_ 「自死という生き方ー覚悟して逝った哲学者」は65歳で自殺した須原一秀の遺稿を編集した本で双葉社から出ている。まだ途中だが、著者の思想には共鳴するが行動は特異だ。彼は、老醜と苦痛に満ちた自然死を避けるために心身とも健全な時に自死することを提唱しそれを実践した。
_ 最近、高校の同級生と大学のサークルの先輩が相次いで肺がんで死んだ。特に高校の友人は去年ガンであることが分かった直後に連絡をもらい、何回も会っている。最後に会ったのは死ぬ一ヶ月前で、そのとき彼は「俺はもう死んでもいいと思うようになったよ」と言った。私は言葉に詰まったが「親戚に10年以上寝たきりの人が何人もいるが、何れみんなそんなことになるから早く死んだ方がいいと俺も思う」と正直に思っていることを述べた。彼はちょっと安心した表情を浮かべた。
_ 彼は、入院してから一週間で死んだが、入院の前日まで会社に行って、その前の週にはラグビーの試合の審判を勤めたそうだ。そこまでは充実した人生の最後でいいのだが、入院してからのことを想像するとつらい。
_ 肺がんは呼吸が出来なくなって死ぬが、その苦しみは緩和することが難しいという。呼吸困難な状態が苦痛なのでそれを取り除くということは死を意味する。緩慢な溺死と言われているが、それが一週間続くのは地獄ではないか。
_ 彼が入院した時、医者は回復が不可能であることは分かっただろう。その先の治療は死を先延ばしにする効果しかない。それは即耐え難い苦痛を長引かせることだ。そんな状態で死を選択できるのであれば、ほとんどの人がそうするだろう。でも日本の医療ではその選択肢はない。医者の責務としては出来るだけ長く生かせることしかない。それは結果として人生の最後を悲惨なものにする。
_ 医者の論理としては、肺の細胞がほとんどがん細胞になっていても回復する可能性はゼロではないというのだろう。でもそれは生命が絶対的な価値を持つという間違った考えに基づく教条主義だ。生が無限大の価値を持ち死がゼロであればその考えもいいだろう。しかし生は永遠ではなく死は必ず来る。生命はいわば賞味期限のある商品なのだ。80年生きられる人は60歳になれば生命という商品を4分の3費消している。
_ 人生の価値をその間の快と不快とのバランスシートで考えてみれば理解しやすい。肺がんで死に掛かっている60歳の人の最大限の余生が20年だと考えよう。その間得られる快は多分それまでの人生で得られた快の割合より少なくなるだろう。それでも人生全体の快の合計が1000単位として残りの人生に100単位が得られるとしよう。しかし、治療により回復する可能性が1%であれば得られる快の可能性は1単位でしかない。その1単位の快を得るために想像を絶する苦痛に耐える価値があるか。さらにその苦痛の結果100のうち99は死であればなおさらだ。
_ 須原一秀氏は、人生が下降線をたどる前に死を選択することを提唱している。人間は本来楽天的な生き物で、自分だけは天寿を全うして安らかな死を迎えることが出来ると思っている。しかし、周りを見ればそんな人はほとんでいない。
_ 昨日吉祥寺で先日死んだ高校の同級生の追悼会をした。こじんまりと最近彼と会った三人で飲んだ。一人は医者なので気になっていたことを聞いた。肺がんで死ぬのは苦しいのではないかと。
_ 彼の専門は心臓内科でガンについては詳しくは無いが、自らが喘息の持病をもっているので興味深い話をしてくれた。彼は一度ひどい発作におそわれて死にかけたそうだ。そのとき呼吸困難の苦しみが過ぎると不思議なことに陶然とした気分になったとのこと。体内の炭酸ガス濃度が増して意識が低下したときの現象らしい。だから彼は呼吸が出来なくなって死ぬのは苦痛ではないと言った。
_ 本人はそのような状態でも身体は勝手に七転八倒しているのではたから見れば苦しんでいるように見える。本人の感覚と身体の外見が異なるというのは興味深い。
_ この反対の事例で思い出すのは、確か石原慎太郎の「弟」に書いてあったと思うが、裕次郎がハワイで療養していたとき、見舞いに来てくれた人に「腕を切り落としたくなるほどのだるさって分かるか」と言ったという。この場合ははたから見れば裕次郎はハワイの海を見ながらのんびり寝ていたのかもしれない。でもタフガイの裕次郎が弱音を吐くほどの苦痛(それも、だるさ!)が彼を苦しめていたのだ。
_ その医者に「自死という生き方」について聞いてみた。彼は、あえて早く死にたいとは思わないと言った。死ぬまでにはそれなりに面白いことがありそうだからと。これまで人の死をたくさん見てきた男が言うことなので、自然死も悪くないかなと思った。