_ ネタバレあり。
_ 本年度のアカデミー賞4部門受賞の問題作。
_ 物語は麻薬組織同士の殺し合いの現場に遭遇したカウボーイが放置された200万ドルを持ち去るところから始まる。それを追う麻薬組織の殺し屋。その両方を追う保安官。ここまではよくある活劇だ。でもコーエン兄弟はありふれた設定から意外な世界を描き出す。
_ 力も知恵もあるカウボーイは殺し屋を出し抜くかと思われる。しかし、途中であっけなく殺される。壮絶だったはずの銃撃戦はカットされカウボーイの死体だけが映される。サイコキラーでもある殺し屋が無意味で不可解な殺戮を重ね、カウボーイの残された妻に迫る。
_ 保安官はカウボーイの死後主役的立場になるが、犯罪を阻止することは出来ず、カウボーイの妻も殺される。
_ 仕事を満足に終えた殺し屋はゆっくり自動車を走らせ青信号を確認して交差点に入る。そこに突然右から暴走車が突っ込む。左腕の骨が突き出るほどの重症を負った殺し屋はそれでも破いたシャツで手を吊っていずこへか去っていく。そこで映画は終わる。
_ ここには勧善懲悪はなく、ヒーローのための栄光ある死もない。殺し屋の殺戮も仕事以外に自分の哲学だか趣味だかに従った殺しもあり不可解だ。この悪魔のような殺し屋に打撃を与えるのは正義でも神でもなく、偶然現れた暴走車だ。
_ この映画は原作に忠実だそうだが、小説でも映画でもそこに描かれる世界は意味を持っているはずだ。それは作者の創造した世界で作者の思想を反映している。その思想は、正義は勝つであったり悪は栄えるであったり多様だが、思想を表現するためにストーリーが考えられ登場人物が設定される。ではこの作品が訴えたいことは何か。それは世界には意味が無いということではないか。
_ ここに描かれた世界は従来の創作の世界より現実の世界に近いのだ。現実世界では善行が報われるという保証はなく、悪が倒されるとしても倒す側が正義とは限らない。世界が正しい方向に向かっているという実感はなく。そもそも何が正しい方向か分からない。
_ 老保安官が、No country for old men と言うがこれがオリジナルのタイトルだ。無意味な殺戮が横行する今のこの国は昔と違う。老人の住める国ではない。それは何も今のアメリカに限ったわけではない。日本の最近の理由なき殺人事件を見ていると、世界全体がそのように変わりつつあることを感じる。でもそれが狂っていると断じれば済む話ではない。むしろ不条理が世界の本質かもしれないからだ。
_ もし、人間に、人生に、そして世界に意味がなければ理由なき殺人が起きるのも必然かもしれない。そのテーマで書いたのが小説のコーナーに掲載してる「あとにつづく者」で25歳の時の作品。
_ 小池栄子と豊川悦司共演。理由なく一家三人を殺した男とその男に恋をした女が獄中結婚する。
_ その動機については、映画は社会から疎外された二人が共感して結びつくと説明するが、ネットを見てこれが池田小学校の児童8人殺戮犯宅間守をモデルにしていることを知り別な印象を持つようになった。
_ 宅間守には複数の恋愛感情を抱く支援者がいてその一人と獄中結婚した。彼は事件を起こす前4回結婚していたので5回目の結婚になる。彼には女性を惹きつける何かがあったと言わざるを得ない。
_ 昨今の女性に、付き合いたい男の条件を挙げてくれと言えば、必ず「優しい人」が入ってくる。間違っても、凶暴な人とは言わない。しかし、優しさが男を選ぶ条件になったのは近代以降、つまりここ200年かそこらのことではないか。人類の歴史は300万年以上になるからそのほとんどの時期優しさではない条件が支配してたはずだ。
_ 野獣や敵対する部族から妻や子供を守るには優しさより凶暴さの方が役立つ。女のDNAにはその時代の記憶が刻み込まれているに違いない。最近のDV事件を見ると何故そのような男を選ぶのか、何故逃げないのかと不思議になることがある。ヤクザでもなければ現代社会で凶暴さは生活していくには不必要なものだが、むしろ打算的でない純粋な女性がそのような時代錯誤な資質に惹かれるようだ。
_ グループダイナミックスの本で読んだ記憶があるが、優れた能力を持つマウスは狭い空間に多数のマウスと一緒に閉じ込められると犯罪者マウスになると。現代の閉塞的な社会は犯罪者を生み出しているのかもしれない。
_ 宅間守は戦国時代に生まれていたら立派な武将になっていたかもしれない。織田信長は現代に生まれていたら宅間以上の犯罪者になっていたかもしれない。
_ 硫化水素自殺が流行っている。死刑志願者の殺人事件も連続して起きている。
_ 自殺の付随的損害(collateral damage)について書いたものは知らないが、自殺の巻き添えによる死亡やケガだけでなく、電車への飛び込みによる混乱、自殺のあった家屋、ホテル等の価格の下落を勘案すれば多大な損害だと思われる。このような損害を減らすためには勿論自殺をなくすのが一番である。しかしそのための効果的な手段は無い。
_ なぜ自殺が付随的損害を発生させるかというと、損害のリスクの無い自殺を可能にするための工夫がなされていないからである。普通国民のニーズがある場合、国であれ民間であれ、それに対応する手立てを考える。しかし、自殺については議論だにされていない。
_ 報道によれば、硫化水素自殺が選ばれる理由としては、それが確実であり苦痛も少ないからだという。死刑についても国が執り行うので確実であろうし、多分苦痛も自殺に比べれば少ないのではないか。昔死刑の施設を見学したが、それは1階と2階からなっていて、2階の中央の床が開き首に縄をかけられた死刑囚は1階に落ちていく。加速度がついて落ちるので1階の床に着く前に首の骨が折れるようになっている。多分そこで意識がなくなるのだろう。これは一般の住居では不可能だ。
_ 自殺の根絶が不可能だとすれば、その被害を最小限にするのが国の責務である。そのために国営自殺施設を作るという考えは荒唐無稽ではない。第三者に被害が及ばない場所を提供することは容易だし、苦痛が少ない確実な方法も国であれば簡単に提供できる。
_ そもそも、生きていることが苦痛な人間に生きることを強いるのは拷問に等しい。人間はだれも自分の選択で生まれてきたわけではなく、死ぬ権利は基本的人権ではないか。要はそのような選択が安易に行われないように配慮すればよいのだ。
_ 国営自殺施設を利用するためにはカウンセリングを受け、一定期間を置いて決意が変わらないときのみ利用を許可する。多分投薬によって多くの人が自殺しなくて済むようになり、むしろ自殺者は減るかもしれない。18歳未満の者は原則利用禁止とする。犯罪に利用されることもあるから不審な場合は警察が調査する。
_ 実際にこのような施設が出来るかというと、まずありえないだろう。ナチスのガス室を連想させるので議論さえされないだろう。しかし、無為の結果犠牲になる第三者はこれから増え続けるだろう。