_ シャトル事故の話の続きだが、quality of death ということについて考えてみたい。
_ 生について、快適な生と苦しみの生があるように、死にもいい死と悪い死がある。コロンビアの乗組員の死を悲劇的に受け止めるのが一般的だが、彼らはそれほど不幸なのだろうか。
_ 無事帰還できていたら、彼らは待っている家族と会えたし、国民的英雄になれた人もいただろう。しかし、無事であった彼らにもやがて死が訪れ、それがどのようなものになるかは誰にも分からない。
_ 日本人の死について考えれば、ガンや他の成人病に冒され入退院を繰り返し、その間家族に苦労をかけ、やがて病院のベッドが住処となり、回復の見込みがないにもかかわらず薬と器械で延命が図られ、早く死ぬことだけを願う日々を送る。これが日本のみならず現代の文明国の多くの人々の最期の姿だろう。
_ コロンビアの乗組員の場合はどうだっただろう。まず彼らは任務中の死についてその可能性を認識し、そうなってもいいと覚悟していただろう。1999年にNASA高官がシャトルの本体が失われるほどの事故の確率は245分の1だと言っていたそうで、この数字は商用ジェットの事故確率が100万回の飛行につき一回であることに比べればとてつもなく大きい。
_ そのとき乗組員は任務を無事完了し、満ち足りた気持ちで帰還に臨んでいたのだろう。宇宙飛行士を志した人にとってはその時間は人生の最高の時ではなかったか。そして、機体に異常が発生し、やがて帰還が不可能であることを悟ったのだろう。
_ この最後の数分間を地獄のようだったに違いないと言う人がいる。私はそうは思わない。彼らは旅客機の乗客のように受身の存在ではない。積極的に自然に戦いを挑んだ冒険者たちだった。その挑戦が自然に阻まれ死の結果が生じることは彼らにとっていささかも不名誉なことではない。冒険者にとって北極や南極やエベレストで死ぬことは最高の死ではないか。宇宙飛行士は冒険者ではないというかもしれないが、死に直面したときの気持ちには共通したものがあるに違いない。
_ 最期の数分間は神が与えてくれた時間だったのかもしれない。チャレンジャーの時のように突然爆発してしまうと考える暇もないが、1分でもあれば自分の人生を振り返れる。大きな流星のように光を放ちながら青い地球に落ちていくとき、彼らはなにを思っただろう。そんな彼らを私はうらやましく思