_ 大竹しのぶが熱演しているホラー。ネタバレあり。
_ 最初に目を奪われるのは大竹の夫の異常な動きだ。頭を絶えず上下に動かし、自分の身体をコントロールできないため洗車の際自分にホースで水をかけてしまう。神経症的な動きだが、森田監督はこの動きで精神の異常を表現しようとしているようだ。
_ この映画には異常な動きをする人間が他にも出てくる。主人公若槻の大学の助教授金石(犯罪心理学専門)はやたらと身体をくねらす。金石の遺体を見せるために若槻を案内する警察の人は右半身が不自由なようだった。
_ 若槻自身水を叩きつけるようなクロールで周囲に迷惑をかける。若槻の部屋のプリンターに「みずしぶき、たてすぎ」という文章が打ち出されるのは(誰からのメッセージか不明)森田監督が若槻の泳法に特別な意味を与えていたことを示している。
_ この中で大竹しのぶは目つきがおかしいほかはいたって正常だ。何回かボーリング場のシーンが出てくるが、彼女はきれいなフォームでストライクを連発する。彼女は身体を完全にコントロールしている人間として描かれる。しかし、彼女が大量殺人の犯人なのだ。
_ 森田監督はなにを言いたかったのでであろうか。うがった見方だが、森田監督には大竹の視点、すなわち正常な身体の人間が病的な身体の人間に対して感じる嫌悪感、に共鳴するところがあったのではないか。ナチスが犯罪者や精神異常者を抹殺したのは有名な話で、今の世の中でそれを支持する人はいないが、人の心理の奥底にはそれを是認するなにかがあるのではないか。あなたは電車の中で変な動きをする人がいた場合、その人から遠ざかろうとするのではないか。このように考えると、この映画は我々の中に潜むホラーに光を当てることをもくろんでいるように思える。
_ ブッシュと小泉が食事をしたことで一躍有名になった。
_ 寒くて風が強い先週の木曜日に行った。三階の喫煙席を予約した。三階は一、ニ階の焼き物に加えて寿司がある。
_ 喫煙席は中央のテラスの部分で、要するにテントの中である。それも一番端だったので寒いのなんの。ブランケットを貸してくれたが、ちょっと冬は無理という感じ。
_ 食事は焼き鳥とステーキに寿司をとったが、いずれも水準はいっている。外人客が多く接待には使えそう。建物は「千と千尋」の湯屋を思わせてよかった。
_ コートや荷物を預かってくれるところがなく、テーブルの脇の石の上にコートを置いていた。店を出てから気づいたのだが、コートもカバンも白い土が一面についていた。野趣を演出するためにテラスに土が運び込まれていてそれが付いたのだ。
_ 喫煙席が冷蔵庫だということを教えてくれなかったのと、コート、荷物を預かってくれなかったことでサービスは30点。
_ 自爆テロをアラブに持ち込んだのが日本人だというのは結構有名な話だ。それは1972年5月30日のイスラエルのロッド空港襲撃事件で、26人が殺された。テロリストは日本赤軍の奥平剛士、安田安之と岡本公三で、岡本だけが生き残った。岡本はアラブ世界の英雄になった。
_ ロッド空港事件以前にもアラブでテロやハイジャックはあったが、みな犯人が生きて帰ってこようとするものだった。日本赤軍の三人のテロは敵の中心部にしかけたもので生きて帰れる可能性はゼロだった。このような行動をイスラエルとの抗争に無関係な日本人がとったことにアラブ世界は衝撃を受けた。これが後にジハードと結びつき今日の自爆テロになった。
_ では奥平たちはこのような方法を誰に学んだか。1969年全共闘の活動が最も過激になったころ安田講堂での有名な攻防戦があった。これを見ていた三島由起夫は、誰かが安田講堂の上から飛び降りて死ねば本当に革命が起きると政府要人に注意を促した。しかしそれは杞憂でそのような勇気のある者はいなかった。翌1970年11月25日、三島由起夫と森田必勝が腹を切り衝撃が日本を走った。
_ ほとんどの週刊誌が特集号を出し(週間プレイボーイまで)、それが駅の売店から数時間で姿を消していった。既成右翼の反応は鈍かったが新左翼の一部が三島たちの行動を評価し、京都大学のキャンパスには三島たちをたたえるタテ看が立った。その当時奥平と安田は京大工学部の学生だった。
