_ 2日のテレビ東京10時間ドラマ「忠臣蔵~決断の時」をみて、9・11のテロと似ていると思った。
_ 類似点を挙げて見よう。いずれも多人数かつ組織的で、時間をかけて周到に準備された決死の行動だ。動機については、忠臣蔵は主君の無念を晴らすということで、9・11は(多分)イスラムの西欧に対する積年の恨みを晴らすことで、似ている。効果についても、その結果なにかを得ようという意図は希薄で(忠臣蔵においては、浅野家の再興はなく、吉良家が滅亡するわけでもない。9・11も、あれで米国が滅びるわけではなく、打撃は象徴的なものだ)、行為自体が目的である純粋行動のようにみえる。大衆の反応はといえば、いずれも事件の直後から賞賛され(9・11はイスラム圏において)、行為者もそのような反応を予想し、もしくは、そのような期待に応えるべく行動したようにみえる。
_ 似ているからどうだというわけではないが、9・11が理解しやすくなるかもしれない。
_ もっとも、私は忠臣蔵は好きになれない。忠臣蔵をルーツにもつといわれるヤクザ映画は好きだが、両者には根本的な違いがあると思う。忠臣蔵は集団の行動を描く。集団への帰属が大きなテーマとなる。ヤクザ映画は集団と個人の葛藤を描く。個人の価値観が集団のそれと異なれば個人は集団に逆らうことがあるし、一致する場合にも行動は集団の力を頼らない。昭和残侠伝の高倉健は、はやる組員をなだめて一人で殴り込みをかける。そこで行き会う池部良も、高倉とは違った動機で行動を共にする。
_ 正月にまとめて観ようと思って借りてきたビデオの中に「ブリジット・ジョーンズの日記」があった。面白い映画だったが、日本人は cruel race だというセリフにひっかかった。ある男が日本人の女に裏切られたという話だが、別に日本人にこだわる場面ではなかった。映画自体も他に人種を揶揄するような場面はなかった。唐突だったので不思議に思った。
_ 忠臣蔵を観てからもう一度あの cruel race という言葉を思い出すと意外と抵抗がなかった。正月に10時間の殺戮劇を観る人種は変なのかもしれない。
_ 新聞は北朝鮮のNPT脱退を瀬戸際外交だと言っている。本当にそうだろうか。金正日は国家の自殺を考えている可能性がある。
_ 死期が迫っている病人が自殺を考えるのはむしろ普通のことだろう。経済的にも外交においても行き詰まった国家が、滅ぼされる前に自ら滅びようとするのは異常だろうか。前例がないというかもしれないが、宗教団体では人民寺院やブランチダヴィデアンの例がある。オウムもその変形だ。北朝鮮は近代国家というより巨大な新興宗教と見るべきであり、国家としては前例のない事態をひきおこす可能性がある。
_ 単に自爆するだけならいいと思うかもしれないが、それはないだろう。金正日は歴史に自らの名前を残すことを考えるだろう。国家としては滅びても主体思想と朝鮮民族の誇りを世界に印象付ける方法をとるだろう。
_ 金正日は映画監督だったという。韓国から映画監督を拉致したこともある。そこにヒントがある。
_ 映画監督は映像のことを「絵」と呼ぶようだが、映画を作る動機も絵を描きたいという人が多いのではないか。小説家やシナリオ作家から映画監督になった人は筋やセリフを重視するのかもしれないが、画家であった人(例えば黒澤明)にとっては絵の連続が映画であるようだ。
_ 金正日がどちらのタイプか分からないが、今の情況を自分が監督する最後の映画と考えている可能性はある。
_ 現実と虚構を混同する芸術家は多い。中には現実を変えるほどの意志と実行力を持った人もいて、三島由起夫はその代表選手だ。そのタイプの芸術家が2000万の国民に対する絶対的な権力を持ち、核兵器とミサイルを手にしたと考えてみよう。
_ (続く)
_ 芸術にとって「滅び」は重要なテーマだが、映像作家であれば「大都市の崩壊」は描きたい絵のひとつだろう。私の観た映画の中では、大都市の崩壊に異常な執着をみせる大友克洋の「アキラ」が印象に残る。
_ 実写ではCGの活用によってこのようなシーンも描けるようになったが、まだ物足りない。いずれにしても、ニューヨークや東京のような大都市が崩壊するところは誰も見たことがなく、映画監督としては魅了される光景だろう。
