_ ジョエル・ロブションとロオジエは三ツ星でいいとして(月並みだが)、カンテサンスはどんなもんだろう。一回行っただけだが、かなり変わった料理でまだ完成していないように思えた。三ツ星の評価は開店3年ぐらいで出来るものなのか。
_ 和食が6割とのことだが、いろいろと問題がある。高級料亭が入っているが、庶民が行けない所は対象外にした方がいい。鮨や割烹については、こんな形で騒がれると馴染み客が逃げていきいいことが無い。
_ そもそも和食と西洋の料理を比較できるのか。ピカソと北斎がどっちが上かというのと同じではないか。趣味の問題に帰着する。絵であれば、その趣味は持続して今日ピカソが好きな人は明日もピカソが好きだろう。でも、料理は違う。3日続けてロオジエで食べたら、次の日はロオジエのランキングは近くのラーメン屋より下になっているだろう。
_ 味覚はそのときの身体の状態や気分に左右される。我々は今日何を食べに行くかと考えるときミシュランのようにジャンルを越えたランキングで考えるのではなく、和食にするかフレンチ、イタリアンにするか、と考える。そして和食の気分であれば、鮨かてんぷらかと考える。鮨に決まったらそこで初めてどの鮨屋が一番であるかの判断になる。仮に一番と思った鮨屋が満席でも決して一番のフレンチに変えることは無い。
_ 三ツ星の鮨が二ツ星のフレンチより美味いなどという比較は無意味なのだ。
_ ミシュラン東京という本については、ざっと見た程度だがつまらない。英語版と読み合わせてみると日本語版は英語版の翻訳という感じで、外国人向けの観光ガイドの域を出ない。日本で出版されているグルメ本は遙か先を行っている。ザガットなどは辛口コメントも載っていて参考になる。私が一番好きなのは「東京最高のレストラン」で毎年通して読んでいる。コメンテーターの個性が出ていて面白い。味覚は人によって随分違い、それがいいのだ。
_ いわゆるケータイ小説の映画化である。
_ この作品にケチをつけようと思えば簡単であるが、それはすでにネットの評を見れば出尽くしている。でも、これだけ小説が売れ映画が当たっているからには理由があるはずだ。
_ ご都合主義の筋や自分勝手な主人公は原作者の脳内の妄想と考えれば理解できる。ヤクザ映画が男のロマンであるとすれば、これは女の子のロマンなのだ。古典的なヤクザ映画(「仁義なき戦い」以前の)がリアリズムを排して様式美を追求したように、この映画は女の子が好む甘いセリフや裏切らない男や必ずクリスマスに降る雪が出てくる。
_ 少し前にNHKでケータイ小説の特集があり、何人かの作家のインタビューが放送された。「恋空」の作者ではないが。Chakoというヒット作の作者が言うには、書く動機は自分のそれまでの人生を総括して出直すためだった(急死した彼氏の墓参りにも行けない自分に対する反省)とのこと。書き終わったら全部削除しようと思っていたそうな。
_ 私はケータイ小説を読んだことがないので、あくまでも推測だが、従来の小説と違うのは読者をあまり意識していないところではないか。意識するにしても、自分の気持を理解してくれる同年代の女の子あたりで、口うるさい文芸評論家などは眼中にないだろう。だからケータイ小説の作家は他人のツッコミを気にすることなく自分の感情に溺れることが出来る。自分の体験がベースになっていても自由に脚色し、気恥ずかしいような粉飾をし、宝塚を見るように自分を見るのだ。
_ ケータ小説の読者もリアリズムなど求めておらず、自分(というか、こうあってほしい自分)と主人公を同化させ、現実と隔絶した夢の世界で感涙に咽ぶ。
_ 考えてみれば、小説なんて元々そんなものかもしれない。自分を別な世界に連れて行ってくれればそれで十分なのだ。小説の中に生きる目的や宇宙の真理が含まれている必要はない。しかし、そればっかりだと、もっと大きな感動を味わう能力が退化するだろうな。