_ 安田講堂で誰も死ななかったように日本の左翼には自爆テロの伝統はない。戦後右翼も三島以前は同様だった。だから三島事件は誰にとっても衝撃だった。
_ 奥平と安田が三島の後継者であったというわけではないが、三島事件がなかったらロッド空港事件もなかっただろう。三島のまいた種はイデオロギーや宗教を越えて繁殖し、昨年はWTCを襲った。三島の荒ぶる魂はこれをどう見ているのだろうか。
_ 近代戦ともゲリラ戦とも違う。道一杯に広がってソマリアの民兵(市民や野次馬もいただろう)が銃撃を恐れる風もなく押し寄せてくる。「エイリアン2」でリプリーら精鋭部隊が立てこもる基地に押し寄せるエイリアンの大群。「スターシップ・トルーパーズ」で雲霞のごとく視野を埋め尽くす巨大な昆虫兵士の群れ。「ブラックホーク・ダウン」の敵はこれらと同様に人間として描かれていない。
_ 立派な英語を話す将軍や兵器商と襲撃する民兵とはあたかも違う生物のようで、後者の思想は語られない。米兵はテレビゲームのように群集に銃弾を撃ち込み、また無数のスナイパーから狙撃される。
_ この映画には米軍側の視点しかないという評が多い。だが、戦争をリアルに描くのはこの方法しかないのではないか。敵を人間だと思ったら殺される。相手側の理由を考えたら攻撃は出来ない。ひたすら多くの敵を殺し、味方の死に涙し、復讐を誓う。
_ 結論から言えば、私はこの映画が好きだ。素直で偽善がない(最後の自己弁護的な哲学は不要)。殺すことの快感が伝わってくる。
_ ここでカチンときた人に考えてほしい。戦争が「快」でなければなぜ人類は有史以来絶えることなく戦争を続けてきたのだろう。戦争の理由はいくらでもあった。富、領土にはじまって、民族、宗教、イデオロギーからテロ撲滅まで。ソマリアの米軍はジェノサイドを阻止するという名目で1000人のソマリア人を殺した。
_ この映画は図らずも戦争を正当化する大義名分の裏に「殺しの本能」があることを教えてくれる。人類は「戦争をする種」なのだ。
_ 韓国最大のヒット作ということで期待していたが、がっかりした。
_ 青春ものとヤクザ映画が合体したような作品で、後半は日本の一昔前のヤクザ映画に似ている。しかし、ヤクザ映画に必要な大事な要素が欠けているように思った。
_ 日本のヤクザ映画は(色々バリエーションはあるが)義理と人情の相克を描く。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理の重たい男の世界」と高倉健は歌うが(東映の昭和残侠伝シリーズの主題歌)必ずしも義理が勝つわけではない。傑作「博打打ち・いのち札」では、鶴田浩二は女をとって組に敢然と反逆する。最後の大立ち回りの場面、鶴田は瀕死の女を抱きかかえて血の海の中を賭場の中央の祭壇に向かい、神酒の壷を日本刀で打ち砕く。
_ この場面が感動的なのは、ヤクザ組織の中で生きてきた男にとって組に反抗することが自殺に等しいことが見ている側にも分かっているからだ。そのために映画は任侠道を説明しなければならない。それが宗教のように組員の生き方、死に方の細部までも規律していること。ひとつの会社を辞めて別な会社に勤めるような安易な話ではないこと。細部がどれだけ確かに描かれているかによってヤクザ映画のよし悪しが決まる。組織の序列、儀式、言葉使い、食事の作法まで。これらに忠実だった男が、組を敵に回し任侠道を捨てることがどれほど大変なことかが分かってはじめて男の女に対する愛の重さ、深さが分かるのだ。
_ チングは幼なじみの友情を丁寧に描いている。小学校、高校のエピソードが語られ、やがて2人の男は別な組の幹部になっていく。そして、親友である2人は殺しあうことになる。これは先ほどの義理人情のパターンでいくと、組への忠誠と親友との友情の相克の話になる。ここで不満なのは義理が描けていないことだ。組は単なる利益集団のようだし、そんな組のために親友を殺すとすれば、そもそもたいした友情ではなかったのではないか。