_ あれが著作権侵害になるか日本の裁判所が判断したらたぶんならないという結論になると思う。NHKの「武蔵」が「七人の侍」の著作権(翻案権)を侵害しているかが問われたケースでは東京地裁が「武蔵」からは「七人の侍」の本質的特長が感得できないといい、模倣ではないということになった。「感得」できないとは要するに感じ取れないということだが、あのときは週刊誌もテレビも一斉に似ていると騒いだのだが、裁判所の感じ方は違ったようだ。
_ 感得できるか否かは主観の問題で、裁判所の感性はおかしいと言っても始まらない。結局裁判所は先に結論を出してその理由付けとして「感得」という言葉を使ったのだ。
_ 確かに、簡単に似ているとして著作権侵害を認めると、自由な表現が制約される。「武蔵」の場合はともかくエンブレムは図形を組み合わせた作品なので必然的に似てくる。それをいちいち侵害としたら、先に創作した者が独占権を持つことになる。商標のように登録が必要なく保護期間も長い著作権にそのような力を与えるのは確かに問題が多い。
_ 最近ロースクールがらみの事件が続いている。ひとつは平成の阿部定事件ともいうべきロー生による傷害事件で、もうひとつはロー教授による司法試験問題漏洩。
_ 共通点があるとすれば、いずれも短絡的なのだ。つまりA地点からB地点へ行くのに回り道をせずに一直線に行ってしまうのだ。どの道を通ろうが悪は悪であるとしても知性が感じられない。
_ ロースクールの学生や教授はせめて知能犯であってほしかった。そもそもロースクールは詰め込み式の日本の法学教育を改善して自分の頭で考える人材を育成するのが目的だったはずだ。
_ 日本のロースクールがどんな教育をしているのか知らないが、アメリカのローススクールの授業はそのころ(1975年)の日本の法学部の授業とは随分違っていた。
_ たとえば、一年生のときに必須科目のcontractsがあるが、マスターで行った私もその科目を取った。私はすでに弁護士だったので授業でやっている、どのようにして契約が成立するのかなどという(これは日米あまり違いはない)話は新規なものではなかった。私がびっくりしたのは法律についてほとんど無知な一年生が果敢に教授に議論を挑んでいくことだった。その論理・論法は私からすれば無理というしかないものだったが、学生は簡単には引かない。屁理屈をこねても言葉が出てくる限り議論をやめない。この経験は後に弁護士の仕事で役立った。
_ 本論に戻ると、もし日本のロースクールでもこのような教育をしているのなら、自分の頭で考える人間が育成されているはずである。目的が仮に悪いことであっても、同じ目的を達するにはいくつも方法がありどれが自分にとってベストなのか考えられるはずである。二つの事件を見るとそれはできていないようだ。
_ ちなみに、アメリカのローススクールの授業だが、私の行ったミシガン大学には何人も日本人が来ていた。各分野で最高の地位についた人もいる。しかし我々はあの刺激的な議論に入っていけなかった。それは英語の問題ではなく、仮に議論が日本語で行われていたとしても同じだったろう。それは日本人がシャイだからなのか、考える習慣がないのか、わからない。
_ 007シリーズに対するオマージュにあふれた作品。
_ 第一作の「007は殺しの番号」からしばらく映画館で観て、そのあと疎遠になり10年ほど前に急にまた観たくなり、ビデオやDVDで過去の作品を観て八割くらいは観ている。
_ 007シリーズを知るようになったのは映画の前で、イアン・フレミングの小説を中学生のころ読んでいた。中学時代は推理小説(ミステリーという言葉は使われていなかった)にはまっていて主に外国ものを読んでいた。シャーロック・ホームズを小学校のころ全作読み(それも英語で)、中学に入ってから推理小説を濫読した。最初はポーとかチェスタトンとかの古典を読み、だんだん現代ものになりダシール・ハメットの「マルタの鷹」などのハードボイルドを読むようになり、007シリーズにたどり着いた。
_ 「キングスマン」では英語(米語ではなく)の発音がとくに印象に残った。私は米語は聞き取れても英語を早く話されると聞き取れない。というコンプレックスがある。マイ・フェア・レディなどで分かるが発音は簡単に変えられないもので、階級がある社会では一番乗り越えにくいバリアーかもしれない。この作品では悪役にサミュエル・L・ジャクソンを起用していて彼の黒人英語との対照が面白かった。