_ 漫画家花輪和一が銃砲刀剣類等不法所持、火薬類取締法違反で懲役3年の実刑判決を受け日高刑務所に入った実話に基づく映画。原作の漫画は以前読んで面白いと思った。原作のある映画は先に原作を読んでしまうとつまらなく感じることが多いのであまり期待していなかった。
_ ところが、実に面白かったのだ。漫画を読み返してみたが、ほとんどのエピソードが漫画の中にあったしセリフも同じものが多かった。それでいて映画には漫画にはない味があった。山﨑努をはじめに俳優がうまかったということはあるが、それだけでは漫画を超えられない。
_ 多分それは映画にあって漫画にないもの、動きと音ではないか。
_ 刑務所では何をするにも許可が必要だ。花輪が作業場で消しゴムを落としたとき、彼は手を上げて「願いまーす!」と大声をあげる。それを認めた刑務官は派手な動きで花輪を指差し太い声で「はい!」と叫ぶ。すべてが大げさで絵になる。運動場までの行進の「いちにいちに」や天突き体操の「よおいしょー」の掛け声、作業場から便所に行くときの小走りの動き、作業を始める前の手こすり、いずれも理屈なしに面白い。
_ 漫画で印象的だった刑務所の食事は映画でも力を入れて描かれていた。刑務所では食事が一番の楽しみで、それが美味いのだ。正月はとくにご馳走がでる。漫画でもそうだったが映画も食堂のメニューのように料理を映し出す。あじのフライなど、とてもおいしそうだった。花輪と別の部屋の囚人原山との運動場での会話。「ご飯にしょうゆをかけると美味しいね」「そうだね」「ソースをかけても美味しいよ」「今度やってみよう」には何かほのぼのとした気分になり家でやってみようかと思ったが結局やらなかった。多分シャバでは美味くないに違いない。
_ いわゆる力作ではなく、このような自然体の映画を国際映画祭に出すべきではないかと思った。もっとも、世界には日本の刑務所が天国に見える国が沢山あるから、それを目当てに外国から人が来るのも困ったことだろう。
_ 日本人宇宙飛行士向井千秋さんは「3度目の飛行の機会があれば乗ってみたい」と言っている。今回の事故の結果、スペースシャトルによる死亡事故の確率は多分100分の1ぐらいになっただろう。それでも行くというんだから宇宙飛行士は勇敢なんだと感心した。でも、考え方によっては、それほどでもないかもしれない。
_ 私の高校のクラスは卒業から30年以内に4人が死んでいる。これはクラスの人数の約10%で、3年間では1%の割合になる。この割合が一般的だと仮定して、もし向井さんの次のフライトが3年先だとすると、それまでに彼女が宇宙飛行と関係なく死ぬ確率は1%ということになる。つまり、向井さんが待機期間中に死ぬ確率と宇宙飛行で死ぬ確率は同じなのだ。
_ 今回のような事故に遭遇して人がよく犯す誤りは、死を色で言えば真っ黒と考え、生を真っ白と考えることだ。本当は生の中にも死は混在していて、真っ白ということはない。死と生の違いは黒と灰色の違いなのだ。
_ 無事生還した宇宙飛行士も1ヵ月後に交通事故で死ぬかも知れず、いずれにせよ永久に生きる人はいない。生きているということは、まだ死んでいないということでしかなく、シャトルの打ち上げ時の傷がその2週間後の運命を規定したように(と現在では言われている)、我々もいずれ致命的となる傷をどこかに持ちながら生きているのだ。
_ シャトル事故の話の続きだが、quality of death ということについて考えてみたい。
_ 生について、快適な生と苦しみの生があるように、死にもいい死と悪い死がある。コロンビアの乗組員の死を悲劇的に受け止めるのが一般的だが、彼らはそれほど不幸なのだろうか。
