_ 大島渚監督が亡くなって戦場のメリークリスマスの映像がテレビで流れ、懐かしく思い、いくつかエピソードを書こうと思った。
_ 戦メリについては、エッセイの中の「映画の仕事」で少し書いたが、10センチぐらいの厚さのファイルがあるので「乱」のように面白い話が書けるかと考えたことがある。しかし、この仕事は法律的には面白かったが「乱」のような人間ドラマは無かった。
_ そこで少しは興味を引くエピソードを探した。
_ 東映の高杉修さんから大島監督が弁護士を探しているという電話があって、監督の妹で大島プロの事務局長という肩書きの大島瑛子さんが事務所に来た所から話は始まった。そのときはまだ具体的な仕事は無く、動き出したらお願いするということだった。瑛子さんの話で印象に残っているのは、デヴィッド・ボウイがやった役を最初はロバート・レッドフォードで考えていたということ。しかし瑛子さんが実際にレッドフォードに会ってみると、落ち着いてしまっていて、危険なところがなく、とても無理だと思ったと。
_ 瑛子さんと会ったのはファイルによると1981年10月30日だった。それから半年以上何の連絡も無かったが、突然資金集めをしていたエグゼキュティヴ・プロデューサーが来日するという電話があり、1982年6月19日と20日に会議をした。それから2週間ほどイギリスとニュージーランドの投資家やプロデューサーの代理人と主にテレックスで協議をし、7月7日から17日までロンドンに行った。そのときの話はエッセイに書いた。
_ ロンドンでは映画製作の契約のほか映画化権を確保する仕事もした。戦メリはイギリスのローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説を原作としていた。原作者の弁護士に会いに行ったが彼は田宮二郎の弁護士として「イエロー・ドッグ」(田宮が製作した日英合作映画)の契約交渉をしたそうだ。田宮は1978年に猟銃自殺したが、弁護士は田宮のことを懐かしそうに話していた。
_ 日本サイドでロンドンに行ったのは私だけだったが、大島さんとはその前に東京で何回も会って話した。大島さんは会議の席でも酒臭いことが多く、苦しそうに会議室のテーブルに突っ伏している姿を思い出す。一度傘を事務所に忘れていったが、立派な彫り物のある高そうな傘だった。後で大島プロの人が取りに来た。
_ 大島さんと野坂昭如が殴り合いのケンカをしたパーティーにも呼ばれて行ったが、あの事件の前に帰ってしまった。
_ 大島さんと最後に会ったのは「御法度」の試写会だった。私は大島さんに挨拶する人の列に並んで「監督おめでとうございます」と言ったが大島さんは私が誰かわからないようだった。