少数意見

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2002-05-24 KT

_ 面白かった。

_ 1973年のKCIAによる金大中拉致事件の話だが、自衛隊の情報将校富田満洲男(佐藤浩市)を絡ませたところが作品に奥行きを与えた。富田は三島由起夫と自衛隊の決起を計画したが、上層部の反対で断念したという。三島が自決したとき富田は東部方面総監部に白い菊の花をもって現れる。

_ 金大中事件は日本を舞台にしたということを除いて、日本と直接関係ない。この映画に富田というフィクショナルな人物が出てこなかったら日本人の観客が感情移入できる度合いは低くなっていただろう。

_ 富田が三島のシンパであったという設定も有効だった。この当時、朴大統領の軍事独裁政権と民主化の旗手であった金大中の対立は朝鮮半島の緊張を背景に、殺すか殺されるかの状況になっていた。そこに存在感をもって関われる日本人は少なかっただろう。1970年に死んだ三島はその当時すでに平和ボケしていた日本人に「生命以上の価値は存在するか」という問いを投かけた。死に場所をもとめているかのような富田の暗い表情は、軍隊になれない自衛隊のみならず、あの時代の一部の青年に共通するものだった。アラブに死に場所を求めた赤軍派の連中と180度政治思想は違っていても同じ情念を持つ富田のような自衛官はきっといたのだろう。

_ 失敗したら死が待っているという緊張感の中で行動するKCIAと、どう動いても死が近づいてこないぬるま湯のような日本の状況に苦悩する富田は、互いに次元の違う世界にいるように交われない。

_ 最後の場面で、愛する女と静かな人生を送ろうと決意した富田は唐突な死に遭遇する。これが三島作品の主人公であれば、英雄であることを捨てた男に訪れる当然の最期ということになるのだが、阪本順治監督の意図はそうではなかったのだろう。


2004-05-24 ロスト・イン・トランスレーション

_ CF撮影のため東京に来た元有名スター、ボブ(ビル・マーレイ)と夫の仕事についてきたシャーロット(スカーレット・ジョハンセン)は同じパークハイアット東京に泊まったことから不思議の街東京での数日間を共にし、互いに淡い恋心を抱く。

_ 渋谷のシネマライズで土曜日の17:15の回を観たが満席で立ち見が出た。観終わったときはあまり感心しなかったが、今は結構面白かったと思っている。

_ 「ローマの休日」の東京版のようで、「ローマの休日」ほどドラマチックでないので(アカデミー賞を取ったが)脚本だけをみればつまらない作品かもしれない。脚本には描けなくて映画にあるものは東京の映像でそれは面白い。歌舞伎町の夜景、渋谷のスクランブル交差点、ゲームセンター、パチンコ屋と定番の東京ではあるが。いずこも夥しい人、喧騒、色彩に充ち「ブレードランナー」の未来都市のようである。もっとも私にとってこれらの光景はめずらしいものではなく、わざわざ映画で見るほどのものではない。

_ しかし、ボブやシャーロットの視点で見ると世界は一変する。東京は「混沌」という言葉に形を与えたらこうなるだろうという都市なのだ。それは都市自体が生命を持っているかのごとく自在に発展・変身し、人が作るものではないから人の手では止められず、どこまでも(多くのアニメに描かれているように破滅するまで?)変化していくのではないか。

_ この映画に描かれた東京の住民もみな少し変である。誰もがマトモな英語を話さないのはいいとして、やたらテンションが高く、エネルギッシュでゴーマンである。一昔前のあいまいな笑いでしか自己表現できなかった民族とは異なる人々である。

_ このような描き方を侮蔑的と感じる日本人がいるようだが、それは違う。ソフィア・コッポラはボブやシャーロットの倦怠の対極としてデフォルメされた東京をもってきたのだ。これは我々がエルビス・プレスリーの猥雑とエネルギーに圧倒された時代を彷彿させる。そうなのだ。この映画は世界のクールの中心が東京であることを宣言しているのだ。

_ Lost in Translation の translation は言語の翻訳だけを意味しているのではない。それは文化の解釈・理解を含み、ボブとシャーロットは異文化(それもクールな)の圧倒的な迫力に当惑してるのだ。


