_ 「市民ケーン」と似ていると思った。しかし、かの名作にははるかに及ばない。
_ 「市民ケーン」は、新聞王ランドルフ・ハーストが死ぬときにつぶやいた”rose bud”(薔薇のつぼみ)という言葉ではじまり、そのキーワードで彼の人生を解明しようとする。
_ 「アビエイター」も”quarantine”(伝染病予防のための隔離)という言葉がキーワードになる。この言葉は、ハワード・ヒューズの強迫神経症(過度の潔癖症)の代名詞のように何回も映画の中でヒューズ役のデカプリオが口にする。
_ 「市民ケーン」では、最後に”rose bud”の意味が明かされ、それまでに語られたハーストの人生に別な光を当てる。人生にとって何が一番大切なのかを考えさせる結末だ。
_ これに比べると「アビエイター」のキーワードは作品のテーマと結びつかない。強迫神経症はヒューズの個人的な問題でそれは観客が共有できるものではない。華麗な実業家が病んだ一面を持っていたという事実を描くだけで、観客からすれば強者にも弱点があったという興味本意な関心しか抱けない。
_ デカプリオの演技はヒューズの弱い面を出したときは良かったが、強い実業家には全く見えなかった。また「市民ケーン」と比較して悪いけど、製作時監督主演のオーソン・ウェルズは25才。老け役まで見事に演じていた。天才だからしょうがないが、いやになってしまう。
_ 「三島由紀夫とテロルの倫理」という本を読んだ。千種キムラ・スティーブンというニュージーランドで大学教授をしている人が書いた本でたまたま大盛堂で見つけた。多分ほとんど売れていない本だろう。
_ 一応全部読んだから面白くないとは言わないが、不満は残る。三島を真面目にテロリストとして評価して日本の原理主義者と見るところは同意するが、せっかく自爆テロとの類似をあげ、赤軍が三島に影響されていたというのだから、三島ー赤軍ーイスラムの自爆テロの流れを究明して欲しかった(2002年4月16日「自爆テロと三島由紀夫」参照)。
_ 三島のことでまだ書いていなかったことがある。三島と会ったあと礼状を出してそこに「美しく死んでください」と書いたことは「三島由紀夫会見記」に書いたがその後日談。町永と三島から返事がくるのではないかと待っていたがそれは当然ながらこなかった。祖父が平岡梓氏と会って話したとき三島の二人についての印象が伝えられた。私については「好青年」とのことでまあ社交辞令だろう。町永については「あれはただの文学青年だよ」とのこと。町永については三派系全学連との触れ込みだったので、それに対する反応としては別に否定的な評価というわけでもないだろう。しかし、私は町永には言えなかった。町永は私とは違って熱狂的な三島ファンだった。
_ それからしばらくして、私は三島の楯の会に入ろうと思った。自分でそう思ったのか、祖父に勧められたのか、多分後者だったのだろう。自分でももっと男らしくならなければいけないと思っていたのは確かであるが。
_ 祖父が、私が楯の会に入りたがっていると平岡氏に伝え、それを平岡氏が三島に伝えた。ところが、三島は平岡氏をしかりつけたとのこと。今から考えると、命がけの行動に知り合いの孫を参加させるはずもなく、当然の反応だった。私や、祖父や、多分平岡氏もそんな認識はなく、楯の会をボーイスカウトの変種と考えていたのだ。その後、この事件のせいか良く知らないが、祖父と平岡氏は疎遠になってしまった。
_ ついでに、なぜ三島が会ってくれたかというと、三島は祖父に義理があったのだ。それは、多分三島が「絹と明察」を書いていたときの話だと思うが、重役室というものを見たいと平岡氏を通じて当時ある会社の重役をしていた祖父に依頼があったとのこと。そんなことがなければあの時期に無名の大学生(それも三派系全学連を連れてくるという)に三島が会うわけがない。
