_ 原作者と脚本家の間に確執があり原作者が自殺したと言われている件がある。
_ 事実関係はよくわからないが、原作者は原作に忠実にドラマ化が行われるように要求したとのこと。
_ 漫画を実写化することは翻案になり、翻案権が許諾されれば、原作を変更することが可能になる。著作者人格権の同一性保持権はあるがその範囲は限定的だ。
_ 問題は、「原作に忠実」ということが具体的にどのような意味を持つかだ。漫画をドラマ化する場合は、複製ではないので当然変更がある。映画やドラマでは尺が決まってくるので、原作を削ったり膨らませたりすることがある。キャスティングで原作のキャラクターを変えることもありえる。
_ 「忠実に」といった場合、どこまで忠実であるべきかは契約で変わってくる。それが明記されていないと紛争が起きる。本件でも、弁護士が関与していてその点を明確にしていたらこのような事態にならなかったかもしれない。
_ 本件ではたぶん契約書はなく、口約束のみだったのだろう。今後は、弁護士が関与し、書面で契約することが必要だ。欧米ではそれが常識だ。
_ 次に、契約書があっても、その解釈・履行につき当事者が直接交渉するのは避けたほうがいい。本件のように、原作者と脚本家の関係では、芸術家同士になり、冷静な判断が難しくなる。出版社とテレビ局が仲介したのかもしれないが、何れも利害関係人で、正確に情報が伝わっていたか疑問だ。
_ 私は、映画「乱」の件で、黒澤監督とプロデューサーのシルバーマンの間で調整役のような役割をした。これは法律知識を駆使して紛争を解決するという本来の弁護士の仕事ではなく、二人の巨人がぶつからないように、宴席での幇間のように機嫌取りをしたのだ。今から考えると、二人の老大家より30歳以上も若く、未熟な弁護士であったからできたことだ。当時私が50歳のベテラン弁護士だったら同じことはできなかっただろう。そして「乱」は完成しなかったかもしれない。
_ 原作(小説でも漫画でもいい)を映画化するには翻案権が必要だ。原作をそのままコピーするのが複製で、原作をもとに違った著作物を創作するのが翻案(adaptation)だ。
_ 翻案は原作に忠実である場合もあるが、原作に忠実である必要はない。
_ 拙著「黒澤明の弁護士」にも書いたが(104頁-105頁)、黒澤明の「天国と地獄」はエヴァン・ハンターの原作の翻案だった。つまり、黒澤はエヴァン・ハンターの小説「キングの身代金」をもとに脚本を書き、映画「天国と地獄」を作ったのだ。
_ しかし、「キングの身代金」と「天国と地獄」には、誘拐犯が社長ではなくその運転手の子供を誘拐するというところを除いてあまり共通点はない。黒澤はそのアイディアを借りたかっただけで、原作をそのまま映画化したかったわけではない。
_ 原作を翻案するのは、必ずしも原作にほれ込んでいるからとは言えない。原作のある一部だけに魅力を感じてそれを利用したいが、勝手に利用すれば著作権侵害になる。それを避けるためには翻案権の取得が必要になる。結果、原作を超えるような新たな作品ができることもあるのだ。
_ カンヌのパルムドール受賞作。面白かった。
_ 法廷劇としては、トップクラス。
_ 日本の法廷劇は、嘘が多くて観ていられないが、これはフランスの法廷なので、本当らしく見えればいいので楽だった。
_ フランス映画なのに、冒頭の会話は英語で始まる。やがて明らかになるが、主人公の女性は作家でドイツ人、その夫はフランス人。ロンドンで知り合って、わけあって、フランスの田舎の山荘で暮らしている。夫婦とその盲目の息子は英語で会話する。
_ 主人公は夫殺害の容疑で裁判にかけられる。裁判はもちろんフランス語で行われる。フランス語が得意ではない主人公もフランス語で尋問されフランス語で答える。フランス語に詰まった主人公が英語で答える場面があるが、通訳はおらず、裁判官や審判員はみな英語を理解しているということか。
_ 映画とは離れるが、ヨーロッパの連中は3か国語以上話せるのが当たり前。どれが母国語かわからないぐらいな人もいる。
_ 日本の英語関係者は幼少時から英語を教えるのは、日本語能力を劣化させるから駄目だという。それは間違いで、人間は複数言語を同時に別な回路で学習することができる。それができるのは小学校から中学の前半ぐらいまでで、そこを過ぎると脳は固まってしまう。