_ 21世紀最初の年に我々は多くの人々が究極の悪と考える二つの犯罪をみた。ひとつは9月11日のWTCに対するテロであり、もうひとつは大阪教育大学付属池田小学校の児童殺傷事件である。いずれの場合にも犠牲者に非はなく、犯罪は加害者の一方的意志により行われた。しかし、加害者に動機がないわけではなく、前者においてはWTCが米国の繁栄の象徴であり、後者においては付属池田小学校がエリート養成校と考えられていたことが標的になった理由なのだろう。
_ WTCで働いていた人々は貧しい労働者も多く、必ずしもイスラム原理主義者に恨まれるような階級ではなかった。しかし、大きな歴史の流れの中では、あの場所は世界の貧者の憎悪が向けられる所だったのだろう。
_ 付属池田小学校の児童も必ずしも富裕階級の出ではなかったろうし、そこにいることで将来が約束されていた訳でもなかった。しかし、人生の敗者であると思い込んでいた宅間守は自分には失われた可能性・夢を持つ児童に殺意を抱いたのだろう。
_ 国際的なダイナミックスの中で発生したテロと宅間守という特異な個人が引き起こした犯罪は、マクロ及びミクロのいずれの局面においても今世紀が困難なものになることを予感させる。競争心があり、その結果常に不満を持つことが他の動物と人類を区別するひとつの特徴であるという人がいるが(さらに言えば、人類の種の中でもクロマニヨン人のほうがネアンデルタール人より攻撃性が強かったので勝ち残ったという)、これまではそのエネルギーが文明の発展に寄与してきたようにみえる。
_ 国家間の争いにおいても、また個人の間においても、これまで敵は明瞭で、弁証法的な歴史の展開により、専制的、階級的な社会からより民主的で平等な社会に発展してきたと言える。しかし、今日の社会は複雑である。アメリカを批判することは簡単だが、アメリカは従来の帝国主義国家と同列に論じられないし、ナチスドイツやソ連が勝者であった場合と比べてみれば我々はより良い世界に生きていると思う。日本においても、新しい階級が生まれつつあると言う人はいるが、一昔前のように働かないで食っていける階級はない。
_ このような敵が誰か分からない社会では、不満は幸福そうな人々に向けられる。幸不幸は相対的なものであるから、幸福な人々はその存在自体が不幸な人々を作り出している。人間はみな平等であるという理念と、マスメディアの発達によって誰の目にも明らかになった幸不幸の格差はこの敵意を増幅させる。
_ 生物のある種を他の種に優越させている遺伝子が環境に適合しなくなれば、その優越的な立場は失われ、衰退していく。人類をこれまで勝利に導いてきた競争心(攻撃性)を規定する遺伝子が人類という種にとり有害になりつつあるのかもしれない。