_ きれい過ぎるのがわずらわしく感じるようになる映画だった。映画はストーリー、映像、音楽の三つの要素がバランスを保つことが大切だが、この作品は映像、特に色彩が際立っていて、最初はそれに目を奪われるがやがて過剰な音楽のようにうるさくなる。
_ ストーリーがもっとしっかりしていれば色彩にあれほど押されなかっただろう。三人の刺客が秦王を狙う話だが、その内二人が秦の三千人の衛兵を正攻法で撃破するというエピソードがある。超能力者でもなく単に剣の達人という設定なのでこれを信じろというのは無理だ。またこのような作戦が可能ならなぜ三人が犠牲になって無名(ジェット・リー)に暗殺の使命を託するとういような話になるのだ。四人でかかればよほど成功の確率は高くなるではないか。無名があのような作戦を取らない限り暗殺は不可能だとする納得のいく説明がないので、秦王と無名のあの大げさな会見場面が生きてこない。無名の十歩必殺の技を披露する(結局見せなかったが)舞台として無理に作られた場面としか考えられない。
_ 砂塵、風の中で舞う旗印、矢ぶすまなど黒澤映画を思わせるところが多かった。とくに秦王の城から長い階段を降り退去する無名とそれに道を開ける衛兵の構図は、「乱」で狂った秀虎が炎上する三の城から出てくる場面とそっくりだ。
_ 私はジェット・リーのファンだが、ワイヤーアクションでは彼のよさは出ない。ワイヤーアクションは凡庸な肉体をも超人に見せてしまい、ジェット・リーのような本物の出る幕はない。
_ いろいろ文句はつけたが、印象に残る場面も多々あり、決して駄作ではない。次作ではもう少し脚本に金と時間をかけたらいいと思う。
_ 三島由起夫と石原慎太郎の対談でテロを肯定したものがあったはずだと書庫を探したがみつからなかった。いずれにしても石原の思想は昔から一貫している。
_ 石原の今回の発言には批判が多いが、このような場合民主主義がどれだけ有効かは検証してみる必要がある。
_ 外務省の腐敗と亡国的な行為に怒っている青年A氏がいたとする。彼は民主的に問題を解決しようと考え、国民の権利である選挙権を行使し主張を同じくする候補者に投票し当選させる。しかし議員になった候補者は公約を忘れ態度も豹変しA氏がなにを言おうと取り合わない。そこでA氏はこんどはもっとまともな候補者に投票しようとするが、そこであることに気づいた。これまで何回か投票したがいずれも一票差で当落が決まったことはなかった。さらにこれまでの国政選挙の結果を見ても一票が当落に影響したケースは皆無だった。ということはA氏が次の選挙で投票しようが棄権しようが結果は同じだということだ。つまり一人の人間の選挙権は絵に描いたモチ、なんの役にも立たないのだ。
_ そこでA氏は政治結社を作り外務省改革を旗印にして人を集めた。右や左や宗教やいろんな人がいてまとまりのない結社だったがそれでもA氏は数年後に市議会議員になることが出来た。しかし市議会では外務省改革は議題に上ることはなく、A氏はやはり国会議員にならなければと思った。さすがに国会はハードルが高く、既存の政党に頼るしかなく、A氏は外務省改革をやりそうな政党に多額の寄付をして汗をかき、やがて推薦を取り付け数年後に国会議員になることが出来た。しかしその政党は威勢はいいが力がなく、何を言っても外務省は歯牙にもかけなかった。A氏も歳をとり夢のようなことばかり考えている訳にもいかず政治資金を集めることに汲々としていた。そして歳月が流れた。
_ A氏は黒塗りの高級車の中から国会の上に翻る人共旗に目をやった。来週は将軍様の米寿のお祝いだ。新国立競技場のマスゲーム、軍事パレード、そしてテポドン13号の打ち上げと色々と行事が予定されている。2030年の朝日併合によって誕生した朝鮮人民民主主義共和国日本州の初代知事であるA氏は来週の天気が良いことを祈った。
_ 東電OL事件とオウム事件を下敷きに慶応女子高校らしき高校を舞台にした桐野夏生の小説。3分の1ほどは真面目に読んだが、全く人間が描けていないと思いあとは読み飛ばした。
_ 作品評をする気もないが、東電OLを利用していることについては文句を言いたい。この小説では当該OLは佐藤和恵という名前を与えられており、おぞましい存在として描かれている。著者は故人の人権をなんと考えているのだろう。
