_ ネタバレあり。
_ 映画評論家の佐藤忠雄氏はこの映画が「日本軍が中国の小さな村の村民たちをだまして虐殺する」話であるように解釈している(キネマ旬報2002年4月下旬号)。これは全くの誤解であり、そんな話であれば凡百の反戦映画と異ならない。この作品は、日本軍の兵士を欠陥もあるが魅力もある等身大の人間として描いている。とくに虐殺を命令する陸軍の隊長(澤田謙也)は不思議な魅力をもつ人物だ。虐殺は、ナチスドイツのように理性的かつ計画的に行われるわけではなく、ハンニバル・レクターのように我々の理解できない衝動に基づき行われるわけでもない。この映画は、普通の人間が持っている殺意が突然発現し燎原の火のように全部隊に広がり全てを焼き尽くす様を克明に描写している。
_ 日本軍兵士花屋小三郎は捕らえられ、小さな村の農民マーに預けられた。村人たちは花屋を殺すことも出来ず半年間世話をする。花屋はやがてマーたちの善意に感謝するようになり、自分の部隊につれていってもらえれば荷車2台分の穀物を与えると約束した。花屋の部隊の隊長はこの勝手な約束に激怒するが、日本軍は約束を守ると言い、荷車6台分の穀物をもって村に赴く。村人総出の歓迎会は放歌高吟の宴となり、隊長、村長らは競って歌を唄う。戦場でも人間は理解しあえるというハッピーエンドになりかけたとき、突然事態は暗転する。村人たちが陰謀をめぐらせているのではないかという疑いを捨てきれない隊長と酒の勢いでなれなれしく隊長に絡む一人の村人。それを見ていた花屋は突然その村人を襲う。あとは雪崩を打ったように大虐殺が始まる。
_ 和気藹々とした宴を殺戮の巷に変えたものは何だったのか。この不条理を必然として描いたのは監督(マーとして出演)チアン・ウェンの才能だろう。「ブラックホーク・ダウン」が人間でないものに対する殺意を描いた戦争映画の傑作だとすれば、「鬼が来た!」は親しさのすぐ隣にある殺意を描いた作品であると言える。たしかに、戦争という異常な状況があのような結末をもたらした原因ではあるが、殺意は戦争とは関係なく人間の本質的なものなのだ。
_ 人間はみな殺意というウィルスを体内に持っていて、それが何かのきっかけで発病する。発病すれば理性でのコントロールはきかなくなる。むしろ理性はそれを正当化する方向で知恵をめぐらす。花屋の暴走を見ていた隊長は、その瞬間次の凶行を阻止するという選択肢があった。しかし彼はまがりなりにも皇軍の兵士である花屋の行為を否定するより、それを正当化する道を選ぶ。すなわち、自分の脳裏にあった村人たちが敵であるという可能性を蓋然性に変え、あたかも自分が最初から虐殺を企んでいたかのように振舞うのである。それによって自分の論理的一貫性が保たれ、部隊に対する威厳も保てる。この決定に後ろめたさがあるという事実は、むしろ行動の激しさを招来する。自分が後戻りできないことを確認するために殺し続ける。
_ この映画がこわいのは、戦争を舞台にしながら我々の本質を捉えているからだ。人間はだれでも状況さえ整えば殺人鬼になる。鬼は我々のなかにいる。