少数意見

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2002-12-27 日記

_ この日記を定期的に読んでくれている人は何人くらいいるのか。10人か、5人か。まあ、一人でもいれば書く意味はある。

_ 顔の見えない相手に書くより気の合った友達と話をするほうがいいのではないか、という人もいるだろう。しかし、一風変わった思想を語るには相手を選ぶ必要がある。はなから受け付けない人もいるだろうし、最終的に理解できる人も独宴会の時間をもらわないと分かってもらえないだろう。私は気の弱い人間なので、自分の話に人の時間を割いてもらおうという図々しさはない。だから、読みたい人が自分の判断で時間を使ってくれる書き物の形がいい。

_ というわけで、これまで一年以上書いてきたこの日記は殆どが人に話したことのないものだ。私は近時ますます会話の無力さを感じている。会話では、ちょっと変わった、ちょっと複雑な話はできない。そのような内容を伝えるには話の論理的な組み立てが必要で、考えずに口からすらすら出てくるものではない。今の世の中のおしゃべりは大半が知識の伝達(あのお店が安いとか)か追認の強要(あいつは非常識だよ、そうじゃないか、とか)、あとは無意味な感嘆詞(ウソ!マジ!しんじられなぁい!とか)の垂れ流しで、内容のある思想が語られることは殆どない。内容のある話をしようとすれば、奇人変人の類と思われる。

_ そんな訳で、この日記は私が本当のことを言える唯一の媒体かもしれない。


2008-12-27 飯島愛の孤独死

_ まだ死因も明らかになっていないので軽軽にはコメントできないが、孤独死であることは確かなようだ。そしてマスコミは孤独死を悲惨なこととして報道している。

_ 孤独死の反対の状態は家族や親しい人に囲まれて息絶えることなのだろうが、本当にそれが幸せか疑問だ。

_ 私は勿論死んだことはないし臨死体験もないので想像でしかないが、人に見られながら死ぬのは嫌だ。

_ まず、死んでいく人とそれを見ている人の間には無限の距離がある。明日がない人の見る世界と明日がある人の見る世界は全然違うのではないか。死んでいく人にとっては、生きていく人は自分に共感することも理解をすることも出来ない存在ではないか。

_ 上記は死んでいくときに周りに人がいようがいまいが関係ないという消極的な孤独死肯定の根拠だ。次はより積極的に周りに人はいない方がいいという話。

_ 例えば肺がんで呼吸が出来なくなって溺れるように死んでいくとしよう。そのとき周りに人がいても誰も助けられない。死んでいく人は必死に呼吸をして死から逃れようとするだけで誰がそこにいようと関係は無く、一人で死と向かい合う。死は誰にとっても孤独な作業なのだ。

_ ではそのような孤独な作業を人に見られたいか。死に直面した人は自分が社会的な存在であることを忘れるに違いない。というかそれどころではない状況。だから体裁もカッコも忘れて髪振り乱して必死に生きようとする。冷静だったらそんなところを人に見られたいか。

_ まあ武士の切腹のような社会的な死、表現行為、の場合は最後の行動として人に見られてもいいのだろう。でもそれは特別な死で、凡人には無理だ。

_ 私も多分凡人としてみっともなく死んでいくのだろう。だったら最後の瞬間は一人でいたい。自分と死との一対一の関係を誰にも邪魔されなく味わいたい。

_ 象が群れから離れて孤独な死を迎えるように。


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