_ 茨城県下妻を舞台にしたロリータ(深田恭子)とヤンキー(土屋アンナ)の友情物語。
_ 日本映画には、国際映画祭に招待されない、ヤクザものとかスケバンものを含む大量の娯楽作品がある。それらのカリカチュアが「キル・ビル1」だったが、外国人の監督に先を越されたのが残念であった。この映画はタランティーノにも観てもらい傑作で、日本映画の底力を感じさせる。
_ この作品のひとつの見所は、二人のファッション対決で、桃子(深田)のロココにイチゴ(土屋)のレディース(暴走族)ファッションは引けを取らない。これは言わば文化の対決で、特攻服のユニフォームに凝った刺繍をするような反社会的集団は日本以外いないのではないか。昔の学園紛争の時代の色とりどりのヘルメットも他国にはない現象だった。
_ 冷戦下、韓国で死刑囚など31人の無法者が集められ、シルミドという孤島で苛酷な軍事訓練を施される。その目的は、金日成の暗殺だった。
_ しかし、韓国は北との宥和に方向を転じ、彼ら特殊部隊は邪魔者になり、抹殺の命が下される。それを知った男たちは、国と対決することを決意する。
_ 最初の訓練のあたりはアメリカ映画にもあるようなもので、退屈だったが、後半盛り上がる。全体として上出来の作品だと思ったが何かが足りない。
_ 男達は国に裏切られたが、では彼らはそもそも何を期待していたのか。祖国統一というスローガンは叫ばれるが、彼らはそのような政治目的に命をかけていたわけではなく、求めていたのは成功した場合の無罪放免と金と名誉だったようだ。そこには大義はなかった。
_ 類似の設定の映画に「ランボー 怒りの脱出」(そのストーリーについては2002年10月7日の日記参照)がある。「シルミド」の特殊部隊は「ランボー」の捕虜(POW)にあたり、国と対決する場面ではランボー自身に重なる。
_ ランボーは自らが裏切られたことのみに怒っているのではなく、アメリカの正義を信じてベトナムで戦い犠牲になった多くの兵士のために怒っている。国が掲げた大義の為に献身した者を裏切る行為をランボーは許せない。
_ 「シルミド」の部隊は傭兵に似ていて、彼らの多くは世俗的な報償(死んでも名が残るといった無形なものも含む)を期待していたようである。そこには献身(名前も栄誉も残らなくても自分を捧げる)の対象になる価値はなく、リスクは大きいが成功すれば代償も大きいギャンブルがあった。
_ 「シルミド」における国家の裏切りは詐欺ではあるかも知れないが、あくまで世俗的な犯罪であり、精神界における罪の色彩は薄い。その結果、裏切りに対する怒りも賃金を払われなかった傭兵の怒りに似て、次元の低いものになってしまう。
_ 映画を2回観て、原作(嶽本野ばら 小学館文庫)を読んだ。私の趣味では映画の方が良かった。
_ 映画は、前半は原作に忠実だが、後半だいぶ変えてある。一番重要な違いは、桃子が「ケジメをつける」ために呼び出されたイチゴを助けに行く場面で、映画では桃子はその時 BABY,THE STARS SHINE BRIGHT(ロリータファッションのメゾン)の社長に頼まれた初めての仕事の〆切に追われていた。桃子は社長に電話し、仕事が間に合わなくなってしまうが、どうしても友達い会わなくてはならない、と言う。社長はイチゴのことと察し、友達を大事にするように言う。そして、桃子は原チャでイチゴ救出に向かう。
_ 原作では、この場面の前に桃子は BABY の最初の仕事を立派に仕上げ、次の仕事(それほど急がないもの)に取りかかっている。
_ 何が違うかというと、映画では桃子は自分の神様である BABY の社長から頼まれた大事な仕事を放棄してイチゴを助けに行った。つまり自分にとって何よりも大事なものを友の為に犠牲にする決意をしたのだ。もっとも、結局間に合ったけれども。この時桃子はheroine(というか、イメージとしてはむしろheroなのだが)になる。
_ 普通の人間が、従来の自分にとって大事な(世俗的な)価値を捨て、利己的でない価値のために(自分を滅ぼすかもしれない)献身的な行動を取るとき、人は感動する。それはヤクザ映画や戦争映画にあるような命のやり取りの場面に限らず、平和な日常でもあることだ。たとえば「クレーマー・クレーマー」でダスティン・ホフマンは子供を病院へ連れていくために大事な仕事に穴をあけてしまう(彼は離婚前はワーカホリックだった)。それを法廷で糾弾されたとき彼は仕事を捨てて子供を取ることを宣明する。その時彼は戦場の英雄に負けないくらい輝いていた。
_ 「下妻物語」に戻ると、映画は原チャで走る桃子を「昭和残侠伝」や「網走番外地」でがまんの末敵の組に単身殴り込みをかける高倉健のようにheroicに描いている。桃子とイチゴの二人も「昭和残侠伝」の高倉健と池部良に重なり、昔輝いていた男の世界を今は美しい女の子が代わって表現しているごとくである。
_ もっとも、昔から藤純子の緋牡丹のお竜さんのようなheroineもいたのでめずらしい話ではないかもしれない。でも、従来のheroineは何らかの意味で男に支えられるところがあり、お竜さんにしろ高倉や鶴田浩二が恋愛感情も交えて助けていた。その意味では、桃子とイチゴの間には男はなく、男を入らせないような充足した世界がある。それは昔「男の世界」といった場合女が立ち入れない厳しい掟が支配する世界を意味したのに似ている。一見軟派なようでいて、桃子のロリータ哲学をはじめこの映画には姿勢を正さなければならないような硬波のメッセージがあふれている。