_ 「ハルフウェイ」について書いていて考えたのだが、そもそも自然体の演技はありうるのだろうか。
_ 自然体に見える演技はあるだろうが、それはあくまでも脚本家や演出家が作り上げたものだ。では、ドキュメンタリーなら自然体が見られるかといえば、カメラの存在が邪魔になる。よくタレントの一人旅のテレビ番組があるが、自分でカメラを回していなければ、必ず二人以上の旅なのだ。
_ じゃあ、我々はカメラのないところで自然体かというと、そうとも言えない。他人に見られていると思えばその視線を意識して一人で演技する。他人がいない場合でも、もう一人の自分が自分を見ていることを感じる。自意識がある限り我々は演技し続ける。
_ たとえば、泣くという行為を考えてみれば、そこには色々な計算が働いていることが分かる。現実には純粋な感情など存在しない。仮にあったとしても、その感情を分析してみれば、利害打算などの夾雑物によって損なわれている。
_ そこで、本当の純粋な感情は演技によってのみ作り出せるという考えが生まれる。
_ 「ハルフウェイ」で行われたのは、多分こんなことだったのだろう。
_ 北乃きいに、あなたはシュウという同級生が大好きな女の子という役だ、そのシュウに告られ喜ぶが、シュウは東京の大学に行きたいという、と状況を説明する。その後は二人の自由に演技させる。
_ 設定された「好きだ」という感情には理由はなく、分析することでその感情が消えることはない。ひたすら好きだと思えばいい。二人の将来のことを考える必要はない。映画の撮影の期間のみの関係なのだ。
_ このような舞台と役を与えられたら、夾雑物のない純粋な感情がはじけて、人物は自然に動き出す。
_ 「ハルフウェイ」の中の北乃きいは現実の北乃きいより自然だったかもしれない。