_ ネタバレあり。
_ 「ロッキー」ばりのサクセスストーリーかと思って半分過ぎたところで、突然奈落の底に突き落とされる。マギー(ヒラリー・スワンク)は、世界タイトルに挑戦する試合でラウンドの終了後の反則攻撃で倒され、コーナーからフランキー(クリント・イーストウッド)が差し入れた椅子に頭を打って首の骨を折る。首から下が麻痺したマギーは、ハリウッド映画的な奇跡のカンバックはなく、人工呼吸器なしでは生きられなくなる。気丈なマギーも、壊死した左足を切断され、気落ちする。マギーは、事故の前にフランキーに話したことのある昔飼っていた犬の話をする。その犬は下半身不随だったが、前足だけで家の中を走り回っていた。マギーの父親は当時具合が悪く、先が長くないことを悟っていた。ある日、父親はスコップを持って犬を連れて車で森に向った。犬は久しぶりの外出を喜んでいた。父親は土に汚れたスコップを持って帰ってきたが、犬はいなかった。マギーは父親が、犬にしてくれたことを自分にもしてくれとフランキーに哀願するが、フランキーは拒否する。
_ マギーは舌を噛んで死のうとするが、失血死寸前で助けられる。しかし、また同じ事を繰り返し、鎮静剤を打たれる。マギーはフランキーに訴えていた。自分は貴方のおかげで世界タイトル戦まで経験した。何もなかった人生ならこれからの人生も耐えられるかもしれないが、自分にはあの興奮と自分の名前を呼ぶ観客の声が忘れられない。このままこのように生きていればあの感激が失われてしまう。
_ フランキーは毎週礼拝に通っていた神父に言う。マギーは挑戦したんだ(she gave it a shot)、だからもういいのではないか。自分の思うように生きたのだから。神父はこれまでフランキーがどのような罪を犯してきたかは知らないが、今度しようとしていることはそれと比較できないほど重大なものだと言う。
_ フランキーは夜、病院に忍び込み呼吸器をはずし、致死量のアドレナリンを注射し、行方不明になる。フランキーのカバンの中にはもう一本注射器が入っていた。
_ (上記会話は、一回しか見ていないので正確ではない。)
_ 最初は、尊厳死の話で、前半の華やかな物語は、後半との明暗を際立たせるためにあるのかと思った。しかし、しばらく考えて、she gave it a shotというフレーズが引っかかった。shotという言葉はその前にも何回か出てきた。フランキーの主義は、タイトルへのshot(挑戦)は未熟なうちには与えられない、というものだ。その機を待ちすぎたために他のマネージャーに取られてしまった有望なボクサーもいた。フランキーにとってshotとは人生で何度もあることではないのだ。
_ マギーは、ただの不幸な人としては描かれていない。マギーは栄光の座に手の届く所にいた。短かったが、皆がマギーに注目し賞賛し声援を送った日々があった。マギーは負け犬ではなく、選ばれた者だった。マギーは、自分の人生の輝かしい部分を汚すことなく消えていきたかったのだ。マギーを造り上げたフランキーは、神の教えに逆らって、マギーに死を与えた。これは一つの神話なのだ。
_ 勘兵衛「この戦・・・やはり敗戦だったな」
_ 勝ったのは、百姓たちだ。というのが「七人の侍」の結論だった。では、こんどの合戦で勝ったのは誰だろう。
_ NHKかというと、そうでもない。判決書を読めば分かるとおり、これが公開ディベートか陪審員の評決だったら、こちらの方が有利だったろう。NHKは15ラウンドが終ってほとんどKO寸前だったのになぜか判定では勝っていたボクサーのようなものか。まあ、こんなことを言っても負け犬の遠吠えでしかないが。
_ ボクシングの試合には、選手のほかにアンパイアがリング上にいる。今回は訴訟の当事者ではなくアンパイア役の裁判所が勝った試合なのかもしれない。
_ 裁判所にとっても勝敗の帰趨は大きな関心事だった。今回、黒澤側が勝ったとしよう。それは11箇所程度の類似点があれば、NHKにも勝てるというメッセージになる。そうなると、来年から地方の同人誌に載っただけの作家がいくつかの類似点があると言ってNHKや民放や大出版社を訴えてくる。裁判所はそのような作品と「七人の侍」は違うと言うが、無名作家たちは著作物に貴賎はないと言い、著作権法の下に全ての作品は平等だと主張する。裁判所は困ってしまう。
_ 確かに、著作権法の保護は作品の著名度によって差はない。しかし、Aと言う作品がBという作品の翻案(パクリ)であるか否かはB作品の著名度が影響してくる。今回はB作品(七人の侍)があまりにも著名だったので騒ぎになった。同じ程度に似ていてもB作品が、同人誌に載っただけの作品だったら誰も問題にしなかっただろう。「七人の侍」と同人誌の作品を差別するのは不当だから、「七人の侍」も新作に接するときと同じ目で見るべきだという考えもあるだろう。しかし、平均的な日本人を基準にすると(これが判例学説の立場だ)「七人の侍」と同人誌の小説を同じように見ることは無理だ。「七人の侍」の名場面は50年の歳月を生き抜いてきて、日本人の教養の一部になっている。
_ 最高裁の翻案の定義は平たく言うと「表現が変わってても、元の作品の本質的な特徴が感じ取れるもの」で、誰が感じ取るかと言えば、それは人間であって機械でない。これまでの裁判例では、真似された作品(B作品)は何れも著名な作品ではなかった。だから、裁判所はA作品とB作品の共通部分の分量、主題、筋書き、登場人物の個性などを比べればよかった。これには、多少の分析力があれば十分で、芸術を理解、評価する能力は不要であった。要するに、ある人が、はじめて見る二つの作品を比べて似ているか否かを判断するということだった。多分いずれ機械にも出きる作業だろう。
_ 真似された作品が、著名な作品の場合はこのように簡単に判断は出来ない。共通部分の分量が少なくても、印象的な場面が真似されればそれだけで元の作品が想起される。パロディというジャンルがあるのは正にこの理由による。無名作品のパロディはありえない。本件とパロディは、著名な作品を対象にしているという点で似ている。また、パロディは本件のような「象徴場面型模倣」や「嵌め込み型模倣」という手法をよく使うところでも似ている。違うのは、本件はフリーライドが目的で、パロディは原作品を元に新たな創造を行うというところだ。
_ つまり、著名作品の無断模倣には、許されるものと許されないものがあるということだ。今回裁判所はその識別をするという労を避けて、この程度の限定的な模倣は著作権侵害にはならないとした。似ているからフリーライドが可能になり、似ているからパロディになるのだが、裁判所は「似ていない」ということにしてしまった。パンドラの箱をあけるのが怖かったのか。作品の内容にまで立ち入って判断する能力がないと考えたのか。
_ 裁判所は、「(七人の侍)は、原判決も指摘するように、(武蔵 MUSASHI)に比しはるかに高い芸術性を有する作品であることはあきらかであるものの・・・」と言っている。第一審の「映画史に残る金字塔」という評価もそうだが、裁判所は判決理由に必要がないにも拘わらず気持ち悪いお世辞を言う。自分の都合で納得のいかない判決を書いたことに良心の呵責を感じているのだろうか。