_ 12月8日の朝日新聞の天声人語に面白いことを書いていたので以下引用する。
_ 97年、映画「ゴジラ」のプロデューサー田中友幸氏が死去したとき、米オハイオ州の新聞に「追悼文」が出た。少年時代の「ゴジラ」をめぐる思い出をつづった記事だった。
_ 60年代前半の米国の地方都市でのことらしい。「ゴジラ」がテレビ放映される日、子供たちは近隣で一番いいテレビのある家に集まった。まだ白黒の時代だった。東京の街を破壊する怪獣のすさまじさに、子供たちは圧倒され「おい、見ろよ」と口々に言いながら見入ったという。
_ そのころ原爆や水爆を、子供たちは単に「爆弾」と言っていた。キューバやソ連の爆弾が配備されていることは知っていた。サイレンが鳴ると、机の下や地下室に隠れるように教えられていた。子供たちの間でゴジラは何者かを熱心に議論したが、あの怪獣は、まさにすべてを破壊しつくす「爆弾」だったのだと筆者は回顧する。(以下省略)
_ 私は1957年の後半から1960年の前半まで父の仕事の都合でニューヨーク市のクイーンズ地区に住んでいた。多分1958年だったと思うがテレビで「ゴジラ」を観た。それは日本で公開された映画を解体してアレンジし、アメリカ人の特派員が東京で体験した出来事を描いた映画に作り直したものだった。それでも特撮の部分はフルに活用され迫力があった。別に高級住宅地ではなかったが、多分すべての家庭にテレビはあり、集まって観ることはなかった。次の朝小学校の教室ではこの映画の話で持ちきりだった。「東京は大変だったんだなー」と同情してくれる者もいたが、「アメリカだったら原爆があるからすぐやっつけられるさ」とうそぶくやつもいた。原爆のことはbombとかthe bombではなくA-Bombと言っていたと記憶している。
_ サイレンが鳴って机の下に隠れる訓練はよくやった。キューバ危機の前だったが、戦争は身近なものと感じていた。
_ ゴジラについては、1976年にミシガン大学での勉強を終えてニューヨークで研修をしていた頃、マンハッタンの多分5番街だったと思うが、歩道に大きな足跡が描いてあった。巨大なスタンプを作ったやつがいたのだ。その足跡のなかにGodzilla was here と書いてあった。有名なんだなーと、ちょっとうれしく思った。