2008-05-24 自死という生き方

_ 「自死という生き方ー覚悟して逝った哲学者」は65歳で自殺した須原一秀の遺稿を編集した本で双葉社から出ている。まだ途中だが、著者の思想には共鳴するが行動は特異だ。彼は、老醜と苦痛に満ちた自然死を避けるために心身とも健全な時に自死することを提唱しそれを実践した。

_ 最近、高校の同級生と大学のサークルの先輩が相次いで肺がんで死んだ。特に高校の友人は去年ガンであることが分かった直後に連絡をもらい、何回も会っている。最後に会ったのは死ぬ一ヶ月前で、そのとき彼は「俺はもう死んでもいいと思うようになったよ」と言った。私は言葉に詰まったが「親戚に10年以上寝たきりの人が何人もいるが、何れみんなそんなことになるから早く死んだ方がいいと俺も思う」と正直に思っていることを述べた。彼はちょっと安心した表情を浮かべた。

_ 彼は、入院してから一週間で死んだが、入院の前日まで会社に行って、その前の週にはラグビーの試合の審判を勤めたそうだ。そこまでは充実した人生の最後でいいのだが、入院してからのことを想像するとつらい。

_ 肺がんは呼吸が出来なくなって死ぬが、その苦しみは緩和することが難しいという。呼吸困難な状態が苦痛なのでそれを取り除くということは死を意味する。緩慢な溺死と言われているが、それが一週間続くのは地獄ではないか。

_ 彼が入院した時、医者は回復が不可能であることは分かっただろう。その先の治療は死を先延ばしにする効果しかない。それは即耐え難い苦痛を長引かせることだ。そんな状態で死を選択できるのであれば、ほとんどの人がそうするだろう。でも日本の医療ではその選択肢はない。医者の責務としては出来るだけ長く生かせることしかない。それは結果として人生の最後を悲惨なものにする。

_ 医者の論理としては、肺の細胞がほとんどがん細胞になっていても回復する可能性はゼロではないというのだろう。でもそれは生命が絶対的な価値を持つという間違った考えに基づく教条主義だ。生が無限大の価値を持ち死がゼロであればその考えもいいだろう。しかし生は永遠ではなく死は必ず来る。生命はいわば賞味期限のある商品なのだ。80年生きられる人は60歳になれば生命という商品を4分の3費消している。

_ 人生の価値をその間の快と不快とのバランスシートで考えてみれば理解しやすい。肺がんで死に掛かっている60歳の人の最大限の余生が20年だと考えよう。その間得られる快は多分それまでの人生で得られた快の割合より少なくなるだろう。それでも人生全体の快の合計が1000単位として残りの人生に100単位が得られるとしよう。しかし、治療により回復する可能性が1%であれば得られる快の可能性は1単位でしかない。その1単位の快を得るために想像を絶する苦痛に耐える価値があるか。さらにその苦痛の結果100のうち99は死であればなおさらだ。

_ 須原一秀氏は、人生が下降線をたどる前に死を選択することを提唱している。人間は本来楽天的な生き物で、自分だけは天寿を全うして安らかな死を迎えることが出来ると思っている。しかし、周りを見ればそんな人はほとんでいない。


2017-05-24 帝一の圀

_ 総理大臣になり自分の国をつくるために有名私立高校の生徒会長になろうとする男の物語。原作は漫画で芝居にもなったとのこと。

_ 予告編からはよくある学園もののように思えて興味はなかったのだが、新聞評が良かったので渋谷で観たが面白かった。観客はほとんどが女子中高生とその彼氏のようで観に行くのにかなり勇気がいった。しかしその価値はあった。

_ スピード感と切れのあるコメディーで邦画には珍しいタイプ。政治の風刺になっているが、それも単純ではなく偽悪者的なスタンスが気持ちいい。役者も若い女の子に人気があるイケメンが出ているということだが(私はほとんど知らなかった)、いい芝居をしていると思った。中年の大物俳優のもったいぶった芝居よりはるかに自然だ。


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