_ 無事帰還できていたら、彼らは待っている家族と会えたし、国民的英雄になれた人もいただろう。しかし、無事であった彼らにもやがて死が訪れ、それがどのようなものになるかは誰にも分からない。
_ 日本人の死について考えれば、ガンや他の成人病に冒され入退院を繰り返し、その間家族に苦労をかけ、やがて病院のベッドが住処となり、回復の見込みがないにもかかわらず薬と器械で延命が図られ、早く死ぬことだけを願う日々を送る。これが日本のみならず現代の文明国の多くの人々の最期の姿だろう。
_ コロンビアの乗組員の場合はどうだっただろう。まず彼らは任務中の死についてその可能性を認識し、そうなってもいいと覚悟していただろう。1999年にNASA高官がシャトルの本体が失われるほどの事故の確率は245分の1だと言っていたそうで、この数字は商用ジェットの事故確率が100万回の飛行につき一回であることに比べればとてつもなく大きい。
_ そのとき乗組員は任務を無事完了し、満ち足りた気持ちで帰還に臨んでいたのだろう。宇宙飛行士を志した人にとってはその時間は人生の最高の時ではなかったか。そして、機体に異常が発生し、やがて帰還が不可能であることを悟ったのだろう。
_ この最後の数分間を地獄のようだったに違いないと言う人がいる。私はそうは思わない。彼らは旅客機の乗客のように受身の存在ではない。積極的に自然に戦いを挑んだ冒険者たちだった。その挑戦が自然に阻まれ死の結果が生じることは彼らにとっていささかも不名誉なことではない。冒険者にとって北極や南極やエベレストで死ぬことは最高の死ではないか。宇宙飛行士は冒険者ではないというかもしれないが、死に直面したときの気持ちには共通したものがあるに違いない。
_ 最期の数分間は神が与えてくれた時間だったのかもしれない。チャレンジャーの時のように突然爆発してしまうと考える暇もないが、1分でもあれば自分の人生を振り返れる。大きな流星のように光を放ちながら青い地球に落ちていくとき、彼らはなにを思っただろう。そんな彼らを私はうらやましく思
_ 「羊たちの沈黙」と「ハンニバル」に先立つ物語。
_ それなりに面白かったが、致命的な欠点もある。先ずハンニバル・レクターの登場場面がほとんど刑務所の中ということ。これは原作がそうだから仕方がないのかもしれないが、前2作を見ていない人には、ハンニバルはうるさいジジイくらいにしか見えないだろう。
_ 次に殺人鬼ダラハイドの正体がすぐバレてしまうこと。これもダメとは言いきれないが、最悪なのはダラハイドがあまりにもデリケートでひ弱なこと。ダラハイドは幼少期の虐待がトラウマになって、ウィリアム・ブレイクが描いた「大いなる赤き竜と日をまとう女」(竜は生まれてくる子供を食おうと待っているのだそうだ)の red dragon がとりつき殺人鬼になったとされる。彼は過去のトラウマに苦しめられ、ドラゴンからも逃れようとするが果たせず殺人を繰り返す。
_ 小説はこのトラウマについて詳しく書いているようだが、映画ではこれが邪魔になる。映画は物事を深く考えるのに適さないメディアで、自分のペースで時間をかけて楽しめる小説とは違う。映画の観客は単純でスッキリした感動を味わおうとしているから、殺人鬼に同情するようになっては困る。とくに最後の場面では、主人公がダラハイドに過去の傷をえぐるような言葉を投げつけ、これが決め手になるので、後味が悪い。
_ 私が脚本化であれば、トラウマには言及せず、レッド・ドラゴンとダラハイドの関係のみを取り上げる。レッド・ドラゴンに支配される存在でも悪くはないが、レッド・ドラゴンを超えて自ら神になろうとする男にしたら面白いだろう。自分が神でであることを証明するために殺人が必要だとするのだ。映画もその方向に進むのかと思わせるセリフがあって期待したが、結局殺人依存症の病人の話になってしまった。
