_ 北野監督作品は全部(ほとんどを劇場で)観ているが、この作品はダントツに面白い。彼が本当に撮りたい映画ではなかったのかもしれないが、案外制約があったほうが才能は生きるものだ。
_ 北野作品ではメッセージがうるさく感じられることがあるが、この作品ではそれが薄められ、それでいて映画の文体は桎梏をはね返そうとしているかのごとく強力だ。
_ 敵の屋敷への斬り込みが高倉健のヤクザ映画のようだと思ったが、何か違った。座頭市にはヤクザ映画のヒーローのような情念がなく、殺人機械のように斬っていく。悪役だった頃の「ターミネーター」のようだ。
_ 北野映画の登場人物は前触れなく突然行動に移る。行動に移る前の迷いや煩悶は存在しないかのごとく。北野作品で一番こわかった暴力シーンは、「3-4X10月」で喫茶店の店長(ガダルカナル・タカ)が「トイレが臭い」などと言いながらさんざめいている女子大生の顔を突然重いガラスの灰皿で殴りつけるところで、これは本物だと思った。
_ さて、「座頭市」ははなやかな集団タップダンスで締めくくられるが、ここで不覚にも泣いてしまった。それまでは時代考証もしっかりしていた(ように見えた)のに突然のタップだ。でもそれがとても自然で、表現が(元気のいい魚のように)自分の力で与えられた容器から飛び出してしまったかのようだった。日本文化とはそもそもそのように混沌としたものなのだろう。
_ その場面から思い出したのは黒澤明の「夢」の「水車のある村」で、笠智衆演ずる老人の妻の葬式に楽隊が出てくるところだ。あんな辺鄙な村にトランペット、トロンボーン、フルート、チューバと西洋の楽器をそろえた楽隊がいるのはおかしいが、そんな疑問は吹き飛んでしまうように素晴らしいシーンだった。
_ 黒澤は北野に「日本映画をたのむ」と言ったそうだが、タップダンスの場面を観て北野は黒澤の正統な継承者だと感じた。なにか日本文化の燃えるトーチが黒澤から北野に渡されるところを見たような気がした。そして涙がとまらなくなった。