_ 堀江貴文が保釈され東京拘置所から戻ってきた。
_ 拘置所前の映像で驚いたのは堀江の人相が全く変わっていたことだった。8キロ減量して精悍に見えたのは勿論だが、目付きが違っていた。以前の傲慢で人を小ばかにした感じではなく、澄んだいい目になっていた。3ヶ月間伸ばした髪と相俟って、ちょっとオーバーに言えば、山にこもって荒修行をした後の大山倍達のようだった。大山の修行と言えば、一人で山に登り、自分に課した目標を達成するまで里に下りていかないように、眉を片方づつ剃っていたというエピソードがある。
_ 3ヶ月間の拘置所生活がそれほど大層なものかという人もいるだろうが、私には(そのような経験がない人間として)想像できないものがあるような気がする。
_ 大山の修行ではないが、我々はどんなに厳しい制約を自分に課しても、逃げ出そうと思えば逃げ出せる。しかし、拘置所や刑務所はそうはいかない。自分の意思では出られない。そこで人は抵抗できない権力の存在を知る。徴兵制のない日本で権力の存在を実感できる場所は他にあまりないのではないか。
_ もっとも、拘置所や刑務所に入れば人間として鍛えられ、厳しい修行をした武道家のようになれるかといえば、そうではないだろう。むしろ、その反対で、多くの人間は権力に屈し、権力に媚びて、節操の無い人間になって(又はそんな人間であることを自覚して)戻ってくるのかもしれない。でも、何人かは、圧倒的な力と対峙しても自分を曲げず、自分にとって護るべき価値が何であるを確認して帰ってこられるのではないか。堀江が後者であるかはまだ定かではないが、あの表情を見ていると、いい経験をしたのだろうなと、ちょっとうらやましくなる。自分も若い時に(この歳になってからはいやだけど)そのような体験ができれば少しはマシな人間になっていたかも、と思ったりする。
_ 声優のアイコを名乗り昏睡強盗をした事件につき10年の判決が言い渡された。
_ 裁判所は被告人(神いっき)が多重人格者である可能性は認めたが、犯行時には主人格である神いっきが単独で犯行に及んだと認定したようだ。神は生物学的には女性だが、性同一性障害で男性として暮らしていた。犯行時は女装して声優のアイコなどと名乗っていた。
_ 弁護側は犯行時は別人格のミサキという女性の人格が表に出ていて主人格の神とは意思の連絡がなかったと主張した。しかし、裁判所は、犯行時に神名義でメールを送っていたことから神の人格が犯人だと認定したようだ。
_ 事実認定については、裁判記録を見なければ詳細はわからないが、裁判所が多重人格の可能性を認めたなら、無罪を言い渡すべきである。
_ 多重人格は一つの肉体の中に複数の人格が存在している状態であるが、その一つの肉体を拘束すれば、犯罪に関与していなかったほかの人格をも拘束することになる。多重人格が可能性の段階であっても、無実の人格を罰するおそれがあるなら無罪にしなければならない。
_ 密室で一人が殺され、その部屋には犯人の可能性がある4人がいたとしよう。でも4人のうち誰が犯人であるかわからない。その場合には4人とも無罪になる。同じことだ。
_ ヒューマントラストシネマ渋谷の午前10時30分の回で観た。上映開始から100分ぐらいたったところで、突然火災警報が鳴り、画面が停止し、やがて明かりがついた。ビルの3階で火災報知器が誤作動したとの説明があった。それから10分ほどで、上映が再開したが、無声映画になっている。音声がないまま10分ほど上映したがまた停止し、上映はできないと説明があり、「特別ご入場券」が配られ、全員退場した。
_ 従って、この映画の批評はできないが、観たところまでの感想とすれば、よくある青春ものというところか。舞台は、関西大学で、2年生の、友達が少ない男女が知り合い、男とバイトが一緒の女を加えた3人の間の淡い恋愛感情を描く。
_ あとでネタバレのレビューを見ると、そのあと、事件が起きるとのこと。しかし、そのような劇的な展開がなくても、いいのではないかとも思える。
_ ちょっと偏差値が高い私立大学の学生の日常はあんなものだろう。時代にしても、現代ではなく、半世紀前の話にしてもおかしくはない。
_ 私は大学2年のとき、この映画のように友達が少ない女子学生を口説こうと思って、文学の話をした(彼女は文学部だった)。オリエントという喫茶店で待ち合わせて、サンテグジュペリの「南方郵便機」について話した。彼女はサンテグジュペリのファンだった。結局数回会っただけで交際は発展しなかった。やがて彼女は海外留学し、連絡は途絶えた。
_ 10年後偶然彼女と再会した。その時の話をしたが、彼女は学生時代は恋愛には全く関心がなかったとのこと。