_ 実在した神になろうとした殺人鬼のなかで一番すごいのは麻原彰晃だろう。彼は世界史的にみてもトップクラスではないか。彼は今でも狂気を貫いており、敗れたわけではない。ひょっとすると麻原彰晃の物語はまだ終わっていないのかもしれない。彼に比べればダラハイドはもとよりハンニバルでさえ小物でしかない。
_ 「千と千尋」が長編アニメ賞にノミネートされたとのこと。対抗馬は「アイス・エイジ」しか観ていないが、レベルが違う。
_ ところで、1985年には監督賞、美術監督賞、装置賞及び衣装デザイン賞で黒澤明監督の「乱」がノミネートされた(和田エミが衣装デザイン賞を受賞)が、日本のマスコミはほとんど関心を寄せなかった。監督本人が言っていたように日本は黒澤明には冷たかった。
_ 2002年度キネマ旬報日本映画ベスト・テンで345ポイントを取り圧倒的な差(2位の「刑務所の中」は199ポイント)で1位になった山田洋次監督作品。
_ 幕末の小藩の平侍井口清兵衛は内職をしなければ生活できないほど貧乏で、思いを寄せる親友の妹朋江を嫁にとることも出来ない。そんな清兵衛も昔は有名道場の師範代をしていた剣の達人で、その腕を見込まれて藩から反対派の侍余吾善衛門を討つよう命ぜられる。
_ 力作ではあるが、色々と納得できないところがあった。
_ ・親友さえも清兵衛の剣の腕前を知らないのは不自然だ。後で観客をビックリさせるつもりなのだろうが、ストーリーの真実らしさが失われる。
_ ・剣の能力を使えば貧乏をすることはなかったのではないか。趣味で貧乏をしているように見える。
_ ・なぜ清兵衛は剣の能力を隠していたのか。並外れた能力を持つ人間が正体を隠して生きるには、それなりの理由がなければおかしい。謙虚な人だと言いたいのかもしれないが、過剰な謙虚さはイヤミになる。
_ ・余吾を討ちに行く前、清兵衛は朋江に思いを打ち明けるが、なぜこのタイミングなのか。死ぬことを前提にしているのなら、朋江に哀しみを残すことになる。勝って禄が上がることを期待しての口説きなら打算的だ。いずれにしても男らしくない。
_ ・余吾を討つのに藩は一人づつ討手を差し向ける以外に手段はなかったのか。なぜ多勢で討たないのか。余吾の名誉に配慮した対応に見えるが、そのような説明はなかった。
_ ・藩はなぜ清兵衛を選んだのか。昔師範代をしていたとしても、長いこと剣から離れていた人間を選ばざるを得ないほど人材がなかったのか。
_ ・余吾は、裏山を越えて逃げたいと言い、清兵衛はそれを助けようとした。しかし、本気で逃げるなら討手が来る前に一人で逃げればよかったではないか。見張りもいなかったようだし。
_ ・清兵衛は余吾が斬りかかってきたとき、すぐには小太刀を抜かず説得しようとした。これは剣豪である相手に失礼ではないか。清兵衛というより監督の偽善を感じる。
_ ・清兵衛は余吾の刀が鴨居に刺さったのを見てから胴を払った。これでは素手の人間を斬ったことになる。この場面は「椿三十郎」の三船と仲代の対決のように余吾が刀を振り下ろした瞬間に清兵衛が胴を払えばよかった。そのあと余吾の手が刀を離れるが刀は宙に浮いたままになる。そしてカメラが鴨居に刺さっている刀を捉える。
_ 映像はきれいで真田広之、宮沢りえなどの演技はよかった。問題は脚本だ。この手の話は運命の力を観客に印象付けることが大事だ。多くの選択肢の中から最も苛酷なものを選ばざるを得ないところに悲劇の美がある。山田洋次の脚本にはそのような厳しさがない。
_ 黒澤明のように、優秀な脚本家と共同で批判し合いながら本を書けば上記のよういな欠点は少なくなったろう。そのためには製作会社が脚本に金と時間をかける必要がある。
