメンタリーなら自然体が見られるかといえば、カメラの存在が邪魔になる。よくタレントの一人旅のテレビ番組があるが、自分でカメラを回していなければ、必ず二人以上の旅なのだ。
_ じゃあ、我々はカメラのないところで自然体かというと、そうとも言えない。他人に見られていると思えばその視線を意識して一人で演技する。他人がいない場合でも、もう一人の自分が自分を見ていることを感じる。自意識がある限り我々は演技し続ける。
_ たとえば、泣くという行為を考えてみれば、そこには色々な計算が働いていることが分かる。現実には純粋な感情など存在しない。仮にあったとしても、その感情を分析してみれば、利害打算などの夾雑物によって損なわれている。
_ そこで、本当の純粋な感情は演技によってのみ作り出せるという考えが生まれる。
_ 「ハルフウェイ」で行われたのは、多分こんなことだったのだろう。
_ 北乃きいに、あなたはシュウという同級生が大好きな女の子という役だ、そのシュウに告られ喜ぶが、シュウは東京の大学に行きたいという、と状況を説明する。その後は二人の自由に演技させる。
_ 設定された「好きだ」という感情には理由はなく、分析することでその感情が消えることはない。ひたすら好きだと思えばいい。二人の将来のことを考える必要はない。映画の撮影の期間のみの関係なのだ。
_ このような舞台と役を与えられたら、夾雑物のない純粋な感情がはじけて、人物は自然に動き出す。
_ 「ハルフウェイ」の中の北乃きいは現実の北乃きいより自然だったかもしれない。
_ 最高裁は林真須美被告が犯人であることに合理的な疑いを差し挟む余地はないと言った。
_ 裁判員がこのような事件を判断する場合、この「合理的な疑いを差し挟む余地」があるかないかで悩むことになる。私が司法修習生だったとき、研修所の刑事裁判の教官に、何パーセントの確信があったら有罪の認定をしていいのかを訊いた。教官は100パーセントだと言った。
_ しかし、実際のところ、自分が体験したことであっても100パーセントの自信を持って言えることは少ない。例えば、昨日の会議で話されたことの半分は既にあいまいになっている。
_ 「合理的な疑いを差し挟む余地」にも幅があるはずだ。附属池田小学校児童殺傷事件の宅間守が犯人でない可能性はほとんどゼロだろう。それに比べて林真須美が犯人でない可能性はかなりありそうだ。
_ 犯人である確率に差がある二人が「合理的な疑いを差し挟む余地はない」というマジックワードで同じ評価を受け同じく死刑に処せられるのは納得がいかない。
_ 教官の言う100パーセントの確信からも分かるように、現在の刑事裁判では裁判官が絶対的な真実を認定できるという幻想が支配している。刑事裁判においては間違いはあってはならないという命題から、裁判官の認定した事実は疑いようがない真実であると言い切ってしまう。
_ これは権威による社会秩序の維持という目的のためには必要なフィクションかも知れないが、一般人である裁判員にとっては自分の認定した事実が真実であるという自信はないであろう。ここに葛藤が生まれる。
_ 一つの解決法は確率の概念の導入だ。有罪である確率を算定しそれを量刑と結びつける。例えば、林真須美が六割の確率で犯人だと認定したら刑は有期懲役刑にするというような方法だ。これで極端な誤審は防げ、社会正義もある程度達成できる。