_ 久間発言は「原爆はしょうがない」発言と簡略化してマスコミは報道しているが、それは歪曲である。
_ 当初の報道では全体の文脈が紹介されていて、記憶によれば下記のようなものだった。
_ 「ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して日本を侵略する準備をしていた。米国は日本の降伏が遅れるとソ連が日本を侵略すると思い原爆投下を決めた。戦争が続いていたら北海道はソ連に侵略されて、日本は分裂国家になったろう。それを考えると原爆投下もしょうがないと思っている」
_ ここで大事なのは、彼が原爆投下に対する絶対的な評価として「しょうがない」と言っているのではなく、原爆投下がなく終戦が遅れ北海道がソ連に占領された場合と比較して、戦争を早期に終結させる手段としての原爆投下は仕方ないと言っているのだ。つまり彼は原爆投下は lesser evil であるという相対的な評価をしているのだ。
_ この意見に対する反論としては、「しょうがない」とはなんだ!というものではなく、北海道が占領されるのはしょうがないので原爆投下はあってはならない、というものであるべきだ。つまり国土の分割と原爆投下のどちらを選ぶかという問題なのだ。
_ 私の考えがどうかというと、原爆投下がなければ確実に本土決戦になっていて、北海道の占領はありえたし、何より日本は降伏するチャンスを失い民族は全滅していたかもしれない。この考えはクリント・イーストウッドの硫黄島2作品を見てさらに強くなった。原爆投下が無かったら多分天皇のご聖断はなかったし、天皇がストップしなければ日本人は永遠に戦い続けただろう。
_ このような、歴史のifについて書かれた記事は今回の事件との関係では見ていない。原爆の功罪という議論は禁忌なのだろう。原爆は悪であって絶対に否定されるべきという意見しか許されない。原爆投下にもなんらかの功があったという意見は弾圧される。
_ しかし、このような立場は広島、長崎で死んでいった人々が全くの犬死であったと言うのに等しいのではないか。原爆の犠牲者は誰のためにもならない無駄な死を遂げたというのか。それはあまりにも無惨で死者を冒涜するものではないか。
_ 久間は、広島、長崎の死は悲惨であったが、そのおかげで日本は分裂国家にならずにすみ、今日の繁栄があると言いたかったのではないか。