_ 「宴のあと」事件で東京地裁は「私生活上の事実のみでなく事実らしく受け取られるおそれのあることがら」を公開することもプライバシーの侵害になると判じている。作品の芸術性が当然に違法性を阻却するわけではない。「宴のあと」事件の有田八郎は元外務大臣で東京都知事選の候補でもあったので公的な人物として私生活が公表されることがやむをえないともいえた。これに反し東電OLは私人であり犯罪の被害者だった。三島由起夫は有田を悪意をもって描いたのではなく、むしろ読者は有田に好感を持つようになったはずだ。それでも裁判所は三島に損害賠償を命じた。
_ 桐野夏生は、この作品を当該OLの母親がどのような気持で読むと考えたのか、考えなかったのか。作家というのは因果な商売だ。
_ JR東日本によると駅や車内における暴力の主役は50代だとのこと。また殺人比率も50代は20代を上回っているという統計がある。
_ 名古屋ビル爆破事件の犯人は52才だったそうである。彼はいわゆる全共闘世代に属している。全共闘の時代が正確にいつからいつまでを指すのかわからないが、1967年の第1次羽田事件から1972年のあさま山荘事件までと考えよう。その間、よど号ハイジャック事件、三億円事件、三島由起夫事件などなんども映画になった有名事件が起きた。騒乱と暴力の時代であった。彼は高校2年以降の青春時代をこの環境で過ごしたことになる。
_ この刺激的な時代は、全共闘世代にトラウマを残し、ベトナム帰還兵が一般社会に溶け込めないように、彼らを日本の社会からウイタ存在にしている。しかし、多くの全共闘世代はそれに気づいていない。彼らはむしろ自分たちの経験を誇りに思い、無神経に自慢する。機動隊に遠くから石を投げたことを勇気と勘違いし、時代の熱に浮かれていたことを思想を持っていたと誤解している。
_ 黒沢清監督の「アカルイミライ」にこのような全共闘世代が登場する。彼は小さなおしぼり工場の経営者で従業員と家族的な触れ合いを欲し、相手もそれを望んでいると思い込んでいる。二人の若いパートタイマーに娘の机を家まで運ばせ礼に夕食を供する。後日、二人のアパートに鮨の折詰持参で訪れた男は、70年代初頭の自分は「なかなかのものだった」といい、あの頃はみんなはっきりと目標が見えていたという。それに対する若者の返答は男と妻の惨殺だった。理由なき犯罪と思う人もいるだろうが、私は良くわかった。全共闘世代は嫌われているのだ。
_ 今日全共闘世代はリストラの対象となり、本来の年功序列のシステムからするとトップになれた人物も実力主義の台頭で疎外され若手にとって代わられる。この世代の憂鬱はこれから益々深まるだろう。
_ 北野監督作品は全部(ほとんどを劇場で)観ているが、この作品はダントツに面白い。彼が本当に撮りたい映画ではなかったのかもしれないが、案外制約があったほうが才能は生きるものだ。
_ 北野作品ではメッセージがうるさく感じられることがあるが、この作品ではそれが薄められ、それでいて映画の文体は桎梏をはね返そうとしているかのごとく強力だ。
_ 敵の屋敷への斬り込みが高倉健のヤクザ映画のようだと思ったが、何か違った。座頭市にはヤクザ映画のヒーローのような情念がなく、殺人機械のように斬っていく。悪役だった頃の「ターミネーター」のようだ。
_ 北野映画の登場人物は前触れなく突然行動に移る。行動に移る前の迷いや煩悶は存在しないかのごとく。北野作品で一番こわかった暴力シーンは、「3-4X10月」で喫茶店の店長(ガダルカナル・タカ)が「トイレが臭い」などと言いながらさんざめいている女子大生の顔を突然重いガラスの灰皿で殴りつけるところで、これは本物だと思った。
_ さて、「座頭市」ははなやかな集団タップダンスで締めくくられるが、ここで不覚にも泣いてしまった。それまでは時代考証もしっかりしていた(ように見えた)のに突然のタップだ。でもそれがとても自然で、表現が(元気のいい魚のように)自分の力で与えられた容器から飛び出してしまったかのようだった。日本文化とはそもそもそのように混沌としたものなのだろう。
_ その場面から思い出したのは黒澤明の「夢」の「水車のある村」で、笠智衆演ずる老人の妻の葬式に楽隊が出てくるところだ。あんな辺鄙な村にトランペット、トロンボーン、フルート、チューバと西洋の楽器をそろえた楽隊がいるのはおかしいが、そんな疑問は吹き飛んでしまうように素晴らしいシーンだった。
_ 黒澤は北野に「日本映画をたのむ」と言ったそうだが、タップダンスの場面を観て北野は黒澤の正統な継承者だと感じた。なにか日本文化の燃えるトーチが黒澤から北野に渡されるところを見たような気がした。そして涙がとまらなくなった。