_ 金正日にはこの場面を演出する手段がある。自前の核兵器をまだ製造していなくても、旧ソ連から流出したものを持っている可能性はある。最近の強気な姿勢はそれなしには考えにくい。
_ 金正日は偉大なる父金日成に対してインフェリオリティコンプレックスがある。父が築いた王国を荒廃させるしか能がなかった道楽息子としては、何か父が出来なかったことをしてから死にたいだろう。朝鮮半島で米軍と戦うことではない。それは父がすでにやっている。選択肢は限られている。米国が遠すぎるのであれば日本しかない。東京を火の海にすれば父も喜んでくれるのではないか。
_ 楽しい想像ではないが、これが彼の妄想かもしれない。
_ 別に相撲ファンではないのだが、ここ数日6時近くなると事務所でテレビをつけて貴乃花の相撲を見る。この勇姿を見られるのも今日が最後かな、という感慨を抱いて見る。貴乃花というより最後の横綱として見る。
_ 曙や武蔵丸が横綱としてダメだというわけではない。彼らは普通の日本人の何倍も努力をして異国で頂点に立ったのだから尊敬に値する。しかし、それとは次元の違う話なのだ。
_ 出番を待ち土俵を見上げる貴乃花の姿にはなんとも言えない色がある。薄目を開いて、土俵ではないもっと遠くを見ているようでもあり、時々微笑がうかび、仏像のようにも見える。奇跡のように、日本の美がここにある。そして失われようとしている。
_ 二つの「if」について考えてしまう。ひとつは、もし一昨年の夏場所、武双山戦で負傷したとき休場していれば。もうひとつは、今場所再出場せずに治療に専念したら。いずれも貴乃花は常識では考えられない決断をしたが、結局この度の引退という結果になった。これを「挑戦」と呼ぶ人もいるが、むしろ破滅に向かって突き進んで行ったように思える。葉隠的な死の美学に魅せられたかのように。
_ 1ヶ月ほど前、たまたまNHKで貴乃花のインタビュー番組を見た。彼は、ゆっくりと、でも熱心に話し、その言葉は孤独な修行のなかで熟成した重みと味わいをもっていた。
_ 貴乃花の最後の勝負は皮肉だった。相手は初顔の安美錦で、貴乃花の使える唯一の武器である右手を封じる作戦にでた。貴乃花の左手はほとんど動かず、木偶のように安美錦に振り回され踊らされ、送り出された。雅山の投げや出島の突進に敗れたのなら、まだ玉砕の美学があったかもしれない。しかし、現実は容赦なく無残だった。作り物のドラマと違って本当の悲劇はこのように無情なものなのだろう。
_ 昨日の引退会見を見ていて、これでよかったのかなとも思った。貴乃花にとってはこの結末も意外なものではなかったのかもしれない。そんな大きさを感じた。
_ 最近丸ビルの35階と愛宕グリーンヒルズの42階で晩飯を食べた。いずれも夜景が評判の店でとくに愛宕グリーンヒルズは素晴らしかった。一年半ほど前に建ったビルで私は初めてだったが、この数ヶ月で夜景は随分と変わったに違いない。180度の視野の中に左から丸の内、銀座、汐留、お台場の観覧車とレインボーブリッジ、東京タワーと遠く右手には品川の超高層が見える。
_ 東京の超高層ビル群は少し前までは新宿だけだったのが、今はそこらにある。
_ 30年近く前、アメリカ留学をしていた時、父の関係で東銀のニューヨーク支店長のお宅に御邪魔したことがあった。そこはマンハッタンの50階以上あるコンドミニアムの最上階だった。リビングルームに通されると、目の前に手が届くほど近くにオレンジ色に輝くエンパイアステートビルがあった。この時の光の海の中に聳え立つエンパイアステートビルの姿は、「未知との遭遇」のUFOの母船と共に、私にとって最も忘れられない光の造形物だった。
_ 30年の歳月を経て東京も「100万ドルの」といえるような夜景を誇れるようになったようだ。東京の夥しい光と巨大なビル群を見ながら、これが衰退しつつある国家の首都なのだろうかと考えていた。高層街のレストランはいずれも満席で、バブルの頃と違って、社用族ではなく若いカップルや家族連れでにぎわっている。このギャップは何なのだろうか。