_ レイプの後から前へと時間を遡っていく。未来は決定されていると書いている本の話や予知夢が運命が変えられないことを示し(映画の原題は「IRREVERSIBLE」)、最期の画面に「時はすべてを破壊する」というフランス語が表示される。
_ 映画自体はさして傑作とも思えず、やたらカメラを回す撮影は気分が悪くなった。もっとも私はモニカ・ベルッチが目当てなので満足した。
_ モニカ・ベルッチをはじめて見たのは1995年のフランス、イタリア、スペイン合作の映画「アパートメント」で彼女はロマーヌ・ボーランジェと共演していた。この映画はたまたま近くのTSUTAYAでめぼしい作品を観尽してしまったので、サスペンスの棚の「あ」から観ていこうと思って手に取ったものだった。あまりの美形に感動して他の出演作を探したが、本職はモデルなのでコッポラの「ドラキュラ」に脇役で出ているくらいだった。
_ その後「マレーナ」に主演して日本でもメジャーになった。
_ 今回のモニカはやはり美しかったが、惜しげもなくさらされる肢体は20代のそれではなかった。「時はすべてを破壊する」という言葉は残酷な真理だ。
_ 今「ロッキー」のシリーズをDVDで観かえしている。1976年の「ロッキー」から1990年の「ロッキー5」まで5作品あるが、私は1982年の「ロッキー3」でいやになり、その後の作品は観ていなかった。
_ 「ロッキー3」は、世界ヘビー級チャンピオンの座を10回防衛し、銅像まで立ったロッキー(シルベスター・スタローン)が最強の挑戦者に敗れ、その戦いの直後にコーチのミッキーが死ぬ。失意のロッキーを前世界チャンピオンのアポロ・クリードが激励し、再起戦に向けて二人でトレーニングを始める。私が前に見ていやだったのは、ロッキーの愛妻エイドリアンが息子をフィラデルフィアの豪邸に残しサンフランシスコでのトレーニングについてくるところだ。汗臭い汚いジムでも、プールでも、海辺でも、どこへでもエイドリアンがべったりとついてくる。それを見てほとんど生理的といえる嫌悪を感じた。
_ 20年ぶりに「ロッキー3」を観て、ほとんど筋は忘れていたが嫌いな場面は記憶していた通りだった。やはり今回も不快だった。
_ そこでペタジーニの話になる。スポーツ紙によると巨人のキャンプにはペタジーニのオルガ夫人がついてきてべたべたしているとのこと。サンデーモーニングというTBSの番組があるが、その中に大澤(親分)、張本の両氏がスポーツネタに「喝」をいれるコーナーがある。ペタジーニとオルガ夫人については二人とも異口同音に「喝!」で、男の神聖な仕事場へ女房を連れてきてベタベタするなということだった。
_ これで終わってはオヤジのタワゴトになってしまうので考えてみた。
_ 神聖な仕事場とのことだが、キャンプの練習を地元のきれいどころや追っかけのギャルが見にくることには大澤、張本両氏もまんざらでもないのでは。日本映画でも、スポ根ものはいざ知らず、サラリーマンものだったら必ず主人公を励ます若い女子社員が出てくるはずだ。結局日本男子は仕事場を神聖と考えているわけではなく、女房がくるのがいやなだけなのだ。
_ さらに極論すれば、これは動物のオスとメスの戦いの結末が二つのかたちをとるのではないか。つまり、男は自分のDNAを広くばらまきたがるが、それには女房がじゃまになる。女は、育児期間の長い人類という種のメスの立場から、子供が成長するまでの餌運びと用心棒としての夫が他のメスに関心を持つことを阻止しようとする。
_ ロッキー・ぺタジーニと大澤・張本の違いが文化人類学の問題なのかよく分からないが、私が後者のグループに属しているのは確かだ。今の日本の若者はどう思うのだろう。