_ 「三島由紀夫とテロルの倫理」という本を読んだ。千種キムラ・スティーブンというニュージーランドで大学教授をしている人が書いた本でたまたま大盛堂で見つけた。多分ほとんど売れていない本だろう。
_ 一応全部読んだから面白くないとは言わないが、不満は残る。三島を真面目にテロリストとして評価して日本の原理主義者と見るところは同意するが、せっかく自爆テロとの類似をあげ、赤軍が三島に影響されていたというのだから、三島ー赤軍ーイスラムの自爆テロの流れを究明して欲しかった(2002年4月16日「自爆テロと三島由紀夫」参照)。
_ 三島のことでまだ書いていなかったことがある。三島と会ったあと礼状を出してそこに「美しく死んでください」と書いたことは「三島由紀夫会見記」に書いたがその後日談。町永と三島から返事がくるのではないかと待っていたがそれは当然ながらこなかった。祖父が平岡梓氏と会って話したとき三島の二人についての印象が伝えられた。私については「好青年」とのことでまあ社交辞令だろう。町永については「あれはただの文学青年だよ」とのこと。町永については三派系全学連との触れ込みだったので、それに対する反応としては別に否定的な評価というわけでもないだろう。しかし、私は町永には言えなかった。町永は私とは違って熱狂的な三島ファンだった。
_ それからしばらくして、私は三島の楯の会に入ろうと思った。自分でそう思ったのか、祖父に勧められたのか、多分後者だったのだろう。自分でももっと男らしくならなければいけないと思っていたのは確かであるが。
_ 祖父が、私が楯の会に入りたがっていると平岡氏に伝え、それを平岡氏が三島に伝えた。ところが、三島は平岡氏をしかりつけたとのこと。今から考えると、命がけの行動に知り合いの孫を参加させるはずもなく、当然の反応だった。私や、祖父や、多分平岡氏もそんな認識はなく、楯の会をボーイスカウトの変種と考えていたのだ。その後、この事件のせいか良く知らないが、祖父と平岡氏は疎遠になってしまった。
_ ついでに、なぜ三島が会ってくれたかというと、三島は祖父に義理があったのだ。それは、多分三島が「絹と明察」を書いていたときの話だと思うが、重役室というものを見たいと平岡氏を通じて当時ある会社の重役をしていた祖父に依頼があったとのこと。そんなことがなければあの時期に無名の大学生(それも三派系全学連を連れてくるという)に三島が会うわけがない。
_ 最後に三島との話を思い出してみると、とても内容が高度だったと思う。その時は作家は普通このような話し方をするのかな、としか思わなかったが。例えば、大江健三郎について「文学部を、それもフランス文学を出たので、彼の小説には社会科学による基礎がないと言った」と書いたが、三島はその前に「大江は渡辺一夫の弟子でしょう」という趣旨のことを言った。私は渡辺一夫が何者か知らなかったので、前のような話になった。渡辺一夫が有名なフランス中世文学の研究家で大江が彼に憧れて東大のフランス文学に行ったことを知っていればもっと面白い話が聞けたのだろう。事ほど左様に三島の話はレベルが高く、大学生だった頃の自分を基準に話しているかのようだった。