_ 最後に三島との話を思い出してみると、とても内容が高度だったと思う。その時は作家は普通このような話し方をするのかな、としか思わなかったが。例えば、大江健三郎について「文学部を、それもフランス文学を出たので、彼の小説には社会科学による基礎がないと言った」と書いたが、三島はその前に「大江は渡辺一夫の弟子でしょう」という趣旨のことを言った。私は渡辺一夫が何者か知らなかったので、前のような話になった。渡辺一夫が有名なフランス中世文学の研究家で大江が彼に憧れて東大のフランス文学に行ったことを知っていればもっと面白い話が聞けたのだろう。事ほど左様に三島の話はレベルが高く、大学生だった頃の自分を基準に話しているかのようだった。
_ なぜか「三島由紀夫会見記」に書かなかった面白い話がある。30年以上前のことなのであまり正確ではないかもしれないが。
_ 一つは、何からそういう話になったのか覚えていないが、創価学会の話になり、三島は「これからはミスティックなものが関心を集める時代になる」と言った。「ミスティック」という言葉が耳に残っている。創価学会の将来についての三島の予言が当たったかどうか分からないが、オウム真理教事件は三島の勘が鋭かったことを証明している。
_ もう一つは、多分SFの話をしていたときだったと思うが、私が「永遠と絶対を対象に出来るのはSFだけではないか」と言い、勉強している法律について、法律は永遠とも絶対とも関係がないからつまらない、という趣旨のことを言った。三島は一瞬考えて、「法律は相対的な絶対ではある」と言った。不変ではないが、その時代においては絶対的な力を持っているということだと思った。三島としては、法学部の学生の勉強意欲を削ぐようなことを言わないほうがいいと思ったのだろう。三島のコメントはそれほど意味があるものではないが、私の記憶に残っているのは、この発言の前に一瞬、多分10分の1秒ほど、の間があったことだ。三島の話にはいささかの淀みもなく、まるで決められたセリフのように言葉が出てくる。どんな頭にいい人間でも、考えるというプロセスがあってそれが相手にも分かるものだが、三島の場合は人間には感知できない速度の思考が行われているようだった。だから、一瞬の間が、三島が人間であることを感じさせてくれたという意味でとても印象に残っている。
_ 「私の履歴書」に書いた三島夫人、瑶子さんの仕事をしていたとき、プロデューサーの藤井浩明さんが瑶子さんに「三島さんにあるとき映画の批評をお願いしたんですよ。原稿用紙4枚ということで。三島さんはすぐペンをとって原稿用紙にさらさらと書き始めた。一気に書き上げて丸を打ったらそれが4枚目の原稿用紙の最後のマスだったんですよ。それも完璧な出来で」と話した。瑶子さんは「プロなんだからそのぐらい当たり前でしょう」と言っていたが、そうでもないだろう。いろんな人に会ったが、あんな人間は見たことがない。いや、本当に人間だったのか。
_ 4月26日に控訴審の2回目の口頭弁論があった。裁判所は弁論を終結すると言い、判決期日を6月14日とした。同時に和解期日を5月10日とした。和解が出来なければ予定通りに判決を言い渡すという。
_ 裁判終了後、陪席裁判官が両代理人に声をかけて、少し話を聞きたいので書記官室に来てくれとのこと。17階の会議室で話し合いが持たれた。冒頭裁判官が、これまでに和解の話があったのか、と質問した。相手方の代理人が裁判が始まってからはそのような話はなかったと言った。私はこれに対して、訴訟になる前に、黒澤久雄とNHKが話し合ったことはあると言った。裁判官が、その話し合いの内容を尋ねたので、「武蔵」が放送された後週刊誌等で盗作であるとの報道があり騒ぎになったので、NHK側が黒澤久雄を訪ね謝罪したが損害賠償には応じないという姿勢であったと説明した。裁判官は何を謝罪したのですか、と訊くので、著作権侵害はないという立場なので世間を騒がせたことをわびたのではないか、と言った。相手側の代理人は、そうではなくて、事情説明のために訪問したと聞いている、と述べた。
_ ここで何が問題かというと、上記の議論はすでに第一審の原告側の訴状と被告側の答弁書で同じやり取りがあったもので、裁判官はこれらの記録を読んでいなかったことが明かなのだ。この和解を取りしきることになった裁判官が多分判決を書くのだろうが、記録を読んでいないでどうして結審できるのだろうか。
_ 鳴り物入りでスタートした知財高裁だが、真面目に仕事をする気があるとは思えない。