_ 三池崇史監督作品。実際の事件と裁判に基づく。
_ 児童と親が小学校教師に対して損害賠償を請求する裁判を提起する。訴えの理由は教師が児童に対して暴行を加え暴言を吐いたというもので、教師はそれを否認している。
_ 映画は、原告、被告の両方の視点から何が事実であるかを探る。最初に原告側の主張に基づく映像が流れる。そこでは、綾野剛扮する教師が、児童に対して、サイコパスとも思われる凄惨な虐待をする。
_ ここで黒澤明の「羅生門」であれば、被告が見た事実が映像として提示されることになる。しかし、被告は、原告主張の事実のほとんどについて、そのような事実は存在しなかったと言っているので、従って、映像もない。
_ 映画としては、これが「羅生門」のような明快さを欠く原因となる。原告主張の事実は、裁判で言語により反駁される。しかし、綾野剛の迫真の演技が頭に残っているので、それを払拭できない。
_ 裁判は、民事なので、原告が主張する事実を立証できなければ敗訴となる。刑事事件の裁判で、アリバイがあった、真犯人が現れたなどの理由で、被告人が無罪になるというような劇的な展開はない。
_ 映画は、教師側に立って作られているので、教師の主張が正しかった、つまり虐待はなかった、という結論になっている。しかし、裁判では、虐待がなかったという事実認定がなされているわけではなく、虐待をしたという証拠がなかったと言っているに過ぎない。
_ あまり深く考えなければ面白い映画だが、裁判の映画としては失敗だろう。
_ 2005年の公開から20年を記念してデジタル版が渋谷パルコ8階のシネクイントで上映されている。
_ 私は20年前にこの映画を劇場で3回観た。その後観ていなかったので、細部は忘れていて、新鮮な感動をまた味わえた。コンサートのシーンは涙が出た。
_ 昔観た映画を、歳月を経て再度見るという行為により、映像・音楽等と一緒に、その当時の世界を感じることになる。観ている主体の私もその世界に戻ったような気がする。それは、一種のタイムトラベルだ。
_ 劇場を出ると、私は今の自分に戻る。自分の年齢を感じる。映画の中の二人のNANAは歳を取らない。そこには永遠の時間が流れている。
_ 最新作。
_ 弱いスーパーマンという設定で、最初から敵に痛めつけられて何本も骨折するという話。
_ これまで見たスーパーマンは、単独行動をとると思っていたが、今回は、アヴェンジャーズのように仲間がいて(あまり仲が良くないが)、敵も何人もの超人を擁している。団体戦なのだ。
_ 敵役のレックス・ルーサーは国家レベルの悪事を企てている。アメリカは、ルーサーの会社を通じて、ある独裁国家に大量の武器を売る。その国は、隣国を侵略する。その隣国の国民はスーパーマンに助けを求めるが彼は忙しくて手が回らない。
_ 現在起きている戦争を考えると、スーパーマンが何人いても平和は来ないだろう。それよりトランプ大統領が関税を武器に平和を押し付けるほうが有効かもしれない。
_ 単純な正義のある世界を想像するのが難しい時代なのだ。