_ いわゆるケータイ小説の映画化である。
_ この作品にケチをつけようと思えば簡単であるが、それはすでにネットの評を見れば出尽くしている。でも、これだけ小説が売れ映画が当たっているからには理由があるはずだ。
_ ご都合主義の筋や自分勝手な主人公は原作者の脳内の妄想と考えれば理解できる。ヤクザ映画が男のロマンであるとすれば、これは女の子のロマンなのだ。古典的なヤクザ映画(「仁義なき戦い」以前の)がリアリズムを排して様式美を追求したように、この映画は女の子が好む甘いセリフや裏切らない男や必ずクリスマスに降る雪が出てくる。
_ 少し前にNHKでケータイ小説の特集があり、何人かの作家のインタビューが放送された。「恋空」の作者ではないが。Chakoというヒット作の作者が言うには、書く動機は自分のそれまでの人生を総括して出直すためだった(急死した彼氏の墓参りにも行けない自分に対する反省)とのこと。書き終わったら全部削除しようと思っていたそうな。
_ 私はケータイ小説を読んだことがないので、あくまでも推測だが、従来の小説と違うのは読者をあまり意識していないところではないか。意識するにしても、自分の気持を理解してくれる同年代の女の子あたりで、口うるさい文芸評論家などは眼中にないだろう。だからケータイ小説の作家は他人のツッコミを気にすることなく自分の感情に溺れることが出来る。自分の体験がベースになっていても自由に脚色し、気恥ずかしいような粉飾をし、宝塚を見るように自分を見るのだ。
_ ケータ小説の読者もリアリズムなど求めておらず、自分(というか、こうあってほしい自分)と主人公を同化させ、現実と隔絶した夢の世界で感涙に咽ぶ。
_ 考えてみれば、小説なんて元々そんなものかもしれない。自分を別な世界に連れて行ってくれればそれで十分なのだ。小説の中に生きる目的や宇宙の真理が含まれている必要はない。しかし、そればっかりだと、もっと大きな感動を味わう能力が退化するだろうな。