_ 最高裁は林真須美被告が犯人であることに合理的な疑いを差し挟む余地はないと言った。
_ 裁判員がこのような事件を判断する場合、この「合理的な疑いを差し挟む余地」があるかないかで悩むことになる。私が司法修習生だったとき、研修所の刑事裁判の教官に、何パーセントの確信があったら有罪の認定をしていいのかを訊いた。教官は100パーセントだと言った。
_ しかし、実際のところ、自分が体験したことであっても100パーセントの自信を持って言えることは少ない。例えば、昨日の会議で話されたことの半分は既にあいまいになっている。
_ 「合理的な疑いを差し挟む余地」にも幅があるはずだ。附属池田小学校児童殺傷事件の宅間守が犯人でない可能性はほとんどゼロだろう。それに比べて林真須美が犯人でない可能性はかなりありそうだ。
_ 犯人である確率に差がある二人が「合理的な疑いを差し挟む余地はない」というマジックワードで同じ評価を受け同じく死刑に処せられるのは納得がいかない。
_ 教官の言う100パーセントの確信からも分かるように、現在の刑事裁判では裁判官が絶対的な真実を認定できるという幻想が支配している。刑事裁判においては間違いはあってはならないという命題から、裁判官の認定した事実は疑いようがない真実であると言い切ってしまう。
_ これは権威による社会秩序の維持という目的のためには必要なフィクションかも知れないが、一般人である裁判員にとっては自分の認定した事実が真実であるという自信はないであろう。ここに葛藤が生まれる。
_ 一つの解決法は確率の概念の導入だ。有罪である確率を算定しそれを量刑と結びつける。例えば、林真須美が六割の確率で犯人だと認定したら刑は有期懲役刑にするというような方法だ。これで極端な誤審は防げ、社会正義もある程度達成できる。